(注) | 1. | この「孝女曹娥碑」の本文は、中国法書選11『魏晋唐小楷集』(二玄社・1990年3月10日初版第1刷発行、1992年7月31日初版第3刷発行)所収の「王羲之『孝女曹娥碑〈古拓本〉』」によりました。 | |||
2. | 本文中の「」(祖)・「」(「流」の異体字)・「」の漢字は、島根県立大学の “e漢字” を利用させていただきました。 | ||||
3. | 『中国書道全集』第2巻、魏・晋・南北朝(平凡社・1986年5月28日初版第1刷発行)に、遼寧省博物館蔵の「絹本・王羲之『孝女曹娥碑』」が掲載されています。本文の文字に上記の本文とは幾つかの異同があります。 | ||||
4. |
『中国書道全集』第2巻掲載の「絹本・王羲之『孝女曹娥碑』」の釈文から、本文の部分のみを次に引用させていただきます。(上に掲げた中国法書選11『魏晋唐小楷集』の本文とは文字の違いがありますので、ご注意ください。
〔 〕で示してあるのは、欠字(破損)の部分です。) 孝女曹娥者、上虞曹盱之女也。其先与周同(祖)。末胄/景(荒)沈(流)、爰(茲)来適居。盱能撫節安(按)歌、婆娑楽神。以漢安/二年五月、時迎伍君、逆濤而上、為水所淹、〔不得其屍〕。時娥年十四、号慕思盱、哀吟沢畔。旬有七日、遂自投/江死。経五日、抱父屍出。以漢安迄于元嘉元年青龍/在辛卯、莫之有表、度尚設祭之、誄之。辞曰。 伊(鬱)惟(伊)孝女、曄々之姿。偏其返(反)而、令色孔儀。窈窕淑/女、巧咲(笑)倩兮。冝其家室、在洽之陽。待(大)礼未施、嗟喪/〔慈父。彼〕蒼伊何、無父孰怙。訴神告哀。赴江永号、視死如歸。/是以眇然軽絶、投入沙泥。翩々孝女、乍(載)沈乍浮(載)、或泊/洲嶼(渚)、或在中流。或趨湍瀬、或還(逐)波濤。千大(夫)失声、悼/痛万余。観者塡道、雲集路衢。流(泣)涙掩涕、驚慟国都。/是以哀姜哭市、杞崩城隅。或有剋面引鏡、耳用/刀。坐台待水、抱樹而焼。於戯孝女、徳茂此儔。何者/大国、防礼自脩。豈況庶賤、露屋草茅。不扶自直、不/鏤而雕。越梁過宋、比之有殊。哀此貞厲、千歳不渝。/嗚呼哀哉。乱(辞)曰。 銘勒金石、質之乾坤。歳数暦(歴)祀、丘(立)墓起墳。光于/后土、顯照(昭)夫(天)人。生賤死貴、義之利門。何長(悵)華落、雕(飄)/零早分。葩艶窈窕、永世配神。若堯二女、為湘(相)夫人、/時効髣(彷)髴(彿)、以(己)招(昭)後昆。 漢議郎蔡雍(邕)聞之来観、夜闇手摸其文、而読之。/雍(邕)題文云。/黄絹幼婦、外孫虀臼。又云。/三百年後、碑冢当堕江中。当堕不堕、逢王叵(匡)。 昇平二年八月十五日記之。 〔題 記〕 元和十年十月二日観。僧権。/馮審字退思。会昌五年三月廿八日。/翰林学士韋琮。将仕郎李□□隠同観。 進士盧/弘礼。同/進士柳/宗直来/古蹤。元和/□年□月/十四日。宗直/留題于巻。/永州刺史馮/□。刑部員外/郎孟簡次/□同来看書。/国士博士韓/愈。趙玄遇。/著作佐郎/樊宗師。処/士盧同観。/元和四年/五月二十日/退之題。 参軍劉鈞題。此世之罕物。吏龍門県令王仲倫借観。大暦二年、歳次己未、二月辛未朔、三日癸酉。/百姓唐尚容、奉県令韓■処分命題。/ 癸酉歳九月六日又。句章令満騫。懐充。/僧権。 開成四年七月廿九日。刺史楊漢公記。 有唐大暦二年秋九月望。沙門懐素蔵真題。(同書、170頁) * ■は、(イ + ソ の下に 凵)の漢字。 |
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5. |
