資料406 廉頗藺相如列伝第二十一(『史記』巻八十一)



      廉頗藺相如列傳第二十一  史記巻八十一 司 馬  遷


   
廉頗者趙之良將也趙惠文王十六年廉頗爲趙將伐齊大破之取陽晉拜爲上卿以勇氣聞於諸侯藺相如者趙人也爲趙宦者令繆賢舍人趙惠文王時得楚和氏璧秦昭王聞之使人遺趙王書願以十五城請易璧趙王與大將軍廉頗諸大臣謀欲予秦秦城恐不可得徒見欺欲勿予即患秦兵之來計未定求人可使報秦者未得宦者令繆賢曰臣舍人藺相如可使王問何以知之對曰臣嘗有罪竊計欲亡走燕臣舍人相如止臣曰君何以知燕王臣語曰臣嘗從大王與燕王會境上燕王私握臣手曰願結友以此知之故欲往相如謂臣曰夫趙彊而燕弱而君幸於趙王故燕王欲結於君今君乃亡趙走燕燕畏趙其勢必不敢留君而束君歸趙矣君不如肉袒伏斧質請罪則幸得脱矣臣從其計大王亦幸赦臣臣竊以爲其人勇士有智謀宜可使於是王召見問藺相如曰秦王以十五城請易寡人之璧可予不相如曰秦彊而趙弱不可不許王曰取吾璧不予我城奈何相如曰秦以城求璧而趙不許曲在趙趙予璧而秦不予趙城曲在秦均之二策寧許以負秦曲王曰誰可使者相如曰王必無人臣願奉璧往使城入趙而璧留秦城不入臣請完璧歸趙趙王於是遂遣相如奉璧西入秦秦王坐章臺見相如相如奉璧奏秦王秦王大喜傳以示美人及左右左右皆呼萬歳相如視秦王無意償趙城乃前曰璧有瑕請指示王王授璧相如因持璧卻立倚柱怒髮上衝冠謂秦王曰大王欲得璧使人發書至趙王趙王悉召羣臣議皆曰秦貪負其彊以空言求璧償城恐不可得議不欲予秦璧臣以爲布衣之交尚不相欺況大國乎且以一璧之故逆彊秦之驩不可於是趙王乃齋戒五日使臣奉璧拜送書於庭何者嚴大國之威以修敬也今臣至大王見臣列觀禮節甚倨得璧傳之美人以戲弄臣臣觀大王無意償趙王城邑故臣復取璧大王必欲急臣臣頭今與璧倶碎於柱矣相如持其璧睨柱欲以撃柱秦王恐其破璧乃辭謝固請召有司案圖指從此以往十五都予趙相如度秦王特以詐詳爲予趙城實不可得乃謂秦王曰和氏璧天下所共傳寶也趙王恐不敢不獻趙王送璧時齋戒五日今大王亦宜齋戒五日設九賓於廷臣乃敢上璧秦王度之終不可彊奪遂許齋五日舍相如廣成傳相如度秦王雖齋決負約不償城乃使其從者衣褐懷其璧從徑道亡歸璧于趙秦王齋五日後乃設九賓禮於廷引趙使者藺相如相如至謂秦王曰秦自繆公以來二十餘君未嘗有堅明約束者也臣誠恐見欺於王而負趙故令人持璧歸閒至趙矣且秦彊而趙弱大王遣一介之使至趙趙立奉璧來今以秦之彊而先割十五都予趙趙豈敢留璧而得罪於大王乎臣知欺大王之罪當誅臣請就湯鑊唯大王與羣臣孰計議之秦王與羣臣相視而嘻左右或欲引相如去秦王因曰今殺相如終不能得璧也而絶秦趙之驩不如因而厚遇之使歸趙趙王豈以一璧之故欺秦邪卒廷見相如畢禮而歸之相如既歸趙王以爲賢大夫使不辱於諸侯拜相如爲上大夫秦亦不以城予趙趙亦終不予秦璧其後秦伐趙拔石城明年復攻趙殺二萬人秦王使使者告趙王欲與王爲好會於西河外澠池趙王畏秦欲毋行廉頗藺相如計曰王不行示趙弱且怯也趙王遂行相如從廉頗送至境與王訣曰王行度道里會遇之禮畢還不過三十日三十日不還則請立太子爲王以絶秦望王許之遂與秦王會澠池秦王飲酒酣曰寡人竊聞趙王好音請奏瑟趙王鼓瑟秦御史前書曰