資料612 感化事業に対する所感(渋沢栄一・水戸弘道館での講演) 




        
感化事業に対する所感  中央慈善協会会長 男爵 渋沢栄一

 当水戸市に於て関東・東北・北海道感化院長諸君の御集りがあつて御協議がございますに就て、私は東京の中央慈善協会会長として、且つ従来東京市養育院の院長を勤めて居りますために、片手間仕事でございますけれども感化事業なり若くは救済の仕事なりに始終関係致し来つて居りますから、玆に参上致して諸君の御尽力を謝し、私の所感を一言申し上げたいと思ひまして此演壇に登つたのでございます。
 水戸市は東京市とは近ふございますが、私は左様度々は出兼ねました、今日も知事さん及び其他の方々より御尋を蒙りましたが、身体は屢々参りませぬけれども、御当地には深い縁故を有つて居ります、先刻来彼処其処を拝見致しても感想を惹き起すやうでございます、それで一場の愚見を申すよりも、寧ろ私の身に接した感想が多いので、諸君を益するよりも、反つて自己が大変益を受けたと云ふ感想を持つのであります。
 本問題に関係のないことを長く申す様でありますけれども、元来私は水戸派の学問を深く修めた人から多少漢籍を学びました、処で水戸学に対しては子供の折から深い感じを有つて居ります、のみならず先年薨去せられました慶喜公が一つ橋に在らせらるゝ頃に、私は御奉公をして一つ橋の家来となりました、其一つ橋公は御承知の通り烈公の御子で七郎丸と申され、御幼少の折には弘道館で漢字(学)を修めた御方でございます、九歳のときに一つ橋家を御相続になり、爾来烈公は屢々小石川の御屋敷に御呼びになつては、御自身に訓誡のあつたと云ふことは委しく記録に書いてございます、私は一つ橋家に於て慶喜公に数年御奉公を致し、夫から続いてフランスに参りました、此フランスに参つて居りましたのも慶喜公の御令弟与八様――民部大輔昭武と仰せられた御方の御供をして参つたので、そして恰度明治元年に帰りまして、暫時昭武様に昵近致して居りました、私が日本に戻つた時は江戸は東京になつた頃で、昭武公は水戸に御出でになつて水戸家の御相続をなされました、私は慶喜公が駿河に在らせられたので彼処に参りました、左様云ふやうに、学問上からも亦御奉公の上から水戸に縁故ある方々に御付添ひ申した訳からしても、水戸と云ふ土地には甚だ深い感情を有つて居ります、で只今之れに参ります途上諸所を拝見しても是は斯う云ふものであらう、是は斯う云ふ時に見たと云ふ思出が多くございますので、恰度此の御集りに参つた水戸と云ふだけでも思ひ出多く昔を偲びますのは、反つて私は諸君に対して御礼を申さなければならぬと思ひます。
 私は感化事業なり救済事業なりに躬自ら当つて居りませぬが、此会には養育院の幹事安達氏も、亦院の井の頭学校の主任桜井円次郎氏も出席を致して居ります。先刻留岡君は此感化救済事業に対し、社会がまだ充分目を属して呉れぬと云ふ頗る慷慨的の御講演をなされましたが、私共も矢張り御同感を有つて居ります、併し留岡君は実際に其学校を持つて躬自から其児童を率ゐて居られますから、所謂実験上から充分御話しをなされたことであります、又前席の富士川先生は、所謂学問的に感化事業に就て唯単に慈善と云ふよりも既に其事を行ふには学理に応じた経営がなくてはならぬ、感化の及ぼすべき種類が、その人々の性格の上から種々なる種類があると云ふことを学理的に御述べになりまして、吾々は諸君と共に大に益しました次第であります。
 私は左様云ふ実験もなし、学問もございませぬ、唯自分で大体上から関係し来つたので、自分の平生考へて居ることを申上げるに過ぎませぬ。
 今の富士川博士の御話しの慈善と感化と云ふ名詞は違ふかも知れぬと云ふ仰せがありましたが、兎に角其仕事に対して惻隠の心から発露した慈善的事業と、社会的事業との区別をしなければならぬことゝ思つて居ります。
