花時鳥月雪のときと永福門院のよませたまふもさる物から春はあけほのゝやうやうしろく成ゆくまゝによもの山々はかすみわたりてあやしのしつののきはちかくうくひすのはなやかに鳴いてたる青柳のいとほそくあやめもゆらになひきあひつゝ櫻は青葉かちにて庭の木たちもこくらき中に卯の花の垣ほにのみとおもはすしも咲かゝりて山ほとゝきすまちかほなるに軒のたち花はむかしおもはすしもあらすややみはいとさらなり月の比もほたるのみつ四つふたつなととひちかひたるまとのまへはふみなんすしつへくおほえていとをかし秋はゆふくれのゆふ日はなやかにさして山きはいとちかくなりたるにかりもこゝら鳴わたりて比しも月やあかれる紅葉やさかりなとあらそひいひのゝしるもけにおほえてあはれふかしやうやく木からしの風身にいとふなりもてゆくまゝにすゝきのかれ葉のかしらに霜おきまよひ虫の聲もかれかれに枕にちかききりきりすのおのか衣のつゝりさせてふとてまことに折にふれ時につけつゝ物のあはれは侍るめれと梅のはなのいよやかなるありさまのいつれなみせんともおほえすいとやんことなしいつれの所にかありけん今はわすれつ梅の木のあるをもてる人なんありしほとにやつかれ日をわたり月をへてもとめしかともあるしの人つひにゆるさすいかゝし侍らんとおもひわつらふほとある夜雨いたうふりぬかのあるしのまへをとほりにけるついて今そかうとふとおもひいてゝひそかにこれをぬすみみつからねこしておひつゝからふして行ありさま人やきゝつくらんとせちにしのひたる心のうちいとけうありて白玉かなにそとゝひしあくた河のほとりましておもひわたさる色にめつる心のはなはたしさはわれも人もかはらさりけりつひにそのふにうつしてよるひるとなく此十とせかをち心をつくしあひしもてあそふといへとも橐駝かをしへにしたかひて子のことくしすつかことくせよかへりみることなくおもんはかる事なしそれいにしへより今の時にいたるまて草木のことなきも物ことになそらへてもてあそふ人まさきのかつら長きよゝにたえす晋の陶淵明か菊を東籬の下にとり濂溪の翁ははちす葉のにこりにしまぬをたのしみぬともにゆゑあるにやかれすらしかりいはんやむめのひとりあてなるみさほつくりてたてるそこよなうめてたしとみゆなかにも雪のふりたる曉なとの我身もひえゐるやうにおほえて空のけしきはけしかりしにおやのいさめかけにと覺えてひらけさしつゝをかしきはかりの勺なりこれそ難波の冬こもりとはいふへかりけるをあらたまの春のあしたはひときはまさりてみゆ夕はえの色はれやかにあやまたすて月はいてけりな人めも枝もおなし色にうつされてそれともみえすかをたつねてとなかめしみつねかことまておもひいてぬいとしろうおきまさるしもかとあやまたれてとふとりもまなこをぬすまれこてふのはらわたもたちぬへくみはやされ影もなめに窓にさし入りたるけはひはいみしきゑしといへとも筆かきりあれけれはいと匂ひなしされはもろこしにもわれにひとしき人やありけらし上林の園松風のうてな何遜かなかめし廣平か賦せしもことならす廋嶺の春のふたゝひにほへるそよのつねのとしよりもをさをさおもしろかるへけれ世の中に花のはかせといひけんもにけなからす玉色明道にたとへ深衣の司馬かといふかりし人こそあなれいともかしこしはい所の月のこゝろもとなきをかなしみとひもて行にやひと夜のうちに千里をしのきしといひつたへけんもはたかはゆししかるをたれか艸木は心なきとやはいふめるいにしへをきゝ今をみるにつけてもはなこそあるし梅や友なんとおもふ物からともすれは日くらしさしむかひふる文なんととりちらしつゝもろこしのうたともうちすんしぬれはみるにしたかひてうたてはかなきことこそおほかめれむかしつ人のまことにまれあたことにまれかゝるいさきよきはなもて國の城のそれすらかたふけんとすらむ女にそへしそうたてはかなしな柳子かいはゆる羅浮の山は見はてぬ夢のなこりをとゝめ壽陽公主のひたひよそほへるすかたのえんなるこやの真人のたをやかに雪のはたへのいとみやひにらうたけしもさそありけん飛燕かゝろやかなるすかた久かたの日かりのとけき春の日にかゝやきていとゆふのみたるゝ世となし侍らんはいとくちをし貴妃かむかしをおもひいつめれは風吹おくる野邊の草葉の露とゝもにきえにしあとそはたにけなからすやはあるしかるを何のゆゑありてかきよらなる花なんこれやひとしといふめるはいとはしたなくそ聞ゆかゝるうらみのそこはかとなくおもひたゆたふまゝしかすかにやみなんもかつくちをしとてにふきふんてのほこさきをにらきいさゝかこゝにしるして一えたの梅によすはなもし心あらはこれか和答せよとそことしよろこひやすき春江東の遊子それかし日新齋のうちにしてつゆをしたて侍る
注 |
1. |
上記の水戸光圀の「梅花記」の本文は、国文学研究資料館のホームページの「新日本古典籍総合データベース」にある、高知県立高知城歴史博物館山内文庫所蔵の安藤為章撰『年山紀聞』(平安:小川多左衛門ほか、東都:北沢伊八ほか、文化元年甲子三月発行)によりました。 → 国文学研究資料館 → 『年山紀聞』(梅花記は、84~87/253) |
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2. |
『年山紀聞』は、元禄15年(1702)成立。第六巻末に「元禄壬午正月十一日 水戸藩邸彰考館後生安藤右平為章拝撰」とあるそうです。 |
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3. | 文中の、平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、同じ仮名を繰り返して表記してあります。(やうやう、かれかれ、きりきりす、をさをさ) | ||||
4. |
本文前半にある「あくた河のほとりましておもひわたさる」の「まして」について。 栗田寛編輯『常磐ものがたり』(日新堂、明治30年発行)の附録に引用してある『年山紀聞』には、「あくた河のほとり、ましておもひわたさる、」と「まして」としてありますが、『水戸義公全集 中』の「梅花記」には、「あくた河のほとりまておもひやらる」と、「まて」とあります。 → 資料627 徳川光圀「梅花記」(『水戸義公全集 中』による) ここでは「まして」としておきましたが、高知県立高知城歴史博物館山内文庫所蔵の『年山紀聞』の本文では、仮名の「し」の部分が短いので、この本でも、もしかしたら「まて」と読むべきかもしれないと迷いますが、『年山紀聞』の本文ではここはすべて「まして」となっている、ということなのでしょうか。 |
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5. |
安藤為章(あんどう・ためあきら)1659ー1716(万治2ー享保1) 江戸中期の儒学者・国学者。丹波の人。通称は右平、のち新 介、号は年山。父定為および野宮定基、中院通茂に従い和漢の 学を修める。初め伏見宮に仕えたが、のち水戸光圀に招かれ 《大日本史》《礼儀類典》の編纂に参与。また、光圀の命を受 け《万葉集》の注釈につき難波にたびたび契沖を訪れた。考証 に優れた才を発し、その著《紫女七論》は紫式部伝の科学的研 究の先駆として名高い。【南啓治】(平凡社刊『世界大百科事 典 第2版』による。) |
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