資料412 文憲先生加倉井君墓碑銘竝序(加倉井砂山墓碑銘竝序)
         


            
文憲先生加倉井君墓碑銘

                       

 

      文憲先生加倉井君墓碑銘序 

 

 

                    槐菴居士興野輗謹述 

 

 

安政二年七月十四日常陸茨城郡成澤村砂山加倉井先生以疾終年五十有一

 

 

嗚呼哀哉越十七日卜葬本村蓮性寺廢域先生幼而頴悟精敏好讀書及長才氣

 

 

超邁洽聞強識博渉經史其作文數千言立就未甞起稿至詩尤得妙温麗靖深縱

 

 

横飄逸唯意所適滔々々無所不到書法入神其作字不擇紙筆皆得如意楷隸

 

 

行草諸體莫不該綜自成一家法學無常師交游最廣其敎育子弟循々不倦從學

 

 

者頗多各從其性而授焉故皆能達其材先生兵學地理劍槍銃馬皆能極其精蘊

 

 

而最鋭意礮技平居夭々如也怡々如也人不見喜怒之色是以賓客滿堂杯盤狼

 

 

藉先生亦能劇飲猶乃温克而資稟淡泊毀譽一切不關係於懷也先生在臥床者

 

 

僅六日自知其不起召輗等數輩託後事於是四方弟子及親戚朋友相會百方加

 

 

治或禱于上下神祇請以身代之侍者悲哀之狀自發不能抑不覺流涕先生輒莞

 

 

爾而咲曰生老病死苦時至則往豈須嘆哉或詩或談未嘗見其懊惱之狀也七日

 

 

朝盥漱起拜祠堂乃賦絶筆詩其辭恬淡聊不以死生挾於懷器宇恢廓可見也及

 

 

其易簀也呼群弟子告戒末路丁寧親切皆當其疾聞者感佩敬服歔欷流涕莫能

 

 

仰視也其慈愛率此類其先出自南部族波木井氏王父諱久徴稱淡路安永七年

 

 

九月爲郷士自是世襲爵祿顯考諱久泰稱右馬允顯妣同族丈衛門之女兄諱久

 

 

繼稱與一郎無子先生爲嗣天保十年三月兼全隈村長十二年兼横目居職有功

 

 

十三年賜爵御徒列十四年辭兩職初 納言公巡視封内也 駕臨其塾先生即

 

 

上詩 公辱賜 芳和或暇日讌群臣先生亦與焉其榮可知也甞從 駕上江戸

 

 

也以間屢與諸名流交遊上下議論云配宇野氏生二男四女長久米之介夭次久

 

 

壯稱右馬允嗣家年僅十六長女秀號桃溪好讀書有文才次安道皆夭次千々號

 

 

香蘭幼善書嗜詩適海老澤村莊屋川崎守安先生所著有東下記事喪祭略禮三

 

 

樂樓文集砂山詩刪南遊紀行新刀便覧等若干巻先生諱雍字立卿稱淡路砂山

 

 

其號也門人相議曰博聞多能而不恥下問先生有焉因私諡曰文憲且戮力建碑

 

 

以謀不朽而報恩波萬一輗菲才謭劣不嫺文辭猶以先進之故有遺命因不辭謹

 

 

序其概略係以銘辭曰根據孔孟出入老莊維方維圓懿德載芳醉花嘯月以放其

 

 

情毀譽不關曷問利名居易樂天嗚呼先生      齋藤一德謹書

 



       * 書き下し文(暫定)が、注15にあります。
    




 


  次に、碑文の漢字をなるべく生かした本文を示しておきます。(字体が、碑文に用いられている漢字になっていないものが一部あります。)


     文憲先生加倉井君墓碑銘序 

 

 

                    槐葊居士興野輗謹述 

 

 

安政二年七月十四日常陸茨城郡成澤村砂山加倉井先生以疾終年五十有一

 

 

嗚呼哀哉越十七日卜葬本村蓮性寺廢域先生幼而頴悟精敏好讀書及長才氣

 

 

超邁洽聞強識博渉經史其作文數千言立就未甞起稿至詩尤得妙温麗靖深縱

 

 

横飄逸唯意所適滔々々無所不到書法入神其作字不擇紙筆皆得如意楷隸

 

 

行草諸體莫不該綜自成一家法學無常師交游最廣其教育子弟循々不倦従學

 

 

者頗多各従其性而授焉故皆能達其材先生兵學地理劍槍銃馬皆能極其精蘊

 

 

而最鋭意礮技平居夭々如也怡々如也人不見喜怒之色是以賓客満堂杯盤狼

 

 

藉先生亦能劇飲猶乃温克而資稟淡泊毀譽一切不關係於懐也先生在臥床者

 

 

僅六日自知其不起召輗等數輩託後事於是四方弟子及親戚朋友相會百方加

 

 

治或禱于上下神祇請以身代之侍者悲哀之状自發不能抑不覺流涕先生輙莞

 

 

尓而咲曰生老病死苦時至則往豈須嘆哉或詩或談未嘗見其懊悩之状也七日

 

