資料404 王羲之「孝女曹娥碑」〈古拓本より〉




         孝女曹娥碑     邯 鄲 淳 

孝女曹娥者上虞曹盱之女也其先與周同末胄荒沉爰來適居盱能撫節安歌婆娑樂神以漢安二年五月時迎伍君逆濤而上爲水所淹不得其屍時娥年十四號慕思盱哀吟澤畔旬有七日遂自投江死經五日抱父屍出以漢安迄于元嘉元年靑龍在辛卯莫之有表度尚設祭之誄之辭曰
伊惟孝女曄曄之姿偏其返而令色孔儀窈窕淑女巧咲倩兮宜其家室在洽之陽待禮未施嗟喪蒼伊何無父孰怙訴神告哀赴江永號視死如歸是以眇然輕絶投入沙泥翩々孝女乍沉乍浮或泊洲嶼或在中或趨湍瀬或還波濤千夫失聲悼痛萬餘觀者塡道雲集路衢涙掩涕驚慟國都是以哀姜哭市杞崩城隅或有勊面引鏡耳用刀坐臺待水抱樹而燒於戯孝女德茂此儔何者大國防禮自脩豈况庶賤露屋草茅不扶自直不鏤而雕越梁過宋比之有殊哀此貞厲千載不渝嗚呼哀哉亂曰
銘勒金石質之乾坤歳數暦祀丘墓起墳光于后土顯照天人生賤死貴義之利門何悵華落雕零早分葩艶窈窕永世配神若堯二女爲湘夫人時效彷彿以招後昆
漢議郎蔡雍聞之來觀夜闇手摸其文而讀之雍題文云
黄絹幼婦外孫虀臼又云
三百年後碑冢當墮江中當墮不墮逢王匡
 昇平二年八月十五日記之
 


  (注) 1.  この「孝女曹娥碑」の本文は、中国法書選11『魏晋唐小楷集』(二玄社・1990年3月10日初版第1刷発行、1992年7月31日初版第3刷発行)所収の「王羲之『孝女曹娥碑〈古拓本〉』」によりました。     
    2.  本文中の「」(祖)・「」(「流」の異体字)・「」の漢字は、島根県立大学の “e漢字” を利用させていただきました。         
    3.  『中国書道全集』第2巻、魏・晋・南北朝(平凡社・1986年5月28日初版第1刷発行)に、遼寧省博物館蔵の「絹本・王羲之『孝女曹娥碑』」が掲載されています。本文の文字に上記の本文とは幾つかの異同があります。    
    4.  『中国書道全集』第2巻掲載の「絹本・王羲之『孝女曹娥碑』」の釈文から、本文の部分のみを次に引用させていただきます。(上に掲げた中国法書選11『魏晋唐小楷集』の本文とは文字の違いがありますので、ご注意ください。 〔 〕で示してあるのは、欠字(破損)の部分です。)

孝女曹娥者、上虞曹盱之女也。其先与周同(祖)。末胄/景(荒)沈(流)、爰(茲)来適居。盱能撫節安(按)歌、婆娑楽神。以漢安/二年五月、時迎伍君、逆濤而上、為水所淹、〔不得其屍〕。時娥年十四、号慕思盱、哀吟沢畔。旬有七日、遂自投/江死。経五日、抱父屍出。以漢安迄于元嘉元年青龍/在辛卯、莫之有表、度尚設祭之、誄之。辞曰。
伊(鬱)惟(伊)孝女、曄々之姿。偏其返(反)而、令色孔儀。窈窕淑/女、巧咲(笑)倩兮。冝其家室、在洽之陽。待(大)礼未施、嗟喪/〔慈父。彼〕蒼伊何、無父孰怙。訴神告哀。赴江永号、視死如歸。/是以眇然軽絶、投入沙泥。翩々孝女、乍(載)沈乍浮(載)、或泊/洲嶼(渚)、或在中流。或趨湍瀬、或還(逐)波濤。千大(夫)失声、悼/痛万余。観者塡道、雲集路衢。流(泣)涙掩涕、驚慟国都。/是以哀姜哭市、杞崩城隅。或有剋面引鏡、耳用/刀。坐台待水、抱樹而焼。於戯孝女、徳茂此儔。何者/大国、防礼自脩。豈況庶賤、露屋草茅。不扶自直、不/鏤而雕。越梁過宋、比之有殊。哀此貞厲、千歳不渝。/嗚呼哀哉。乱(辞)曰。
銘勒金石、質之乾坤。歳数暦(歴)祀、丘(立)墓起墳。光于/后土、顯照(昭)夫(天)人。生賤死貴、義之利門。何長(悵)華落、雕(飄)/零早分。葩艶窈窕、永世配神。若堯二女、為湘(相)夫人、/時効髣(彷)髴(彿)、以(己)招(昭)後昆。
漢議郎蔡雍(邕)聞之来観、夜闇手摸其文、而読之。/雍(邕)題文云。/黄絹幼婦、外孫虀臼。又云。/三百年後、碑冢当堕江中。当堕不堕、逢王叵(匡)。
昇平二年八月十五日記之。
〔題 記〕
元和十年十月二日観。僧権。/馮審字退思。会昌五年三月廿八日。/翰林学士韋琮。将仕郎李□□隠同観。
進士盧/弘礼。同/進士柳/宗直来/古蹤。元和/□年□月/十四日。宗直/留題于巻。/永州刺史馮/□。刑部員外/郎孟簡次/□同来看書。/国士博士韓/愈。趙玄遇。/著作佐郎/樊宗師。処/士盧同観。/元和四年/五月二十日/退之題。

