資料378 「二十四孝」(有朋堂文庫『御伽草紙』より)

     
    
 

        
二 十 四 孝     有朋堂文庫『御伽草紙』より  
         

 

 

 

   大 舜

 

 


  隊々耕春象 紛々耘草禽 嗣堯登寶位 孝感動天心

    
隊々として春に耕す象 紛々として草を耘る禽
    
 堯に嗣で寶位に登る 孝感天心を動す
                  

 

 


大舜は至つて孝行なる人なり。父の名は瞽叟(こそう)といへり、一段頑(かたくな)にして、母は嚚(かだま)しき人なり。弟はおほいに傲りて、いたづら人なり。然れども大舜はひたすら孝行をいたせり。ある時歴山といふ所に耕作しけるに、かれが孝行を感じて、大象が來つて田をたがへし、又鳥飛び來つて田の草をくさぎり、耕作の助けをなしたるなり。扨其時天下の御あるじをば堯王と名づけ奉る。姫君まします。姉をば娥黄と申し、妹は女英と申し侍り。堯王すなはち舜の孝行なることをきこしめし及ばれ、御娘を后にそなへ、終に天下をゆづり給へり。これひとへに孝行の深き心よりおこれり。
 

    漢 文 帝 


  仁孝臨天下 巍々冠百王 漢廷事賢母 湯藥必親甞

                  

    
仁孝天下に臨む 巍々として百王に冠たり 
    漢廷賢母に事ふ 湯藥必親甞む 
                  

漢の文帝は漢の高祖の御子(みこ)なり。いとけなき御名をば恒(ごう)とぞ申し侍りき。母薄太后に孝行なり。よろづの食事を參らせらるゝ時は、まづみづからきこしめし試み給へり。兄弟(きやうだい)も數多ましましけれども、此帝(このみかど)ほど仁義を行ひ孝行なるはなかりけり。此故に陳平、周勃などいひける臣下等(しんかたち)、王になし參らせたり。それより漢の文帝と申し侍りき。然るに孝行の道は、上一人より下萬民まであるべき事なりと知るといへども、身に行ひ心に思ひ入る事はなり難きを、かたじけなくも四百餘州の天子の御身として、かくの如き御ことわざは、尊(たつと)かりし御こゝろざしとぞ。さる程に世もゆたかに民も安く住みけるとなり。


    丁 蘭 


  刻木爲父母 形容在日新 寄言諸子姪 聞早孝其親

                  

   
木を刻で父母と爲す 形容在日新なり 
    言を寄す諸子姪 聞て早く其親に孝す
                  

丁蘭は河内の野王といふ所の人なり。十五のとし母におくれ、永くわかれを悲み、母の形(かたち)を木像につくり、生ける人に事へぬる如くせり。丁蘭が妻ある夜の事なるに、火をもつて木像のおもてを焦(こが)したれば、瘡(かさ)の如くにはれいで、膿血(うみち)ながれて、二日を過しぬれば、妻の頭(かしら)の髮が刀にて切りたる樣になりて落ちたる程に、驚いて詫言(わびこと)をする間、丁蘭も奇特(きどく)に思ひ、木像を大道へうつしおき、妻に三年わびことをさせたれば、一夜(いちや)の内に雨風の音して、木像はみづから内へ歸りたるなり。それよりしてかりそめの事をも、木像のけしきを伺ひたるとなり。かやうに不思議なる事のあるほどに、孝行をなしたるはたぐひすくなき事なるべし。


    孟 宗 字恭武或子恭 


  泪滴朔風寒 蕭々竹數竿 須臾春笋出 天意報平安

   
 泪滴て朔風寒し 蕭々たる竹數竿 
    須臾春笋出づ 天意平安を報ず

孟宗はいとけなくして父に後れ、ひとりの母を養へり。母年老いて常に病みいたはり食の味ひもたびごとに變りければ、よしなき物を望めり。冬の事なるに竹子(たけのこ)をほしく思へり。すなはち孟宗竹林(ちくりん)に行き求むれども、雪ふかき折なればなどかたやすく得べき。ひとへに天道の御あはれみを頼み奉るとて、祈をかけて大きに悲み、竹によりそひける所に、俄に大地ひらけて、竹の子あまた生ひ出で侍りける。大に喜び、乃ちとりて歸りあつものにつくり、母に與へ侍りければ、母是を食してそのまゝ病もいえて齡をのべけり。是ひとへに孝行の深き心を感じて、天道より與へ給へり。


