資料557 贈正五位小野友五郎事蹟大正七年茨城県贈位者事蹟』より
 



 

   贈正五位小野友五郎事蹟     

 小野友五郎は常陸笠間の藩主牧野越中守の家臣小守庫七の三男にして、文化十四年十月二十三日其の藩地に生る、資性頴悟、幼にして學を好み、常に巻册を懷にして出入之を放さす、苟も寸暇あれは則ち披見す、書中疑義の解すへからさるあれは潜心默考爲めに寢食を忘るゝに至る、故に家道微にして師に就き業を受くること能はさりしと雖も、獨學能く今古の史籍を渉獵し、十四五歳にして已に略皇漢の學に通するを得たり、十六歳の春始めて同藩の數學敎授甲斐駒藏の門に入り、十七歳の時故ありて同藩小野柳五郎の嗣子となり、先手組申付られ、宛行三兩二人扶持を給はる、是に於て晝は職務の爲めに鞅掌し、夜は甲斐の門に通ひて其の敎を受く、師外出を好みて往々家に在らす、而かも友五郎敎を受けすんは待ちて深更に至るも辭せす、邸宅相距る殆と一里、風雨大雪の夕と雖も一日も缺くことなし、師其の篤志に感して後遂に夜間外出することなきに至れり、又家貧にして講義を筆記するの白紙を購ふこと能はさるを以て、反古紙を裏返して之に充て、且其の睡眠時間の如きも毎に四時間を出てしことなかりしと云ふ、斯くて孜々汲々多年一日の如く、竟に同門の皆傳を得たり、當時の習俗數學を視て單に商賈營利の徒の修むへきものとし、士人は賤技として之を學ふを恥ち偶講習する者あれは士人の分を知らすと做し、甚しきは相指笑して輕侮するに至る、友五郎此の間に在りて、別に見る所あり、確然所信を枉けす、儕輩の毀譽を顧みさりしは其の志既に尋常にあらさるを知るなり。
 天保十二年友五郎二十五歳の時江戸邸詰となり、米金方勤務申付られ、宛行三十俵高を給はる、友五郎劇職に在るも、數學研鑚の志倍深く、當時の數學大家長谷川善左衛門に就き、更に斯學の蘊奥を究め、終に其別傳を受るに至れり、當時量地の術甚た疎にして且つ之に關する良書なし、友五郎之を憂へ、舊師甲斐駒藏と謀り、嘉永五年正月量地圖説二巻を著はして世に公にす、同十二月幕府の天文方足立左内に屬し、天文方手傳を命せられ、專ら測天交蝕の事に從ふ。
 嘉永六年米艦浦賀に來りて互市を要求するや、開鎖の説國防の策等議論紛々海内騒然たり、幕府即ち舊來の嚴禁を解きて大船造營の令を下すに至れり、然るに遠洋航海の術に至りては、二百年來鎖國の結果として固より之に通する者なく、又參考すへきの書とては只地囘り船子の心得書に止まりて物の用にたつへくもあらす、友五郎深く之を嘆し、日夜焦慮勵精刻苦の末、渡海新編四巻を著し、幕府に献す、時に安政元年十二月なり、是より先友五郎既に時勢に感する所あり、竊に蘭書を研究して新智識を得んことに努めたりと云ふ、此の著蓋し蘭書得る所多かりしならん、友五郎常に謂へらく、海外各國の輕侮を招き外人の陸梁を恣にするは主として我國防の完備ならさるに在り、方今の急務は泰西諸國の制に則り強力なる海軍を組織して沿海の防備を嚴にするより先なるはなしと、因て屢幕府に獻策し、又自ら奮て航海の術を究めんと欲す、偶幕府蘭人を聘し、長崎に海軍傳習所を設け、俊秀を選みて海軍操錬の傳習を受けしむるの擧あり、安政二年八月傳習生四十名を派遣す、友五郎勝麟太郎矢田堀景藏等と其の中に在り、其の他鹿兒島佐賀熊本萩等各藩よりも幕府に請ふて傳習生を出したり、時に幕臣諸藩士の中直接に敎授を蘭人より受け得難く不明の廉少からさるを以て、監督永井玄蕃頭の注意に依り、永井の旅館に夜間集會し、友五郎主として其の不明の廉を敎授せりと云ふ、斯くて講習二年にして航海術及洋算等の傳習を得て歸る、安政四年七月、江戸築地の軍艦操練所を開設せらる、友五郎其の敎授方に擧けられ、敎授の任に當る、是れ實に我邦航海術、蒸汽學、造船學、洋算等敎授の嚆矢たり。
 萬延元年正月條約交換の爲め使節渡米の事あるや、使節は米國より迎接の爲越せし軍艦に搭乘し、而して我國軍艦咸臨丸之を護衛す、主官(艦長)は木村摂津守(芥舟)次官(副艦長)は勝麟太郎(安房)にして、友五郎は航海測量擔當たり、是の月十九日浦賀拔錨、洋中颶風
