二公の梅花をめて給ひし事は、いかなる故ともはかり難けれと、 義公はわかき御時より梅をこの
み、其記をかゝれしのみならす、其花によしある梅里をしも號とし給ひ、 烈公は弘道館と偕楽園
に梅を植生して、種梅記をかき給へるは、おのつから其天性にかなひし故にそあるへき、しかるを
世には 二公の梅をめて給ひしよしを知らぬ人も多かめれば、こゝにしるしつけて、其ゆゑを詳に
せむとはするなり、
梅花記
花時鳥月雪のときと、永福門院のよませたまふも、さる物から、春はあけほのゝやうやうしろく成ゆくまゝに、よもの山々はかすみわたりて、あやしのしつののきばちかく、うくひすのはなやかに鳴いてたる、青柳のいとほそく、あやめもゆうになひきあひつゝ、櫻は青葉かちにて、庭の木立もこくらき中に、卯の花の垣ほにのみと、おもはすしも咲きかゝりて、山ほとゝきすまちかほなるに、軒のたち花は、むかしおもはすしもあらすや、やみはいとさらなり、月の頃も、ほたるのみつよつふたつなどとびちがひたる、まどのまへは、ふみなんずしつべくおほえて、いとをかし、秋はゆふくれのゆふ日はなやかにさして、山きはいとちかくなりたるに、かりもこゝら鳴わたりて、頃しも月やあかれる、紅葉やさかりなとあらそひいひのゝしるも、げにおぼえて、あはれふかし、やうやく木からしの風、身にいとふなりもてゆくままに、すゝきのかれ葉のかしらに、霜おきまよひ、蟲の聲もかれがれに、枕にちかききりきりすのおのか衣のつゞりさせてふとて、まことに折にふれ時につけつゝ、物のあはれは侍るめれと、梅の花のいよやかなるありさまの、いづれなみせんともおほえす、いとやんことなし、いつれの所にかありけん、今はわすれつ、梅の木のあるをもてる人なんありしほとに、やつかれ日をわたり月をへてもとめしかども、あるじの人つひにゆるさず、いかゞし侍らんとおもひわつらふほと、ある夜雨いたうふりぬ、かのあるしのまへをとほりにけるついで、今ぞかうと、ふとおもひいでゝ、ひそかにこれをぬすみ、みつからねこじて、おひつゝ、からふじて行ありさま、人やきゝつくらんと、せちにしのびたる心のうち、いとけうありて、白玉かなにぞとゝひし、あくた河のほとり、ましておもひわたさる、色にめづる心のはなはだしさは、われも人もかはらざりけり、つひにそのふにうつして、よるひるとなく、此十とせかをち、心をつくしあいしもてあそぶといへとも、橐駝がをしへにしたかひて、子のことくし、すつがことくせよ、かへりみることなく、おもんはかる事なし、それいにしへより今の時にいたるまて、草木ことなきも、物ことになぞらへてもてあそふ人、まさきのかづら長きよゝにたえす、晋の陶淵明が菊を、東籬の下にとり、濂溪の翁は、はちす葉のにごりにしまぬをたのしみぬ、ともにゆゑあるにや、かれすらしかり、いはんやむめのひとりあてなるみさほつくりてたてるに、こよなうめでたしとみゆ、なかにも雪のふりたる曉なとの、我身もひえゐるやうにおぼえて、空のけしきはけしかりしに、おやのいさめかげにと覺えて、ひらけさしつゝをかしきはかりの勺なり、これぞ難波の冬こもりとはいふべかりけるを、あらたまの春のあしたは、ひときはまさりてみゆ、夕ばえの色はなやかに、あやまたずて、月はいでけりな、人めも枝もおなし色にうつされて、それともみえず、かをたつねて、とながめし、みつねがことまでおもひいてぬ、いとしろうおきまさるしもかとあやまたれて、とふとりもまなこをぬすまれ、こてふのはらわたも、たちぬべくみはやされ影もなめに窓にさし入りたるけはひは、いみじきゑしといへとも、筆かきりあれければ、いと匂ひなし、さればもろこしにもわれにおなしき人やありけらし、上林の園松のうてな、何遜かなかめし廣平が賦せしもことならず、廋嶺の春のふたゝびにほへるそ、よのつねのとしよりも、おさおさおもしろかるへけれ、世の中に花のはかせといひけんも、にげなからず、玉色明道にたとへ、深衣の司馬かといぶかりし人こそあなれ、いともかしこしはい所の月のこゝろもとなきをかなしみ、とひもて行にや、ひと夜のうちに千里をしのぎしといひつたへけんも、はたかはゆし、しかるをたれか艸木は心なきとやはいふめる、いにしへをきき、今をみるにつけても、はなこそあるじ梅や友なんとおもふ物から、ともすれば、日くらしさしむかひ、ふる文なんどとりちらしつゝ、もろこしのうたとも、うちずんしぬれば。みるにしたかひて、うたてはかなきことこそ、おほかめれ、むかしつ人のまことにまれ、あたことにまれ、かゝるいさきよきはなもて、國の城のそれすら、かたふけんとすらむ女にそへし、うたてはかなしな、柳子がいはゆる羅浮の山は見はてぬ夢のなごりをとゞめ、壽陽公主のひたひよそほへるすがたのえんなる、こやの眞人のたをやかに、雪のはだへのいとみやびにらうたけしも、さぞありけん、飛燕がかろやかなるすがた、久かたの日かりのとけき春の日にかゞやきて、いとゆふのみたるる世となし侍らんは、いとくちをし、貴妃がむかしをおもひいつめれは、風吹おこる野邊の草葉の露とともにきえにしあとぞ、はたにげなからずやはある、しかるに何のゆゑありてか、きよらなる花なん、これやひとしといふめるは、いとはしたなくぞ聞ゆ、かゝるうらみのそこはかとなく、おもひたゆたふまゝ、しかすがにやみなんも、かつくちをしとて、にふきふんでのほこさきをにらき、いさゝかこゝにしるして、一えだの梅によす、はなもし心あらば、これが和答せよとぞ、ことしよろこびやすき春、江東の遊子それがし、日新齋のうちにしてつゆをしたて侍る、
按するに、慶安のはしめは、 西山公また二十一二歳にもやおはしましけん、もろこしもここも、世
にぬけ出たる人は、才智はやく秀てたるものにこそ、其比御方住に仕へまいらせし老人の語り侍し
は、また十四五の御時より、學問このみたまひて、夜なと大かたは鷄鳴までも書をよみたまひたると
そ、貴公子の梅ぬすみたまふは、好古事となるべし、御老年までこの花をこのみ給ひて、白坂より西
山まで六七町の谷あひに、梅と桃を二千本あまりうゑさせ給ひたるが、年々にしたがひて花盛のころ
は、たくひなくそ侍し、以上年山紀聞とみゆ、西山公修史の志を興し給へるは、十八歳の時にてありけ
るか、明暦三年御年三十歳の時に、始て史局を神田の別莊に開かれたり、かくていつばかりの程に
か、浪華梅の種を得て、館中にうゑ給ひ、其梅花の盛衰によりて、文運をも卜はむと仰せられしに、
其木やゝに榮えたるを、後に水戸の彰考館にも分ち植られしなりとそ、然りしより後、或は枯れて絶
むとし、或は榮えてほびこりなど、時に變化はありつれど、其木の長く傳はれるは、いとおむかしき
わざになむありける、 西山公の御後、尤も文を好みて、史事に力を盡し給へるは、 舜山公にてお
はしけるが、また深く梅を愛し給へりとなん、其由は藤田一正の尚古閣賜宴詩序にて知るへし、其文
に云く、