    閔 子 騫 


  閔氏有賢郎 何曾怨晩娘 尊前留母在 三子免風霜

       閔氏賢郎有り 何ぞ曾て晩娘を怨ず 
        尊前に母を留て在り 三子風霜を免る

閔子騫(びんしげん)いとけなくして 母を失へり。父また妻をもとめて、二人(ふたり)の子をもてり。彼の妻、我子を深く愛して繼子(まゝこ)を惡み、寒き冬も蘆(あし)の穗を取りて、著る物に入れて著せ侍るあひだ、身も冷えて堪へかねたるを見て、父、後の妻を去らんとしければ、閔子騫がいふやうには、彼の妻を去りたらば、三たりの子寒かるべし、今われ一人寒きをこらへたらば、弟の二人(ふたり)はあたゝかなるべしとて、父を諌めたるゆゑに、これを感じて繼母(けいぼ)も後(のち)には隔てなく慈(いつく)しみ、もとの母とおなじくなれり。只人のよしあしはみづからの心にありと、古人の言ひ侍りけるも、ことわりとこそ思ひ侍る。


    曾 參 


  母指纔方嚙 兒心痛不禁 負薪歸來晩 骨肉至情深

     
母指纔に方に嚙む 兒心痛で禁ぜず 
     薪を負て歸來晩し 骨肉至情深し

曾參(そうしん)ある時山中へ薪を取りに行き侍り、母留主にゐたりけるに、したしき友來れり。これをもてなしたく思へども、曾參(そうしん)はうちにあらず、もとより家まどしければ叶はず。曾參が歸れかしとて、みづから指をかめり。曾參山に薪を拾ひゐたるが、俄に胸さわぎしける程に、急ぎ家に歸りたれば、母ありすがたを具(つぶさ)に語り侍り、かくの如く指を嚙みたるが、遠きにこたへたるは、一段孝行にして、親子(しんし)のなさけ深きしるしなり。總(そう)じて曾參の事は、人にかはりて心と心のうへの事をいへり。奥深きことわりあるべし。


    王 祥  


  繼母人間有 王祥天下無 至今河水上 一片臥氷摸

     
繼母人間に有り 王祥天下に無し 
     今に至て河水の上 一片氷摸に臥す

王祥はいとけなくして母を失へり。父また妻をもとむ、其名を朱氏といひ侍り。繼母(けいぼ)の癖(くせ)なれば、父子の中をあしく言ひなして、惡まし侍れども怨とせずして、繼母にもよく孝行をいたしけり。かやうの人なる程に、本の母冬の極めて寒き折ふし、生魚(なまいを)をほしく思ひける故に、肇府(でうふ)といふ所の河へもとめに行き侍り。されども冬の事なれば、氷とぢていを見えず。すなはち衣(ころも)をぬぎて裸(はだか)になり、氷の上にふし、いを無きことを悲み居たれば、かの氷すこしとけて、いを二つをどり出でたり。乃ち取りて歸り、母にあたへ侍り。是ひとへに孝行のゆゑに、その所には毎年人の臥したる形(かたち)、氷のうへにあるとなり。


    老 萊 子  


  戯舞學嬌癡 春風動綵衣 雙親開口笑 喜色滿庭闈

     
戯舞嬌癡を學ぶ 春風綵衣を動す 
     雙親口を開て笑ふ 喜色庭闈に滿つ

老萊子(らうらいし)は二人の親に仕へたる人なり。されば老萊子七十にして、身にいつくしき衣(ころも)を著て、幼(をさな)き者の形(かたち)になり、舞ひ戯れ、又親のために給仕をするとて、わざとけつまづきて轉(ころ)び、いとけなき者の泣くやうに泣きけり。この心は七十になりければ、年よりて形麗(かたちうるは)しからざるほどに、さこそこの形を親の見給はゞ、わが身の年よりたるを悲しく思ひ給はんことを恐れ、また親の年よりたると思はれざるやうにとの爲に、かやうの擧動(ふるまひ)をなしたるとなり。 


