資料558 贈正五位小野友五郎事蹟大正七年茨城県贈位者事蹟』より。濁点を加えた本文
 

       
        
    「贈正五位小野友五郎事蹟」の本文には濁点が施されていないので、濁点をつけた本文を次に示します。また、段落内は、普通は句点をつけるところも読点になっていますので、これも句点に直しておきます。
 なお、読点を少し補ったところがあります。
 
       
 


 

   贈正五位小野友五郎事蹟     

 小野友五郎は常陸笠間の藩主牧野越中守の家臣小守庫七の三男にして、文化十四年十月二十三日其の藩地に生る。資性頴悟、幼にして學を好み、常に巻册を懷にして出入之を放さず、苟も寸暇あれば則ち披見す。書中疑義の解すべからざるあれば潜心默考爲めに寢食を忘るゝに至る。故に家道微にして師に就き業を受くること能はざりしと雖も、獨學能く今古の史籍を渉獵し、十四五歳にして已に略皇漢の學に通ずるを得たり。十六歳の春始めて同藩の數學敎授甲斐駒藏の門に入り、十七歳の時故ありて同藩小野柳五郎の嗣子となり、先手組申付られ、宛行三兩二人扶持を給はる。是に於て晝は職務の爲めに鞅掌し、夜は甲斐の門に通ひて其の敎を受く。師外出を好みて往々家に在らず。而かも友五郎敎を受けずんば待ちて深更に至るも辭せず。邸宅相距る殆ど一里、風雨大雪の夕と雖も一日も缺くことなし。師其の篤志に感じて後遂に夜間外出することなきに至れり。又家貧にして講義を筆記するの白紙を購ふこと能はざるを以て、反古紙を裏返して之に充て、且其の睡眠時間の如きも毎に四時間を出でしことなかりしと云ふ。斯くて孜々汲々多年一日の如く、竟に同門の皆傳を得たり。當時の習俗數學を視て單に商賈營利の徒の修むべきものとし、士人は賤技として之を學ぶを恥ぢ偶講習する者あれば士人の分を知らずと做し、甚しきは相指笑して輕侮するに至る。友五郎此の間に在りて、別に見る所あり。確然所信を枉けず、儕輩の毀譽を顧みざりしは其の志既に尋常にあらざるを知るなり。
 天保十二年友五郎二十五歳の時江戸邸詰となり、米金方勤務申付られ、宛行三十俵高を給はる。友五郎劇職に在るも、數學研鑚の志倍深く、當時の數學大家長谷川善左衛門に就き、更に斯學の蘊奥を究め、終に其別傳を受るに至れり。當時量地の術甚だ疎にして且つ之に關する良書なし。友五郎之を憂へ、舊師甲斐駒藏と謀り、嘉永五年正月量地圖説二巻を著はして世に公にす。同十二月幕府の天文方足立左内に屬し、天文方手傳を命ぜられ、專ら測天交蝕の事に從ふ。
 嘉永六年米艦浦賀に來りて互市を要求するや、開鎖の説國防の策等議論紛々海内騒然たり。幕府即ち舊來の嚴禁を解きて大船造營の令を下すに至れり。然るに遠洋航海の術に至りては、二百年來鎖國の結果として固より之に通ずる者なく、又參考すべきの書とては只地囘り船子の心得書に止まりて物の用にたつべくもあらず。友五郎深く之を嘆じ、日夜焦慮勵精刻苦の末、渡海新編四巻を著し、幕府に献ず。時に安政元年十二月なり。是より先友五郎既に時勢に感ずる所あり。竊に蘭書を研究して新智識を得んことに努めたりと云ふ。此の著蓋し蘭書得る所多かりしならん。友五郎常に謂へらく、海外各國の輕侮を招き外人の陸梁を恣にするは主として我國防の完備ならざるに在り。方今の急務は泰西諸國の制に則り強力なる海軍を組織して沿海の防備を嚴にするより先なるはなしと。因て屢幕府に獻策し、又自ら奮て航海の術を究めんと欲す。偶幕府蘭人を聘し、長崎に海軍傳習所を設け、俊秀を選みて海軍操錬の傳習を受けしむるの擧あり。安政二年八月傳習生四十名を派遣す。友五郎勝麟太郎矢田堀景藏等と其の中に在り。其の他鹿兒島佐賀熊本萩等各藩よりも幕府に請ふて傳習生を出したり。時に幕臣諸藩士の中直接に敎授を蘭人より受け得難く不明の廉少からざるを以て、監督永井玄蕃頭の注意に依り、永井の旅館に夜間集會し、友五郎主として其の不明の廉を敎授せりと云ふ。斯くて講習二年にして航海術及洋算等の傳習を得て歸る。安政四年七月、江戸築地の軍艦操練所を開設せらる。友五郎其の敎授方に擧げられ、敎授の任に當る。是れ實に我邦航海術、蒸汽學、造船學、洋算等敎授の嚆矢たり。