 勿論慈善と云ふ観念は結構で、仏法などで能く喜捨と申して、唯仏に対する感情から情けを掛けると云ふ心が既に仏に尽す報謝であると云ふやうに考へますのは、如何にも美はしい事である。
 併し是は悪くすると其善い志、善い事柄が果して良結果をなすか何うかは随分疑問である、所謂乞丐を三日すれば忘れられぬと云ふ諺がありますが、夫も故なく喜捨することから来るのであります。
 現に先年東京に感化事業を起さうとした当時、養育院の安達幹事が色々調べをするうちに、場所を忘れましたが一人のお婆さんが五・六人も子供を養つて居ると云ふので、豪い感心なことだと思ひまして段々様子を聞いて見ると、是は慈善のためではない、全く自分の都合の為に養つて居るのでありました、即ち不幸の子供を貰ひまして、夫れを食ふや食はずで養つて居りまして、夫れを乞食に貸出すのであります、斯う云ふことをするのは何故かと云ふと、子供を連れて貰ひに出ると人が余計に呉れる、随分抱腹の話でありますが、――呉れます人は善ひ志で呉れるのでありますが、随分困つたもので、斯う云ふお婆さんの様な輩が沢山ありますから、慈善事業とか感化救済事業に付きましては、余程実質の上から研究しなければなりませぬ、社会政策の上からも確実に其方法が講ぜられませぬと、折角惻隠の心から出てやりましたことも、己の欲するやうな効果を結びませぬ。
 私の東京市の養育院に従事して居りますのは、前申します通り学問的でありませぬ、唯実際に、大層らしく申せば自己の常識に問ふて経営し来つたので、明治七年から殆んど四十年間、名は異りますが、市参事会の常設委員長と申し、又今日は院長と申して、殆んど休みなしに大体の事務に参して居ります。
 極く初めは市中に徘徊して居る乞食を集めて収容しました。
 故に元の起りは殆んど今日の如く学理的に色々の種類に分けませぬで、何もかも宜いかげんに一緒に収容しました。
 段々東京市が進んで行くと共に窮民も殖へ、従つて収容すれば従つて入れなければならぬと云ふ必要か生じ来りて、収容児童中には段々性質の不良なのがあるに付て、恰度明治三十一年頃から市中を徘徊して居る浮浪少年を入れて、之を特種の保護と云ひますか、感化と云ひますか、収容するのみならず悪習癖を直すやうにしたならば宜からうと云ふのが、東京市の感化事業の起因でありました。
 只今此会に出席して居ります安達氏と之を組み立てました、初めは小石川大塚に在る本院の中に、他の貧児と共に浮浪少年をも収容致しましたが、是は大に失敗を致しました、悪い方を善くしやうと思つて入れた少年が、寧ろ善い少年を悪くして了つたのであります。
 昨晩も東京で北里博士の結核予防に付いての講話を承はりましたが伝染の力は実に恐ろしいものです、二年計りの間に大失敗を演じましたので、之を隔離別異し、次で又建物を井の頭に別立し、三十八年に井の頭に移して教育することに致しました、之れが只今の井の頭学校であつて、爾来十二年経営して居りますが、今富士川博士の御話しの如く、各個性を充分に吟味をせねば、吾々の感化事業は完全には参らぬのであります、併し変性の種類が如何程あるか分りませぬが、習慣から悪くなつたと云ふ不良少年が多いやうであります。
 夫等であると、吾々の常識を以つても感化が出来ると思ひます。
 十数年来の経過から見ますと、現在の在校生約八百二・三十人も居りますが、先年本院にあつた時のやうな手違はないやうでございます。
 私共は此子供に対して何う処置して行つたならば宜いかは、今日も尚ほ講究をして居ります。
 皆様も此点には御同様と思ひますが、悲哉何れの御場所も左様完全教育をするだけの道具立ては整つて居らぬ。