    姜 詩 


  舎側甘泉出 一朝雙鯉魚 子能知事母 婦更孝於姑

       舎側に甘泉出づ 一朝雙鯉魚 
        子能く母に事を知り 婦更に姑に孝あり

姜詩(きやうし)は母に孝行なる人なり。母つねに江の水を飲みたく思ひ、又なまいをの鱠(なます)をほしく思へり。すなはち姜詩妻をして、六七里の道を隔てたる江の水を汲ましめ、又いをの鱠をよくしたゝめて與へ、夫婦共に常によく仕へり。或時姜詩が家の傍に、忽ちに江の如くして水湧きいで、朝ごとに水中に鯉あり、すなはち之をとりて母にあたへ侍り。かやうの不思議(ふしぎ)なる事のありけるは、ひとへに姜詩夫婦の孝行を感じて、天道より與へたまふなるべし。

 



 
   唐 夫 人  


  孝敬崔家婦 乳姑晨盥梳 此恩無以報 願得子孫如

      
孝敬崔家の婦 姑に乳して晨に盥梳す 
      此恩以て報ずる無し 願は子孫かくの如くすることを得ん

唐夫人は姑(しうとめ)長孫夫人年たけ、よろづ食事齒に叶はざれば、つねに乳(ち)をふくめ、あるひは朝ごとに髮をけづり、其外よく仕へて、數年養ひ侍り。ある時長孫夫人わづらひつきて、このたびは死せんと思ひ、一門一家を集めていへる事は、わが唐夫人の數年の恩を報ぜずして、今死せん事殘り多し、わが子孫唐夫人の孝義をまねてあるならば、必ず末も繁昌すべしといひ侍り。かやうに姑(しうとめ)に孝行なるは古今稀なるとて、人みな之をほめたりと。さればやがて報いて、末繁昌する事きはまりもなくありたるとなり。


    楊 香  


  深山逢白額 努力轉腥風 父子倶無恙 脱身饞口中

      
深山白額に逢ふ 努力腥風を轉ず 
         父子倶に恙無し 身を饞口の中を脱る
 
            

楊香(やうきやう)はひとりの父をもてり。ある時父と共に山中へ行きしに、忽ちあらき虎にあへり。楊香、父の命を失はんことを恐れて、虎を追ひ去らしめんとし侍りけれども叶はざる程に、天の御あはれみを頼み、こひねがはくは我命を虎にあたへ、父を助けて給へと、心ざし深くして祈りければ、さすがに天も哀とおもひ給ひけるにや、今まで猛(たけ)きかたちにて執りくらはんとせしに、虎俄に尾をすべて逃げ退きければ、父子ともに虎口の難をまぬがれ、つゝがなく家に歸り侍るとなり。これひとへに孝行の心ざし深きゆゑに、かやうの奇特をあらはせるなるべし。
 

    董 永  


  葬父貸方香 天姫陌上迎 織絹償債主 孝感盡知名 

      
父を葬に方香を貸る 天姫陌上に迎ふ 
      絹を織て債主を償ふ 孝感盡く名を知る

   
(引用者注:「債生」とあるのを、「債主」と改めました。)

董永(とうえい)はいとけなき時に母に離れ、家まどしくして常に人に雇はれ農作をし、賃をとりて日を送りたり。父さて足も起たざれば小車(せうしや)を作り、父を乘せて、田のあぜにおいて養ひたり。ある時父におくれ、葬禮をとゝのへたく思ひ侍れども、もとよりまどしければ叶はず。されば料足十貫に身をうり、葬禮を營み侍り。偖かの錢主(ぜにぬし)の許へ行きけるが、道にて一人の美女にあへり。かの董永が妻になるべしとて、ともに行きて、一月にかとりの絹三百疋織りて、主(ぬし)のかたへ返したれば、主もこれを感じて、董永が身をゆるしたり。其後婦人董永にいふ樣は、我は天上の織女(おりひめ)なるが、汝が孝を感じて、我を降(くだ)しておひめを償(つぐの)はせせりとて、天へぞあがりけり。