参軍劉鈞題。此世之罕物。吏龍門県令王仲倫借観。大暦二年、歳次己未、二月辛未朔、三日癸酉。/百姓唐尚容、奉県令韓■処分命題。/
癸酉歳九月六日又。句章令満騫。懐充。/僧権。
開成四年七月廿九日。刺史楊漢公記。

有唐大暦二年秋九月望。沙門懐素蔵真題。(同書、170頁)
 * ■は、(イ + ソ  の下に  凵)の漢字。
   
    5.  『中国書道全集』第2巻の解説に、藤原有仁氏が次のように書いておられます。

 「孝女曹娥碑は、後漢末、溺死した父を求めて江に投じ、その屍を抱いて浮かんだという曹娥を讃えたもので、魏の邯鄲淳の撰文と伝えられる。のち蔡邕がこの碑を見、「黄絹幼婦、外孫虀臼」八字の隠語を題したと して名高い。八字は「絶妙好辞」の意であるとされ、謎解きのエピソードは『世説新語』捷悟に見えている。
 原碑は滅して久しいが、その後、小楷の写本が伝わり、南宋の『博古堂帖』(越州石氏本)に「晋賢書」、『群玉堂帖』に「無名氏書」と標して収めるほか、明清の法帖でもこれを収めるものは多い。一説にこれを王羲 之の書というが、唐宋の書録に王書曹娥碑のことは見えず、確証はない。宋に至って世に知られたことから、これを宋人の贋作と疑うものもある。文は章樵『古文苑』巻一九にも収められており、北宋の蔡汴が重書して刻 した別本もある。
 この真跡本は、烏絲欄(うしらん)を施した絹本に書かれているが、結体は扁平で、隷意や古い別体字を混えており、古意がある。末行に「昇平二年八月十五日記之」の題記があるが、昇(升)平二年(三五八)は東晋穆帝治世で、王羲之の晩年にあたる。これが王書とする根拠であろう。さらに、前に梁の鑑定家徐僧権(じょそうけん)の押署があり、後にも同じく、満騫(まんけん)、唐懐充(かいじゅう)、徐僧権の押署がある。従って絹本は梁隋官蔵本の体裁を備えている。(以下、略)」  (同書、169頁)

 詳しくは、『中国書道全集』第2巻の解説を参照してください。
   
    6.  曹娥(そうが)=後漢の孝女。父曹盱が洪水のために溺死した場所に投身して死んだ。中国浙江省紹興に地名として残り、廟がある。(130-143)(『広辞苑』第6版による。)          
    7.  この曹娥の碑に関して、「有知無知三十里(ゆうちむち・さんじゅうり)」という言葉があります。     
 〇有知無知三十里(ゆうちむち・さんじゅうり)=〔世説新語捷悟〕(後漢の楊脩と曹操が共に江南の地を歩いていた時、見かけた碑文を、楊脩は即座に理解したが曹操は30里ほど歩いてようやく悟った、という故事から)知恵のある者と知恵のない者との差の甚だしいことにいう。有智無智三十里。 (『広辞苑』第6版による。)
   
    8.  資料403に「魏武嘗過曹娥碑下」(『世説新語』捷悟第十一より)」があります。         
    9.  参考までに、上記二つの本(中国法書選11『魏晋唐小楷集』・『中国書道全集』第2巻)の読みを参考に、掲載本文の書き下し文を示しておきます。(読み仮名は、平仮名・歴史的仮名遣いと、片仮名・現代仮名遣いを併記して示しました。書き下し文について、お気づきの点をお教えいただければ幸いです。)  
       
