▼水戸の大日本史
私(わたくし)は、是まで既に数回水戸に罷出(まかりい)でたのであるが、何時(いつ)も忙(せは)しくばかり往復(ゆきゝ)致したので、碌々同地の視察も能(で)きなかつたのである。然し、今回(五月廿八日)同市に開催せられた一府十九県の感化院長会議へ不肖ながら中央慈善協会長並に東京養育院長の職を辱(はづか)しむる関係より、岡田茨城県知事閣下の御懇篤なる御招待を蒙り、賓客として同会議に列し一場の講演を試むる光栄を荷(にな)つた際には、幸ひ一泊の日程を作り得たので、義公以来の遺跡を視察することが能(で)き、私は頗る之を満足に思ふものである。
水戸には、公園として有名なる偕楽園がある、その園内(なか)には好文亭と称せらるる庭園建造物もある。また学館の遺跡として有名なる弘道館もある。弘道館には「遊於藝(げいにあそぶ)」と題した大きな扁額が掲げられてあつて、これは烈公が天保十二年(七十五年前)に、六藝に通ずる士を養はんとの御精神より建設せられた一種の道場である。其処では、文武礼楽射御書数より銃砲の操練、医術の末に至るまでを、課を分つて藩士と其(その)子弟とに教へたものである。
好文亭、弘道館の外に水戸には尚ほ余り世間に名を知られて居らぬもので、彰考館と称せらるゝ建造物がある。これは明暦三年(二百三十九年前)、義公が「大日本史」を編成せんとする御志を懐かれ、天下の俊才を招いて其事業に着手せられた際に「大日本史」の編纂所として設けられたものである。史料として同館に蒐集せられ、その蔵書になつてる書冊が、無量三万巻の上に出(い)づるとの事である。
▼水戸義公の人物
義公は俗に「水戸黄門」と申上ぐる卿(かた)で徳川光圀のことである。僅か十八歳の時に「史記列伝」中の「伯夷伝」を読まれて以来、大(おほい)に感慨する処があらせられ大義名分を明(あきらか)にするを以て天下の大事なりと稽(かんが)へ、遂に修史の志を起し、「大日本史」の編纂を思ひ立たれたのである。「大日本史」編纂の動機が、既に茲(こゝ)にあつたので、大義名分を明にするを以て素(もと)より編纂の大方針とせられ、神功皇后を人皇御歴代のうちに加へずして后妃に列し、又南北朝併立の時代を観るに当つては南朝を以て正統とし、神器が京都へ渡御になつて後小松(ごこまつ)天皇に伝へらるるに及び、初めて之(これ)を皇統と致したなぞ、大義名分の上より思ひ切つた非凡の卓見を示されたものである。元禄五年(二百二十四年前)八月、かの有名なる「嗚呼忠臣楠氏之墓」と題した楠木正成の誠忠を表旌(へいせう)する石碑を摂津湊川の広嚴寺境内に建てられたのも、一に大義名分を明にして、之を天下に鼓吹せんとする意に出(い)でられたものである。
義公は斯(か)くの如く大義名分を重んぜらるゝ卿(かた)であつたので、身は徳川幕府の副将軍を以て目せらるゝ位置にあらせられながら、京都の朝廷を尊崇する念篤(あつ)く、毎年元旦の日には、早晨(さうしん)まづ起きて斎戒沐浴し、西に向つて禁闕を拝し、老年に至るも曾て一たびだに之を廃せられなかつたほどである。又、御自分が弟の身分を以て兄頼重を越へ、水戸家の嫡流を継ぐに至つた事を、甚だ心苦しく思はれ、御自分の子を嫡子とせず、兄頼重の子たる松千代を迎へて嗣子とし、松千代が義公の嫡系(あとめ)を継いで綱方となられたのである。なほ義公は文武両道に秀でられた卿(かた)であつて、明の遺臣朱舜水を迎へて之を師と仰ぎ、今の砲兵工廠に当る江戸の別荘には、殿堂を建て、藩士をして朱舜水に就き釈尊祀堂墓祭の儀節を習はしめらるるなど専ら文事を修むると共に撃劒発銃等の武芸をも奨励し、併せて医術算数博物の学をも興し、刑を断ずるには専ら仁恕(じんじよ)を以て臨み、漫(みだ)りに死刑を行はず、徳川幕府の初期に一種の流行を成した殉死の弊を禁止するに至つたことなぞも、一に義公の御力である。義公の御生涯を一貫したものは、実に大義名分を明にする御精神に外ならなかつたのである。