    黄 香  


  冬月温衾煖 夏天扇枕涼 兒童知子職 千古一黄香

       冬月には衾を温めて煖にす 夏天には枕を扇で涼うす 
        兒童子職を知る 千古一黄香 

黄香(わうきやう)は安陵といふ所の人なり。九歳の時母におくれ、父に能く仕へて力を盡せり。されば夏の極めて暑き折には、枕や座を扇ひですゞしめて、また冬の至つて寒き時には、衾(ふすま)のつめたきことを悲んで、わが身をもつて暖めて與へたり。かやうに孝行なるとて、太守劉讙といひし人、札(ふだ)をたてて彼が孝行をほめたる程に、それよりして人皆黄香こそ孝行第一の人なりと知りたるとなり。
 

    王 裒  


  慈母怕聞雷 氷魂宿夜臺 阿香時一震 到墓遶千廻

       慈母雷を聞くを怕る 氷魂夜臺に宿す 
        阿香時に一震 墓に到て遶ること千廻 

王裒(わうほう)は營陰といふ所の人なり。父の王義、不慮の事によりて、帝王より法度(はつと)に行はれ死にけるを恨みて、一期(ご)の間(あひだ)その方(はう)へは向うて坐せざりしなり。父の墓所(はかどころ)にゐて、ひざまづき禮拜(らいはい)して、柏の木に取り付きて泣き悲む程に、涙かゝりて木も枯れたるとなり。母は平生かみなりを恐れたる人なりければ、母むなしくなれる後にも、雷電のしける折には、急ぎ母の墓所へゆき、王裒これにありとて、墓をめぐり、死したる母に力を添へたり。かやうに死して後まで孝行をなしけるを以て、生ける時の孝行まで推しはかられて、有りがたき事どもなり。


    郭 巨 


  貧乏思供給 埋兒願母存 黄金天所賜 光彩照寒門

      
貧乏供給を思ふ 兒を埋て母存を願ふ 
      黄金天より賜ふ所 光彩寒門を照す

郭巨は河内といふ所の人なり。家貧(まど)しうして母を養へり。妻一(ひとり)の子を生みて三歳になれり。郭巨が老母、彼の孫をいつくしみ、わが食事を分け與へけり。或時、郭巨妻に語る樣は、貧(まど)しければ母の食事さへ心に不足と思ひしに、其内を分けて孫に賜はれば乏しかるべし、是偏に我子の有りし故なり、所詮汝と夫婦たらば子二度(ふたゝび)有るべし、母は二度有るべからず、とかく此子を埋みて母を能く養ひたく思ふなりと夫婦云ひければ、妻もさすがに悲しく思へども、夫の命に違はず、彼の三歳の兒(ちご)を引きつれて、埋みに行き侍る。則ち郭巨涙を押へて、すこし掘りたれば、黄金(わうごん)の釜(かま)を掘り出だせり。其釜に不思議の文字すわれり。其文(そのもん)に曰く、天賜孝子郭巨奪民不取(天孝子郭巨に賜ふ、奪ふことを得ず、民取ることを得ず)と云々。此心は天道より郭巨に給ふ程に、餘人取るべからずとなり。則ち其釜をえて喜び、兒(ちご)をも埋まず、ともに歸り、母にいよいよ孝行をつくせるとなり。