に遭ひしも、幸に恙なく、旭日の國旗を飜して桑港に著したるは同年二月二十六日なり、之を我邦軍艦の海外に渡航したる始めと爲す、閏三月十九日同港拔錨歸途に就き、途中布哇ホノルヽに寄港し、五月五日無事浦賀に著す、同月二十八日友五郎は米國航海の節測量宜しきを得たる旨を以て將軍に目見え仰付られ、格別を以て物頭格五人扶持を加増せられ六月朔日復將軍に目見え仰付られ、更に時服二領銀八十枚を給はる。
 萬延元年十一月十一日軍艦製造の急務を論し、小形蒸汽軍艦を製造せんことを請ふ、當時未た邦人の手にて是等の工事を爲したることなく創業の際なれは容易に許容せられす、試に一小雛形を製作すへきことを命せらる、因て直に其の製造を擔當し工作に從事せり、艦體は容積八千分の一とし、大砲は三十斤の長筒一門を備へ、蒸汽機關は三十馬力、乘組員は一人の量目十六匁、大小帆綱具等一切の機具に至るまて比準を主とし、排水の要點を定め、工成るや、一箇の箱に水を湛へ、此内に整頓したる雛形を進水式の如く浮進せしむるに、船體位置靜定して前後の水入豫定の如く、總ての設計其の確實なることを證し、又洋中颶風に遭ふものゝ如く波浪を起して之に動搖を與ふるも、各部の結構學理に適合するか故に毫も故障なかりしかは、軍艦奉行を始め列席の面々に至るまて皆敬服して大に感賞したりと云ふ、尋て文久元年二月二十三日小形軍艦の製造を命せらる、因て之か設計を爲し、石川島に於て船體製造の工を起す、當時造船に要する諸器械甚た不完全にして、未た蒸汽機關を製すへき鍛冶具たになし、乃ち肥田濱五郎之を擔當し、長崎に於て製作することゝし、相約するに一切外國人に問はさることを以てせり、而して船體工作は春山辨藏、船具は安井畑藏、大砲は澤鍈太郎之を分擔し、船體要點排水等の計算は赤松大三郎(則良)之を助け、三年七月二日工竣りて進水式を擧く、名つけて千代田艦と謂ふ、則ち本邦に於ける蒸汽軍艦製造の始めなり、本艦は維新の後海軍艦隊の部に列せり。
 文久元年五月六日江戸内海防禦の砲臺建築位置取調を命せられ、富津觀音崎等の要地を檢し、海深を測り、地盤を査し、明細に内海の全圖を製し、砲臺建築の位置を選定して復命す。
 文久元年七月十二日笠間藩より幕府に召出され、軍艦頭取を命せられ、小十人格、切米百俵、役料十五人扶持を給はる、(從來幕府の海軍其の他の事に從ひたるも其の士籍は笠間藩に在りしなり)同年小笠原島開拓の爲水野筑後守等巡視の擧あり、軍艦咸臨丸囘航に付き、友五郎其指揮を命せらる、十二月三日江戸を發し、翌年三月二十日同島の視察を終へて歸る、同群島の面積經緯度等今日用ふるものは當時測定したるものなりと云ふ、同三年五月五日兩當上席三百俵高、役料十五人扶持を給はる、同年十二月十二日會計役に轉し、尋て軍制掛を命せらる。
 元治元年八月十日江戸海防論七巻を著し、江戸内海防備の一日も忽にすへからさる所以を論し、攻守の利害砲臺及ひ造船所設置の要目を編述して幕府に獻す、又別に造船所設置の件に關し幕府に建議すること數囘、幕府終に佛蘭西人に托して江戸内海に造船場建設の企あり、是の年十一月二日友五郎、小栗上野、山口駿河、栗本安藝と共に建設地所調査の命を受け、相模國金澤の沿海を實測す、地勢の造船場に適するもの二あり、一を無地名ヶ谷とし、一を横須賀とす、無地名ヶ谷は山根稍深くして一旦外寇の變あるも敵彈を蔽遮するの便ありと雖も港内狹くして大艦の出入に便ならす、横須賀は山根淺しと雖も、港内廣くして此の不便なし、因て横須賀に設立すへきを主張し、尋て開鑿造營の工を起すに至れり、同工場今日の盛大を見るは實に此に基くものなり。
