資料416  王維「送秘書晁監還日本国竝序」(『王右丞集箋注』による)



       送祕書晁監還日本國  幷序
                        王 維
              
舜覲羣后有苗不服禹會諸侯防風後至動干戚之舞興斧鉞之誅乃貢九牧之金始頒五瑞之玉我開元天地大寶聖文神武應道皇帝大道之行先天布化乾元廣運涵育無垠苦垂爲東道之標戴勝爲西門之候豈甘心于卭杖非徴貢于苞茅亦由呼韓來朝舍于蒲陶之館卑彌遣使報以蛟龍之錦犧牲玉帛以將厚意服食器用不寶遠物百神受職五老告期況乎戴髮含齒得不稽顙屈膝海東國日本爲大服聖人之訓育君子之風正朔本乎夏時衣裳同乎漢制歴歳方達繼舊好于行人滔天無涯貢方物于天子同儀加等位在王侯之先掌次改觀不居蠻夷之邸我無爾詐爾無我虞彼以好來廢關弛禁上敷文敎虚至實歸故人民雜居往來如市晁司馬結髮遊聖負笈辭親問禮于老聃學詩于子夏魯借車馬孔丘遂適于宗周鄭獻縞衣季札始通于上國名成太學官至客卿必齊之姜不歸娶于高國在楚猶晉亦何獨于由余遊宦三年願以君羹遺母不居一國欲其晝錦還郷莊舄既顯而思歸關羽報恩而終去于是馳首北闕裹足東轅篋命賜之衣懷敬問之詔金簡玉字傳道經于絶域之人方鼎彝樽致分器于異姓之國琅邪臺上廻望龍門碣石館前夐然鳥逝鯨魚噴浪則萬里倒廻鷁首乘雲則八風却走扶桑若薺鬱島如萍沃白日而簸三山浮蒼天而呑九域黄雀之風動地黑蜃之氣成雲淼不知其所之何相思之可寄嘻去帝郷之故舊謁本朝之君臣詠七子之詩佩兩國之印恢我王度諭彼蕃臣三寸猶在樂毅辭燕而未老十年在外信陵歸魏而逾尊子其行乎余贈言者

  積水不可極 
  安知滄海東
  九州何處遠 
  萬里若乘空
  向國惟看日 
  歸帆但信風
  鰲身映天黑 
  魚眼射波紅
  郷樹扶桑外 
  主人孤島中
  別離方異域 
  音信若爲通


  ※  苦垂爲東道之標……「苦垂」は或本に「若華」に作る。
   于是馳首北闕………「馳首」は一本に「稽首」に作る。

  ※『全唐詩』によれば、
   九州何處遠……「遠」一作「所」。
   歸帆但信風……「帆」一作「途」。
   魚眼射波紅……「魚」一作「蜃」。


(句点つきの本文)

      送祕書晁監還日本國  幷序    王 維

舜覲羣后。有苗不服。禹會諸侯。防風後至。動干戚之舞。興斧鉞之誅。乃貢九牧之金。始頒五瑞之玉。我開元天地大寶聖文神武應道皇帝。大道之行。先天布化。乾元廣運。涵育無垠。苦垂爲東道之標。戴勝爲西門之候。豈甘心于卭杖。非徴貢于苞茅。亦由呼韓來朝。舍于蒲陶之館。卑彌遣使。報以蛟龍之錦。犧牲玉帛。以將厚意。服食器用。不寶遠物。百神受職。五老告期。況乎戴髮含齒。得不稽顙屈膝。海東國。日本爲大。服聖人之訓。育君子之風。正朔本乎夏時。衣裳同乎漢制。歴歳方達。繼舊好于行人。滔天無涯。貢方物于天子。同儀加等。位在王侯之先。掌次改觀。不居蠻夷之邸。我無爾詐。爾無我虞。彼以好來。廢關弛禁。上敷文敎。虚至實歸。故人民雜居。往來如市。晁司馬結髮遊聖。負笈辭親。問禮于老聃。學詩于子夏。魯借車馬。孔丘遂適于宗周。鄭獻縞衣。季札始通于上國。名成太學。官至客卿。必齊之姜。不歸娶于高國。在楚猶晉。亦何獨于由余。遊宦三年。願以君羹遺母。不居一國。欲其晝錦還郷。莊舄既顯而思歸。關羽報恩而終去。于是馳首北闕。裹足東轅。篋命賜之衣。懷敬問之詔。金簡玉字。傳道經于絶域之人。方鼎彝樽。致分器于異姓之國。琅邪臺上。廻望龍門。碣石館前。夐然鳥逝。鯨魚噴浪。則萬里倒廻。鷁首乘雲。則八風却走。扶桑若薺。鬱島如萍。沃白日而簸三山。浮蒼天而呑九域。黄雀之風動地。黑蜃之氣成雲。淼不知其所之。何相思之可寄。嘻去帝郷之故舊。謁本朝之君臣。詠七子之詩。佩兩國之印。恢我王度。諭彼蕃臣。三寸猶在。樂毅辭燕而未老。十年在外。信陵歸魏而逾尊。子其行乎。余贈言者。