    朱 壽 昌 


  七歳生離母 參商五十年 一朝相見面 喜氣動皇天

      
七歳にして離母を生ず 參商五十年 
      一朝面を相見る 喜氣皇天を動す

朱壽昌は七歳の時、父その母を去りけり。されば其母をよく知らざりければ、此事を歎き侍れども、つひに逢はざること五十年に及べり。ある時壽昌官人なりといへども、官祿をもすて、妻子をもすてて、秦といふ所へ尋ねに行きけるとて、母に逢はせて給へとて、みづから身より血を出だして、經を書きて天道へ祈りをかけて尋ねたれば、心ざしの深きゆゑに、つひに尋ねあへるとなり。


    剡 子 


  老親思鹿乳 身掛褐毛衣 若不高聲語 山中帶矢皈

      
老親鹿乳を思ひ 身に褐毛の衣を掛け 
      若高聲に語らずは 山中に矢を帶て皈ん

剡子(せんし)は親のために命を捨てんとしける程の孝行なる人なり。其故は父母(ぶも)老いて共に兩眼を煩ひし程に、眼の藥なるとて鹿の乳(ち)を望めり。剡子もとより孝なる者なれば、親の望みをかなへたく思ひ、すなはち鹿の皮を著て、數多むらがりたる鹿の中へまぎれ入り侍れば、獵人これを見て、實(まこと)の鹿ぞと心得て、弓にて射んとしけり。其時剡子是は實の鹿にはあらず、剡子といふ者なるが、親の望みを叶へたく思ひ、僞りて鹿の形となれりと、聲をあげて言ひければ、獵人驚いて其故を問へば、ありすがたを語る。されば孝行の志深き故に、矢をのがれて返りたり。そもそも人として鹿の乳を求むればとていかでか得さすべき。されども思ひ入りたる孝行の思ひやられてあはれなり。 


    蔡 順 


  黑椹奉親闈 啼飢涙滿衣 赤眉知孝順 牛米贈君歸

      
黑椹親闈に奉ず 飢に啼て涙衣に滿つ 
      赤眉孝順を知て 牛米君に贈て歸しむ

蔡順は汝南といふ所の人なり。王莽といへる人の時分の末に天下大に亂れ、又飢饉して食事に乏しければ、母のために桑の實を拾ひけるが、熟したると熟せざるとを分けたり。このとき世の亂(みだれ)により、人を殺し剝ぎ取りなどする者ども來つて、蔡順に問ふ樣は、何(なに)とて二色(ふたいろ)に拾ひ分けたるぞと言ひければ、蔡順ひとりの母をもてるが、此熟したるは母にあたへ、いまだ熟せざるは我がためなりと語りければ、心づよき不道(ふたう)の者なれども、かれが孝を感じて、米二斗と牛の足一つ與へて去りけり。その米と牛の腿(もゝ)とを母にあたへ、又みづからも常に食すれども、一期の間盡きずして有りたるとなり。これ孝行のしるしなり。


    庾 黔 婁 


  到縣未旬日 椿庭逢疾深 願將身代死 北望啓憂心

      
縣に到て未旬日 椿庭疾深きに逢ふ 
      願は身を將て死に代り 北望憂心を啓

庾黔婁(ゆきんろう)は南齊の時の人なり。孱陵といふ所の官人(くわんにん)になりて、すなはち孱陵縣へ至りけるが、いまだ十日にもならざるに、忽ちに胸(むな)さわぎしけるほどに、父の病み給ふかと思ひ、官を捨てて歸りければ、案の如く大に病めり。黔婁、醫師によしあしを問ひければ、醫師病者の糞を嘗めてみるに、甘く苦からばよかるべしと語りければ、黔婁やすき事なりとて、嘗めて見ければ、味よからざりける程に、死せんことを悲み、北斗の星に祈をかけて、身がはりにたゝん事を祈りたるとなり。
 

    呉 猛 


  夏夜無帷帳 蚊多不敢揮 恣渠膏血飽 免使入親闈

       夏夜に帷帳無し 蚊多して敢て揮はず 
        渠膏血を恣して飽く 親闈に入れしむることを免る

呉猛は八歳にして孝ある人なり。家まどしくしてよろづ心に足らざりけり。されば夏になりけれども帷帳(いちやう)もなし。呉猛みづから思へり、わが衣(ころも)をぬぎて親に著せ、わが身はあらはにして蚊に喰はせたらば、蚊もわが身を喰ひ親を助けんと思ひ、すなはちいつも夜もすがら裸體(はだか)になり、わが身を蚊にくはせて、親の方(かた)へ蚊の行かぬやうにして仕へたるとなり。いとけなき者のかやうの孝行は、不思議なりし事共なり。