 慶應二年十一月十四日幕府より米國行を命せらる、此は幕府か甞て本邦駐在米國公使プーラインに託して軍艦數隻の購入を約し之か代價をも渡したるに、後公使更替してプーラインは歸國し、僅に一隻の軍艦(富士艦と名く)を囘漕したるのみにて、其の他を送らす、後任公使に之を促すも、プーライン一私人の資格にて扱ひたることなれは關知する所にあらすとて應せす、直接プーラインに照會するも、文書の往復其の要領を得さるを以て、之か談判の爲渡米を命せられしなり、同三年正月二十三日隨行員若干を率ゐ横濱解纜、三月二十二日米國華盛頓に著し大統領に面謁し、更にプーラインに會し、談判の末遂に殘金を領收し、紐育に至りて鋼鐵艦一隻及連發小銃其他文學技藝の書籍等を購入し、同年六月二十六日歸朝す、(當時購入したる鋼鐵艦は隨行員乘組南米を囘航し横濱に著せし時は幕府已に大政を奉還して明治聖明の御世となりしか該艦は海軍艦隊に編入せられて東艦と命名せられたり)
 慶應三年十月二十三日勘定奉行竝を命せらる、同年十二月二十三日同役交代として大阪に赴く、此時恰も維新變亂の際にて、四年(明治元年)正月伏見の戰には兵糧役を擔當して淀に出張し、大阪引揚けに當り幕臣及會桑藩士等の負傷者を乘船せしめ、諸般の役務を處理して、歸府すれは、登城差留を申渡され、二月十五日逼塞申渡さる、又四月八日死一等を宥せれ御預の格永揚屋入申付らる、蓋し伏見の役官兵に抗したるを以てなり。
 明治元年六月二十八日舊主德川家に引渡され謹愼す、三年正月兵部省御用掛西村勝藏來りて海軍に出仕すへき内命を傳ふるも、謹愼の身主家の許容なくんは應し難きを以て辭し、後再ひ勸誘を受くるも辭すること前の如し、同年四月十九日謹愼を解かれ、民部省十二等出仕鐵道掛申付られ、五月九日准十等官禄を給はる、明治四年九月十二日工部省七等出仕に任せられ、東京横濱間の鐵道測量に從事し、尋て東海道、中山道、信越、上越等の鐵道線路取調として、御雇英人を伴ひ、或は助手を指揮して實地を踏査し、奥羽鐵道、九州炭坑鐵道等の各線を測量し、專ら此の事業に從事す。
 明治九年中海軍省は其の前年同省所管大阪丸三菱會社名古屋丸と周防灘に於て衝突し大阪丸爲めに、沈沒したる件に關し、三菱會社を被告として損害賠償を法廷に訴へたり、友五郎以爲らく、我國航海の業未た振はす、加ふるに英米船の我か航路を奪はんとするあり、此の際是等の訴訟に因りて邦人か乘船法の不熟を顯はし、英米船に競爭の機を與へ、以て我か航海の事業を頓挫せしむるか如きは、國家の爲め憂慮に堪へすと、乃ち海軍卿内務卿等に建議して利害の在る所を詳論し、遂に解訴を見るに至れり。
 明治九年十一月、本邦未た完全なる天文臺なきを嘆し、之か設立の必要を内務卿大久保利通に建議す、十年工部省出仕を辭し、曩に謹愼の時以來考究したる食鹽改良の事業に從ひ、民間に在て專ら公益に盡力す、二十三年には栗本鋤雲と共に普通敎育發達の爲め敎科書使用の漢字を制限するの急務を論して芳川文部大臣に建議し、同二十四年には我邦用ふる所の暦法たる主に泰西人の連測に係る根數を基本として年暦を編成するものにして邦家の面目にあらす、因て我帝國の幅員を基礎とし、獨立の暦元を起こし根數を新立せさるへからさる所以を論して、外國暦を待たす年暦を編成し、且測天の事業を擴張振作せんことを同大臣に建議し、二十五年には兒童か洋算の初めに記臆を勞するの不利を避けしめんと欲し、兒童洋算初歩四巻を著し其の他漁民救助の方法を詳述して大日本水産會に提出し、魚類鹽藏業擴張案を農商務大臣に建議し或は帝國議會に請願し、外國に於て見る日蝕皆既測定の爲學士派遣の議を文部大臣に建議し、普通敎育の主腦たる小學正敎員の缺乏を憂へ、大日本師範學會を組織して補充の一助に努むる等、苟も公益を増進し邦家の進運に裨補すへき意見は朝野の間に唱導して止ます、而も名利を求めす、榮達を計らす頽齡の身を以てして東西に奔走し斡旋盡力唯及はさらんことを是れ恐るゝの狀あり。
 友五郎か晩年最も心力を勞したるは製鹽改良事業に在り、該事業に關しては明治二年初めて下總國行德に試驗場を設置し、尋て之を上總國松ヶ島に移し、又蒸散屋を同國大堀村に建設し、十三年以來製鹽に從事せしか、屢天災に遭ひ、資産を蕩盡せしも屈撓することなく、竟に從來の砂取法の改良及天日製鹽法に於ける獨特の方法を發明し、孜々として之か普及を圖り、併せて魚類鹽藏業を擴張し、以て水産事業を振起せしめんことを主張し、其の効果漸次實現するに至れり、爲めに明治三十一年賞勳局より緑綬褒章を下賜せらる、其の表彰文左の如し、