尚古閣者、在礫川邸中、我 公燕居游息之所也、今茲乙丑正月十一日、置酒於此、悉召史館諸生、命坐賦詩、時那珂西寶幢敎院住持僧上慧、行年八十有三、偶游江戸來謁邸中、 公以其老而喜文辭、故延之閣上、禮待頗優、特命史館總司渡邊騰接伴、是日雅集、莫有執法在側、而近習之臣及玄署之吏、稍嫺於文辭者、皆得與焉、盤爼雜陳、恩意殊渥、杯行數巡、上下歡洽、其拜辭先退者、唯老僧與外吏、而館閣之士、傾玉盞揮彩毫、及秉燭而罷、故詩中率皆言既醉飽德之榮、至如早春景物、廼所謂鶯語方澁、蠭房未喧之候、嘉木異卉、莫有芳菲之色、唯梅花獨也、凌歳寒而微笑、殆爲文苑吐氣矣、初 公之就國也、勵精圖治、政通民和、及物之仁、不啻有脚陽春、境内相慶曰、 義公復生矣、甞宴學生于城南別館、時方二月、梅花盛開、 公自裁七言詩、以寄其興、群臣奉和者二十有餘人、前總裁立原萬携梅花一枝、献諸左右、盖彰考館前所植浪華梅是也、 公覽而異之曰、曩者寡人夢見一梅花清香幽韻絶不類尋常世間種寤而識之、今觀斯花髣髴乎夢中所見、不亦奇乎、翌日命駕彰考館、觀其梅花、又自裁七言詩手書華箋、繋諸枝上、令群臣奉和、奉和者亦二十有餘人、或有比 公於菅公者焉、於是東蕃文學、駸々乎將復 義公之舊、邦家既已崇尚文學、城市山林、靡然嚮風、時上慧住城東寶鏡院、亦以方外之徒獲列別館之會及献梅花詩距今既踰一紀、耆老宿儒、凋謝殆盡、而吉士才臣、或入班近習、或出宰群邑、館中寂寞、無復舊時之盛矣、其以前日生徒來在邸中碌々仍舊託身文墨職者、只有一正輩一兩輩耳、上慧之來也、 公適憶水城文字之飲、故設今日之宴云、夫不遺故舊、誠盛德事、而嚮之賦詩、盖所以爲文苑首唱也、今之不賦、盖不欲與詞人爭長也、顧不美哉、數年以來、翰墨之林、衰颯枯槁、莫有欣々向榮之意、或謂時運使然也、雖然古人有言、時者非天之所爲也、王公大人實爲之、今也 公以發生之始、布和之辰、與文士爲一日之歡、豈將欲振起斯文也歟、 公既命左右集衆作爲一巻、俾一正作序、一正不敏、辭不獲命、方今史館雖乏人、才學之美、有若廣備長孺、誠非一正所敢望、而班亦居右、授簡之任、宜在彼二人而特以屬諸卑鄙庸陋、如一正者、豈亦以夫水城別館之舊也歟、嗚呼前十五年、一正十八歳、年少氣鋭、狂簡進取、雖非賈生終童之倫、然亦慷慨自奮、追慕古人、謬獲虚名、叨蒙收録、而志大才疎、功名無就、顚頓狼狽、以至潘岳二毛之年、官之巧拙、固所不論、學不加進、行不加修、猶旦月糜廩粟、歳貴俸錢、毀瓦畫墁、稱爲天下之至鈍、回視昔日、寧不愧死、志氣日耗、而藻思日涸、何足以序此詩哉、抑甞與同寮論古今文運之盛衰毎以梅花爲兆、梅花之顯於世者、盖以浪華爲第一、博士斯花之頌、 聖帝高臺之歌、並傳天下後代、至今猶想見其泰和之氣象、萬古經學史筆、皆開始於頌斯花之人、不特詞人之宗而已、由是以來、上下數百歳、以愛梅聞、而其德之馨、實足以參天地之化關盛衰之運者、前有菅公、後有 義
公、此皆雖兒童走卒尚識其名、何啻文采風流、輝暎千春而已哉、 二公勳業之大、姑置不論、類聚國史二百巻、規摸宏遠、非村宰相所能辨、而紀傳志表之作、則尤其冠絶宇内者也、今 公之稽古爲政、苟有志於聖帝明王之治、則論語一書具在、浪華之盛、何假外求、一正愚賤、不敢僣言、若夫欽英風於 西山、追芳躅於北野、能使紀傳上木、志表脱稿、以竟 義公之緒、莫俾類史專美于 先朝、則 公之所以寵待史臣者、意其在斯歟、然則尚古之閣、名稱其實、不翅供宴游之塲而已、昔年之夢、惡知其非 先君之靈假花神、而託 今公也哉、它日書成献諸 天朝、常州梅里之芳名、播之天下、則一正愚賤、職在文墨、鉛槧雖疲、其敢辭操觚之勞哉、秉筆以竢、
と記されたるにて、當時のさま想ひやるへし、 景山公は 此公の御孫にてましましけるか、殊に梅
