資料556 小野友五郎少時の苦学(『修養教訓偉人豪傑言行録』より)

  
   
     
    
 
       
小野友五郎少時の苦学  『修養教訓偉人豪傑言行録』より

 

小野友五郎は笠間藩(牧野家)なる卒(そつ)の子なり生れながらにして顔に大(だい)なる黑痣あり已(すで)に長ずるに及(およん)で其(その)父友五郎に謂(いつ)て云(いは)く汝が如き醜貌にては尋常の藝術に通ぜしほどのことにては中々人と交(まじは)ることは叶ふまじ何術なりと力攻(りよくこう)して必ず衆に超(こゆ)る所あれと友五郎感奮し願(ねがは)くば算學を修めんとて是(これ)より日夜研習し殆んど寝食を廢するに至るその師とし學ぶ所の人は友五郎が居(きよ)を距(さ)ること一里餘あれど風雨寒暑を厭はずして通學す或年の冬のことなりしが大雪(たいせつ)を犯して其(その)師の許(もと)に趣きしに途中風寒(ふうかん)の爲(た)めに肢体全く凍え僅(わづか)に師家(しか)の門外に至つて僵(たふ)れ已(すで)に死に垂(なんな)んばかりなるを師家の人に扶(たす)け起(おこ)されて甦息(そそく)することを得たり其(その)艱苦を甞(な)めしことかくの如し既にして其(その)學大(おほい)に進み世人その名を知るに至りて頓(やが)て幕府より徴(めさ)れて天文方の出役(しゆつやく)を命ぜらる折節(をりふし)外交のこと起りしに付(つき)友五郎渡海新編を艸(さう)して之(これ)を進む尋(つい)で海軍所(かいぐんしよ)の敎授となりし是(これ)友五郎が出身の端緒なり

 

  (注) 1.  上記の「小野友五郎少時の苦学」の本文は、国立国会図書館デジタルコレクション所収の『修養教訓偉人豪傑言行録』(南梁居士(服部喜太郎)編輯・発行、明治44年10月15日・求光閣書店発行)によりました。項目の通し番号は125となっています。
 
国立国会図書館デジタルコレクション
 → 『修養教訓偉人豪傑言行録』
68~69/175)
   
    2.  「小野友五郎少時の苦学」の本文は総ルビになっていますが、ここでは必要と思われるものにだけ読み仮名をつけました。    
    3.  笠間市のホームページに、「笠間が生んだ科学技術者 小野友五郎」というページがあり、小野友五郎(文化14年・1817~明治31年・1898)についての詳しい紹介があります。 
 
笠間市ホームページ
 →
「笠間が生んだ科学技術者 小野友五郎」

 なお、下の注5にも、小野友五郎の経歴についての紹介がありますので、ご覧ください。
   
    4.  本文の注。
 
〇笠間藩……常陸茨城郡におかれた藩。鎌倉時代から戦国末期まで笠間氏の所領。1590年(天正18)同氏滅亡。以後、宇都宮・浅野・蒲生の諸氏がこの地を領有。1601年(慶長6)松平康重入封、3万石。以後、小笠原・永井・浅野・井上氏らに交替。1747年(延享4)牧野貞通入封、8万石。以後、廃藩置県に至る。(『角川日本史辞典』第二版による。)
 〇卒……そつ。 ここは、下級武士という意味。明治初年の身分呼称の一つである卒(卒族)とは、時代が異なる。
 〇算学……算数の学。数学。

 〇甦息……そそく。息をふき返すこと。蘇生。
 〇天文方……江戸幕府の職名。若年寄に属し、天文・暦術・測量・地誌・洋書の翻訳などに関することをつかさどった。(以上、『広辞苑』第6版による。)
 〇渡海新編
……嘉永5年(1852年)、江戸幕府天文方出仕となった友五郎は、勤務の傍ら江川英龍に砲術や軍学・オランダ語を学び、安政元年(1854年)、オランダの航海術書を翻訳して幕府に提出した。その『渡海新編』4巻のこと。 (フリー百科事典『ウィキペディア』による。引用者が「安政元年(1854年)」を補いました。)
 
海軍所……江戸幕府の軍事教練所の一種。慶応2年(1866)7月、軍艦操練所を改組して設立され、西洋式蒸気船による航海術、軍艦操縦法などを教授した。(『精選版 日本国語大辞典』による。)
   
    5.  次に、『茨城県大百科事典』(1981年10月8日、茨城新聞社発行)から、小野友五郎の項を引用させていただきます。 
 小野友五郎(おのともごろう)=1817~1898 幕末・明治期の数学者・技術者。笠間藩士小守庫七
(こもりくらしち)の五男として生まれ、笠間藩小野家の養子となる。本名広胖(こうはん)、通称友五郎、東山(とうざん)と号す。若くして笠間藩甲斐駒蔵(かいこまぞう)の門に入り、和算・測量を学ぶ。江戸に出て長谷川弘(はせがわひろし)にも和算を学んだ。この間に甲斐とともに『量地図説』を出版。1855年(安政2)、長崎海軍伝習所の開設と同時に派遣され、オランダ人より洋算・航海術を学ぶ。江戸築地(つきじ)の軍艦教授所教官となり、1860年(万延1)、咸臨丸(かんりんまる)アメリカ派遣のときには、航海測量士として乗船し、日本人による初めての太平洋横断航海に成功した。帰国後、幕臣となり、小笠原(おがさわら)諸島の測量、江戸湾砲台の建設、千代田型艦の建造、横須賀造船所の設置建議など、幕府実務派官僚として活躍した。1867年(慶応3)、幕府軍艦購入のため再び渡米し、帰国後、勘定奉行並となる。明治維新後、工部省に出仕し、新橋─横浜間の鉄道測量をはじめ、鉄道建設事業に従事する。1877年(明治10)、工部省辞任後は製塩改良事業に従事し、改良事業実験中に82歳で病死した。著書に『算盤独稽古(そろばんひとりげいこ)『江都海防真論』『尋常小学児童洋算初歩』や、第1回渡米の際の『航海日記』、第2回渡米の際の『小野友五郎日記』などがある。1898年(明治31)、緑綬褒章(りょくじゅほうしょう)を授与される。 〈久野勝弥〉    
   
    6.  藤井哲博著『咸臨丸航海長 小野友五郎の生涯 ─ 幕末明治のテクノクラート』(中公新書、1985年10月初版)が出ています。    
    7.  京都大学学術情報リポジトリ『KURENAI 紅』に、作家・鳴海 風氏の「幕末の数学者 小野友五郎─日本の近代化を促した幕臣と和算家─」(『静脩』2004年、Vol.41 №1 所収)があり、大変参考になります。
 京都大学学術情報リポジトリ『KURENAI 紅』
 →
「幕末の数学者 小野友五郎─日本の近代化を促した幕臣と和算家─」    
      
   
    8.  『常陽藝文』第269号(2005年10月号)に、 藝文風土記「咸臨丸筆頭測量方・小野友五郎─笠間出身の異才の足跡」があります。    
    9.  フリー百科事典『ウイキペディア』に、小野友五郎の項があります。
 
フリー百科事典『ウィキペディア』
   → 小野友五郎
  
   
   
    10.  資料557に、『大正七年茨城県贈位者事蹟』に掲載されている小野友五郎の事蹟があります。
 → 
資料557「贈正五位小野友五郎事蹟」(『大正七年茨城県贈位者事蹟』より
   
   

    

          




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