 只養育丈はせられてある、即ち食はして着せてやり、普通の読み書きが出来る位までは手数を掛けぬでも出来ますが、其人が実業に付きましても、是等が外に出ても生活の出来るだけにしてやらぬと、折角養つた効能がないと思ふて居ります、其処までは東京市の方でも金が無いと云ふて金を出して呉れず、扠て置く処は有つても、職工学校の簡易なるものでも建てやうとすれば金がかゝる、其金を請求しても、各種の方面に巨額の必要があるからとて応じて呉れぬと云ふ有様であります、夫れで此将来をどう云ふ工合にして行つたならば宜いか、養ふことは出来ますが、例へば感化生が二十歳なり二十一歳なりに生長したその暁には何うするでありませうか、感化の規定に基き必らず退院せしめねばなりませぬ、父兄の有るものは父兄に帰すことが出来ませうが、東京市養育院の不良児は多く棄児や浮浪児の種類でありますから、之を教へると共に将来の立身方法も講ぜねばならぬ、其処を養つて教へて、其青年が是で生活が出来ると云ふ道を講ずるに於て、種々なる世話を致して居りますが、未だ是で完全と云ふやうには参りませぬ、況んや其設備に付ては前に申した通り、其費用を得ることも難いのでございます、此点に付ては、皆様も東京市の養育院の如き同様の感をお持ちと思ひます。
 児童の性質も、左様云ふ性質の者には何ふ云ふ仕向け方をすれば一番彼等の為めになる処置であらうか、諸君のお説も伺ふて、吾等の経営の助けを得たいと思つて居ります。既に大体に於ては是等の種類を凡そ二種に分ち、強壮で都会生活に堪へるもの、弱くして都会生活に堪へぬ者と申す様に、一方には工業、一方には農業と、其性質を選んで素養を与へて置けば宜いと思つて居ります、但し今の考は単に井の頭学校の部ばかりである。
 巣鴨分院には孤貧児が六百人ばかりも居ります、此中には浮浪者たりしものもあり、棄児たりし者もあり、何れも孤児たる処は同一でありますから、矢張り是等をも安心させやうとするには、工業なり農業なりに就くべき素養を与へる方法を講ずる外はないと心配して居ります。
 其方法を講ずるには、勿論一方からは金を得なければなりませず、一方からは農業なり工業なりの組織をも設けねばなりませぬが、其基礎となるべき金がなければ出来ぬのであります。
 玆にお互に最も注意を要すべきことがあります、養育院の入院者に就て観察致したこと、例へば少年若しくは青年ばかりではございませぬ、壮年でも老年でもすべて貧困に陥るものゝ通有性がございます、其通有性は何かと云ふと自己の為めのみを思ひ、人の為めは思はぬ、所謂思ひやりの少ないのは殆んど彼等の通有性であります、自己のことのみ考へて人のことは構はずと云ふ人が養育院に這入るのであります、或は意地の悪いものもあり、敏捷の者もあり、従順なるものもあり、迂濶者も、ねじくれたのもあり、個性はそれぞれ変つて居りますが、自他の関係に就ては、殆んどすべてが変らぬと申して宜いやうであります。
 自己さい宜ければ宜いと云ふのでありますから、世の中には容れられず、必らず貧窮に陥る訳であります、変性低能と云ふやうな性質の違つたものは、或は之を感化し得られませぬか知らぬが、併し大体のものに於ては私共の考へまする処、実験する処では、親切と思ひやりと云ふことを持たせる事が出来たならば、彼等をして一部の感化は出来得たものと考へて居るのでございます。
 故に東京市に於ける養育院の吾々は他に好い方法を有つて居りませぬから、第一右様の趣意を以つて金科玉条として其事に当つて居ると申すの外はござりませぬ。
 只今留岡君は此事業に対して殆んど其殆んど其船の上に登らずに極く下に――船底に行つて仕事をする、所謂椽の下の力持ちの事業、即ち此慈善とか感化救済の事は夫れである、而して夫れに又日本の全体の社会からは甚だ尊ばれず、持て囃やされぬと云ふ様な御趣意を御述べになりましたが、私共も或点から云ふと、其譏りを受くる方の一人でありますが、又此位置から申しますれば御同様の境遇に立つ一人でございます。