▼「大日本史」の完成
「大日本史」の編纂は、素(もと)より曠古(くわうこ)の大事業である。義公御一代のうちに、完成し得らるべき筈のものでは無い。依(よつ)て、水戸歴代の藩主は、何(いづ)れも義公の志を継いで之が編纂を着々進行し、文公、武公、哀公、烈公等の諸卿(かたがた)が、殊に之(これ)が為に努力せらるゝ処があつて、義公以来、水戸家の代を重ぬること十一、年(ねん)を閲(けみ)すること二百三十有余にして現今の御当主徳川圀順(くにゆき)侯の代に至り漸く完成し、本年に入(い)り製本を終へて、先般圀順侯より全一部を陛下に献上したのである。
斯(か)くの如きは偏(ひとへ)に水戸歴代の藩主が、父祖の志を継がんとするに鋭意せられた結果の賜(たまもの)であるが、流石(さすが)に義公は、自(みづか)ら斯(こ)の大事業を創始せられた御当人だけあつて「大日本史の原稿」には一々御眼(おめ)を通されたものと見え、私が今回、彰考館に於て親しく拝見致した原稿中にも、義公の手づから御加筆になつた個所を処々に見受けたが、就中(なかんづく)「曽我兄弟討入」の一項を叙した原稿には、義公が御覽になるや五郎時致(ときむね)当夜の働き振りを叙(の)べた辺(ところ)に甚だ物足らぬものがあるとの思召から、御自筆で相当に長文の訂正増補をせられた跡がある。私は之によつて、如何(いか)に義公が「大日本史」の編纂に心血を濺(そゝ)がせられたかを知ると共に、又義公が漢籍に造詣するところ甚だ深くあらせられた事をも窺ひ得て、崇敬の念を禁じ得なかつたのである。
なほ義公は「春秋」を愛読せられた卿(かた)であつたのだが、「春秋」のうちより重要事項を御自筆で抜き書きにせられたものが大分あつて、それが巻物に装幀され、現に彰考館に所蔵せられて居(を)る。今回私は之をも拝見する事が能(で)きたのである。
義公が二百有余年前(ぜん)に懐かれて、自ら之を発揚鼓吹するに力(つと)められた大義名分を明かにするの精神は、水戸家の歴代に伝はつて居つたのであるが、当時国情の紛々たるものがあつた為めでもあらうが──烈公に至つて殊に、その光彩が熾烈になつたのである。烈公とは、号を景山或は潜龍閣と仰せられた徳川斉昭のことで、寛政十二年(百十六年前)三月江戸に生れ、万延元年(五十五年前)八月六十一歳で薨去せられた卿(かた)である。烈公は、幼(えう)より御聡明に渡らせられ、九歳の頃既に鳥銃刀槍の術を学んで其蘊奥(うんおう)を極(き)はめ、長ずるに及び、鳥銃千発を日課とし、文政十二年(七十七年前)封(ほう)を継ぎ藩主となられるや、追鳥狩なるものを創始し、田猟(でんれう)を張つて操兵の実地演習を藩士に練習せしめたのである。同時に又、大義名分を明に辨ずる俊秀の士を招いで「大日本史」編纂の事業を進行するに力められ、之によつて水戸家歴代の伝統的精神を発揚せられたものである。
▼幕末時代の水戸