 

朝盥漱起拜祠堂乃賦絶筆詩其辞恬淡聊不以死生挟於懐器宇恢廓可見也及

 

 

其易簀也呼群弟子告戒末路丁寧親切皆當其疾聞者感佩敬服歔欷流涕莫能

 

 

仰視也其慈愛率此類其先出自南部族波木井氏王父諱久徴称淡路安永七年

 

 

九月為郷士自是世襲爵禄顕考諱久泰称右馬允顕妣同族丈衛門之女兄諱久

 

 

継称與一郎無子先生為嗣天保十年三月兼全隈村長十二年兼横目居軄有功

 

 

十三年賜爵御徒列十四年辞両軄初 納言公巡視封内也 駕臨其塾先生即

 

 

上詩 公辱賜 芳和或暇日讌群臣先生亦與焉其栄可知也甞従 駕上江戸

 

 

也以間屢與諸名流交遊上下議論云配宇野氏生二男四女長久米之介夭次久

 

 

壮称右馬允嗣家年僅十六長女秀號桃溪好讀書有文才次安道皆夭次千々號

 

 

香蘭幼善書嗜詩適海老澤村荘屋川崎守安先生所著有東下記事喪祭略禮三

 

 

樂楼文集砂山詩刪南遊紀行新刀便覧等若干巻先生諱雍字立卿称淡路砂山

 

 

其號也門人相議曰博聞多能而不恥下問先生有焉因私謚曰文憲且戮力建碑

 

 

以謀不朽而報恩波萬一輗菲才謭劣不嫺文辞猶以先進之故有遺命因不辞謹

 

 

序其概畧係以銘辞曰根據孔孟出入老荘維方維圓懿德載芳醉花嘯月以放其

 

 

情毀誉不關曷問利名居易樂天嗚呼先生      齋藤一徳謹書

 



    (注) 1. この「文憲先生加倉井君墓碑銘竝序」の本文は、弓野國之助著『加倉井砂山』(大
         正11年4月18日発行、発行所:
國民敎育良書刊行会; 砂山研究會)、堀口眞一著
         『日に新なり
─加倉井砂山物語─』(崙書房・1997(平成9)年3月25日初版第1刷発
         行)、前川捷三編『水戸の漢詩文 三集』(平成12年3月発行、茨城大学教育学部国
         語教育講座)、及び久野勝弥「日新塾の教育」(『近世水戸の教育施設』
(平成20年度
           
第25 回水戸学講座講録、常磐神社・平成21年5月1日発行)所収)を参考にして、直接墓碑
         に当たらせていただいて記述しました。
  
         墓碑の文字に読みとりにくい箇所があり、記述に誤りがあるかもしれませんので、お気づきの点
          を教えていただければ幸いです。

        2. 文字の配列・改行は碑文の通りにしてあります。なお、本文中に5か所ある空所は、
         いわゆる闕字
(昔、高貴な人の名前などを書く時、敬ってその上を一字か二字あけたこと)です。
        3. 初めに掲げた墓碑銘の碑文に用いてある漢字のうち、古字や略字体(異字体)に
         なっているものは、正字体に直したものがあります。例えば、葊(→菴)、尓(→爾)、
         辞(→辭)、称(→稱)、栄(→榮)、徳(→德)など。
          次に掲げてある碑文は、なるべく碑文どおりの漢字にしましたが、一部碑文どおりの
         字体に直せていない漢字があります。
               また、「滔々汨々」の「汨」の漢字は、音「ベキ」・川の名で、本来の「」(イツ・コツ)
         〔サンズイ+曰エツ〕とは別字 だそうですが、「」(イツ・コツ)と混用される、と『旺文
         社漢和辞典』(改訂新版、1986年)にあります。ここも本来の「」〔サンズイ+曰〕で
         はなく、「汨(ベキ)」という漢字を使ったものと見て、「汨」にしてあることをお断りして
         おきます。
          この「」〔サンズイ+曰エツ〕は、音:イツ(漢音)、コツ(漢音)で、「々(イツイツ・
         コツコツ)」は、「(1)水が速く流れるさま。(2)物事が停滞せず進むさま。(以下、略)」
         と、上記の漢和辞典にあります。
            (「」の漢字は、島根県立大学の “e漢字”を利用させていただきました。)
          なお、「々」としたところは、「ヽ」を二つ縦に並べた形の繰り返し符号が用いてある
         ところです。
        4.初めの部分にある「蓮性寺廢域」について。
          弓野國之助著『加倉井砂山』には、「蓮性寺瘞域」とあり、堀口眞一著の『日に新な
         り
─加倉井砂山物語─』もこれを受けて「蓮性寺瘞域」としてありますが、碑文には「廢
          域」とあるので、この「廢域」は、前川捷三氏の『水戸の漢詩文 三集』の頭注にある
         ように、「廢域 砂山死亡当時、寺の建物は既に無かった」という理由で「廢域」と書
         かれたもの、ととるのがよいかと思われます。     

