資料586 岩谷山清浄院仏国寺



          岩谷山清浄院仏国寺        記述追加年月日 2019年7月4日

城里町塩子にある仏国寺のことを、少し調べてみました。
少しずつ書き足していくつもりです。
                                                             2019年6月22日

なお、観海上人については「資料584 仏国寺の観海上人のこと」をご覧ください。
  → 資料584 仏国寺の観海上人のこと

                  

1.岩谷山清浄院仏国寺
仏国寺は、茨城県東茨城郡城里町塩子1736にあります。
由緒あるこの寺院も、平成6年に放火に遭って堂宇はじめ貴重な資料が焼失してしまった、ということです。

『茨城県大百科事典』(茨城新聞社、1981年10月8日発行)の「仏国寺」の項に次のようにあります。
仏国寺 西茨城郡七会(ななかい)村塩子(しおご)(引用者注:現・東茨城郡城里町塩子)にある真言宗豊山派の寺。寺伝では行基の創建というが不明である。慶長年間(1596~1615)に教導の再興と伝えられる。そのころ後陽成天皇の勅額を受け、江戸時代には25石の朱印地を受けていた。1663年(寛文3)には徳川光圀が訪れて2泊している。明治初年の廃仏毀釈によって山林などを失い、本堂を焼失し、仏像なども多くを失ったが、梵鐘は30mほど離れた所にあったため難を逃れた。伝説によると、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が仏国寺創建以前にここへ住み、観音像を安置し、朝夕信仰したといわれ、観音堂跡・道鏡窪(どうきょうくぼ)などの地名が現在でも残っている。本尊は十一面観音像であり、寺宝には梵鐘などがある。十一面千手観音菩薩像・銅鐘は、県の文化財に指定されている。(この項の筆者は今瀬文也氏)

「城里町教育委員会のホームページ」の「県指定文化財」のところに、仏国寺の「鋳造十一面千手観音菩薩像」が昭和42年11月24日付けで、「銅鐘」が昭和42年3月30日付けで県の文化財に指定された、とあります。また、「町指定文化財」のところに、「仏国寺奥の院」が昭和58年3月31日付けで城里町の「町指定文化財:史跡・名勝」に指定された、とあります。
そこの「仏国寺奥の院」のところにある説明文を引用させていただきます。

※大宝年間 (705年) 僧、行基が霊地に感じ観音の影向を拝したのが創りと言われている。
  2万両の浄財をあつめ、馬が床下を通る巨大な五百羅漢堂を水戸城下に創建、木喰五行に木食戒を授けた高徳の佛國寺18世観海法印上人 (1775年没)がねむる奥の院の岩谷には、日本廻国37年の大願を果し、木喰五行上人が師の墓所に無言の報告をした対面石などがある。

  → 城里町教育委員会のホームページ 
          → 県指定有形文化財:彫刻・「鋳造十一面千手観音菩薩像」
            → 県指定有形文化財:工芸品・「銅鐘」
              → 町指定文化財:史跡・名勝「佛國寺奥の院」

      → 茨城県教育委員会のホームページ
          → 県指定有形文化財:工芸品・「銅鐘」

城里町観光協会のホームページの「仏国寺」の紹介ページに、次のようにあります。

当山は、岩谷山清浄院佛國寺と称し1300年以上の歴史を有する真言宗の古刹である。
古しえから関東の女人高野とし、又、常陸第33番札所の第33番結願寺、かつ県内屈指の観音霊場である。

   → 城里町観光協会のホームページ
    → 仏国寺

2.茨城県の案内板

  真言宗岩谷山清浄院仏国寺
一、本尊 十一面観音
一、創建 凡千二百五十年前
一、開基 行基菩薩
一、後陽成帝勅願寺
一、関東女人高野山
一、常陸三十三番札所
一、蟲除安産守護所
一、有形文化財
  1.十一面観音菩薩
  2.梵鐘
境内及び附近で鳥獣の捕獲並びに
草花・樹木の採取を禁ず
        茨城県

案内板を建てた日付けが書いてないので、創建の
「凡千二百五十年前」がはっきりしません。


3.環境庁・茨城県観光物産課の案内板

     仏 国 寺
 仏国寺は、真言宗豊山派」の寺で、行基が創建し、慶長年間
(1596~1614年)に教導上人が再興したと伝えられており、
関東の高野山と呼ばれる由緒深い寺です。
 本尊は十一面千手観音菩薩で、昭和42年(1967年)に県
の文化財に指定されたもので、安産・子育てにご利益がある
と言われています。
 寛文3年(1663年)に2代藩主徳川光圀がこの地を訪れた
という記録が残っています。
               環境庁・茨城県観光物産課

4.仏国寺本堂脇の木喰聖人の碑

木喰五行明満聖人品位
水戸五百羅漢寺からこの地へ錫をひかれた神通光明木喰明満仙人は、四十年に及ぶ晩年の廻国修行の途次、奥ノ院師観海上人の墓前に来し方を御報告された一夜、誦経のまま九十三歳の天寿を終えられました。その生涯はまさに厳しい上求菩提、下化衆生の実践。あまねく日本国中を捨身の行で貫き、微笑佛を刻むなど多くの人々の心に灯火をともして歩かれました。上人はまた文化三年の暮、霊夢により弥陀三尊から六百歳の延寿を授かった由、先々なお人々の心に生き、御加護くださることでしょう。
文化七年庚午六月初五日
 
5.木喰聖人終焉の地の案内碑
 
 → 木喰五行明満聖人終焉ノ地
      奥ノ院三昧洞穴入口


6.『水府志料』茨城郡一 増井組塩子村の項(『茨城県史料』近世地誌編 236頁

岩谷觀世音 路の左右は奇石怪岩聳出て、松杉鬱葱。泉流はなはだ奇麗なり。數百丈の絶壁あり。その半腹にかけ造の觀音堂あり。またたぐひなき勝地也。土人關東女人高野山と呼ぶ。










  (注) 1.      
    2.      
    3.      
    4.      
    5.      
           









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