里の遺芳をうけ繼し給ふのみならず、文葩を國中にしき施されしは、みな人の知るか如し、
種梅記 景山公
予自少愛梅、庭植數十株、天保癸巳、始就國、々中梅樹最少、南上之後、毎春手自採梅實、以輸於國、使司園吏種之偕樂園及近郊隙地、今茲庚子、再就國、所種者鬱然成林、開花結實、適會弘道館新成、乃植數千株於其間、又令國中士民毎家各植數株、夫梅之爲物、花則冒雪、先春爲風騷之友、實則含酸止渇、爲軍旅之用、嗚呼有備者無患、數歳之後、文葩布國、軍儲亦可充積也、孟子不云乎、七年之病、求三年之艾、可不戒哉、聊記以示後人云、
かくあるによりて、 烈公の梅をめて給へる事は、辨ふべし、さて始めて御入國の時、御祖廟を拜し
給ひて後、直ちに彰考館に臨みましける時筆をとりて館の柱にかきつけ給へる歌に、
家の風今もかをりのつきぬにそ、文このむ木のさかりしらるゝ、
とあるにても、 義公の浪華梅をうゑ給ひにし、ゆゑよしを明らむへきものなり、後に弘道館を設け
られし時の御詩に、
弘道館中千樹梅、清香馥郁十分開、好文豈謂無威武、雪裏占春天下魁、
かく作らせ給へるを以ても、いかはかり梅をめて思しけむとさへそ、思ひはかり奉らる、かかるに合
せて、廢藩置縣の時に舊藩士族有志の人々、水戸城中彰考館にありける、 義公の手つからうゑしと
いふ、梅樹のたえうせなむ事をうれたく思ひて、この常磐神社の傍へにうつして、 烈公の御歌を碑
面にしるし、後世にのこすへくはかりける時、故人野村鼎實、原田明善二氏の囑によりて、其碑の背
後にしるすべくものしたる浪華梅の記をも、此につくるは、いかなる故そといはむに、二氏身うせに
しより、墓木も已に拱くはかりになりぬらんを、何くれのさはりありて、未た石碑たつる時にあひか
たく、余もはやく六十とせあまり三とせを過にたれは、いしふみならねと、紙碑にだにものして、な
ほ後に傳へむには、二氏の魂を慰むるたすけともなりなむか、と思ひてのわざなるぞかし、
浪華梅の記
むかし 難波高津の宮に、天下治しめしゝ 天皇の御弟宇治の稚郎子、學ひのわざを百濟の王仁にうけ給ひて、兄弟德讓の美あり、王仁なにはつの歌もて、御位に即し事をほぎ奉りしより、この梅のかをり世にひろく、文學のわざもみさかりにはなりけらし、其後菅原の神を始め、忠誠の心をもて、 朝廷につかへまつれる人々の、梅をめで給へるは、深き故こそあるらめ、抑西山の贈大納言の君は、わかき御時より、文武の業をたしなみ、彰考館を設けて、日本史を修むる爲に、學士を招き、殊にこの花をめてたまふあまり、 難波の宮にゆかりあるうめの木を、その館に移しうゑて、文運の盛を此花にくらべむとの給へりとぞうけたまはる、然りしよりこなた、世々の君たち、西山公の御心をうけ繼て、日本史の紀傳みな梓にのせて、世に廣まりしかは、景山贈大納言の君は、殊に志表をものすべく史臣に仰せて、なほも文學をみさかりに勵し給ふ折しも、此樹ますますさかえて、花のかをりこよなく國内にみちみちたりけれは、文好む木のさかりしらるゝとは、よませたまへるなるへし、すへて世に盛衰榮枯あれとも、明君賢佐の國の爲世の爲に、御心を盡さるゝ事は、古今のかはりあるましくなん、かゝれは、高津宮にこの文も花も開けそめしより、菅原の朝臣は、文章博士に起りて、藤原氏の權を抑へ、かしこくも御門の政をたすけ、殊に此花をめてゝ、文學の宗とは仰かれ給ひし、然るに我常磐の社にます二柱の神の、文學を世にひろめ、名分を明にして、 