    張 孝   張 禮


  偶値綠林兒 代烹云瘦肥 人皆有兄弟 張氏古今稀

       偶綠林の兒に値ひ 烹るに代つて瘦肥を云ふ 
        人皆兄弟有り 張氏古今稀なり

張孝張禮は兄弟なり。世間飢饉の時に、八十餘(あまり)の母を養へり。木實(このみ)を拾ひに行きたれば、一人の民疲れたる者來りて、張禮を殺して喰(くら)はんと云へり。張禮云ふ樣は、われ老いたる母をもてり、けふはいまだ食事を參らせざりつる程に、すこしの暇を賜はれ、母に食物を參らせて、やがて參らん、もし此約束をたがへば、家に來りて一族までを殺し給へと云うて歸る。母に食事を進めて、約束の如くに彼の者の所へ至りけり。兄の張孝是を聞きて、又跡より行きて盗人にいふ樣は、我は張禮より肥えたる程に、食するによかるべし、我を殺して張禮を助けよと云へり。又張禮は我はじめよりの約束なりとて、死を爭ひければ、彼の無道(ふたう)なる者も兄弟の孝義を感じて、共に死を免(ゆる)し、かやうの兄弟古今稀なりとて、米二石鹽一駄とあたへたる。是を取りて歸り、いよいよ孝道をなせるとなり。 

    田 眞   田 廣   田 慶  


  海底紫珊瑚 群芳總不如 春風花滿樹 兄弟復同居

      
海底の紫珊瑚 群芳總て如かず 
      春風花滿樹 兄弟復居に同じ

此三人は兄弟(きやうだい)なり。親におくれてのち、親の財寶を三つに分けて取れるが、庭前に紫荊樹とて、枝葉榮え花も咲き亂れたる木一本あり。これを三つにわけて取るべしとて、終夜(よもすがら)三人詮議しけるが、夜の既に明けければ、木を切らんとて、木のもとへ至りければ、昨日(きのふ)まで榮えたる木が俄に枯れたり。田眞之を見て、草木心ありて切りわかたんといへるを聞いて枯れたり、まことに人として、これを辨(わきま)へざるべしやとて、分たずしておきたれば、又ふたゝびもとの如く榮えたるとなり。


    山 谷


  貴顯聞天下 平生孝事親 汲泉涓溺器 婢妾豈無人

        貴顯天下に聞ゆ 平生孝にして親に事ふ 
        泉を汲で溺器を涓ぐ 婢妾豈人無んや

山谷は宋の代の詩人なり、今にいたりて詩人の祖師といはるゝ人なり。あまたつかひ人もあり、又妻も有りといへども、みづから母の大小便の器物(うつはもの)をとり扱ひて、汚(けが)れたる時は手づからこれを洗ひて母にあたへ、朝夕よく仕へて怠る事なし。さらば一を以て萬を知るなれば、其外の孝行推し量られたるとて、此人の孝義天下にあらはれたるとなり。この山谷のことは餘(よ)の人にかはりて、名の高き人なり。


    陸 績  字公紀


  孝悌皆天性 人間六歳兒 袖中懷綠橘 遺母報含飴

      
孝悌皆天性 人間六歳の兒 
      袖中に綠橘を懷して 母に遺て含飴を報ず

陸績六歳の時、袁術といふ人の所へ行き侍り。袁術陸績がために菓子に橘を出だせり。陸績これを三つ取りて、袖に入れて歸るとて、袁術に禮をいたすとて、袂より落せり。袁術これを見て、陸績どのは幼き人に似合はぬことと言ひ侍りければ、あまりに見事なるほどに、家にかへり母にあたへんためなりと申し侍り。袁術これを聞きて、幼き心にてかやうの心づけ古今希なりとほめたるとなり。さてこそ天下の人、かれが孝行なることを知りたりとなり。
 