その初め、義公によつて鼓吹せられた大義名分を明にする精神は、年代の進むと共に水戸全般に瀰漫し、大義名分の気風は磅礴(はうはく)として水戸藩の上下を支配したものである。殊に、烈公の時代となるや国事多端国論囂々(ごうごう)、幕府を非議する声紛紛として四方に起つたので、烈公まづ主として朝廷に対する幕府の態度其の当を得ざるを難じ、烈公周囲の士も亦、幕府の所置に反対して勤王の説を唱道するに至つたのである。当時、烈公の周囲にあつて、大義名分を明にし勤王の大義を唱へたものには戸田忠敬(たゞよし)、会沢正志斎、立原東里及び東里の弟子で藤田東湖の父に当る藤田幽谷と其子の東湖などがあつて、幕府に対する水戸の勢力は、侮るべからざるものあるを示したのである。
就中(なかんづく)、東湖の父幽谷は幼少の頃より非常なる俊才で記憶力の如き日に数百言を暗誦するというほどの神童であつたのが十三歳にして立原東里の弟子となつたものである。幽谷は素(も)と商賈(しやうこ)の子であつたが、東里は其穎悟(ゑいご)を愛して之を我が子の如くに愛撫して教育したるものである。然し東里と幽谷の師弟相携へて「大日本史」の纂修に従事中「大日本史」に年表を附すべきや否やの点に就き、幽谷は師の東里と意言(いげん)を異にし互に相容れぬやうになつてしまつたのである。
然し、私の推察する処によれば、年表云々は単に表面に顕(あら)はれた口実らしく、東里が稍々(やゝ)佐幕に傾く意見を抱いて居つたのを見て幽谷は──商賈の出だけに幕府に恩誼(おんぎ)を負はぬ為めでもあらうが──甚だ之を不快に感じ、大義名分の上より東里を排斥せねばならぬと考へたが、東里は幽谷に取つて幼年よりの恩師たることゆゑ、如何とも致し難きに苦(くるし)み、止むなく、年表云々を楯にして東里と争つたものらしく、この東里と幽谷との争(あらそひ)が惹(ひ)ひて遂に朋党の樹立となり、この極(きよく)水戸に人才(じんざい)の跡を絶つに至つたのである。
私が郷里に於て漢籍の師と仰いだ尾高藍香(をだからんかう)先生は、弘化元年十五歳にして水戸に遊び、追鳥狩を見て水戸藩上下の気風に感激し、且つ其の大義名分を明かにする学風に親炙(しんしや)して帰郷し、水戸の学風を悦んで、之を郷里に伝へられたものだから、随(したが)つて藍香先生に師事した不肖の私なぞも、自(おの)づと水戸の学風に薫化(くんくわ)せられて、大義名分を明にする精神を昂(たか)め遂に廿四歳に及び倒幕を志して王事に奔走するまでになつたのである。幽谷が十八歳にして「正名論」を著(あらは)し、之を当時の執政松平楽翁公に上(たてまつ)り、君臣の大義を論じたことなぞは、有名である。
▼維新前の水戸藩
斯(か)くの如き次第で水戸は義公以来烈公に至るまで、歴代ともに大義名分を闡彰(せんしやう)するに力め、水戸は全国に於ける大義名分の本源地で、且又勤王説の発祥地であると称しても差支無きまでになつたのである。殊に、烈公の時代に入(い)るに及び佐幕倒幕の議論紛々として起り、其(その)帰する処を知り得ざるに当り、紀州、尾州、越前等の大藩は大体に於て佐幕の傾向を呈せるに拘らず、水戸藩のみ獨り毅然として勤王の大義を唱え、幕府に左袒せず、其極(そのきよく)遂に万延元年(五十五年前)三月桜田の事変が水戸浪士の手によつて演ぜられ、惹いて明治維新の王政復古を促進する事になりもしたのであるが、王政復古明治維新当面実際の事業には天下に率先して大義名分を鼓吹し、諸藩に先んじて勤王の大義を唱道し王政復古の機運を促進するに与(あづか)つて力のあつた斯(こ)の水戸藩が毫も参与せず、薩長土肥の如き他の藩が却(かへつ)て之に参与して居(を)る。
