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(注) |
1. |
詩の本文は、『日本近代文学大系23 石川啄木集』(解説:岩城之徳、注釈:今井泰子。角川書店・昭和44年12月10日初版発行、平成元年11月10日6版発行)によりました。詩集『呼子と口笛』所収の詩(8編の詩のうち最初に掲載されている詩)です。 |
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2. |
詩中の「五十年前の露西亜の青年」については、今井氏の注に、「都会の特権的生活を捨て革命運動醸成のため農村や工業地帯にはいっていった1870年代のロシアの青年たち。ナロードニキと呼ばれる」とあります。‘
V
NARÓD! ’は、ナロードニキのスローガン、「人民の中へ」「民衆の中へ」。 |
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3. |
詩中の語「拳」「卓」「飲料」には、注釈者によって「こぶし」「たく」「のみもの」のルビがつけてあります。 |
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4. |
この詩は、死の前年、明治44年(1911年)6月15日、啄木25歳の時の作です。巻末の今井泰子編の年譜によれば、「(六月)十五日から十七日にかけて、九編の詩「はてしなき議論の後」を制作。うち三編を除き翌月の「創作」に送る。さらに二五日「家」、二七日「飛行機」の詩を追加制作し、これらをノート「呼子と口笛」に整理する。」とあります。
詩集『呼子と口笛』は、啄木が翌明治45年(1912年)4月13日、26歳の若さで死んだため出版されず、翌年、東雲堂書店・大正2年(1913年)5月25日発行の『啄木遺稿』に収められました。
計画された詩集『呼子と口笛』の8編の詩の題名は、次の通りです。
「はてしなき議論の後」「ココアのひと匙」「激論」「書斎の午後」「墓碑銘」「古びたる鞄をあけて」「家」「飛行機」 |
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5. |
『群像
日本の作家7 石川啄木』(高井有一・外著、小学館・1991年9月10日初版 第1刷発行)に、『呼子と口笛』の詩稿ノート(明治44年6月下旬に作成・日本近代文学館蔵)の画像が出ています。(扉の「石川啄木アルバム」に自筆扉絵と口絵がカラーで、本文74~89頁にモノクロ写真で詩の本文が。) |
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6. |
『日本近代文学大系23 石川啄木集』の注釈(頭注及び補注)から、『呼子と口笛』の8編の詩の鑑賞の参考のために一部を引用させていただきます。
啄木が(8編の詩の初めの)六編中で歌っている革命への憧憬は、「家」「飛行機」の夢想と同質のもの、彼の暗い絶望的な現実の中での夢であったということを理解する必要がある。また、彼が革命を志向する時その背後には啄木自身の現実における敗北感・疲労感・飢渇感・自己憐愍の情があったということを理解する必要がある。あるいは、それらがあったからこそ、革命を願い、「家」を夢想し、「飛行機」を仰ぎみたのだといってよいかもしれない。(同書、551頁)
なお、詳しくは同書を参照してください。 |
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7. |
〇石川啄木(いしかわ・たくぼく)=歌人。名は一(はじめ)。岩手県生れ。与謝野寛夫妻に師事。社会思想にめざめ、和歌の革新を志し、口語をまじえた三行書きで生活感情をゆたかに盛る。歌集「一握の砂」「悲しき玩具」のほか詩・小説・評論など。(1886~1912)(『広辞苑』第6版による)
〇石川啄木(いしかわ・たくぼく)=(1886-1912) 歌人・詩人。岩手県生まれ。本名、一(はじめ)。与謝野鉄幹の知遇を得て明星派の詩人として出発。貧困と孤独にさいなまれながら明治末の「時代閉塞」に鋭く感応し、社会主義的傾向へ進むが、肺結核で夭折(ようせつ)。歌集「一握の砂」「悲しき玩具」、詩集「呼子と口笛」、評論「時代閉塞の現状」など。(『大辞林』第2版による) |
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8. |
岩手県盛岡市渋民に『石川啄木記念館』があります。 |
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9. |
『国際啄木学会』のホームページがあります。 |
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10. |
中央大学文学部教授・渡部芳紀先生の『渡部芳紀研究室』というホームページに『石川啄木を歩く(石川啄木文学散歩)とエッセイ』というページがあります。 現在は見られないようです。(2023年10月7日) |
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11. |
『ぶらり重兵衛の歴史探訪』というホームページの中に、「石川啄木」が取り上げてあります。 |
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12. |
資料141に、石川啄木の詩『飛行機』があります。
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