某年月日秦王與趙王會飲令趙王鼓瑟藺相如前曰趙王竊聞秦王善爲秦聲請奉盆缻秦王以相娯樂秦王怒不許於是相如前進缻因跪請秦王秦王不肯撃缻相如曰五歩之内相如請得以頸血濺大王矣左右欲刃相如相如張目叱之左右皆靡於是秦王不懌爲一撃缻相如顧召趙御史書曰某年月日秦王爲趙王撃缻秦之羣臣曰請以趙十五城爲秦王壽藺相如亦曰請以秦之咸陽爲趙王壽秦王竟酒終不能加勝於趙趙亦盛設兵以待秦秦不敢動既罷歸國以相如功大拜爲上卿位在廉頗之右廉頗曰我爲趙將有攻城野戰之大功而藺相如徒以口舌爲勞而位居我上且相如素賤人吾羞不忍爲之下宣言曰我見相如必辱之相如聞不肯與會相如毎朝時常稱病不欲與廉頗爭列已而相如出望見廉頗相如引車避匿於是舍人相與諫曰臣所以去親戚而事君者徒慕君之高義也今君與廉頗同列廉君宣惡言而君畏匿之恐懼殊甚且庸人尚羞之況於將相乎臣等不肖請辭去藺相如固止之曰公之視廉將軍孰與秦王曰不若也相如曰夫以秦王之威而相如廷叱之辱其羣臣相如雖駑獨畏廉將軍哉顧吾念之彊秦之所以不敢加兵於趙者徒以吾兩人在也今兩虎共鬭其勢不倶生吾所以爲此者以先國家之急而後私讎也廉頗聞之肉袒負荊因賓客至藺相如門謝罪曰鄙賤之人不知將軍寛之至此也卒相與驩爲刎頸之交是歳廉頗東攻齊破其一軍居二年廉頗復伐齊幾拔之後三年廉頗攻魏之防陵安陽拔之後四年藺相如將而攻齊至平邑而罷其明年趙奢破秦軍閼與下趙奢者趙之田部吏也收租税而平原君家不肯出租奢以法治之殺平原君用事者九人平原君怒將殺奢奢因説曰君於趙爲貴公子今縱君家而不奉公則法削法削則國弱國弱則諸侯加兵諸侯加兵是無趙也君安得有此富乎以君之貴奉公如法則上下平上下平則國彊國彊則趙固而君爲貴戚豈輕於天下邪平原君以爲賢言之於王王用之治國賦國賦大平民富而府庫實秦伐韓軍於閼與王召廉頗而問曰可救不對曰道遠險狹難救又召樂乘而問焉樂乘對如廉頗言又召問趙奢奢對曰其道遠險狹譬之猶兩鼠鬭於穴中將勇者勝王乃令趙奢將救之兵去邯鄲三十里而令軍中曰有以軍事諫者死秦軍軍武安西秦軍鼓譟勒兵武安屋瓦盡振軍中候有一人言急救武安趙奢立斬之堅壁留二十八日不行復益増壘秦閒來入趙奢善食而遣之閒以報秦將秦將大喜曰夫去國三十里而軍不行乃増壘閼與非趙地也趙奢既已遣秦閒乃巻甲而趨之二日一夜至令善射者去閼與五十里而軍軍壘成秦人聞之悉甲而至軍士許歴請以軍事諫趙奢曰内之許歴曰秦人不意趙師至此其來氣盛將軍必厚集其陣以待之不然必敗趙奢曰請受令許歴曰請就鈇質之誅趙奢曰胥後令*許歴復請諫曰先據北山上者勝後至者敗趙奢許諾即發萬人趨之秦兵後至爭山不得上趙奢縱兵撃之大破秦軍秦軍解而走遂解閼與之圍而歸趙惠文王賜奢號爲馬服君以許歴爲國尉趙奢於是與廉頗藺相如同位後四年趙惠文王卒子孝成王立七年秦與趙兵相距長平時趙奢已死而藺相如病篤趙使廉頗將攻秦秦數敗趙軍趙軍固壁不戰秦數挑戰廉頗不肯趙王信秦之閒秦之閒言曰秦之所惡獨畏馬服君趙奢之子趙括爲將耳趙王因以括爲將代廉頗藺相如曰王以名使括若膠柱而鼓瑟耳括徒能讀其父書傳不知合變也趙王不聽遂將之趙括自少時學兵法言兵事以天下莫能當嘗與其父奢言兵事奢不能難然不謂善括母問奢其故奢曰兵死地也而括易言