斯(か)くの如き現象を呈するに至つたのは実に不可思議千万のことで、同時に遺憾この上も無い次第であるが、之には原因がある。則ち藩内に於ける党争の弊が之を茲(こゝ)に至らしめてしまつたのである。烈公は──私より申上ぐるのも甚だ畏れ多い至りであるが──御性質の秋霜烈日の如くにあらせられた卿(かた)丈(だ)けあつて、何処かに御狹量な傾向があり、藩臣の統御に妙を得て居られなかつたので、藩内に朋党の樹立を見互に他党を排して権力を争ひ、他党の目星しい人物は、片ッ端から之を殺し合ふやうになつてしまひ、藤田東湖の没後、水戸は漸次に人才(じんざい)の跡を絶つに至つたのである。
然し、烈公も人君としては却々(なかなか)御心懸(こゝろがけ)の行届いた卿(かた)で、文武の道に秀でられ、今回親しく拝見して之を知つたのであるが──貝原益軒先生の著(あらは)された「商人袋」とか「百姓袋」とかの如き極(きはめ)て通俗な書籍(ほん)にまで目を曝(さら)され、この章句の出所は経書の何んといふところにあるなぞと、書き入れをせられて居(を)るほどのものである。それから、彼(か)の偕楽園も烈公の築造せられたものであるが、自(みづか)ら獨り楽(たのし)まんが為に造られたものでなく、農業に従事する芻堯(すうげう)の者も狩猟に従事する雉兎(ちと)の者も共に往つて遊ぶを得たので、方七十里あつても未(ま)だ小なりとせられたと伝へらるゝ「孟子梁恵王章句下」に所謂(いはゆる)「文王の囿(いう)」に等しいものに偕楽園をして、その庭園を士農工商に公開し、衆と偕(とも)に楽(たのし)まうとの御趣意から造られたものである。園内にある好文亭の構造なぞも座席に上下の区別がつかぬやうにしてあり、誰でも文を好む者が其処(そこ)に罷出(まかりい)でゝ君公と上下の区別なく文事を楽(たのし)み得らるる構造になつて居(を)る。
▼慶喜公の御精神
却説(さて)桜田事変以後、漸く僅かに残つて居つた彼是(かれこれ)の人才(じんざい)までも、武田耕雲斎の乱に走つて敦賀で捕えられたりなどしてしまつたので、愈(いよい)よ是(こ)れから王政復古明治維新の幕が開かれるといふ間際になつて験(み)れば、水戸の藩士で其事業の実際に参与し得(う)る人才は殆んど一人も無かつたのである。之(これ)が明治維新の鴻業(こうげふ)に水戸藩が参与して皇謨(くわうぼ)の拡張に貢献し得られなかつた所以(ゆえん)である。
然し、茲に一人の徳川第十五代の将軍慶喜公があらせられる。
薩長土肥が如何に騒いでも、第十五代将軍の徳川慶喜公に、若(も)し大義名分を辨(わきま)へらるゝ忠誠の御思慮が無く大政奉還を御決行にならなかつたならば、明治維新の王政復古は彼(か)の如く容易に実現し得られなかつたものである。慶喜公は今更(あらた)めて申述ぶるまでもなく、水戸烈公の第七子に当たらせられる。慶喜公が能く大義名分を明にして徳川十五代三百年の間、京都の朝廷より御委任を受け奉つた大政を奉還し、以て王政復古の聖代を将来するに至つたのは、是(こ)れ水戸の学風と気風とが、義公以来大義名分を明にするを以て主として居つた結果で、この精神が凝結(ぎけつ)して一人(にん)の慶喜公に鍾(あつま)り、慶喜公は之を承けて其終(をはり)を完(まつた)ふせられたものであると云はねばならぬ。されば、水戸藩からは維新当時実際の事業に参与する一人才(じんざい)をも出(いだ)し得なかつたにしても、水戸は一人(にん)の第十五代将軍徳川慶喜公を出(いだ)し、大政を奉還せる一事によつて、慶喜公を通じ義公以来の精神を貫徹し、大義名分を明かにして勤王の実を挙げ有終の美を済(な)したものと視るべきである。
