資料584 仏国寺の観海上人のこと



            佛國寺の觀海上人のこと

                       
 最新の更新日:2023年2月5日

常陸国茨城郡塩子村(現・茨城県東茨城郡城里町塩子(しおご))の仏国寺の住持・観海上人は、微笑仏(みしょうぶつ)で知られる木喰上人に木食戒を授けた僧として知られていますが、その生涯は殆んど知られていません。そこで、観海上人に関する資料を少し集めてみることにしました。

これから少しずつ書き足して行こうと思います。ご存じの資料を教えていただければ幸いです。
なお、仏国寺のことは「資料586 岩谷山清浄院仏国寺」をご覧ください。
                          (2019年6月17日)

初めに、觀海上人の履歴について。

觀海上人

元禄11年(1698年)生まれ。注1
生地については、常陸国多賀郡という説と、奥州岩城という説があります。注2
茨城郡塩子村の佛國寺第18代住持となる。注3
宝暦6年(1756年)から明和7年(1770年)にかけて水戸に羅漢寺を建立。注4
宝暦12 年(1762 年)羅漢寺に於て木喰行道に木食戒を授ける。注5
安永2年(1773年)大僧正に任ぜらる。注6
安永4年(1775年)歿。享年78。注7

注1:相川・野内家の過去帳、及び水戸羅漢寺住職・舜興が水戸藩社寺方に差し出した文書による推定。
注2:多賀郡説は『水戸市史』中巻(二)287頁参照。岩城説は『水戸紀年』(宝暦6年の項)及び
  水戸羅漢寺住職・舜興が水戸藩社寺方に差し出した文書参照。
注3:
注4:『水戸市史』中巻(三)による。

注5:『四国堂心願鏡』による。

注6:『水戸紀年』による。
注7:歿年と享年は、野内家の過去帳、水戸羅漢寺住職・舜興が水戸藩社寺方に差し出した文書による。
       歿年は『水戸紀年』にも出ています。

1.観海上人の生没年について

相川の野内家に伝わる靈會日鑑(過去帳)には、

  廿四日    地蔵菩薩
         祇薗大明神    山城國愛宕郡  八坂
                   本地藥師如来
のところに、

    觀海上人    安永四年乙未十二月
                 羅漢開山木食七十八

とあります。
これによれば、觀海上人の没年月日は、安永4年(1775)乙未12月24日、享年78ということになります。すると、生年は、元禄11年(1698)ということになるでしょう。

   元禄11年(1698)戊寅生まれ。
     安永 4年(1775)乙未12月24日没、享年78。

『水戸紀年』の「安永四年乙未」の項にも、

十二月廿四日羅漢寺開山木食觀海死ス

と出ており、また、文政10年(1827)11月、水戸羅漢寺住職・舜興が水戸藩社寺方に差し出した文書にも、

此ニ及老衰安永四年十二月二十四日歳七拾八才ニ而遷化仕候

と出て
いるそうですから、没年月日と享年は確かなようです。

※ いわき市大久町大久の正福寺に、木食上人觀海の書「光明眞言」が什寶となっているということ(『いわきの寺』154頁、いわきの寺刊行会)と、磐城には木喰五行上人が2度來ているということを、關内幸介様から教えていただきました。ここに記して謝意を表します。(2023年2月5日付記)

2.觀海上人が、木喰に木食戒を授けた年と場所
觀海上人が、木喰に木食戒を授けたのは宝暦12年(1762)、木喰45歳のとき。場所は、常陸国水戸にあった真言宗の寺・羅漢寺でした。

ただし、『世界大百科事典』第2版および『日本大百科全書(ニッポニカ)』には、「木喰五行明満(もくじきごぎょうみょうまん)45歳のとき相模国大山で木喰観海に木喰戒をうけた」とある由です(2019年6月18日現在未確認)。

この相模国大山のことは、フリー百科事典『ウィキペディア』に、相模国の大山不動で出家、常陸国水戸の羅漢寺で木食戒を受けた、とあるのが正しいのではないでしょうか。

3.フリー百科事典『ウィキペディア』には、次のようにあります。

『心願鏡』(引用者注:『四国堂心願鏡』のこと)によれば、1739年(元文4年)、22歳の時に相模国(神奈川県伊勢原市)の古義真言宗に属する大山不動で出家したという。「木喰」と名乗るようになったのはそれから20年以上を経た1762年(宝暦12年)、彼はすでに45歳になっていた。この年、彼は常陸国(茨城県水戸市)の真言宗羅漢寺で、師の木食観海から木食戒(もくじきかい)を受けた。当初「木喰行道」と称したが、76歳の時に「木喰五行菩薩」、さらに89歳の時に「木喰明満仙人」と改めている。
   → フリー百科事典『ウィキペディア』の「木喰」の項
   → 「四国堂心願鏡」(『木喰上人之研究』特別号に掲載
        国立国会図書館デジタルコレクションに所収 31~36/148