之使趙不將括即已若必將之破趙軍者必括也及括將行其母上書言於王曰括不可使將王曰何以對曰始妾事其父時爲將身所奉飯飲而進食者以十數所友者以百數大王及宗室所賞賜者盡以予軍吏士大夫受命之日不問家事今括一旦爲將東向而朝軍吏無敢仰視之者王所賜金帛歸藏於家而日視便利田宅可買者買之王以爲何如其父父子異心願王勿遣王曰母置之吾已決矣括母因曰王終遣之即有如不稱妾得無隨坐乎王許諾趙括既代廉頗悉更約束易置軍吏秦將白起聞之縱奇兵詳敗走而絶其糧道分斷其軍爲二士卒離心四十餘日軍餓趙括出鋭卒自搏戰秦軍射殺趙括括軍敗數十萬之衆遂降秦秦悉阬之趙前後所亡凡四十五萬明年秦兵遂圍邯鄲歳餘幾不得脱頼楚魏諸侯來救迺得解邯鄲之圍趙王亦以括母先言竟不誅也自邯鄲圍解五年而燕用栗腹之謀曰趙壯者盡於長平其孤未壯擧兵撃趙趙使廉頗將撃大破燕軍於鄗殺栗腹遂圍燕燕割五城請和乃聽之趙以尉文封廉頗爲信平君爲假相國廉頗之免長平歸也失勢之時故客盡去及復用爲將客又復至廉頗曰客退矣客曰吁君何見之晩也夫天下以市道交君有勢我則從君君無勢則去此固其理也有何怨乎居六年趙使廉頗伐魏之繁陽拔之趙孝成王卒子悼襄王立使樂乘代廉頗廉頗怒攻樂乘樂乘走廉頗遂奔魏之大梁其明年趙乃以李牧爲將而攻燕拔武遂方城廉頗居梁久之魏不能信用趙以數困於秦兵趙王思復得廉頗廉頗亦思復用於趙趙王使使者視廉頗尚可用否廉頗之仇郭開多與使者金令毀之趙使者既見廉頗廉頗爲之一飯斗米肉十斤被甲上馬以示尚可用趙使還報王曰廉將軍雖老尚善飯然與臣坐頃之三遺矢矣趙王以爲老遂不召楚聞廉頗在魏陰使人迎之廉頗一爲楚將無功曰我思用趙人廉頗卒死于壽春
李牧者趙之北邊良將也常居代鴈門備匈奴以便宜置吏市租皆輸入莫府爲士卒費日撃數牛饗士習射騎謹烽火多閒諜厚遇戰士爲約曰匈奴即入盗急入收保有敢捕虜者斬匈奴毎入烽火謹輒入收保不敢戰如是數歳亦不亡失然匈奴以李牧爲怯雖趙邊兵亦以爲吾將怯趙王讓李牧李牧如故趙王怒召之使他人代將歳餘匈奴毎來出戰出戰數不利失亡多邊不得田畜復請李牧牧杜門不出固稱疾趙王乃復彊起使將兵牧曰王必用臣臣如前乃敢奉令王許之李牧至如故約匈奴數歳無所得終以爲怯邊士日得賞賜而不用皆願一戰於是乃具選車得千三百乘選騎得萬三千匹百金之士五萬人彀者十萬人悉勒習戰大縱畜牧人民滿野匈奴小入詳北不勝以數千人委之單于聞之大率衆來入李牧多爲奇陳張左右翼撃之大破殺匈奴十餘萬騎滅襜襤破東胡降林胡單于奔走其後十餘歳匈奴不敢近趙邊城趙悼襄王元年廉頗既亡入魏趙使李牧攻燕拔武遂方城居二年龐煖破燕軍殺劇辛後七年秦破殺趙將扈輒於武遂斬首十萬趙乃以李牧爲大將軍撃秦軍於宜安大破秦軍走秦將桓齮封李牧爲武安君居三年秦攻番吾李牧撃破秦軍南距韓魏趙王遷七年秦使王翦攻趙趙使李牧司馬尚禦之秦多與趙王寵臣郭開金爲反閒言李牧司馬尚欲反趙王乃使趙蔥及齊將顔聚代李牧李牧不受命趙使人微捕得李牧斬之廢司馬尚後三月王翦因急撃趙大破殺趙蔥虜趙王遷及其將顔聚遂滅趙
太史公曰知死必勇非死者難也處死者難方藺相如引璧睨柱及叱秦王左右勢不過誅然士或怯懦而不敢發相如一奮其氣威信敵國退而讓頗名重太山其處智勇可謂兼之矣
  
