資料570 『塵劫記』の「継子立て」




       継子立て
              『塵劫記』『新編塵劫記』より
 
        
    まゝ子だての事

 子三十人有内、十五人は先腹(せんはら)、残る十五人は当腹(たうはら)の子也。右のごとく立ならべて十にあたるをのけて、又二十にあたるをのけ、二十九人までのけて、残る一人にあとをゆづり可ㇾ申と云時、まゝ母かくのごとく立(たて)たる也。さて、かぞへ候へば、先腹の子十四人までのき申候時、今一たびかぞへれば先腹の子みなのき申候ゆへに、一人残たるまゝ子のいふやうは、あまり片一双(さう)にのき申候間、いまよりはわれよりかぞへられ候へといへば、ぜひにをよばずして、一人残りたる先腹の子よりかぞへ候へば、当腹の子皆のき、先腹の子一人のこりてあとをとるとなり。

                 
       (『塵劫記』寛永20年版。『岩波文庫』による。)

* 岩波文庫の「右のごとく立ならべて……」の注に、
  「図で白衣は先腹(先妻の子)、黒衣は当腹の子。時計回りにかぞえる。
  この並べ方につき鎌倉末期の『二中歴』には、
   後子立 二一三五二二四一一三一二二一
   一説云 一一三二一三二二三二
  とある。一説は、継子10名、実子10名の場合である。
  室町初期の『簾中抄』に「まま子立ての頌」として、これと同じ数字が見える。

とあります。(同書、190頁)



   まゝ子だてのくりやうの事

○子卅人有内十五人は先腹(せんはら)のこる十五人は當腹(たうはら)の子也かくのことくたてならへて十にあたるをのけ又廿にあたるをのけ廿九人まてのけて残る一人にあとをゆつり候はんといふ時にまゝ母かくのことく立たる也扨かぞへ候へは先腹の子十四人迠のき申候時に今一たびかぞふれは先腹の子皆のきしゆへ一人残りたるまゝ子の云やうはあまり片一双にのき申候間今度は我からかぞへ給へといへはぜひに及はすして一人残たる先腹の子よりかぞへ候へは當腹の子みなのきて先腹の子一人のこりてあと をとるなり

(『新編塵劫記』三巻 刊行年不詳。国立国会図書館デジタルコレクションによりました。
 ただし、翻字は引用者によるもので、正確でないおそれがあります。なお、挿絵は下記を参照してください。)


 → 国立国会図書館デジタルコレクション 『新編塵劫記』三巻
    「まゝ子だてのくりやうの事」コマ番号(47/60)



   まゝ子立の事

 ○子丗人有内.先腹の子十五人.當腹の子十五人.如ㇾ此ならべて.十に當ㇽをのけて.又廿ニ當ㇽをのけ.廿九人をのけて.殘ㇽ一人に.あとをゆづり候はんと云時に.まゝはゝ如ㇾ此立たる也.扨かぞへ候へば.先腹の子皆のき候故.一人残りたるまゝ子の云樣.あまりかた一双に.のき申候間.今よりは我から.かぞへ給へといへば.是非に及ばすして.一人殘りたる.先腹の子よりかぞへ候へは.當腹の子皆のき.殘ㇽ一人後ヲ取.

(『新編塵劫記』三巻、元禄2年版。国立国会図書館デジタルコレクションによりました。
 ただし、翻字は引用者によるもので、正確でないおそれがあります。なお、挿絵は下記を参照してください。)

 → 国立国会図書館デジタルコレクション 『新編塵劫記』三巻、元禄2年版
    「まゝ子だてのくりやうの事」コマ番号(62/83)
 


  (注) 1.  上記の『塵劫記』寛永20年版の「まゝ子だての事」は、岩波文庫『塵劫記』(吉田光由著・大矢真一校注、1977年10月17日第1刷発行・2015年7月24日第13刷発行)によりました。
 岩波文庫の凡例に、それまでの諸版の内容を集成し以後の流布本の祖本となったものだからという理由で、底本として寛永20年版を用いたこと、今のところ完全な内容の本が見当たらないことから、富士短期大学所蔵本・野口泰助氏所蔵本・下平和夫氏所蔵本・山崎與右衛門氏所蔵本を併せて原稿を作った、とあります。また、字体は通行の字体(新字体)を採用したこと、仮名づかいは原文のまま、ただし読みやすさを専一として適宜に濁点・半濁点を補い、句読点を施したこと、難読の箇所、誤読のおそれある箇所には新しく振仮名をつけたこと、数字表記の廿・卅は、二十・三十に直したこと、『塵劫記』は後になるほど誤刻が多いので、寛永4年版・寛永8年版と対照して明らかな誤刻は正し、特に必要なもの以外は別に注記はしなかったこと、などが記してあります。詳しくは、同書を参照してください。
 『新編塵劫記』三巻 (刊行年不詳)の「まゝ子だてのくりやうの事」と『新編塵劫記』三巻(元禄2年版)の「まゝ子立の事」は、国立国会図書館デジタルコレクションに収められている本によって記述しましたが、読み取りが正確でないおそれがありますのでご注意ください。 
       