『木喰上人之研究』特別号に掲載されている『四國堂心願鏡』の出家と木食戒の部分を引いておきます。

……ソノ節サガミノ國石尊ヘサンロウイタシ、大山不動エ心願ノ大德ニヨツテ、子安町ニ一宿イタシヤドヒマチノヨニ、トマリ合セ、ソノ僧ハコキ眞言宗師ニテ、因縁ニアツカリ、ソノ所ニヲイテ師弟子ノ、ケイヤクヲイタシ、廿二才トシナリ、シユッケソウゾクヲ、至心ニ、信ジテ修行ヲコタラザレハ、マスマス自心モアンイニカナイソノミチニ入テ修行ノ、ノチ所々ノ寺々ヲ住シヨクヘンレキシテ、ソノノチ日本廻國修行セント大願ヲ、ヲコシテ、法身スル事四十五才ノ年ナリ、ソノ節ヒタチノ國木喰觀海上人ノ弟子トナリ、木喰カイヲツギヲヨソ四十年ライノ、修行ナリ、……
 (平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、同じ仮名を繰り返して表記しました(マスマス)。また、漢字の場合は「々」を用いました(寺々)。

3.『水戸紀年』五「良公」の寶暦六年丙子の項(『茨城県史料』近世政治編Ⅰ 543頁)

今年城東谷田酒戸ノ内高百三十四石餘ノ地ヲ木食僧觀海
賜フ五百羅漢ヲ創ス先ツ蓮池町川又鷺休宅地ノ辨才天ヲ此地曳テ安置セリ塩子村佛國寺ノ末寺玉樹山十圓寺ト云廢寺アリ此寺號ヲ假用ユ觀海四方ヲ募テ金二萬兩ヲ得タリ其餘米穀良材巨木ヲ得テ傑閣既成ル時十二年壬午土木ノ小屋ヨリ火ヲ失忽一片ノ灰燼トナル又再造シテ明和安永中功成ル四方遠近トナク巨木ヲ轉輸シ佛像ヲ安置ス民皆寶貨ヲ投テ其供用ヲ助ク今存スルモノ此再造也閣高キコト凡十丈八尺横十八間ニ十四間突兀トシテ天聳ユ大工棟梁ハ笠間箱田村孫平次ナルモノ也觀海ハ奥州岩城ノ民ナリ京入テ參内シ水戸羅漢寺開山玉樹山相承院十圓寺勅賜上人木食觀海ト稱ス死ス年八十餘桂岩寺二十三夜堂吉沼觀音寺ミナ明和安永中ノ再造シテ結搆舊觀ニ超ユ

 これによれば、觀海上人は、福島県岩城の出身ということになりますか。
   ただし、『水戸市史』中巻(二)には、「観海は多賀郡の出身」とあります。(第九章 藩政の衰退と鋳銭一揆 第五節 世情の推移と天明の大飢饉 世相の推移)同書、287頁。

4.佛國寺について
  『水府志料』茨城郡一 増井組塩子村の項(『茨城県史料』近世地誌編 236頁)

岩谷觀世音 路の左右は奇石怪岩聳出て、松杉鬱葱。泉流はなはだ奇麗なり。數百丈の絶壁あり。その半腹にかけ造の觀音堂あり。またたぐひなき勝地也。土人關東女人高野山と呼ぶ。

5.高倉胤明編『水府地理温故録』 草稿巻之五 下街町家之部  吉田村内同心町の項(『茨城県史料』近世地誌編 200頁)

一 新割といふは、同心町の東裏畠高四拾四石貳斗七舛五合の地を稱す。是は元禄、寶永の境にもや、 源肅君尊慮を以、此地へ諸士を被指置、追々居住之族も有しと也。然にいつの未(ヒツヂノ)年にや上り地と成、年來御入作畠となされ、御年貢は浮役へ組、上納致し來りぬるに、鹽子村佛國寺の住侶木食觀海といふ僧、五百羅漢を建立之志願を企、堂塔建立之地を願ければ、寶暦四戌年此地を更に觀海へ被下れ。其後觀海願けるは、此地へ廣大成本堂を建立仕なば、遠國他郷のもの入込み候砌、もし堂上より御城内を伺候樣成儀難斗旨、再應願出けるにより、同六子年、坂戸、吉田坂戸町付、谷田町付之内、惣高百三拾四石壹斗七舛九合、内田八拾五石七斗壹舛四合、畠四拾八石四斗六舛五合の地を、永代除に被下置、此地は上り、元との如く又々御入作畠とは成ける。