『中国書道全集』第2巻の解説に、藤原有仁氏が次のように書いておられます。 「孝女曹娥碑は、後漢末、溺死した父を求めて江に投じ、その屍を抱いて浮かんだという曹娥を讃えたもので、魏の邯鄲淳の撰文と伝えられる。のち蔡邕がこの碑を見、「黄絹幼婦、外孫虀臼」八字の隠語を題したと して名高い。八字は「絶妙好辞」の意であるとされ、謎解きのエピソードは『世説新語』捷悟に見えている。 原碑は滅して久しいが、その後、小楷の写本が伝わり、南宋の『博古堂帖』(越州石氏本)に「晋賢書」、『群玉堂帖』に「無名氏書」と標して収めるほか、明清の法帖でもこれを収めるものは多い。一説にこれを王羲 之の書というが、唐宋の書録に王書曹娥碑のことは見えず、確証はない。宋に至って世に知られたことから、これを宋人の贋作と疑うものもある。文は章樵『古文苑』巻一九にも収められており、北宋の蔡汴が重書して刻 した別本もある。 この真跡本は、烏絲欄(うしらん)を施した絹本に書かれているが、結体は扁平で、隷意や古い別体字を混えており、古意がある。末行に「昇平二年八月十五日記之」の題記があるが、昇(升)平二年(三五八)は東晋穆帝治世で、王羲之の晩年にあたる。これが王書とする根拠であろう。さらに、前に梁の鑑定家徐僧権(じょそうけん)の押署があり、後にも同じく、満騫(まんけん)、唐懐充(かいじゅう)、徐僧権の押署がある。従って絹本は梁隋官蔵本の体裁を備えている。(以下、略)」 (同書、169頁) 詳しくは、『中国書道全集』第2巻の解説を参照してください。 |
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6. | 曹娥(そうが)=後漢の孝女。父曹盱が洪水のために溺死した場所に投身して死んだ。中国浙江省紹興に地名として残り、廟がある。(130-143)(『広辞苑』第6版による。) | ||||
7. |
この曹娥の碑に関して、「有知無知三十里(ゆうちむち・さんじゅうり)」という言葉があります。 〇有知無知三十里(ゆうちむち・さんじゅうり)=〔世説新語捷悟〕(後漢の楊脩と曹操が共に江南の地を歩いていた時、見かけた碑文を、楊脩は即座に理解したが曹操は30里ほど歩いてようやく悟った、という故事から)知恵のある者と知恵のない者との差の甚だしいことにいう。有智無智三十里。 (『広辞苑』第6版による。) |
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8. | 資料403に「魏武嘗過曹娥碑下」(『世説新語』捷悟第十一より)」があります。 | ||||
9. |
参考までに、上記二つの本(中国法書選11『魏晋唐小楷集』・『中国書道全集』第2巻)の読みを参考に、掲載本文の書き下し文を示しておきます。(読み仮名は、平仮名・歴史的仮名遣いと、片仮名・現代仮名遣いを併記して示しました。書き下し文について、お気づきの点をお教えいただければ幸いです。) |
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10. | 孝女曹娥碑 邯鄲淳 孝女曹娥は、上虞の曹盱(さうく・ソウク)の女(むすめ)なり。其の先(せん)は周と(祖)を同じうす。末胄(まつちう・マッチュウ)荒沉(沈)し、爰(ここ)に來りて適居す。盱(く)は能く節を撫し歌を安じ、婆娑(ばさ)して神を樂しましむ。漢安二年五月、時に伍君を迎へ、濤(なみ)を逆(むか)へて上(のぼ)るを以て、水の淹(ひた)す所と爲(な)り、其の屍(し・(又は)しかばね)を得ず。時に娥は年十四、號慕して盱を思ひ、澤畔に哀吟す。