 



    
(注) 1. 上記の「二十四孝」の本文は、『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の有
         朋堂文庫『御伽草紙』(塚本哲三・校訂、有朋堂・大正15年9月23日発行)に拠り
         ました。
           『国立国会図書館デジタルコレクション』
                            → 有朋堂文庫『御伽草紙』119~128/384)
         2. 各人の初めに挙げてある詩には、返り点と送り仮名がついていますが、それを詩の
         下に書き下し文の形で示しました。書き下し文に用いてある平仮名は、原則として元
         の詩についているものです。
         3. 本文中の読み仮名は、原文についているルビをそのまま示してあります。
          なお、平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、元の仮名を繰り返して表
         記してあります(「ましまし」「いよいよ」「そもそも」)。
         4. 「孟宗」の本文中にある「冬の事なるに」は、原本には「冬の事たるに」となっている
         のを、引用者が書き改めたものです。ここは、原本通り「冬の事たるに」としておくべき
         かどうか、迷っています。
         5. 各詩の読み方を、他の本を参考にして次に示してみます。
(御伽草紙の「二十四孝」の
          詩の読み方には、本によって違いがあるようです。これらの詩には、伝統的な読み方があるようで
          すが、ここでは細かい違いには触れてありませんのでご注意ください。)

 

大舜

たいたいとしてはるにたがやすざう ふんぷんとしてくさをくさぎるとり
ぎようについではうゐにのぼる かうかんてんしんをうごかす

 

 

 

 

漢文帝

じんかうてんかにのぞむ ぎぎとしてはくわうにくわんたり
かんていけんぼにつかふ たうやくかならずみづからなむ

 

 

 

 

丁蘭

きをきざんでぶもとなす けいようざいじつあらたなり
ことばをよすしよしてつ きいてはやくそのおやにかうす

 

 

 

 

孟宗

なんだしただつてさくふうさむし しようしようたるたけすがん
しゆゆしゆんしゆんいづ てんいへいあんをほうず

 

 

 

 

閔子騫

びんしけんらうあり なんぞかつてはんぢやうをえんず
そんぜんにははをとどめてあり さんしふうさうをまぬがる

 

 

 

 

曾參 

ぼしわづかにまさにかむ じしんいたんできんぜず
たきぎをおうてきらいおそし こつにくしじやうふかし

 

 

 

 

王祥

けいぼにんげんにあり わうしやうてんかになし
いまにいたつてかすいのうへ いつぺんひようもにふす

 

 

 

 

老萊子 

けぶきようちをまなぶ しゆんぷうさいえをうごかす
さうしんくちをひらいてわらふ きしよくていゐにみつ

 

 

 

 

姜詩

しやそくにかんせんいづ いつてうそうりぎよ
こよくははにつかふることをしり ふさらにこにかうあり

 

 

 

 

唐夫人 

かうけいさいかのぶ こににうしてあしたにくはんしよす
このおんもつてほうずるなし ねがはくはしそんかくのごとくすることをえん

 

 

 

 

楊香

しんざんはくがくにあふ つとめてせいふうをてんず
ふしともにつつがなし みをざんかうのうちをまぬかる

 

 

 

 

董永 

ちちをさうするにはうきやうをかる てんきはんしやうにむかふ
きぬをおつてさいしゆにつくのふ かうかんことごとくなをしる

 

 

 

 

黄香

とうげつにはふすまをあたためてあたたかにす かてんにはまくらをあふいですずしうす
じどうししよくをしる せんこいちわうきやう

 

 

 

 

王裒

じぼらいをきくをおそれる ひようこんやだいにしゆくす
あきやうときにいつしん はかにいたつてめぐることせんくわい

 

 

 

 

郭巨 

ひんぼくぐきうをおもふ ちごをうづめてぼぞんをねがふ
わうごんてんよりたまふところ くわうさいかんもんをてらす 

 