   
    10.    孝女曹娥碑   邯鄲淳
孝女曹娥は、上虞の曹盱(さうく・ソウク)の女(むすめ)なり。其の先(せん)は周と(祖)を同じうす。末胄(まつちう・マッチュウ)荒沉(沈)し、爰(ここ)に來りて適居す。盱(く)は能く節を撫し歌を安じ、婆娑(ばさ)して神を樂しましむ。漢安二年五月、時に伍君を迎へ、濤(なみ)を逆(むか)へて上(のぼ)るを以て、水の淹(ひた)す所と爲(な)り、其の屍(し・(又は)しかばね)を得ず。時に娥は年十四、號慕して盱を思ひ、澤畔に哀吟す。旬有(じゆんいう・ジュンユウ)七日、遂に自(みづか・ミズカ)ら江に投じて死す。五日を經て、父の屍を抱きて出づ。漢安より元嘉元年、靑龍辛卯に在るに迄(いた)るも、之(これ)を表する有る莫(な)きを以て、度尚(どしやう・ドショウ)設けて之(これ)を祭り、之を誄(るい)す。辭に曰はく、
伊(こ)れ惟(こ)の孝女、曄曄(えふえふ・ヨウヨウ)の姿、偏として其れ返(ひるが)へり、令色孔(はなは)だ儀(よ)し。窈窕(えうてう・ヨウチョウ)たる淑女、巧咲(かうせう・コウショウ)倩(せん)たり。其の家室に宜しく、洽(かふ・コウ)の陽に在り。禮を待ちて未だ施さず。嗟(ああ)、〔慈父を〕喪(うしな)ふ。〔彼(か)の〕蒼(さう・ソウ)は伊(こ)れ何ぞや。父無くば孰(たれ)か怙(たの)まん。神に訴へて哀(あい)を告ぐ。江に赴きて永く號(さけ)び、死を視ること歸するが如し。是(ここ)を以て眇然(べうぜん・ビョウゼン)として輕絶し、沙泥(さでい)に投入す。翩々(へんぺん)たる孝女、乍(たちま)ち沉(しづ・シズ)み乍(たちま)ち浮かび、或(ある)いは洲嶼(しうしょ・シュウショ)に泊し、或いは中(流)に在り。或いは湍瀬(たんらい)に趨(おもむ)き、或いは波濤に還る。千夫(せんぷ)聲を失ひ、悼痛するもの萬餘(ばんよ)。觀る者は道を塡(うづ・ウズ)め、路衢(ろく)に雲集し、涙(なみだ)を(流)し涕(なみだ)を掩(おほ・オオ)ひ、國都を驚慟す。是を以て哀姜(あいきやう・アイキョウ)は市に哭(な)き、杞(き)は城隅(じやうぐう・ジョウグウ)を崩す。或いは面(かほ・カオ)を勊(こく)して鏡を引き、耳を(さ)くに刀を用ひ、臺に坐して水を待ち、樹を抱きて燒かるる有り。於戯(ああ)、孝女、德は此の儔(ちう・チュウ)より茂(さかん)なり。何となれば、大國防禮(ばうれい・ボウレイ)して自(みづか・ミズカ)ら脩(をさ)む。豈に况んや庶賤(しよせん)、露屋草茅(ろをくさうばう・ロオクソウボウ)なり。扶けずして自(おのづか・オノズカ)ら直(なほ・ナオ)く、鏤(ろう)せずして雕(てう・チョウ)せらる。梁を越え宋を過ぎ、之(これ)に比すれば殊(こと)なる有り。此の貞厲(ていれい)を哀しむは、千載(せんざい)渝(かは・カワ)らず。嗚呼(ああ)、哀しい哉。亂に曰はく、
銘は金石に勒(ろく)し、之(これ)を乾坤に質(ただ)す。歳數暦祀(さいすうれきし)し、丘墓に墳(ふん)を起こす。后土(こうど)に光(かがや)き、天人を顯照す。生は賤しく死は貴し、義の利門なり。何ぞ悵(いた)まん、華落ち、雕零(てうれい・チョウレイ)して早く分かるるを。葩(はな)は艶にして窈窕(えうてう・ヨウチョウ)、永世(えいせい)神に配す。堯の二女の、湘夫人と爲(な)るが若(ごと)し。時に彷彿を效(いた)し、以て後昆(こうこん)に招(昭・あき)らかにせよ。
漢の議郎蔡雍(さいよう)、之を聞き來り觀(み)、夜闇に手もて其の文を摸して之を讀む。雍は文に題して云ふ、
黄絹幼婦(くわうけんえうふ・コウケンヨウフ)、外孫虀臼(ぐわいそんせいきう・ガイソンセイキュウ)と。又云ふ、
三百年後、碑冢(ひちよう)は當(まさ)に江中に墮(お)つべし。當に墮つべきに墮ちざれば、王匡(わうきやう・オウキョウ)に逢はん、と。
 昇平二年八月十五日、之(これ)を記す。
   
    11.   ネット上で、詳しい注釈のついた「孝女曹娥碑」の本文(書き下し文)と通釈・注釈が見られます。 (残念ながら、現在は見られないようです。2014年9月7日記す。)    







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