  積水不可極 
  安知滄海東
  九州何處遠 
  萬里若乘空
  向國惟看日 
  歸帆但信風
  鰲身映天黑 
  魚眼射波紅
  郷樹扶桑外 
  主人孤島中
  別離方異域 
  音信若爲通
     


  (注) 1.   上記の資料416 王維「送秘書晁監還日本国 幷序」(『王右丞集箋注』による)の本文は、中国詩人選集6『王維』(都留春雄注、岩波書店・昭和33年6月20日第1刷発行、昭和46年6月10日第11刷発行)によりました。          
    2.   本文の底本は、清の越殿成注『王右丞集箋注』二十八巻・巻首巻末各一巻(越殿成本)だと、中国詩人選集の解説にあります。
 序は注がないと読めない感じですが、中国詩人選集には、語句の注はありませんが、書き下し文が載っています。
 詩については、中国詩人選集に詳しい注がついていますのでご参照ください(同書、136~7頁)。
   
    3.  中国詩人選集の本文には句点がついているのですが、ここには初めに句点を省略した本文を示し、次に句点をつけた本文を掲載しました。    
    4.   「秘書晁監」とは、秘書省の秘書監である阿倍仲麻呂の意。秘書省は宮中の図書を掌る役所。秘書監はその長官。「晁」とは阿倍仲麻呂。彼は入唐して姓名を中国式に朝衡(ちょうこう)と改めた。晁は朝の古字である。(この項は、中国詩人選集の注によりました。)
 この詩(幷序)は、仲麻呂が日本に帰るとき百官が送別の宴を設けたときの作だそうです。      
   
    5.   『唐詩選』には、「送秘書晁監還日本」という題で、詩の本文だけが掲載されているようです(序の部分はない)。    
    6.  〇王維(おうい)=盛唐の詩人・画家。字は摩詰(まきつ)。山西太原の人。年少より多芸をもって知られ、官は尚書右丞に至る。詩は勇壮豪快な作もある一方、静謐な自然を詠じ、孟浩然と共に王孟と並称される。また、晩年は禅宗に帰依し詩仏と称された。書は草隸二体をよくし、画は南宗(なんしゅう)の祖。著「王右丞集」。(701頃~761)
 〇阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)=(「安倍」とも)奈良時代の貴族。716年(霊亀2)遣唐留学生に選ばれ、翌年留学。唐名、朝衡・晁衡。博学宏才、玄宗皇帝に寵遇され、また海難に帰国をはばまれて在唐50余年、その間節度使として安南に赴き、治績をあげた。唐の長安で没。「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」の歌は有名。(698-770)(以上、『広辞苑』第6版による。)

 ※ 日本古典文学大系20『土左日記 かげろふ日記 和泉式部日記 更級日記』(鈴木知太郎・川口久雄・遠藤嘉基・西下經一 校注、岩波書店・昭和32年12月5日第1刷発行、昭和38年8月20日第6刷発行)の補注に、安倍仲麻呂は養老元年、年17で遣唐留学生として唐に渡り、名を朝衡と改め、数年唐朝の玄宗に仕えた。天平勝宝年間、遣唐大使藤原清河に従い帰朝しようとしたが、風波のために果たさず、再び唐に戻った。後、蕭宗に仕え、宝亀元年彼の地に卒した。年73という。詩人として令名があり、王維、包佶、李白等と親交があった。(以下、略)(同書、69~70頁。『土左日記』の補注53)とあります。

 引用者の注: 仲麻呂が遣唐留学生として唐に渡ったときの年齢については、16~19歳等、いろいろ書かれているようです。生年がはっきりしない関係があるのでしょうか。
   
    7.   中国詩人選集から、詩の部分の書き下し文を引用させていただきます。

積水不可極 積水(せきすい) 極(きは)む可(べ)かからず
安知滄海東 安(いづ)くんぞ滄海(さうかい)の東を知らむ
九州何處遠 九州 何(いづ)れの処か遠き
萬里若乘空 万里(ばんり) (くう)に乗ずるが若(ごと)
向國惟看日 国に向かつて惟(た)だ日を看(み)
歸帆但信風 帰帆(きはん) 但(た)だ風に信(まか)
鰲身映天黑 鰲身(がうしん) 天に映じて黒く
魚眼射波紅 魚眼(ぎよがん) 波を射て紅(くれなゐ)なり
郷樹扶桑外 郷樹(きやうじゆ)は扶桑(ふさう)の外(そと)
主人孤島中 主人は孤島の中(うち)
別離方異域 別離 方(まさ)に異域(いゐき) 
音信若爲通 音信(いんしん) 若為(いかん)ぞ通ぜむ
                
   
    8.   資料415に、「安倍仲麻呂の和歌「あまの原ふりさけみれば……」(『古今和歌集』巻第九より)」があります。    
    9.  フリー百科事典『ウィキペディア』に、「王維」「阿倍仲麻呂」の項があります。    
    10.  『詩詞世界 碇豊長の詩詞』というサイトにも、王維の「送秘書晁監還日本國」の解説が出ています。    







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