 
 趙奢曰胥後令* ……「胥」は「須」に同じ、待つこと。なお、諸本は「令」の後に「邯鄲」の二字を置き、邯鄲にある 趙王の沙汰を待てとの意に解しているが、本書は『考証』の中井積徳注のごとく、「邯鄲」は「欲戦」「将戦」にすべし、との解釈をとり、「邯鄲」の二文字を削除した。(新釈漢文大系89『史記九(列伝二)』266頁の注。)
 なお、本文の語句の細かい異同については、直接、『史記九(列伝二)』の語釈を参照してください。



  (注) 1.  「廉頗藺相如列伝第二十一(『史記』巻八十一)」の本文は、新釈漢文大系89『史記 九(列伝二)』(水沢利忠著、明治書院・平成5年5月25日初版発行)によりました。ただし、返り点・句読点は省略し、改行(段落分け)も大部分省略しました。               
    2.   底本については、巻頭の「例言」に次のようにあります。
 本書は、滝川亀太郎博士著の『史記会注考証』を底本とし、その底本となった同治九年張文虎刊『金陵書局本』及び同治十一年張文虎校刊『史記集解索隠正義札記』と、明治十六年刊有井範平の補標『史記評林』、上海図書集成印書局校印の乾隆十二年版勅校刻二十一史の『欽定史記』、一九五九年七月中華書局刊の『史記』、拙著『史記会注考証校補』などを併せて校訂した。
   
    3.   本文中に環境依存文字を使用しているため、うまく表示できない場合があると思いますが、ご容赦ください。    
    4.  『国立国会図書館デジタルコレクション』の中に、『国訳漢文大成』(経子史部第15巻と経子史部第20巻、文学部第18-20巻)が収録されており、そこの『国訳漢文大成』(経子史部第15巻)で、「国訳史記列伝 上巻」の「廉頗藺相如列伝第二十一」167-175/ 446)を見る(読む)ことがで きます。
 また、「廉頗藺相如列伝第二十一」の原文387-390 / 446)を見る(読む)こともできます。
   