6.『新編常陸国誌』巻七<巻六十九>佛寺 天台宗 (『新編常陸国誌』 374頁、379頁)

【羅漢寺 〔茨城郡坂戸町付、本寺御室御所仁和寺永兼帶相承院室ナリ〕】除地百三十四石一斗七升九合、寶暦六年、鹽子佛國寺ノ住侶觀海法印ハ、木食ニテ高德ノ聞エアリシガ、水戸侯ニ訴ヘテ坂戸谷田兩村ノ内ニテ、土地ヲ請得テ當寺ヲ建立シ、五百羅漢ヲ安ズ、又辨天堂ヲ作リ蓮池辨天像ヲ安ズ、コノ像ハ元水戸城下蓮沼町ノ蓮池ニアリシナリト云フ 〔今蓮池ハ廢シテ、スベテ諸侍ノ宅地トナル〕、初メ寶暦四年、吉田同心町ノ東裏ニテ地處ヲ賜フ〔今所割ト云フ畠ヲ云ヘリ〕、然ルニ觀海再ビ願ケルハ、コノ地ハ城ニ近クシテ高地ナリ、コヽニ大厦樓閣ヲ構ヘバ、遠國他郷ノ者モ來リテ、堂上ヨリ城内ヲ窺ヒ見ルコトモアルベシト申セルニヨリ、尤其理アリトテ、更ニ坂戸谷田ノ内ニテ、永代除地ヲ賜ヒシト云フ、
【佛國寺 〔茨城郡鹽子村、本寺高野山寶性院〕】 朱印地十石、

7.『水戸市史』中巻(三) 第十五章 天保の改革(一)第八節 社寺の改革 (306~307頁)

 水戸領の廃寺は多かったが、水戸下町の端れ谷田町付(市内)地内に偉観を誇った羅漢寺の滅亡ほど、民衆の心を打った事件はあるまい。羅漢寺は塩子(七会村)の仏国寺の住持木食観海が宝暦六年(1757)から明和七年(1770)まで十三年間を費やして建立した寺で、五百羅漢像を安置し、高さ九丈二尺余、下階の間数一八間に一四間、上階は一四間に七間で、その宏壮な伽藍は数キロ先から旅人の眼に映り、縁日の物詣でには善男善女で賑わった(中巻(二)第九章第五節参照)。この新規成り上りの大寺が寺院処分策から免れる筈はなかろう。既に天保四年八朔の大風害で破損したのち、修復を許さず、天保九年秋には伽藍を取り崩し、仏像は僧寮の中に置いたところ、いろいろ怪談が取沙汰された。怪し気な物が夜中に出て、就寝中の僧の頭に灸をすえ、その痕が痛んで瘡となるので、神崎寺と宝鏡院の僧を招いて修法を行なった。その夜、空中に怪物が現われ、焰を取って四方に放つかと見る間もなく、一時に炎上し、伽藍の材木も仏像も焼失した。僅かに残った仏体は土中に埋められた。火災の時、住僧が火中に入り端座合掌して焼死し、小僧が井戸に投身自殺した。時に天保十年三月六日夜であった。斉昭は伽藍取崩しの後、五百羅漢の処分に困り、本山の京都仁和寺門跡から水戸家の大奥を通して譲受けの交渉もあったが、一夜の怪火ですべて灰燼に帰し、宝暦以来八四年間、水戸の名所として親しまれた羅漢寺は跡方なく滅亡したのである。いろいろの怪異は、人心の動揺から生まれたものであろう。

8.『水戸市史』中巻(二)第九章 藩政の衰退と鋳銭一揆 第五節 世情の推移と天明の大飢饉 世相の推移(同書、287~288頁)