 一つの身体を二様に使はなければならぬか知れませぬが、併し何時の世に於きましても此犠牲的の仕事に従事する者はなければならぬのであります、殊に此慈善事業の如きは、留岡君の仰つしやる通り全く犠牲的事業であつて、社会からも甚だ認められない事業であります。
 留岡君の御話しせられた船の底で働いて居ると云ふ、所謂椽の下の力持ちのやうな訳でありますが、恰度事柄は違ひますが、是れと能く似寄つた事柄が、此最近の我国の歴史の上にも有るので御座います、夫れを一寸申し上げて見たいと思ひます。
 徳川幕府は其外交に付きまして、又諸藩の処置に就きまして色々の苦痛を感ぜられましたが、殊に京都との関係が面倒に成りまして、或は薩摩とか長州とか云ふ大藩が京都に入つて其威勢を張るとか云ふ様な騒ぎに成りました、其の中に時の将軍は薨去されると云ふやうな騒ぎで、当時の如き紛糾の時代に於きまして、前将軍に代つて将軍となるべきものは、衰へたる幕府を維持するには慶喜公の如き気力のある人でなければいけぬと云ふので、慶喜公も初めは嫌はれたのでありますが、遂に将軍の職を襲はれたのであります。
 然るを幕府と長州との紛議は、夫れからそれからと益々解けない、又其時の雄藩が一致しなかつたのであります、而し幕府と薩長との争はなかなかに解けなかつたのであります、慶応三年になりまして薩長は一致するやうになりましたが、さう云ふ勢でありましたから幕府は遂にフランスを後援として事をなさうと云ふやうになりました。
 さうすると今度は薩長の方では、英吉利を後援として幕府と争はんとするやうな様子が見へて参つたのであります、若し此有様が進んで参りましたならば、夫こそ隣国支那の今日よりは一層困つた状態に陥つたかも分らなかつたのであります。
 然るに慶喜公は此容易ならざる有様を見て、決然御覚悟をなされまして、大政を返上せられ関東に御帰りになり、すぐさま上野に御入りになつて、謹慎恭順の意を表せられたのであります。
 是は先刻も申しました通り、私は明治元年十一月に仏蘭西から帰つて来まして、帰朝後の用向きを済まして、慶喜公に駿河で拝謁を致しましたが夫は十二月の末と記臆致します、其時までは慶喜公の御心が分らなかつたのであります、余り意気地の無いなされ方だ位にしか思はれなかつたのであります、然し後に至つて考へて見ますれば、慶喜公にはあの時の国家の困阨を救はんとするには、自分を犠牲に供するよりも外にないと云ふ観念が大変強くあらせられた為めに、あゝ云ふ行動を執られたのでありませうけれ共、夫が其当時は分らなかつたのであります。
 夫が後に至つて分つたのでありまして、幕末の歴史を説くものは何人も之を認めて居るのであります、蓋し是は慶喜公が椽の下の力持ちをなされたから、我国今日の盛運を見ることも出来たのであります、丁度是は船底へ入つて水の浸入するのを防いだと云ふ、留岡君の譬のやうなのであります、故に私は独り今日の慈善事業に従事するもののみならず、何事に於ても、隠れたる事にも大に力を尽して戴きたいと思ふのであります。
 併し夫はさう希望致しましても、歩の宜い仕事にのみ望を属する者の多い今日でありますから、皆悉く左様は参らぬと思ひますが、御互に感化救済事業に尽力せらるゝ諸君は、其事業が表に現はれませぬでも、我に於て何かあらんと云ふ覚悟を以て、御互に弥や増し勤勉したいと思ふのでございます。
 私の申しましたことは、感化救済事業に対して斯かる考を以つてやつて居ると云ふ、唯自分一・二の考を申述べただけでありますから、諸君を益するやうなことはございませぬ。



 