 

                      東京府士族 小野友五郎
夙に本邦食鹽の粗製なるを慨し、之れか改善を計り、兩總海岸の地を卜して試驗場を開き、蒸散屋を設け、海水分離の方法を研究し、屢災厄に逢ふも屈撓せす、更に日炙法を考稽し、遂に降雨の害を除く所の一新法を發明するも製鹽者をして鹽田を變更せしむるの易からさるを覺り、姑らく製鹽者をして從來の砂取法を應用し、燃料を減少し、焚方を改良し、技手を各地に派遣して之を奬勵示授し、家産を蕩盡して顧みす、刻苦經營茲に貳十餘年、今や實效見れて方法廣まる、斯業に裨益を與ふる事不尠、洵に實業に精勵し衆民の模範たるへきものとす、仍て明治十四年十二月七日勅定の緑綬褒章を賜ひ其善行を表彰す。

 

明治三十一年八月二十九日播州大鹽村に於て天日製鹽實施中病に罹りて歸京、自宅に加療し、十月二十九日歿す、享年八十二。


 

    (注)  1. 本文は、国立国会図書館デジタルコレクション所収の大正七年茨城県贈位
         者事
茨城県、大正9年3月30日発行)によりました。

           
国立国会図書館デジタルコレクション
      
        → 
大正七年茨城県贈位者事  
               → 
贈正五位小野友五郎事蹟」 (123~128/162)     
 
       2. 原本中の平仮名の「こ」を縦につぶした形の繰り返し符号(二の字点・)は、
         フリー百科事典『ウィキペディア』の「踊り字」の頁から利用させていただきまし
         たので、ここにお断りしておきます。
        3. 上記本文中の語句について。
         (1) 「
澤鍈太郎は、「澤鉠太郎」となっていたのを、澤太郎左衛門のことなの
           で、「鍈太郎」に改めてあります。
         (2)「死一等を宥せれ」とあるのは、「死一等を宥され」ではないかと思われま
           すが、そのままにしてあります。
         (3)終わり近くに「記臆」とありますが、『日本国語大辞典』に、「きおく=記憶・
           記臆」となっているので、「記臆」と書いた時期もあったとみてそのままにし
           てあります。
         (4)最後の表彰文に「明治十四年十二月七月」とあったのを、この七月は七
           日の誤植と見て、「七日」としてあります。
        4. 濁点をつけた本文: 「贈正五位小野友五郎事蹟」の本文には、濁点が施さ
           れていません。 濁点をつけた本文を資料558に用意しましたので、どうぞ
           ご利用ください。    

        → 
資料558 贈正五位小野友五郎事蹟大正七年茨城県贈位者事蹟』より。
                 
濁点を加えた本文
        5. 笠間市のホームページに、「笠間が生んだ科学技術者 小野友五郎」という
         ページがあり、小野友五郎(文化14年・1817~明治31年・1898)につい
         ての詳しい紹介があります。
 
            
笠間市ホームページ → 「笠間が生んだ科学技術者 小野友五郎」

          なお、下の 注7 にも、小野友五郎の経歴についての紹介がありますので、
         ご覧ください。

        6. 本文の注。
         
笠間藩……常陸茨城郡におかれた藩。鎌倉時代から戦国末期まで笠間氏の所領。1590年
            (天正18)同氏滅亡。以後、宇都宮・浅野・蒲生の諸氏がこの地を領有。1601年(慶長6)
            松平康重入封、3万石。以後、小笠原・永井・浅野・井上氏らに交替。1747年(延享4)
            牧野貞通入封、8万石。以後、廃藩置県に至る。(『角川日本史辞典』第二版による。)