 羅漢寺は木食観海が建立した宏壮な新寺である。観海は多賀郡の出身で、塩子の仏国寺の住持であったが、水戸城下に五百羅漢を安置する寺堂の建立を発願し、宝暦六年、谷田・酒門の中で百三十四石の土地を藩から寄進され、城下町および村々、他国にまで勧進して浄財金二万両、そのほか材木・米などを多く集めて、下町はずれの酒門村の地内に大伽藍を建てた。一万七〇八九坪の敷地(水戸御用留四)であった。しかるに宝暦十二年、土木小屋の失火でたちまち灰燼に帰したので、再び造営に取りかかり、明和に入って大体竣成し、同七年八月、下野烏山から五百羅漢を運び、九月には町の人々の協力で二十日間盛んな入仏供養を行なった。観海は常に木食をし、鼠色の麻衣を着て陸奥の国までも勧化したので、「水戸の木食」と呼ばれて名高く、多くの人々の帰依を受けた。ただし仏教嫌いの石川桃蹊は「桃蹊雑話」の中に愚民どもを迷わす山師坊主と批評している。この羅漢寺は高さ九丈二尺余、下の間数一八間と一四間、上は一四間と七間で下町の偉観となり、吉沼の観音堂と共に近在からの参詣者で賑わった。この時代にはまた社寺の境内に堂祠が新建され、本尊や什宝の開帳もたびたび行なわれたが、中でも天明元年吉沼観音堂で信州善光寺如来の開帳を行なったときは、近在からの善男善女で雑踏をきわめた。(羅漢寺は天保改革のとき破却、吉沼観音堂も火災で旧観を失った。この観音堂の本尊は藤原時代の作で、市の文化財指定)

 
  ここには、「観海は多賀郡の出身」とあります。

9.『水戸紀年』に出ている羅漢寺の記事を引いておきます。

寶暦七年丁丑の「補」に、
十月廿六日羅漢寺鐘ヲ鑄ル

明和七年庚寅の「補」に、

夏月炎旱羅漢寺木食僧觀海雩ス加勢二十村ニ至ル六月二十九日夜大雨民大ニ喜
八月二日羅漢寺入佛野州烏山ヨリ入佛ノ船ヲ寄進ス長七間二尺
九月五日ヨリ廿五日マテ五百羅漢入佛

明和八年辛卯の「補」に、
五月大旱羅漢寺木食觀海雩ス眞言一派ノ諸寺院及當東山本山修驗等相集テ坂戸池ニテ大ニ雩ス六月六日夜雨又靜吉田寶鏡院五穀登稔ノ祈禱ヲ命セラル

安永二年癸巳の「補」に、
八月朔塩子村佛國寺兼羅漢寺觀海京ニ入テ大僧正ニ任ス

安永四年乙未に、
十二月廿四日羅漢寺開山木食觀海死ス

10.『水戸紀年』の「寛政二年庚戌」の項に、藩主が羅漢寺の建立を非難したことが出ています。この藩主は、6代藩主・治保(はるもり)だと思われます。羅漢寺の建立を許したのは、前藩主・5代宗翰(むねもと)だと思われます。(文中の「浮屠」とは、僧侶のこと。「大浮屠」とは、観海上人を指すのでしょう。)

公坂戸羅漢寺ノ大浮屠若干ノ良田ヲ廢シテ造リタルヲ見玉ヒ當時執政有司カヽル無用ノ造立ヲ留ルニ意ナク惡僧ノ請ヲユルシタ君タル人ノ不德ナル何ソコレヲ許シタルヤ今ニ至リテハ詮方ナシ破壞セハ再ヒ修スヘカラスト仰アリシトソ

11.文政10年(1827)11月、水戸羅漢寺住職・舜興が水戸藩社寺方に差し出した文書

(1)前田香徑「木食觀海上人に就て」による。

 一、當寺開山木食觀海上人也、出生奥州岩城多賀郡新町木村氏産也。于時鹽子村佛國寺に住而諸堂建
   立後心願に而同村十圓寺と申す高根村太山寺末寺に而寺地有之而已爲法興隆引寺再建御願指上御
   聞濟被下置候
   源良公樣御時代厚思召以當地に新規御除地四丁四方寶暦六年に拜領仰付五百羅漢堂諸堂迄建立仕
   候。明和七年八月迄成就同八年八月入佛供養仕同九年御願之上十圓寺離末罷成此年上京仕御室御
   所御直末相承院室に罷成。被爲任上人。三月十日參内相濟致下國八月朔日登城被仰出候暫永住仕
   候而奉祈御武運長久者也此に及老衰安永四年十二月二十四日歳七拾八才に而遷化仕候外に行狀等
   筆記無之右相分不申候
   御造營等一切無御座候
   右此度
   御先代の御筆跡御編修被仰出候御用に付開山等行狀並御先代御造營等被遊尊慮等有之通書上可申
   旨御達に付則取調前書之通書上申候以上
    文政十亥年   坂戸町付村
              羅漢寺 (印)
               舜 興