        5. この加倉井砂山の墓碑銘竝序は、碑文にあるとおり、興野道甫が作り斎藤監物が
         揮毫したものです。
        6. 加倉井砂山の墓は、水戸市成沢町の鹿島神社の南側、檜と杉の林の中の墓地内
         に、向かって右に砂山の墓、左に夫人の墓と並んで建っています。
        7. 加倉井砂山の私塾「日新塾」跡は、水戸市指定史跡
(平成2年2月6日指定)になってい
         ます。現在は建物は失われていて、その跡地に案内板があり、四阿
(あずまや)が建って
         います。場所は、水戸市成沢町364番地。
        8. 水戸商工会議所のホームページに『郷土いいとこ再発見』があり、その中の「史跡
         (神社・仏閣・遺跡・墓所)」に、「加倉井砂山の墓・日新塾」のページがあって参考に
         なります。
        9. 加倉井砂山(かくらい・さざん)=江戸時代後期の水戸藩の儒者・教育者。私塾「日
            新塾」の主宰者。文化2年(1805)11月3日、茨城郡成沢村(現・水戸市成沢町)
            に、郷士・加倉井久泰の次男として生まれた。諱
(いみな)は久雍(ひさやす)、後に雍
            
(やすし)。字(あざな)は立卿(りっけい)。通称、淡路(あわじ)。砂山(さざん)は号である。
            没後、文憲
(ぶんけん)と諡(おくりな)された。兄が27歳で早世したため、16歳のとき
            家督を継いだ。砂山は、初め父から教育を受け、次いで同村同族の加倉井松山
            
(しょうざん)について学んだ。家督を相続したため遊学の望みを断たれた砂山は、
            父の私塾を継いで郷村の子弟の教育に専念した。砂山の教育は、塾生の個性と
            自主性を重んじるものであったという。門人は次第に増え続け、遠く下野
(しもつけ)・
            会津などからも集まった。教育科目は多彩で、学芸・武芸・医学・時事問題などと
            幅広かった。門弟の中には斎藤監物・川崎守安(八右衛門)・香川敬三・藤田小
            四郎などがいる。安政2年(1855)7月14日に、51歳(満49歳)で没した。水戸
            市森林公園に銅像がある。(1805-1855)
              加倉井氏は、甲斐国南部郷の波木井氏から出たといわれ、鎌倉時代に常州
            那珂西郡加倉井村(現・水戸市加倉井町)に所領を得た。加倉井家は、祖父・
            久徴の代から水戸藩郷士に取り立てられ、家禄50石を給されていた。    
           
* 諱の久雍・雍の読み「ひさやす」「やすし」は、(財)日新塾精神顕揚会発行のパンフレット「加倉井
              砂山日新塾跡」(水戸藩屈指の私塾)によりました。久雍を「ひさかず」と読む説もあるようです。
        10. 水戸市森林公園にある銅像「加倉井砂山先生之像」は、砂山を敬愛する個人(水
           戸市大塚町出身の安蔵桜水氏)
によって昭和63年(1988)に建てられたものだそうで
          す。像の後ろの台座の銘板の文字(縦書)を書き写しておきます。改行は原文の通
          りです。
                           題
               清和帝を祖とする常陸の名族加倉井家の
               第二十三世砂山は茨城郡成沢村に文政二
               年日新塾を開き安政二年迄三千余名の子
               弟を教導、幕末激動期より明治時代に憂
               国有為の多くの俊英が輩出された。砂山
               は和を尊び博識知新の実践教育者であっ
               た。その功績を像を建て顕彰する。
                 昭和六十三年一月二十四日
                    水戸大塚町出身   安藏 桜水
        11. 加倉井砂山夫妻の位牌と砂山の肖像画が、加倉井町の妙徳寺にあります。
          
妙徳寺(みょうとくじ)=鎌倉時代の永仁元年(1293)、加倉井領主・波木井実氏(はきい・さね
              
うじ)が、日蓮聖人の弟子、中老僧の日高上人(にっこうしょうにん)を開祖として、母妙徳尼
              の菩提を弔うために創建した日蓮宗の寺。山号は、隠井山高在院
(かくらいさん・こうざいい
              
ん)。水戸市加倉井町にある。応永4年(1397)、江戸氏・佐竹氏の乱の兵火によって焼
              失し、同12年(1405)、現在地に移転して再建された。旧寺跡には、妙徳尼の墳墓があ
              る。なお、境内に双葉山らの寄進した日蓮聖人像が建っている。