私は、斯く水戸藩の伝統的精神を紹述(せうじゆつ)して維新の鴻業を大成するに力のあつた第一人に渡らせらるゝ徳川慶喜公に仕へ公の一橋家時代に於て之を主君と仰ぐ事を得又先師尾高藍光先生を通じて、間接に水戸の学風により啓発せられた処の頗る多かつた事を想へば、今に至るも水戸の地に感謝を献(さゝ)ぐるの念を禁じ得ざると共に私は又如上の経歴を頗る光栄に感ずるものである。なほ水戸家の御当主徳川圀順(くにゆき)侯の時代に於て、義公以来の大事業たりし「大日本史」の完成を見、天覧に上(たてまつ)り得(う)るまでになつた事を私は此上もなく欣快に思つて御祝ひ申上ぐるものである。(大正五・七・一五)
注 |
1. |
上記の本文は、渋沢栄一著『村荘小言』(実業之世界社・大正5年11月7日発行)の「人物篇」に掲載してあるものによりました。初出は、雑誌『実業之世界』大正5年7月15日号です。 |
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2. |
『村荘小言』巻頭の凡例に、「本書は曾て『実業之世界』誌上に掲載せし王子飛鳥山曖依村荘に於ける渋沢男爵の説話を一巻に蒐録編纂せるもの」とあります。 なお、この『村荘小言』は、国立国会図書館デジタルコレクション所収のものによりました。(上記の本文は同書の437~450頁、コマ番号233~240/297に出ています。) →『国立国会図書館デジタルコレクション』 →『村荘小言』 233~240/297 |
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3. |
お断り: ( )をつけた読み仮名について。原文には大部分の漢字に振り仮名がついていますが、ここでは引用者が必要と認めた個所だけに読み仮名をつけて、他は省略しました。 なお、文中の太字「薩長土肥」は、原文に傍点のついている部分です。 初めの「▼水戸の大日本史」の中に「文武礼楽射御書数」とありますが、これは原文に「文武礼楽射御算数」とあるのを、引用者が誤植とみて改めたものです。 また、「園内(なか)」の下線は、「園内」に「なか」と振り仮名がつけてあるという意味です。 「▼幕末時代の水戸」に「幽谷は素(も)と商賈(しやうこ)の子であつたが」とありますが、原文には「商賈(しやうこ)」が「商賈(しやうか)」となっているのを、引用者が誤植とみて改めました。同じく、「▼慶喜公の御精神」にある「皇謨(くわうぼ)」も、原文に「皇謨(くわうもう)」とあるのを改めました。 |
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4. |
渋沢栄一(しぶさわ・えいいち)=実業家。号は青淵。武州血洗島村(埼玉県深 谷市)の豪農の子。初め幕府に仕え、明治維新後、大蔵省に出仕。辞職 後、第一国立銀行を経営、製紙・紡績など多くの企業設立に関与、財界 の大御所として活躍。引退後は社会事業・教育に尽力。子爵。(1840~ 1931) (『広辞苑』第7版による。) |
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5. | 渋沢栄一が大正5年5月28日、水戸の弘道館でおこなった講演が、資料612 感化事業に対する所感(渋沢栄一・水戸弘道館での講演)にあります。 | ||||
6. |
フリー百科事典『ウィキペディア』に、渋沢栄一の項があります。 フリー百科事典『ウィキペディア』 → 渋沢栄一 |