(2)西海賢二著『博物館展示と地域社会ー民俗文化史からのまなざし』(岩田書院、2014年(平成26年)5月第1刷発行)所収の「常陸木食上人考ー木食観海によせてー」による。この史料は、前田香徑「木食観海上人に就て」(『木喰上人之研究』4号、大正14年8月)から引用したもの、と註にあります。なお、この西海氏の論文「常陸木食上人考ー木食観海によせてー」の初出は、<『日本民俗学』258号 2009年5月 日本民俗学会>だと、巻末の「初出一覧および原題」にあります。

當寺開山木食觀海上人也出生奥州岩城多賀新町木村氏産也于時塩子村佛國寺ニ住而諸堂建立後心願ニ而同村十圓寺ト申高根村太山寺末寺ニ而寺地有之而已爲法興隆引寺再建御願指上御聞済被下置候源良公樣御時代厚思召以當地ニ新規御除地四丁四方寶暦六年ニ拜領仰付五百羅漢堂諸迄建仕候明和七年八月迄成就同八年八月入佛供養仕同九年御願之上十圓寺離末罷成此年上京仕御室御所御直末相承院室ニ罷成被爲仕上人三月十日參内相済致下國八月朔日登城被仰出候暫永住仕候而奉祈御武運長久者也此ニ及老衰安永四年十二月二十四日歳七拾八才ニ而遷化仕候外ニ行狀等筆記無之右相分不申候
御造營等一切無御座候
右此度
御先代乃御筆跡御編修被仰出候御用ニ付開山等行狀並御先代御造營等被遊尊慮等有之通書上可申旨御達ニ付則取調前書之通書上申候以上
 文政十亥年
                                   坂戸町付村
                                   羅漢寺舜興(印)

 ※ 上の二つの史料で、後者の「被爲仕上人」は前者の「被爲任上人」が正しいと思われます。また、前者に「出生奥州岩城多賀郡新町」とあるのが、後者には「出生奥州岩城多賀新町」となっている点が注目されます。後者において「郡」が落ちたのか、「郡」を省いたのかは未詳です。

12.『加藤寛斎筆記』の「水戸羅漢寺」の記載
(『近世史料Ⅳ 加藤寛斎随筆』、茨城県史編さん近世史臺部会・編、昭和50年3月31日第1刷発行・昭和63年7月8日第2刷発行 所収)

 <水戸羅漢寺>
水戸羅漢寺ハ、明和年中木食観海と云もの出て、関東所々を勧化し、伽藍一宇建立を企て、坂戸村ニ而土地を願ひ済口と成りしが、障りありて後今の地に平田を除地に被下、観海日々町在托鉢修行し、金銭土木不求に来り、忽伽藍切組と成、既に小屋組とならんとセし比、細工場より出火して大材灰燼となる、観海不驚、かゝる大望の普請ハ必如此の事なけれバ成就セぬもの也とて、又跡を急ギ、二度目の普請全く調えて、組立成就となれり、其高キ事恰も安房宮に比すべく、外面の彫鐫手を尽し一瞬の内に不及、入仏の前日他国より群参夥敷賑合しと云、其後の住持手入修理の力なく、天保己亥春に壊ち廃セり、此大材寺中に積て累々たり、住持是を焼て炭とし、財用の助にすと風聞セり、翌年三月六日の夜、庫裏より自火を出して、住持も焼死すと云、
 *水戸羅漢寺の本堂、高サ十丈八尺、願元ハ九丈八尺之趣ヲ以テ坂戸町付ニ於テ場所被下候処、右ノ高サニてハ御城内見越ニ付、低地ニて見替之地願出候様ニとの事にて、再願指出当時の地相済、明和年中普請成就、入仏之節遠近之老若男女群集ス、
  *(頭書)普請予切組調ひ建前ニ指懸り小屋場ヨリ炎上、右ニ付
     諸材木再び勧化し、又如元遠近山持の者共より寄進す、遠近
     村々より羅漢寺迄ハ不頼に出て運送ス、曳人思ひ思ひ異形の
     支度をなし、木遣りおんどをとりて送る、天保十三年ニ取壊
     トなる、


  (注) 1. 『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の参考書
柳宗悦『木喰上人の研究』(「木喰上人之研究」特別号、柳宗悦編。木喰五行研究会・大正14年4月25日発行)
『木喰上人和歌選集』柳宗悦編(木喰五行研究会・大正15年1月25日発行)
   
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