               次に、
妙徳寺本堂向かって右手にある「宗祖七百遠忌記念」の石碑から、一部を引用させていた
                だきます。
                  當山は常陸最初の法華道場として 又日蓮大聖人常陸乃湯の御靈跡として 永々実に七百
                 余年栄枯盛衰現在に至る(引用者注:昭和五十六年十一月現在。以下、同じ) 抑も當山は太
                 田乗明殿の所領にして身延 波木井實長公の三男弥三郎實氏公が城趾たり 時恰も建治二
                 年宗祖の御尊命により 中老僧 日髙上人が百座百講を務め弘法せられた旧跡也 實氏公は  
                  日髙上人並母妙徳尼のため一宇を建立し宗祖御真筆大曼陀羅を御安置教宣の地となす 時
                 に宗祖大聖人御年五十五歳 実に今より七百五年以前のこと也  後母妙徳尼公寂するや 永
                 仁元年三月慈母の為一寺を創し隠井山髙在院妙徳寺と号す 爾来ここに創立以来六百八十八
                 年 應永四年江戸氏 佐竹氏の乱に焼失 應永十二年現在の諸堂が再建されてより五百七十
                 六年 ……(以下、略) 
                   南無宗祖日蓮大聖人滅後第七百遠忌報恩謝徳
                           昭和五十六年十一月二十九日                當山五十五卋日誠

        12. 參考書
           弓野國之助著『加倉井砂山』(大正11年4月18日発行、発行所:
國民敎育良書
                               刊行会;砂山研究會)
           堀口眞一著『日に新なり
─加倉井砂山物語─』(崙書房・1997(平成9)年3月25
                               日初版第1刷発行)
           『水戸市史 中巻(三)』 (水戸市役所、昭和51年2月25日発行) 
               「第18章 士民の向学と文化の普及」の「第2節 私塾の教育と士民の
               向学」の中に、「加倉井砂山の日新塾」があります(1165~1173頁)。  
           『水戸の先達』(水戸市教育委員会、平成12年3月発行)
           前川捷三編『水戸の漢詩文 三集』(平成12年3月発行、茨城大学教育学部
                      国語教育講座)
                 ここに収められている「加倉井砂山墓碑銘竝序」の本文は、手書きで
               書かれているため漢字がほぼ碑文通りになっており、訓点がつけられて
               いるうえに頭注もあって、大変参考になります。
           『常陽藝文』 2007年5月号(「藝文風土記」加倉井砂山と日新塾) 
                      (№288  (財)常陽藝文センター、平成19年5月1日発行)    
           『近世水戸の教育施設』(平成20年度第25回水戸学講座講録、常磐神社・平
               成21年5月1日発行)
                 この講録の中に、久野勝弥氏の「日新塾の教育」という講義録があり、
               加倉井砂山墓碑銘竝序の原文・書き下し文・通釈及び解説があります。
               砂山の墓碑銘についての解説書が少ない中で、大変参考になります。
        13. 茨城県立歴史館で、「水戸藩最大の私塾・日新塾─加倉井砂山と門人たち─」
         という展示が、平成23年12月10日から平成24年1月29日まで開催されました。

         そこに、墓誌の拓本のかなり大きな拡大写真が展示されていました。この拓本は、
         (財)日新塾精神顕揚会(東京都中央区日本橋3-1-8)が今回新たに採拓した
         ものだそうです。
          弓野國之助著『加倉井砂山』の口絵にも、墓誌銘の拓本写真が載っていますが、
         写真が小さいのと、拓本の状態がそれほどよくはないせいで、文字をはっきり読み
         とることが難しい部分があります。
        14. フリー百科事典『ウィキペディア』に、「加倉井砂山」の項があります。
        15. 書き下し文(暫定)を書いておきます。お気づきの点を教えていただければ幸い
         です。(2012.02.16 )   

 

      文憲先生加倉井君墓碑銘幷びに序 

 

 