   
    2.  継子立(ままこだて)=古くからあった、算術を応用した遊戯。黒白の石を15個ずつ、一 定の順に円形に配列し、その中の一つの黒石を起点として数え始めて、10番目の白石を除き、続けて、その次の石から同じ方向に数えて10番目の白石を除く。こうして次々に数えて除いてゆくと、最後に白石1個と黒石15個とが残る。そこで、この白石1個と黒石15個とについて、その白石から逆方向に、同じ方法で10番目の石を次々に取り除いてゆくと、最後に、白石1個だけが残る。黒石を実子(じっし)、白石を継子(ままこ)と見立てて「立て」即ち配置する遊びなので、「継子立」という。 (岩波文庫『新訂徒然草』 (西尾実・安良岡康作校注、1928年12月25日第1刷発行・1985年1月16日第70刷改版発行・1989年5月16日第80刷発行)の第137段「花は盛りに、月は隈なきをのみ……」の注。)
 引用者注:「逆方向に」の部分には、文庫本文には傍点がついています。しかし、なぜここに「逆方向に」とあるのでしょうか。今までと同じ方向でも、結果は同じになるはずだと思うのですが?
 なお、徒然草の「継子立て」は、どの石も結局は取られることを免れないのと同様に、人は誰も死を免れない、という意味で用いられています。
 
 〇継子立(ままこだて)=碁石でする遊びの一種。黒白の石それぞれ15個ずつ、合計30個を何らかの順序で円形に並べ、あらかじめ定められた場所にある石を起点として10番目にあたる石を取り除き、順次10番目の石を取っていって、最後に一つ残った石を勝とするもの。石の排列をくふうして、黒 が勝つように、また白が勝つように、さらに特定の石が勝つようにすることができる。白・黒を、それぞれ先妻の子・後妻の子に見立ててあるところからこの名がある。継子算。*徒然草─137「ままこだてといふものを双六の石にて作りて、立て並べたるほどは、取られん事いづれの石とも知らねども」 *黄表紙・文武二道万石通─下「百人にておっとりまきしは、ままこだてにことならず」  
 〇ままこだての算用(さんよう)に等し=(「徒然草─137」による)人間はすべて死からのがれられないことのたとえ。*譬喩尽─五「継子立(ママコダテ)の算用に等し 無常を示す也」  
(以上の2項は、『日本国語大辞典』〔縮刷版〕第9巻(昭和56年2月25日 縮刷版第1版第1刷発行)による。)
 〇継子立て(ままこだて)=碁石でする遊びの一種。黒白各15個の石を黒2・白1・ 黒3・白5・黒2・白2・黒4・白1黒1・白3・黒1・白2・黒2・白1の 順で円形に並べてその中の最初に置いた石を起点として、10番目に当たるものを取っていくと、白だけ取れて黒が残るという遊戯。「塵劫記(じんごうき)」で著名となった問題。継子算。徒然草「─といふものを双六(すぐろく)の石にて作りて」
 〇塵劫記(じんごうき)=江戸時代初期の算術書。吉田光由著。1627年(寛永4)成る。中国のそろばんによる算術を参考にし、数学遊戯も交えた平易な入 門書。明治末まで、同類の版本が多数刊行され、算術書の異名となった。(以上の2項は、『広辞苑』第7版による。)
         
   
    3.  国立国会図書館デジタルコレクションに、『新編塵劫記』3巻が入っています。
 国立国会図書館デジタルコレクション 
   → 『新編塵劫記』三巻              
 「継子立て」は、 47/60 に出ています。

 また、昭和10年にこの『新編塵劫記』を謄写した本(『新編塵劫記』上巻・中巻・ 下巻)が入っています。「本書は発行者所蔵の吉田光由編 新編塵劫記(版本)に 依り謄写す」と注記があります

 『新編塵劫記』上巻・中巻・下巻(昭和10年10月22日、澤村寛編輯・発行。 発行所:古典数学書院)
 → 『新編塵劫記』上巻
 → 『新編塵劫記』中巻
 → 『新編塵劫記』下巻
   
    4.  『江戸の数学』に、『新編塵劫記』3巻の紹介記事があります。
  『江戸の数学』 
   →  『新編塵劫記』3巻の紹介記事
   
    5.  『二中歴』第十三の「博棊歴」のところに、「後中立」として岩波文庫の注と同じ数字があげてあります。 
 ただ、『簾中抄』下の「略頌」のところに、「まゝこたての頌」として同じ数字があげてありますが、「又樣」としてあげてある数字は、岩波文庫の注の数字と違って、
  又樣  二々三 二一三 二々三二      
となっているようです。(初めの「二々」は、「一々」の誤りでしょうか。)
   
    6.  資料569に徒然草137段「花は盛りに、月は隈なきをのみ……」があります。
  → 資料569 徒然草第137段「花は盛りに、月は隈なきをのみ……」
   







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