1. これは渋沢栄一が、大正5年(1916年)5月28日、水戸市の弘道館で行った講演です。
上記の講演本文は、『公益財団法人 渋沢栄一記念財団』のホームページに収められている『渋沢栄一伝記資料』第30巻所収のものによりました。この本文は、中央慈善協会編の雑誌『慈善』(第8編・第2号、大正5年10月)に掲載されたもののようです。
  →『公益財団法人 渋沢栄一記念財団』
    →『渋沢栄一伝記資料』第30巻
なお、『公益財団法人 渋沢栄一記念財団』のホームページには、『渋沢栄一伝記資料』のほか、詳細年譜やその他多くの資料が収められています。
   
    2. 本文中に出て来る、「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号(濁点を含む)は、元の仮名を繰り返して表記してあります。(それぞれ、なかなか)    
3. 講演本文の初めに、次のような紹介文が出ています。
 大正五年五月二十八日
  是日栄一、中央慈善協会会長トシテ、水戸市ニ開カレタル関東・東北・北海道感化院長協議会ニ
  出席シ、一場ノ演説ヲナス。
竜門雑誌 第337号・第94-95頁 大正5年6月
〇青淵先生の水戸旅行 青淵先生には水戸市に於ける関東・東北感化院長協議会に臨席の為め、中央慈善協会の原胤昭氏(本社会員)を伴ひ五月廿八日午前八時十分上野駅発汽車に乗じ、途中土浦駅にて本社会員岡本儀兵衛君等の出迎ひを受け、又た石岡駅にて金田茨城県理事官、其他二・三の新聞記者等の出迎ひを受け、此くて午前十一時五十ニ分無事水戸駅着、岡田知事・川田市長・塙商業会議所会頭、外数多の出迎ひあり、直に人力車にて上市なる公会堂へ行き、午餐の饗を受けられ小憩の後、東園内務部長・丸山勧業課長等の案内にて階下なる物産陳列館を観覧し、夫れより徒歩弘道館に到り、先づ孔子廟を拝し塙会頭・西野市助役の説明にて園内を巡覧したる後、午後一時講演会に臨み、「感化事業に於る所感」と題し、概要如左演説せられたり。
  〇演説筆記次掲ニツキ略ス。
午後四時同処退出、川田市長の案内に依り直に人力車にて彰考館・常盤
(マヽ)公園・好文亭等を順覧し、夫れより午後七時公会堂に於て市内有志発起の歓迎会に臨まれたり。出席者凡そ百名、盛会裡に九時散会、かねて県庁にて指定しありたる常盤(マヽ)公園附近なる清香亭に投宿し、翌廿九日午後九時上市新屋敷なる県立商業学校に於て一場の演説の後、午前十一時三十分水戸駅発列車にて原胤昭氏と共に無事帰京相成たり。
 
(マヽ)は引用者の付記です。
    4. 講演本文の終わりに、「〇右ハ「竜門雑誌」第三四二号(大正五年十一月)ニ転載シアリ。但シ、ソノ講演ノ日ヲ七月八日トセルハ誤リ。」の付記があります。     
    5. 渋沢栄一(しぶさわ・えいいち)=実業家。号は青淵。武州血洗島村(埼玉県深
    谷市)の豪農の子。初め幕府に仕え、明治維新後、大蔵省に出仕。辞職
    後、第一国立銀行を経営、製紙・紡績など多くの企業設立に関与、財界
    の大御所として活躍。引退後は社会事業・教育に尽力。子爵。(1840~
    1931)  (『広辞苑』第7版による。)
   
    6. 資料622に、水戸の学風と徳川慶喜公(渋沢栄一『村荘小言』人物篇より)があります。
 → 資料622 水戸の学風と徳川慶喜公(渋沢栄一『村荘小言』人物篇より)
   
    7. フリー百科事典『ウィキペディア』に、渋沢栄一の項があります。
  フリー百科事典『ウィキペディア』  → 
渋沢栄一
   





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