                  槐菴居士興野輗、謹んで述ぶ 

安政二年七月十四日、常陸茨城郡成澤村の砂山加倉井先生、疾(やまひ)を以て終はる。年五十有一。嗚呼(ああ)、哀しい哉。越えて十七日、卜(ぼく)して本村(ほんそん)蓮性寺(れんしやうじ)の廢域(はいゐき)に葬る。先生幼にして頴悟(えいご)精敏(せいびん)、讀書を好む。長ずるに及んで才氣超邁(てうまい)、洽聞(かふぶん)強識(きやうし)、博く經史(けいし)に渉(わた)る。其の文を作るや、數千言立ちどころに就(な)るも、未(いま)だ甞て起稿せず。詩に至りては尤も妙を得(え)、温麗靖深(をんれいせいしん)、縱横飄逸にして、唯、意の適(おもむ)く所、滔々(たうたうこつこつ)として、到らざる所無し。書法は神(しん)に入(い)る。其の作字は、紙筆を擇ばず。皆、意の如くなるを得たり。楷隸行草の諸體、該綜(がいそう)せざるは莫(な)く、自(おのづか)ら一家の法を成す。學ぶに常の師無く、交游最も廣し。其の子弟を敎育するに、循々として倦まず。從ひて學ぶ者頗(すこぶ)る多く、各(おのおの)其の性に從ひて焉(これ)を授く。故に、皆能く其の材を達す。先生、兵學・地理・劍槍・銃馬、皆能く其の精蘊(せいうん)を極む。而(しか)うして、最も礮技(はうぎ)に鋭意す。平居(へいきよ)、夭々如(えうえうじよ)たり、怡々如(いいじよ)たり。人、喜怒の色を見ず。是(ここ)を以て、賓客(ひんかく)堂に滿ち、杯盤狼藉(はいばんらうぜき)たり。先生も亦、能く劇飲す。猶ほ乃(すなは)ち温克(をんこく)にして資稟(しひん)淡泊、毀譽(きよ)は一切懷(おもひ)に關係せざるなり。先生、臥床(ぐわしやう)に在ること僅か六日、自(みづか)ら其の不起なるを知り、輗(げい)等數輩を召して後事を託す。是(ここ)に於て、四方の弟子及び親戚朋友、相(あひ)會して百方加治し、或いは上下の神祇(じんぎ)に禱(いの)り、身を以て之(これ)に代へんことを請ふ。侍者(じしや)の悲哀の狀(さま)は、自(おのづか)ら發して覺えず流涕するを抑ふる能はず。先生、輒(すなは)ち莞爾(くわんじ)として咲(わら)ひて曰(いは)く、「生老病死(しやうらうびやうし)の苦、時至れば、則ち往(ゆ)く。豈(あ)に嘆くを須(もち)ひんや」と。或いは詩し、或いは談じ、未だ嘗て其の懊惱の狀(さま)を見ず。七日朝、盥漱(くわんそう)して祠堂に起拜し、乃(すなは)ち絶筆の詩を賦す。其の辭は恬淡(てんたん)として、聊(いささ)かも死生を懷(おも)ひに挾(さしはさ)むを以てせず。器宇(きう)、恢廓(かいくわく)、見るべきなり。其の易簀(えきさく)に及ぶや、群(もろもろ)の弟子を呼びて末路を告戒すること丁寧親切、皆其の疾(しつ)に當たる。聞く者、感佩敬服(かんぱいけいふく)、歔欷流涕(きよきりうてい)して能く仰ぎ視る莫(な)し。其の慈愛、率(おほむ)ね此の類(たぐひ)なり。其の先(せん)は、南部族波木井氏より出づ。王父、諱(いみな)は久徴、淡路と稱す。安永七年九月、郷士(がうし)と爲り、是より爵祿を世襲す。顯考(けんかう)、諱は久泰、右馬允(うまのじよう)と稱す。顯妣(けんぴ)、同族の丈衛門の女(むすめ)なり。兄、諱は久繼、與一郎と稱す。子無し。先生、嗣(し)と爲る。天保十年三月、全隈(またぐま)村長を兼ぬ。十二年、横目を兼ぬ。職に居て功有り。十三年、爵して御徒列(おかちれつ)を賜はる。十四年、兩職を辭す。初めて納言公、封(ほう)内を巡視するや、駕、其の塾に臨(のぞ)む。先生即ち詩を上(たてまつ)る。公、辱(かたじけな)くも芳和を賜ふ。或いは暇日(かじつ)、群臣を讌(えん)す。先生も亦、焉(これ)に與(あづか)る。其の榮、知るべきなり。甞(かつ)て駕に從ひて、江戸に上(のぼ)る。間(かん)を以て屢(しばしば)諸名流と交遊し、上下議論すと云ふ。配は宇野氏、二男四女を生む。長は久米之介、夭す。次は久壯、右馬允と稱す。家を嗣ぐ、年僅か十六。長女は秀、桃溪と號す。讀書を好み、文才有り。次は安・道、皆夭す。次は千、々は香蘭と號す。幼にして書を善くし、詩を嗜(たしな)む。海老澤村の莊屋川崎守安に適(とつ)ぐ。先生の著はす所、『東下記事』『喪祭略禮』『三樂樓文集』『砂山詩刪』『南遊紀行』『新刀便覧』等若干の巻有り。先生、諱は雍、字は立卿、淡路と稱す。砂山は其の號なり。門人相議(はか)つて曰(いは)く、「博聞多能にして、下問を恥ぢず。先生焉(これ)有り。因つて私諡(しし)して文憲(ぶんけん)と曰ふ。且つ、戮力(りくりよく)して碑を建て、以て不朽ならんことを謀(はか)り、而(しかう)して恩波の萬一に報いん」と。輗(げい)、菲才(ひさい)謭劣(せんれつ)、文辭に嫺(かん)ならず。猶ほ先進の故を以て遺命有り。因つて辭せず。謹んで其の概略を序す。係はるに銘辭を以てす。曰く、孔孟を根據とし、老莊に出入す。維(こ)れ方、維(こ)れ圓。懿德(いとく)、載(すなは)ち芳(かんば)し。花に醉ひ、月に嘯(うそぶ)き、以て其の情を放つ。毀譽(きよ)は關はらず。曷(なん)ぞ利名を問はん。易(やす)きに居て、天を樂しむ。嗚呼(ああ)、先生。
                      齋藤一德、謹んで書す

