居士名汝鈞字景和平安人本姓伊藤改為藤氏父
名源母近江武藤氏以享保元祀二月八日生居士
于城中之錦街居士為人斷斷無它技唯繪事是好
従為狩埜氏之技者遊既通其法一日自謂曰是法
也狩埜氏法也即吾能之不超狩埜氏圏繢不如舎
而之宋元也於是取宋元畫學之臨移累十百本又
自謂曰歩趨之技肩終不可比耶且彼描物者耶吾
又描其所描是隔一層矣不如親即物而舐筆也物
乎物乎吾何執當今之時無有麒麟凌烟及夫冒雪
唐鄭虔作常建冒雪入京圖吟詩王維作孟浩然吟詩圖者之態而露鬠月 鬠は原文「髟+介」
額褊袚之人弗堪也山水所目亦未遇上幅者無已
則動植之物乎孔翠鸚*曾不可恒覯唯司晨之禽 *義+鳥
閭閻所馴其毛羽之彩可五色施而吾自此始矣畜
鷄數十窓下極其形狀寫之有年矣然後周及草木
之英羽毛虫魚之品悉其貌會其神心得而手應其
下筆賦彩盡以意匠出之無一毫蹈襲雖於古人韻
致如有不合而骨力精錬之工可以卓然名家矣又
喜用白帋易滲者作墨畫乃用其所滲界濃淡而花
之瓣與羽鱗之次區分為態其運筆也曼漶似暗中
摸及乹劃然濃淡不紊盖筆之所至圓熟不殢也一
種風流世未嘗有觀者咸服其妙遂以此易斗米取
給於是乎有斗米菴之號然居士質直少飾不欲以
技衒當世嘗造丹青三十大幅實愜心合度之作又
模張士恭迦文文殊普賢三幅幅極大精絢無耻其
本慨然以為售之一時不如傳身後供之世俗不如
蔵之名山乃盡喜捨諸相國寺以充莊嚴云錦街鮭
菜之肆旦旦負擔者輻湊為市塞戸偪墻即居士家
日租其地亦足以為利乃居士則耽繪事不欲外物
攖之屬家其仲而異宅焉久鬄頭不食葷肉無妻子 鬄は原文「髟+易+刂」
欲以季某為後先死於是預圖百歳事也與里人約
輟宅為里有歳分其假貸之贏施諸相國以奉父母
及己祠請其子院松鷗掌香火事既又乞松鷗之地
三尺卜佳城所立碣表焉而碣之不可無銘也来請
于余余曰異哉可以銘乎昔者陶潜以文自祭司空
圖坐壙而賦詩王績白居易為窀穸誌皆老而自遣
也吾子歳僅半百其自果也如是夫雖然吾子所以
家于技者名遂矣事畢矣由斯以往將何所營乃腰
不折而斗米可得優遊以卒歳則所謂睪宰墳鬲之
望知所息於今日也且余與吾子交十有餘年自顧
羸弱恐不能後吾子夫吾子之知所息與余之恐不
能後是宜若可以銘然然吾佛有言心如工畫師無
法而不造則吾子苟擇於自造也寧徒描士恭所描
為得哉是真知所息矣是為銘銘曰
生邪死邪劫盡而土安者此邪逝將固濟子邪
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1. |
上記の本文は、国文学研究資料館所蔵の淡海竺顯常大典撰『小雲棲稿』巻之九(寛政8年丙辰九月求板、京都・菱屋孫兵衛、京都・林伊兵衛、大阪・播磨屋新兵衛、大阪・河内屋太助、江戸・須原屋伊八)所収の「若冲居士壽藏碣銘」によりました。 りました。 → 国文学研究資料館 →『小雲棲稿』巻之九 (204~207/291) |
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2. |
相国寺の碑の本文と『小雲棲稿』の本文とでは、数か所に文字の異同が見られます。(注6参照) なお、相国寺の碑には、最後に「明和三年丙戌十一月 淡海竺常大典撰」と刻してあります。(明和三年は、西暦1766年) |
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3. |
「若冲居士寿藏碣銘」は、画家・伊藤若冲の寿碣(じゅけつ・生前に建てた墓碑。寿蔵碑とも)です。撰文は、相国寺の大典禅師(大典顕常)。 |
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4. |
本文の改行は、『小雲棲稿』の通りにしてあります。ただし、1行に小文字で2行に分かち書きしてある部分は、ここでは文字だけ小さくして1行のままにしたため、行が長くなっています。 |
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5. |
文中に「張士恭」「士恭」とあるのは、南宋の仏画家「張思恭」のことで、若冲が彼の「文殊・普賢菩薩像」などを模写したことで知られています。 |
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6. |
相国寺の碑の本文と『小雲棲稿』の本文との異同。 (お断り:文字の読み取りが正確でないところがあるかもしれません。) 『小雲棲稿』の本文 相国寺の碑の本文 即吾能之不超狩埜氏圏繢 即吾能出於藍亦不超狩埜氏圏繢 臨移累十百本又自謂曰(既なし) 臨移累十百本既又自謂曰 當今之時無有麒麟凌烟及 當今之時無有襄公鄂公及 乃用其所滲界濃淡 乃就其所滲界濃淡 區分爲態(歴歴なし) 歴歴區分爲態 (「區分爲態」の次に) 其運筆也曼漶似暗中摸及乹劃然濃淡不紊 (相国寺の碑になし) 迦文文殊普賢三幅幅極大 迦文文殊普賢三幅(幅極大なし) 售之一時不如傳身後(傳の後の之なし) 售之一時不如傳之身後 喜捨諸相國寺(禅なし) 喜捨諸相國禅寺 以充莊嚴云(具なし) 以充莊嚴具云 欲以季某爲後先死 欲以季某爲後先亡 於是預圖百歳事也(後なし) 於是預圖百歳後事也 来請于余 來謁于余 陶潜以文祭(自なし) 陶潜以文自祭 然吾佛有言(曰なし) 然吾佛有言曰 寧徒描士恭所描 寧徒描子恭所描 |
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7. |
伊藤若冲(いとう・じゃくちゅう)=江戸中期の画家。名は汝鈞(じょきん)、号は斗米庵とも。京都の人。初め狩野派を学び、のち宋・元・明の古画を模し、鶏などの動植物画に写生的かつ装飾的な独自の様式を築いた。ユーモラスな水墨画も多く制作。(1716~1800) 大典(だいてん)=江戸中期の臨済宗の僧。名は顕常。近江の人。相国寺に住し、儒学・詩文に長ずる。幕府の朝鮮修文職として国交文書をつかさどり、松平定信に優遇された。著「小雲棲稿」「皇朝事苑」など。(1719~1801) (以上、『広辞苑』第7版による。) |
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8. |
資料611 斗米菴若冲居士墓碑銘(若冲居士寿蔵碣銘)があります。 |
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9. |
フリー百科事典『ウィキペディア』に、柴野栗山の項があります。 フリー百科事典『ウィキペディア』 → 伊藤若冲 → 大典顯常 |