朝家に仕奉り給へるは、さるものにて、一柱は梅里のむかしをしたひて、國讓の美德おはしまし、一柱は其餘芳をつき給へて、御門の守り我をおきて、また人はあらじと、雄たけひ給へる、忠誠の情は、いつれも北野の神におとらさるへし、さて官幣の社といつがれ給へる其功悳は、わするへくもあらぬに、志ある人々は、かの難波の梅のかほりをも、長き世に傳へむと、もとの彰考館よりこの御社にうつしうゑ、石を立て景山公の御歌をゑりたるは、君と臣とのけちめの正しき學ひのわざを、いやますますにひろめて、かのあたし國の君父をなみするきたなき敎を、はびこらしめじと、二柱の神にこひのみ奉る心しらひにこそはありけれ、かれうたひけらく、此花のにほふが如くうるはしき、神の御稜威をあふがさらめや、かく言擧する者は、おほけなくも、いま日本史編輯の事に仕奉る、舊水戸藩の士籍につらなる栗田の寛になむ、
注 |
1. |
上記の本文は、栗田寛著『常磐物語』(日新堂、明治30年10月26日発行)によりました。 引用した文章は、同書巻末に「附録」として掲げられているものです。 『常磐物語』は、国立国会図書館のデジタルコレクションに入っています。 → 国立国会図書館デジタルコレクション → 『常磐物語』(附録は、54~62/67) |
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2. |
標題の「二公の梅花をめで給ひし事」は、引用者が仮につけたもので、原本にはありませんので注意してください。 ここには、義公の「梅花記」、藤田一正(幽谷)の「尚古閣宴詩序」、烈公の「種梅記」、栗田寛の「浪華梅の記」が引用されています。 烈公の「種梅記」については、資料72 種梅記(原文)をご覧ください。 → 資料72 種梅記(原文) |
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3. | 文中の、平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、同じ仮名を繰り返して表記してあります。(やうやう、かれがれ、きりきりす、おさおさ、ますます) | ||||
4. |
西山公の「梅花記」の本文について。 別の『年山紀聞』によれば、次の異同が見られます。 「それいにしへより今の時にいたるまで、草木ことなきも」→「それいにしへより今の時にいたるまで、草木のことなきも」 「いはんやむめのひとりあてなるみさほつくりてたてるに、こよなうめでたしとみゆ」→「いはんやむめのひとりあてなるみさほつくりてたてるそ、こよなうめでたしとみゆ」 「上林の園松のうてな」→「上林の園松風のうてな」 「風吹おこる野邊の草葉の露とともにきえにしあとぞ」→「風吹おくる野邊の草葉の露とともにきえにしあとぞ」 「しかるに何のゆゑありてか」→「しかるを何のゆゑありてか」 |
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5. | 西山公の「梅花記」の次に記されている文に出ている「舜山公」とは、水戸藩6代藩主治保(はるもり)公のことです。また、藤田一正は、藤田東湖の父・藤田幽谷のことです。 | ||||
6. |
栗田寛(くりた・ひろし)=歴史学者。号は栗里。水戸生れ。彰 考館で「大日本史」の編纂にあたる。維新後は東大教授。著 「標注古風土記」「上古職官考」など。(1835ー1899) (『広辞苑』第7版による。) |