(注) | 1. | 上記の資料416 王維「送秘書晁監還日本国 幷序」(『王右丞集箋注』による)の本文は、中国詩人選集6『王維』(都留春雄注、岩波書店・昭和33年6月20日第1刷発行、昭和46年6月10日第11刷発行)によりました。 | |||
2. | 本文の底本は、清の越殿成注『王右丞集箋注』二十八巻・巻首巻末各一巻(越殿成本)だと、中国詩人選集の解説にあります。 序は注がないと読めない感じですが、中国詩人選集には、語句の注はありませんが、書き下し文が載っています。 詩については、中国詩人選集に詳しい注がついていますのでご参照ください(同書、136~7頁)。 |
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3. | 中国詩人選集の本文には句点がついているのですが、ここには初めに句点を省略した本文を示し、次に句点をつけた本文を掲載しました。 | ||||
4. | 「秘書晁監」とは、秘書省の秘書監である阿倍仲麻呂の意。秘書省は宮中の図書を掌る役所。秘書監はその長官。「晁」とは阿倍仲麻呂。彼は入唐して姓名を中国式に朝衡(ちょうこう)と改めた。晁は朝の古字である。(この項は、中国詩人選集の注によりました。) この詩(幷序)は、仲麻呂が日本に帰るとき百官が送別の宴を設けたときの作だそうです。 |
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5. | 『唐詩選』には、「送秘書晁監還日本」という題で、詩の本文だけが掲載されているようです(序の部分はない)。 | ||||
6. |
〇王維(おうい)=盛唐の詩人・画家。字は摩詰(まきつ)。山西太原の人。年少より多芸をもって知られ、官は尚書右丞に至る。詩は勇壮豪快な作もある一方、静謐な自然を詠じ、孟浩然と共に王孟と並称される。また、晩年は禅宗に帰依し詩仏と称された。書は草隸二体をよくし、画は南宗(なんしゅう)の祖。著「王右丞集」。(701頃~761) 〇阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)=(「安倍」とも)奈良時代の貴族。716年(霊亀2)遣唐留学生に選ばれ、翌年留学。唐名、朝衡・晁衡。博学宏才、玄宗皇帝に寵遇され、また海難に帰国をはばまれて在唐50余年、その間節度使として安南に赴き、治績をあげた。唐の長安で没。「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」の歌は有名。(698-770)(以上、『広辞苑』第6版による。) ※ 日本古典文学大系20『土左日記 かげろふ日記 和泉式部日記 更級日記』(鈴木知太郎・川口久雄・遠藤嘉基・西下經一 校注、岩波書店・昭和32年12月5日第1刷発行、昭和38年8月20日第6刷発行)の補注に、安倍仲麻呂は養老元年、年17で遣唐留学生として唐に渡り、名を朝衡と改め、数年唐朝の玄宗に仕えた。天平勝宝年間、遣唐大使藤原清河に従い帰朝しようとしたが、風波のために果たさず、再び唐に戻った。後、蕭宗に仕え、宝亀元年彼の地に卒した。年73という。詩人として令名があり、王維、包佶、李白等と親交があった。(以下、略)(同書、69~70頁。『土左日記』の補注53)とあります。 引用者の注: 仲麻呂が遣唐留学生として唐に渡ったときの年齢については、16~19歳等、いろいろ書かれているようです。生年がはっきりしない関係があるのでしょうか。 |
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7. |
中国詩人選集から、詩の部分の書き下し文を引用させていただきます。 積水不可極 積水(せきすい) 極(きは)む可(べ)かからず 安知滄海東 安(いづ)くんぞ滄海(さうかい)の東を知らむ 九州何處遠 九州 何(いづ)れの処か遠き 萬里若乘空 万里(ばんり) 空(くう)に乗ずるが若(ごと)し 向國惟看日 国に向かつて惟(た)だ日を看(み) 歸帆但信風 帰帆(きはん) 但(た)だ風に信(まか)す 鰲身映天黑 鰲身(がうしん) 天に映じて黒く 魚眼射波紅 魚眼(ぎよがん) 波を射て紅(くれなゐ)なり 郷樹扶桑外 郷樹(きやうじゆ)は扶桑(ふさう)の外(そと) 主人孤島中 主人は孤島の中(うち) 別離方異域 別離 方(まさ)に異域(いゐき) 音信若爲通 音信(いんしん) 若為(いかん)ぞ通ぜむ |
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8. | 資料415に、「安倍仲麻呂の和歌「あまの原ふりさけみれば……」(『古今和歌集』巻第九より)」があります。 | ||||
9. | フリー百科事典『ウィキペディア』に、「王維」、「阿倍仲麻呂」の項があります。 | ||||
10. | 『詩詞世界 碇豊長の詩詞』というサイトにも、王維の「送秘書晁監還日本國」の解説が出ています。 |