    5.   〇廉頗(れんぱ)=中国、戦国時代の趙の武将。恵文王およびその子孝成王のために隣敵の斉を破って功を立てたが、悼襄王のとき、魏に奔り、また楚に迎えられて没。趙に仕えたとき、自分は武功があるのに文臣たる藺相如(りんしょうじょ)が自分より上位にあることを怒ったが、相如の徳に服して刎頸(ふんけい)の交わりを結んだという。
 〇藺相如(りんしょうじょ)=中国、戦国時代の趙の相。初め繆賢の舎人。和氏(かし)の璧(たま)を持って恵文王の使として秦に赴き、胆略を認められ帰国して上卿となる。将軍廉頗(れんぱ)と刎頸(ふんけい)の交わりを結んで趙を強大にした。
 〇刎頸の交わり(ふんけいのまじわり)=(刎頸(ふんけい)=くびをはねること。首を斬ること。)[史記 廉頗藺相如伝] その友人のためなら、たとえ、くびを斬られても後悔しないほどの真実の交友。生死を共にする親しい交際。
 〇和氏の璧(かしのたま)=「卞和(べんか)」参照。
 〇卞和(べんか)=春秋時代の楚の人。荊山で得た、玉を含んだ石を楚の厲王(れいおう)に献じたが、玉ではないとして左足を断たれた。武王のときまたこれを献じ、同じく右足を斬られたが、文王のとき、これを磨かせると果たして玉であったから、名づけて「和氏(かし)の璧(たま)」といった(韓非子和氏)。のち戦国時代に趙の恵王がこの玉を得、秦の昭王が15の城と交換しようとしたので、「連城の璧」とよばれた(史記廉頗伝)。
 〇完璧(かんぺき)=[璧は円形の玉(ぎょく)] 欠点がなく、すぐれてよいこと。完全無欠。「─を期する」「─な演技」 (以上、『広辞苑』第6版による。)
   
    6.  上記の『史記』廉頗藺相如列伝の本文にある「相如曰王必無人臣願奉璧往使城入趙而璧留秦城不入臣請完璧歸趙」(相如曰はく、「王必ず人無くんば、臣願はくは璧(たま)を奉じて往きて使ひし、城(しろ)趙に入(い)らば璧をば秦に留めん。城入(い)らずんば、臣請ふ、璧(たま)を完(まつた)うして趙に歸らん」と。)ということから、「完璧」という言葉が生まれたわけです。
 「完璧」を訓読すれば、「璧を完(まっと)うす(完璧)」となって、「璧(たま) を無傷で無事に取り戻す」という意味ですから、語源から言えば、辞書に「瑕(きず)のない璧(たま)(宝玉)の意から」「きずのない宝玉の意から」などと説明してあるのは、厳密には正しいとは言えないのではないかと思われます。
   
    7.  「刎頸の交わり」について、新釈漢文大系89『史記九(列伝二)』の著者・水沢利忠先生は、「余説」で次のように書いておられます。

 廉頗と藺相如といえば、誰しもが、まず「刎頸の交わり」という故事成語を思い浮かべるのではないかと思う。/実は、この言葉、『史記』全編で四か所使われているが、そのどれもが、廉頗と藺相如、張耳と陳余の交わりを描くところに用いられている。本列伝に一か所、「張耳陳余列伝」に二か所、残りは「淮陰侯列伝」中にあるが、これは張耳と陳余について言及している箇所である。他の友情の例、たとえば「管鮑の交わり」として有名な、管仲と鮑叔の友情を描くにあたっては、司馬遷はこの言葉を用いていない。/つまり、司馬遷は、「刎頸の交わり」という友情のあり方を、この二組の男たちを例にとって示してみせたことになる。/廉頗と藺相如の場合は、反目──廉頗の一方的な嫉視という趣があるにせよ──から和解へ、という方向をとったのに対して、張耳と陳余の場合は、逆に、無二の親友が、憎みあい、相争うようになるのである。/我々は、ややもすれば「刎頸の交わり」という言葉に、スタティックな絶対的なものを見がちだが、人間同士が形づくる関係というものを見つめる、司馬遷の眼は、もっとリアルで厳しい。(同書、278頁)
   
    8.  「和氏の璧」について、新釈漢文大系89『史記九(列伝二)』の注を引かせていただきます。( )内の読み仮名は、引用者がつけたものです。
 楚人(そひと)の和氏(かし)が玉の原石を見つけ、楚の厲王(れいおう)に献じたが、玉人(ぎょくじん)がただの石だと鑑定したので、和氏は左足を切られた。武王の時代になって再び献じたが、またしても石と鑑定され右足をも切断された。文王の代になって、原石を抱(いだ)いて泣き続ける和氏のことを伝え聞いた文王は、和氏からその訳をきき磨かせると果たして名玉であった。これに名づけて和氏の璧(かしのたま)といった。以上は、『韓非子』和氏篇に見える。(247頁)
   
    9.  資料407に、「和氏第十三(『韓非子』より)」があります。    







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