 

 

 

朱壽昌 

しちさいにしてりぼをしやうず さんしやうごじうねん
いつてうおもてをあひみる きけくわうてんをうごかす

 

 

 

 

剡子 

らうしんろくにうをおもひ みにかつもうのころもをかけ
もしかうじやうにかたらずは さんちうにやをおびてかへらん

 

 

 

 

蔡順 

こくじんしんゐにほうず うゑにないてなんだころもにみつ
しやくびかうじゆんをしつて ごべいきみにおくつてかへらしむ

 

 

 

 

庾黔婁 

けんにいたつていまだじゆんじつせざるに ちんていやまひふかきにあふ
ねがはくはみをもつてしにかはり ほくもういうしんをひらく

 

 

 

 

呉猛

かやにいちやうなし かおほくしてあへてふるはず
かれがかうけつをほしいままにしてあく しんゐにいれしむことをまぬかる

 

 

 

 

張孝 張禮

たまたまりよくりんのこにあひ にるにかはつてそうひをいふ
ひとみなきやうていあり ちやうしここんまれなり 
 

 

 

 

 

田眞 田廣田慶 

かいていのしさんご ぐんはうすべてしかず
しゆんぷうくわまんじゆ きやうていまたきよにおなじ 

 

 

 

 

山谷  

きけんてんかにきこゆ へいぜいかうにしておやにつかふ
いづみをくんでねうきをすすぐ ひせふあにひとなからんや

 

 

 

 

陸績 

かうていみなてんせい にんげんりくさいのじ
しゆちうにりよくきつをくわいして ははにおくつてがんいをほうず

        6. 二十四孝(にじゅうしこう)=中国で、古今の孝子24人を選定したもの。元の郭居敬の
             説によれば、虞舜・漢文帝・曾參・閔損・仲由・董永・剡子・江革・陸績・唐夫人・
             呉猛・王祥・郭巨・楊香・朱寿昌・庾黔婁・老萊子・蔡順・黄香・姜詩・王褒・丁蘭・
             孟宗・黄庭堅。異説もある。
                     (『広辞苑』第6版による。)
        7. 「剡子」の読みについて。
          有朋堂文庫の本文には「せんし」と振り仮名がついていますが、日本古典文学大系に
         は「ぜんし」、平凡社『国民百科事典10』や『
改訂新版漢字源』には「えんし」と読み仮名が
         ついています
(それぞれの「二十四孝」の項)。『改訂新版漢字源』によれば、「剡」の音は、〈(1)
          エン(呉音・漢音)〔動詞〕けずる。とがらせる。〔形容詞〕するどいさま。すばしっこいさま。(2)セン(漢
          音)・ゼン(呉音) 「剡渓(センケイ)」とは、中国の川の名。〉
とあります。現在は、「えんし」と読ま
         れているようです。
         8. 『龍谷大学電子図書館』にある「貴重書画像データベース」で、
龍谷大学図書館所蔵
         の『新刊全相二十四孝詩選』(延平尤溪郭居敬撰)を画像でみることができます。
            → 『龍谷大学電子図書館』の「貴重書画像データベース」
               → 龍谷大学図書館所蔵 
『二十四孝詩選』(『新刊全相二十四孝詩選』) 
         9. 日本古典文学大系38の『御伽草子』(市古貞次・校注、岩波書店・昭和33年7月5日
         第1刷発行)にも「二十四孝」
(挿絵入り)が載っています。
       10. 京都大学附属図書館所蔵 平松文庫『廿四孝傳幷賛』が画像で見られます。ここでは
         「二十四孝」のほか、「新刊全相二十四孝詩選」(東光寺礼松首座以唐印本写之古宿
         取点也)を見ることができます。
       11. 『佛教大学大学院紀要』第31号(2003年3月)に掲載されている坪井直子氏の「『二
         十四孝』朱寿昌の刺血写経 ─事実と虚構 続─」という論文があります。
       12. フリー百科事典『ウィキペディア』に「二十四孝」の項があります。



     



 
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