 萬延元年正月條約交換の爲め使節渡米の事あるや、使節は米國より迎接の爲越せし軍艦に搭乘し、而して我國軍艦咸臨丸之を護衛す。主官(艦長)は木村摂津守(芥舟)次官(副艦長)は勝麟太郎(安房)にして、友五郎は航海測量擔當たり。是の月十九日浦賀拔錨、洋中颶風
に遭ひしも、幸に恙なく、旭日の國旗を飜して桑港に著したるは同年二月二十六日なり。之を我邦軍艦の海外に渡航したる始めと爲す。閏三月十九日同港拔錨歸途に就き、途中布哇ホノルヽに寄港し、五月五日無事浦賀に著す。同月二十八日友五郎は米國航海の節測量宜しきを得たる旨を以て將軍に目見え仰付られ、格別を以て物頭格五人扶持を加増せられ六月朔日復將軍に目見え仰付られ、更に時服二領銀八十枚を給はる。
 萬延元年十一月十一日軍艦製造の急務を論じ、小形蒸汽軍艦を製造せんことを請ふ。當時未だ邦人の手にて是等の工事を爲したることなく創業の際なれば容易に許容せられず。試に一小雛形を製作すべきことを命ぜらる。因て直に其の製造を擔當し工作に從事せり。艦體は容積八千分の一とし、大砲は三十斤の長筒一門を備へ、蒸汽機關は三十馬力、乘組員は一人の量目十六匁、大小帆綱具等一切の機具に至るまで比準を主とし、排水の要點を定め、工成るや、一箇の箱に水を湛へ、此内に整頓したる雛形を進水式の如く浮進せしむるに、船體位置靜定して前後の水入豫定の如く、總ての設計其の確實なることを證し、又洋中颶風に遭ふものゝ如く波浪を起して之に動搖を與ふるも、各部の結構學理に適合するが故に毫も故障なかりしかば、軍艦奉行を始め列席の面々に至るまで皆敬服して大に感賞したりと云ふ。尋で文久元年二月二十三日小形軍艦の製造を命ぜらる。因て之が設計を爲し、石川島に於て船體製造の工を起す。當時造船に要する諸器械甚だ不完全にして、未だ蒸汽機關を製すべき鍛冶具だになし。乃ち肥田濱五郎之を擔當し、長崎に於て製作することゝし、相約するに一切外國人に問はざることを以てせり。而して船體工作は春山辨藏、船具は安井畑藏、大砲は澤鍈太郎之を分擔し、船體要點排水等の計算は赤松大三郎(則良)之を助け、三年七月二日工竣りて進水式を擧ぐ。名づけて千代田艦と謂ふ。則ち本邦に於ける蒸汽軍艦製造の始めなり。本艦は維新の後海軍艦隊の部に列せり。
 文久元年五月六日江戸内海防禦の砲臺建築位置取調を命ぜられ、富津觀音崎等の要地を檢し、海深を測り、地盤を査し、明細に内海の全圖を製し、砲臺建築の位置を選定して復命す。
 文久元年七月十二日笠間藩より幕府に召出され、軍艦頭取を命ぜられ、小十人格、切米百俵、役料十五人扶持を給はる。(從來幕府の海軍其の他の事に從ひたるも其の士籍は笠間藩に在りしなり)同年小笠原島開拓の爲水野筑後守等巡視の擧あり。軍艦咸臨丸囘航に付き、友五郎其指揮を命ぜらる。十二月三日江戸を發し、翌年三月二十日同島の視察を終へて歸る。同群島の面積經緯度等今日用ふるものは當時測定したるものなりと云ふ。同三年五月五日兩當上席三百俵高、役料十五人扶持を給はる。同年十二月十二日會計役に轉じ、尋で軍制掛を命ぜらる。
 元治元年八月十日江戸海防論七巻を著し、江戸内海防備の一日も忽にすべからざる所以を論じ、攻守の利害砲臺及び造船所設置の要目を編述して幕府に獻ず。又別に造船所設置の件に關し幕府に建議すること數囘、幕府終に佛蘭西人に托して江戸内海に造船場建設の企あり。是の年十一月二日友五郎、小栗上野、山口駿河、栗本安藝と共に建設地所調査の命を受け、相模國金澤の沿海を實測す。地勢の造船場に適するもの二あり。一を無地名ヶ谷とし、一を横須賀とす。無地名ヶ谷は山根稍深くして一旦外寇の變あるも敵彈を蔽遮するの便ありと雖も、港内狹くして大艦の出入に便ならず。横須賀は山根淺しと雖も、港内廣くして此の不便なし。因て横須賀に設立すべきを主張し、尋で開鑿造營の工を起すに至れり。同工場今日の盛大を見るは實に此に基くものなり。