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


        16. 語句の注釈をつけておきます。読み仮名は現代仮名遣いで示します。
         
安政二年……西暦1855年。
         
蓮性寺(れんしょうじ)……廃寺になっていて、現在はない。『新編常陸国誌』に、「〔法華宗、加倉井妙法
                 寺末、妙澤山實相院ト號ス〕事佛篇ニアリ、正徳三年鐘銘云、常州茨城郡成澤邑妙澤山蓮性寺、
                 天文中、日愛師所
創也、妙是心體具之妙、澤是其澤普洽之澤、蓮是華開蓮現之蓮、性是法常
                 無性之性、先師所
以命1レ名、有旨乎哉、云々、」とある。 
            廢域(はいいき)……弓野國之助著『加倉井砂山』に「瘞域」とあるように、普通は瘞域(えいいき)、又は「塋
                 域」とあるところである。(「瘞」は、うずめる。はか。「塋」は、はか。つか。墓地。) しかし、ここは前川
                 捷三先生の『水戸の漢詩文 三集』にあるように、「砂山死亡当時、寺の建物は既に無かった」という
                 理由で、「廢域」としたものと思われます。
 
         
頴悟(えいご)……才知のすぐれて賢いこと。「頴」は、「潁」の俗字。
          精敏(せいびん)……くわしく、さとい。詳しく賢いこと。
          超邁(ちょうまい)……抜きんでてすぐれていること。
          洽聞(こうぶん)……あまねく聞く。また、知識や見聞が広いこと。博聞。
          強識(きょうし)……=強志。ものおぼえがよいこと。強記。(「識(しき)」は、知る。「識(し)」は、しるす。おぼ
                  える。)
          經史(けいし)……経書と歴史書。経書とは、四書・五経などの、聖賢の言行や教えを記した書籍。
          温麗(おんれい)……詩文などがおだやかで美しい。
          滔々(とうとう)……水などが勢いよく盛んに流れ行くさま。論語、微子「滔滔者、天下皆是也。」
          汨々(いついつ・こつこつ)……水が流れてやまない様子。転じて、物事が順調に進む様子。「汨々」の「汨」
                   の漢字は、音「ベキ」で川の名。本来「」(イツ・コツ)とは別字だそうですが、「」と混用される、
                   と 『旺文社漢和辞典』(改訂新版、1986年) にあります。ここも「汨」を使ったものと見て、「汨」
                   にしてあります。(上の注3を参照のこと。)
          該綜(がいそう)……兼ねあわせる。すべあわせる。
          循々(じゅんじゅん)……順序正しいことの形容。整然。
          精蘊(せいうん)……奥深い。また、そのところ。         
         
礮(ほう・ひょう)……いしはじき。石弓。昔の武器。ここは、大砲のこと。         
         
平居(へいきょ)……ふだん。ひごろ。いつも。平常。
          夭々如(ようようじょ)……やわらぎのびのびしているさま。にこにことしていかにも楽しそうなさま。論語、
                  述而篇「子之燕居、申申如也、夭々如也。」
          怡々如(いいじょ)……やわらぎ喜ぶ様子。論語、郷党篇「出降一等、逞顔色、怡々如也。」  
         
温克(おんこく・うんこく)……温かくしとやかな中にも、自制心のあること。優しく受け入れるところがあって、
                  しかも自分の節操をまげないこと。詩経「人之齊聖、飲酒温克」
          輙(すなはち)……「輒」の俗字。
          莞尓(くわんじ)……「尓」は「爾」の俗字。「莞爾」は、にっこり笑うさま。論語、陽貨篇「夫子莞爾而笑」
          咲(わらふ)……わらう=笑。中国では「わらう」意であるが、日本では、花が「さく」の意に用いる。
          生老病死(しやうらうびやうし)……仏教で、人間の免れ得ない四つの苦しみ。四苦。
          資稟(しひん)……生れつき。持ち前の性質。資質。天性。
          臥床(がしょう)……寝床。寝台。寝床について寝る。
          輗(げい)……大車の轅(ながえ)の先端に衡(こう・横木)をとりつけるための小さなくさび。ここは、人名。
          盥漱(かんそう)……手を洗い口をすすぐ。
          起拜(きはい)……立って拝む。
          器宇(きう)……人柄。器量。心の広さ。
          恢廓(かいかく)……広く大きい。心が広く大きい。度量がある。
          易簀(えきさく)……すぐれた人物の死をいう。孔子の門人の曾參(そうしん)が臨終の時、今まで敷いてい
                  た大夫用の簀(すのこ)を、身分不相応だといって取りかえさせた故事による。礼記「曾子曰、然。
                  斯乃季孫之賜也。我未之能易也。元起易簀。」

         
末路(まつろ)……行く道の末。人生の終わり。ここは、弟子の今後、将来の意。
          疾(しつ)……やまい。きず。欠点。くせ。悪癖。ここは、欠点の意。 
         
王父(おうふ)……祖父を尊んでいう。
          安永七年……1778年。
         
郷士(ごうし)……江戸時代、農村に居住した武士。旧家や百姓身分で士分に取り立てられた者も含んだ。
                  『広辞苑』(第6版)には、「江戸時代、武士でありながら城下町に移らず、農村に居住して農業を
                  いとなみ、若干の武士的特権を認められた者。諸藩によりその制度・呼称に差がある」とある。
          顕考(けんこう)……亡父の敬称。
          顕妣(けんぴ)……亡母の敬称。 
         