         天文方……江戸幕府の職名。若年寄に属し、天文・暦術・測量・地誌・洋書の翻訳などに
             関することをつかさどった。(『広辞苑』第6版による。)
         渡海新編……嘉永5年(1852年)、江戸幕府天文方出仕となった友五郎は、勤務の傍ら
              江川英龍に砲術や軍学・オランダ語を学び、安政元年(1854年)、オランダの航
              海術書を翻訳して幕府に提出した。その『渡海新編』4巻のこと。 (フリー百科事典
               『ウィキペディア』による。引用者が「安政元年(1854年)」を補いました。)

          揚屋(あがりや)……江戸小伝馬町の牢屋の一部。御家人、大名や旗本の臣、僧侶・医師・山伏
               などの未決囚を入れた所。「─者」 
(『広辞苑』第6版による。) 「永揚屋入り(ながあ
                がりやいり)
」とは、終身刑をいう。

         7.  次に、『茨城県大百科事典』 (茨城新聞社、1981年10月8日発行)から、小野
          友五郎の項を引用させていただきます。
            小野友五郎(おのともごろう)=1817~1898 幕末・明治期の数学者・技術者。笠間
                 藩士小守庫七
(こもりくらしち)の五男として生まれ、笠間藩小野家の養子となる。
                 本名広胖
(こうはん) 、通称友五郎、東山(とうざん)と号す。若くして笠間藩甲斐
                 駒蔵
(かいこまぞう)の門に入り、和算・測量を学ぶ。江戸に出て長谷川弘(はせが
                 
わひろし)にも和算を学んだ。この間に甲斐とともに『量地図説』を出版。1855
                 年(安政2)、長崎海軍伝習所の開設と同時に派遣され、オランダ人より洋算・
                 航海術を学ぶ。江戸築地
(つきじ)の軍艦教授所教官となり、1860年(万延1)、
                 咸臨丸
(かんりんまる)アメリカ派遣のときには、航海測量士として乗船し、日本
                 人による初めての太平洋横断航海に成功した。帰国後、幕臣となり、小笠原
                
(おがさわら)諸島の測量、江戸湾砲台の建設、千代田型艦の建造、横須賀造
                 船所の設置建議など、幕府実務派官僚として活躍した。1867年(慶応3)、
                 幕府軍艦購入のため再び渡米し、帰国後、勘定奉行並となる。明治維新後、
                 工部省に出仕し、新橋─横浜間の鉄道測量をはじめ、鉄道建設事業に従事
                 する。1877年(明治10)、工部省辞任後は製塩改良事業に従事し、改良
                 事業実験中に82歳で病死した。著書に『算盤独稽古
(そろばんひとりげいこ)
                 『江都海防真論』『尋常小学児童洋算初歩』や、第1回渡米の際の『航海日
                 記』、第2回渡米の際の『小野友五郎日記』などがある。1898年(明治31)、
                 緑綬褒章
(りょくじゅほうしょう)を授与される。久野勝弥〉
         8. 参考書
           『笠間市史  上巻』 「小野友五郎の活躍」 (同書、731~745頁)
                             笠間市史編纂委員会・編集、1993年12月発行    
            藤井哲博著『咸臨丸航海長 小野友五郎の生涯 ─ 幕末明治のテクノクラート』
                                         (中公新書、1985年10月初版)
          『怒涛逆巻くも─幕末の数学者小野友五郎
』(上・下)
                                鳴海 風著、新人物往来社・2003年5月刊
          『江戸の天才数学者─世界を驚かせた和算家たち』新潮選書
                                      鳴海 風著、2012年7月1日発行
          『常陽藝文』第269号(2005年10月号)
             藝文風土記「咸臨丸筆頭測量方・小野友五郎 ─ 笠間出身の異才の足跡」
          9.  京都大学学術情報リポジトリ『KURENAI 紅』に、作家・鳴海 風氏の「幕末の
          数学者 小野友五郎─日本の近代化を促した幕臣と和算家─」(『静脩』2004年、
          Vol.41 №1 所収)があり、大変参考になります。
           京都大学学術情報リポジトリ『KURENAI 紅』
           →
「幕末の数学者 小野友五郎─日本の近代化を促した幕臣と和算家─」 
         
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フリー百科事典『ウィキペディア』に、小野友五郎の項があります。
          
フリー百科事典『ウィキペディア』 → 小野友五郎     
      
                




                                     
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