 慶應二年十一月十四日幕府より米國行を命ぜらる。此は幕府が甞て本邦駐在米國公使プーラインに託して軍艦數隻の購入を約し之が代價をも渡したるに、後公使更替してプーラインは歸國し、僅に一隻の軍艦(富士艦と名く)を囘漕したるのみにて、其の他を送らず。後任公使に之を促すも、プーライン一私人の資格にて扱ひたることなれば關知する所にあらずとて應ぜず。直接プーラインに照會するも、文書の往復其の要領を得ざるを以て、之が談判の爲渡米を命ぜられしなり。同三年正月二十三日隨行員若干を率ゐ横濱解纜、三月二十二日米國華盛頓に著し大統領に面謁し、更にプーラインに會し、談判の末遂に殘金を領收し、紐育に至りて鋼鐵艦一隻及連發小銃其他文學技藝の書籍等を購入し、同年六月二十六日歸朝す。(當時購入したる鋼鐵艦は隨行員乘組南米を囘航し横濱に著せし時は幕府已に大政を奉還して明治聖明の御世となりしが、該艦は海軍艦隊に編入せられて東艦と命名せられたり)
 慶應三年十月二十三日勘定奉行竝を命ぜらる。同年十二月二十三日同役交代として大阪に赴く。此時恰も維新變亂の際にて、四年(明治元年)正月伏見の戰には兵糧役を擔當して淀に出張し、大阪引揚げに當り幕臣及會桑藩士等の負傷者を乘船せしめ、諸般の役務を處理して、歸府すれば、登城差留を申渡され、二月十五日逼塞申渡さる。又四月八日死一等を宥せれ御預の格永揚屋入申付らる。蓋し伏見の役官兵に抗したるを以てなり。
 明治元年六月二十八日舊主德川家に引渡され謹愼す。三年正月兵部省御用掛西村勝藏來りて海軍に出仕すべき内命を傳ふるも、謹愼の身主家の許容なくんば應じ難きを以て辭し、後再び勸誘を受くるも辭すること前の如し。同年四月十九日謹愼を解かれ、民部省十二等出仕鐵道掛申付られ、五月九日准十等官禄を給はる。明治四年九月十二日工部省七等出仕に任ぜられ、東京横濱間の鐵道測量に從事し、東海道、中山道、信越、上越等の鐵道線路取調として、御雇英人を伴ひ、或は助手を指揮して實地を踏査し、奥羽鐵道、九州炭坑鐵道等の各線を測量し、專ら此の事業に從事す。
 明治九年中海軍省は其の前年同省所管大阪丸三菱會社名古屋丸と周防灘に於て衝突し大阪丸爲めに、沈沒したる件に關し、三菱會社を被告として損害賠償を法廷に訴へたり。友五郎以爲らく、我國航海の業未だ振はず、加ふるに英米船の我が航路を奪はんとするあり、此の際是等の訴訟に因りて邦人が乘船法の不熟を顯はし、英米船に競爭の機を與へ、以て我が航海の事業を頓挫せしむるが如きは、國家の爲め憂慮に堪へずと。乃ち海軍卿内務卿等に建議して利害の在る所を詳論し、遂に解訴を見るに至れり。
 明治九年十一月、本邦未だ完全なる天文臺なきを嘆じ、之が設立の必要を内務卿大久保利通に建議す。十年工部省出仕を辭し、曩に謹愼の時以來考究したる食鹽改良の事業に從ひ、民間に在て專ら公益に盡力す。二十三年には栗本鋤雲と共に普通敎育發達の爲め敎科書使用の漢字を制限するの急務を論じて芳川文部大臣に建議し、同二十四年には我邦用ふる所の暦法たる主に泰西人の連測に係る根數を基本として年暦を編成するものにして邦家の面目にあらず。因て我帝國の幅員を基礎とし、獨立の暦元を起こし根數を新立せざるべからざる所以を論じて、外國暦を待たず年暦を編成し、且測天の事業を擴張振作せんことを同大臣に建議し、二十五年には兒童が洋算の初めに記臆を勞するの不利を避けしめんと欲し、兒童洋算初歩四巻を著し、其の他漁民救助の方法を詳述して大日本水産會に提出し、魚類鹽藏業擴張案を農商務大臣に建議し或は帝國議會に請願し、外國に於て見る日蝕皆既測定の爲學士派遣の議を文部大臣に建議し、普通敎育の主腦たる小學正敎員の缺乏を憂へ、大日本師範學會を組織して補充の一助に努むる等、苟も公益を増進し邦家の進運に裨補すべき意見は朝野の間に唱導して止まず。而も名利を求めず、榮達を計らず頽齡の身を以てして東西に奔走し斡旋盡力唯及ばざらんことを是れ恐るゝの狀あり。
 友五郎が晩年最も心力を勞したるは製鹽改良事業に在り。該事業に關しては明治二年初めて下總國行德に試驗場を設置し、尋で之を上總國松ヶ島に移し、又蒸散屋を同國大堀村に建設し、十三年以來製鹽に從事せしが、屢天災に遭ひ、資産を蕩盡せしも屈撓することなく、竟に從來の砂取法の改良及天日製鹽法に於ける獨特の方法を發明し、孜々として之が普及を圖り、併せて魚類鹽藏業を擴張し、以て水産事業を振起せしめんことを主張し、其の効果漸次實現するに至れり。爲めに明治三十一年賞勳局より緑綬褒章を下賜せらる。其の表彰文左の如し。