天保十年……1839年。
          横目(よこめ)……横目付の略。 横目付(よこめつけ)……武家時代、将士の挙動を検察し、非違を弾劾
                  することをつかさどった者。
            御徒列(おかちれつ)……水戸藩の郷士の身分の一つ。「御徒」(おかち)は、「徒侍」(かちざむらい)徒歩
                  で供をする侍。
            賜爵御徒列……ここを「爵して御徒列を賜はる」と読みましたが、その後で参照した『水戸の漢詩文 三集』
                  には、「爵ヲ御徒ノ列ニ賜フ」とありました。
          納言公(なごんこう)……藩主徳川斉昭。
          賜芳和(ほうわをたまわる)……天保11年(1840)、斉昭が砂山の屋敷を訪れた際に、砂山が献上した漢
                  詩に対して、斉昭が次韻(和韻の中の一つ)したことをいうのであろう。「芳」は、相手のことに関す
                  る美称。「和」は、和韻。「斉昭公が、砂山に、和韻の漢詩を賜った」という意味であろう。

               ※ 和韻とは、中国で詩を唱和する際に、原作と同じ韻を用いて作ること。次韻・用韻・依韻の3種が
                 ある。次韻は原作と同じ韻字を同じ順に用い、用韻は同じ韻字を順を定めずに用い、依韻は必ず
                 しも同字でなくても同じ韻目の文字を用いるもの。和歌で同様にすることにもいう。(『広辞苑』第6
                 版による。)
  

                  その時の砂山の漢詩は、
               庚子初秋公親率群臣量地以定賦高下駕臨于茅屋此地名成澤實應下恩成澤之佳號小臣雍
               幸預觀昇平之王美護賦小詩以奉呈從駕左右下執事
 
                 
平理公田無參差  恩風偏至野人家 
                 
鄙儒但喜太平美  又賦甘棠一樹花
                         又
                 版籍新摸夏后功  東州草木帶恩風
                 早呼妙丹靑手口  描寫永傳群玉驄
                  それに対する斉昭の和韻(次韻)は、
                 由來田制苦參差  窮民失業僅存家
                 就藩只今正經界  賦税均量實與花 
                庚子初秋次韻加倉井雍     花押  

              *
甘棠一樹花……「甘棠(かんとう)」は、木の名。からなし。人民が、善政を行った周の召公が
                      その下に宿ったという甘棠の木を大切にした、という故事がある。甘棠之愛。甘棠之恵。
                      詩経「蔽芾甘棠、勿翦勿伐、召伯所茇」 〔引用者注:蔽芾(へいひ)たる甘棠(かんとう)、
                      翦(き)る勿(なか)れ、伐(き)る勿れ、召伯(しょうはく)の茇(やど)りし所。蔽芾(へいひ)
                      は、小さいさま。〕
          (ここに引いた漢詩は、弓野國之助著『加倉井砂山』から引用させていただきました。同書、121頁) 