旬有(じゆんいう・ジュンユウ)七日、遂に自(みづか・ミズカ)ら江に投じて死す。五日を經て、父の屍を抱きて出づ。漢安より元嘉元年、靑龍辛卯に在るに迄(いた)るも、之(これ)を表する有る莫(な)きを以て、度尚(どしやう・ドショウ)設けて之(これ)を祭り、之を誄(るい)す。辭に曰はく、 伊(こ)れ惟(こ)の孝女、曄曄(えふえふ・ヨウヨウ)の姿、偏として其れ返(ひるが)へり、令色孔(はなは)だ儀(よ)し。窈窕(えうてう・ヨウチョウ)たる淑女、巧咲(かうせう・コウショウ)倩(せん)たり。其の家室に宜しく、洽(かふ・コウ)の陽に在り。禮を待ちて未だ施さず。嗟(ああ)、〔慈父を〕喪(うしな)ふ。〔彼(か)の〕蒼(さう・ソウ)は伊(こ)れ何ぞや。父無くば孰(たれ)か怙(たの)まん。神に訴へて哀(あい)を告ぐ。江に赴きて永く號(さけ)び、死を視ること歸するが如し。是(ここ)を以て眇然(べうぜん・ビョウゼン)として輕絶し、沙泥(さでい)に投入す。翩々(へんぺん)たる孝女、乍(たちま)ち沉(しづ・シズ)み乍(たちま)ち浮かび、或(ある)いは洲嶼(しうしょ・シュウショ)に泊し、或いは中(流)に在り。或いは湍瀬(たんらい)に趨(おもむ)き、或いは波濤に還る。千夫(せんぷ)聲を失ひ、悼痛するもの萬餘(ばんよ)。觀る者は道を塡(うづ・ウズ)め、路衢(ろく)に雲集し、涙(なみだ)を(流)し涕(なみだ)を掩(おほ・オオ)ひ、國都を驚慟す。是を以て哀姜(あいきやう・アイキョウ)は市に哭(な)き、杞(き)は城隅(じやうぐう・ジョウグウ)を崩す。或いは面(かほ・カオ)を勊(こく)して鏡を引き、耳を(さ)くに刀を用ひ、臺に坐して水を待ち、樹を抱きて燒かるる有り。於戯(ああ)、孝女、德は此の儔(ちう・チュウ)より茂(さかん)なり。何となれば、大國防禮(ばうれい・ボウレイ)して自(みづか・ミズカ)ら脩(をさ)む。豈に况んや庶賤(しよせん)、露屋草茅(ろをくさうばう・ロオクソウボウ)なり。扶けずして自(おのづか・オノズカ)ら直(なほ・ナオ)く、鏤(ろう)せずして雕(てう・チョウ)せらる。梁を越え宋を過ぎ、之(これ)に比すれば殊(こと)なる有り。此の貞厲(ていれい)を哀しむは、千載(せんざい)渝(かは・カワ)らず。嗚呼(ああ)、哀しい哉。亂に曰はく、 銘は金石に勒(ろく)し、之(これ)を乾坤に質(ただ)す。歳數暦祀(さいすうれきし)し、丘墓に墳(ふん)を起こす。后土(こうど)に光(かがや)き、天人を顯照す。生は賤しく死は貴し、義の利門なり。何ぞ悵(いた)まん、華落ち、雕零(てうれい・チョウレイ)して早く分かるるを。葩(はな)は艶にして窈窕(えうてう・ヨウチョウ)、永世(えいせい)神に配す。堯の二女の、湘夫人と爲(な)るが若(ごと)し。時に彷彿を效(いた)し、以て後昆(こうこん)に招(昭・あき)らかにせよ。 漢の議郎蔡雍(さいよう)、之を聞き來り觀(み)、夜闇に手もて其の文を摸して之を讀む。雍は文に題して云ふ、 黄絹幼婦(くわうけんえうふ・コウケンヨウフ)、外孫虀臼(ぐわいそんせいきう・ガイソンセイキュウ)と。又云ふ、 三百年後、碑冢(ひちよう)は當(まさ)に江中に墮(お)つべし。當に墮つべきに墮ちざれば、王匡(わうきやう・オウキョウ)に逢はん、と。 昇平二年八月十五日、之(これ)を記す。 |
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11. | ネット上で、詳しい注釈のついた「孝女曹娥碑」の本文(書き下し文)と通釈・注釈が見られます。 (残念ながら、現在は見られないようです。2014年9月7日記す。) |