 

                      東京府士族 小野友五郎
夙に本邦食鹽の粗製なるを慨し、之れが改善を計り、兩總海岸の地を卜して試驗場を開き、蒸散屋を設け、海水分離の方法を研究し、屢災厄に逢ふも屈撓せず、更に日炙法を考稽し、遂に降雨の害を除く所の一新法を發明するも製鹽者をして鹽田を變更せしむるの易からざるを覺り、姑らく製鹽者をして從來の砂取法を應用し、燃料を減少し、焚方を改良し、技手を各地に派遣して之を奬勵示授し、家産を蕩盡して顧みず、刻苦經營茲に貳十餘年、今や實效見れて方法廣まる。斯業に裨益を與ふる事不尠、洵に實業に精勵し衆民の模範たるべきものとす。仍て明治十四年十二月七日勅定の緑綬褒章を賜ひ其善行を表彰す。

 

明治三十一年八月二十九日播州大鹽村に於て天日製鹽實施中病に罹りて歸京、自宅に加療し、十月二十九日歿す。享年八十二。

 

  (注) 1.  これは、『大正七年茨城県贈位者事蹟』(茨城県、大正9年3月3日発行)所収の贈正五小野友五郎事蹟」の本文に、濁点を加えた本文です。   
 また、読点部分を、必要に応じて句点に改めてあります。

 
手を加えない本文、及びその他の注については、
 →  資料557 贈正五位小野友五郎事蹟
(『大正七年茨城県贈位者事蹟』より)
をご覧ください。 

   
           
     



   
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