               つまり、砂山の韻字、 
                 
平理公田無參  恩風偏至野人 
                 
鄙儒但喜太平美  又賦甘棠一樹
              
に対して、斉昭公は、
                 由來田制苦參  窮民失業僅存
                 就藩只今正經界  賦税均量實與
              
と、同じ韻字を同じ順に用いた(次韻)というわけである。

         
暇日(かじつ)……ひまな日。また、休みの日。孟子「壮者以暇日、修其孝悌忠信。」
          讌(えん)……さかもり。うたげ。また、さかもりをする。
          以間(かんをもつて)……「間(かん)」は、暇(ひま)。「閑」に通じる。
          名流(めいりう)……名高い人たち。世間に聞こえた人たち。名士。
          上下議論……『水戸の漢詩文 三集』では、ここを「議論を上下す」と読んで、「議論をやりとりする、
                たたかわせる」と注しています。
          配(はい)……配偶者。つれあい。夫婦。
          千々號香蘭……「千」とは、次女の世舞(せん)〔又は、世舞子(せんこ)〕を指すのでしょうが、ここを 
                久野勝弥氏が「次千、々は香蘭と号す」と読んでおられるのに教えられて(平成20年度水戸
                学講座「近世水戸の敎育施設」144頁)、「次は千、々は香蘭と號す」と読ませていただきまし
                た。
                  弓野國之助著『加倉井砂山』には、
                   砂山の二女を、世舞子といふ、所謂る香蘭女史なり。
                とある(276頁)。
                 堀口眞一著『日に新なり─加倉井砂山物語─』巻末の「加倉井砂山系図」には、
                   女・世舞(香蘭と号する)
                     海老沢の郷士川崎八右衛門守安に嫁する。大正8年9月24日逝去。87歳。
                とある(279頁)。
                 『常陽藝文』2007年5月号には、
                     彼(引用者注:川崎八右衛門)は当時、数多くいる門人の中で、「貨殖(資産を増やす
                     こと)については第一人者」といわれていた、と伝えられる。砂山は、そんな彼を見込
                     んで、次女の世舞子(せんこ)(香蘭)を嫁がせている。
                とある(同書、3頁)。
          川崎守安(かわさきもりやす)……川崎八右衛門。川崎財閥の創始者。天保5年(1834)、涸沼南西
               岸の海老沢河岸の川崎家に生まれた。16歳で家督を継ぐが、翌年、日新塾に入門。多く
               の門人中、「貨殖については第一人者」と言われたという。砂山の次女世舞子(せんこ・香
               蘭)と結婚した。
          不恥下問……下問を恥ぢず。「下問」とは、自分より目下の者に尋ね問うこと。論語・公冶長篇に、「子貢問
                 曰、孔文子何以謂之文也。子曰、敏而好學、不恥下問。是以謂之文也」とある。
          有焉(これあり)……「焉」は、ここは代名詞としての用法。これ。
          私諡(しし)……身分が低いために朝廷から諡(おくりな)が与えられないとき、郷里の人や親族・門下生など
                 が尊敬して贈る諡(おくりな)。
          戮力(りくりよく)……力を合わせる。
          萬一(まんいち・まんいつ)……万分の一。
          恩波(おんぱ)……天子の恵み。その広く行き渡ることを波にたとえていう。仁恵。恩沢。
          謭劣(せんれつ)……謭は、翦の俗字。翦(せん)は、あさい。あさはか。
          不嫺(かんならず)……「嫺」(かん)は、みやびやか。しとやか。
          維方維圓(これほう、これえん)……「維」は、発語の辞。「方」は、四角、「円」は、まる。正方形と円。「日新塾
                  の敎育」の久野勝弥氏の解釈を引用させていただくと、「(孔子孟子を基礎としているが、老子荘子
                  にも目をむけて)四角の形には四角となり丸い型には丸くなる」としておられます。
          懿德(いとく)……うるわしい徳。立派な徳。美徳。詩経「民之秉彝、好是懿徳。」
          曷(なんぞ)……「何」に同じ。
          利名(りめい)……利益と名誉。名利。
          居易(きょい・やすきにおる)……安らかな境地にいる。 易(えき)…変わる。変える。易(い)…やすい。や
                  さしい。やすらか。
          樂天(らくてん・てんをたのしむ)……(1)天命を楽しむ。自分の境遇に安んずる。詩経「楽天知名、故不憂。」
                  (2)物事を苦にしないこと。
              「居易」が、白楽天の名前であるところから、この「居易樂天」を中唐の詩人・白楽天とする人もいま
               す。(例えば、「日新塾の敎育」(『近世水戸の敎育施設』所収)には、「白居易白楽天の生き様は、あゝ
               先生そのものである」とあります)。
                ここは、「白楽天のように、安らかな境地にいて天命を楽しむ」、あるいは「安らかな境地にいて天命を
               楽しんだ白楽天」と解釈することもできるでしょうか。あるいは、単に「白楽天」ととるべきでしょうか。

          お断り: 以上の注釈は、『広漢和辞典』(大修館書店)、『漢字源』(学習研究社)、『旺文社漢和辞典』、『広辞苑』
              第6版、弓野國之助著『加倉井砂山』、前川捷三編『水戸の漢詩文 三集』(平成12年3月発行、茨城大学
              教育学部国語教育講座)、堀口眞一著『日に新なり─加倉井砂山物語─』、『常陽藝文』2007年5月号、
              久野勝弥「日新塾の敎育」(『近世水戸の敎育施設』(平成20年度第25回水戸学講座講録)所収、その他
              を参照して記述しました。(2012年2月25日)
 
        17. 2013年(平成25年)11月6日の読売新聞茨城版に、「加倉井砂山の墓前 功績伝え
          る説明板 
日新塾主宰」という記事が掲載されています。
           
「水戸市内で江戸後期に私塾「日新塾」を主宰 した教育者・加倉井砂山(さざん)(1805~55年)の
           功績を広く知ってもらおうと、同市成沢町にある砂山夫妻の墓の前に説明板が設置された。/墓は2
           月に市指定文化財に選ばれたばかり。説明板(幅1.5㍍、高さ1.8㍍)は水戸北ライオンズクラブが
           結成35周年を記念して寄贈した。/2日に開かれた説明板の除幕式には同クラブの吉原邦夫会長や
           砂山の子孫・孝臣さん(77)、高橋靖市長が参加。孝臣さんは「こんなに立派な説明板を作ってもらい、
           地下で砂山も喜んでいるはず」とあいさつした。/砂山は、学芸だけでなく剣術、馬術、医学も教え、
           藩主・徳川斉昭もその学識を高く評価した。門下生からは、川崎財閥の基礎を築いた実業家・川崎八
           右衛門ら多くの人材を輩出した。」                        
(2013年11月7日付記)
                






                                     トップページ(目次) 前の資料へ 次の資料へ