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(注) |
1. |
歌詞の本文は、『潮さいの町 大潟区(有)くるまや』というホームページの、『小山作之助』・「作曲者名の不思議」というページに出ている『新撰 国民唱歌』第二集の「夏は来ぬ」の画像によりました。これがこの歌の初出だそうです。
『潮さいの町 大潟区(有)くるまや』
→ 『小山作之助』 → 「作曲者名の不思議」
残念ながら現在は見られないようです。(2017.10.31)
原文の振り仮名は、括弧( )に入れて示してあります。
作者名は、当時は「佐々木信綱」でした。また、小山作之助は、「本元子」という名前になっています。
この歌は、後に『新編教育唱歌集 第五篇』(明治29年5月)に収められました。 |
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2. |
この歌の初出について
この歌の初出については、『Moto Saitoh's Home Page』
というホームページの『明治の唱歌』の中の『新撰 国民唱歌』に詳しい説明が出ています。
それによりますと、「夏は来ぬ」の初出は、三木楽器店の発行になる『新撰 国民唱歌』第二集(大阪 三木楽器店、明治33年(1900)6月14日発行)で、その後、『新編教育唱歌集』8冊本の第五篇(明治29年5月)に収められました。昭和17年(1942)6月に、「国民合唱」というラジオ番組で「夏は来ぬ」が放送されましたが、その時、二番の「賤の女」が「早乙女」に改められたそうです。また、変更された時期は不明ですが、五番の初句「夏はきぬ」が「さつきやみ」に、「卯木花さき」が「卯の花さきて」に改められたということです。
詳しくは、『Moto Saitoh's Home Page』というホームページの『明治の唱歌』の『新撰 国民唱歌』のページを参照してください。
『Moto Saitoh's Home Page』
→ 『明治の唱歌』
→ 『新撰 国民唱歌』
なお、楽譜『国民合唱 第二輯』(日本放送出版協会、昭和17年11月発行)に、「夏は来ぬ」が収められているようです。 |
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3. |
講談社文庫『日本の唱歌〔上〕』明治篇で、編者の金田一春彦氏は、「明治・大正のころの人で恐らく歌わなかった人は誰もいないだろうと思われる著名な唱歌。歌詞は日本の初夏の田園風物を描いて遺憾がなく、さすがに歌人佐佐木信綱の作である。曲もほとんど完全なヨナヌキ長音階でありながら、きめが細かく、単調さを感じさせず、美しい出来である。第二節の「賤の女」はのちに「早乙女」と改められた(後略)」 と書いておられます。 |
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4. |
佐佐木信綱(ささき・のぶつな)=歌人・国文学者。三重県生れ。東大卒。父弘綱の主宰した竹柏会を継ぎ、機関誌「心の花」を創刊。歌風は温和で平明。万葉集の研究でも知られる。歌集「思草」、著「日本歌学史」など。文化勲章。(1872-1963)(『広辞苑』第6版による。)
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5. |
フリー百科事典『ウィキペディア』に、「佐佐木信綱」「夏は来ぬ」の項があります。
フリー百科事典『ウィキペディア』
→「佐佐木信綱」
→「夏は来ぬ」
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6. |
YouTubeに、NHK東京放送児童合唱団による合唱「夏は来ぬ」があります。
→
YouTube「夏は来ぬ」(合唱:NHK東京放送児童合唱団) |
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7. |
「夏は来ぬ」の楽譜の石碑と作曲者小山作之助の胸像が、小山の母校の後身にあたる新潟県上越市立大潟町中学校の校庭にあるそうです。
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「内山米六「おもい草子」」というブログに、小山作之助の胸像と「夏は来ぬ」の楽譜の石碑の写真が出ていますのでご紹介します。
内山米六「おもい草子」
→ 小山作之助の胸像と「夏は来ぬ」の楽譜の石碑の写真
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