資料361 「松阪の一夜」(『初等科修身 四』所収) 




        松阪の一夜   『初等科修身 四』所収



     第十一 松阪の一夜

 本居宣長(もとをりのりなが)は、伊勢(いせ)の國松阪の人である。若いころから讀書がすきで、將來學問を以て身を立てたいと、一心に勉強してゐた。
 ある夏のなかば、宣長がかねて買ひつけの古本屋へ行くと、主人はあいさうよく迎へて、
 「どうも殘念なことでした。あなたが、よくおあひになりたいといはれてゐた江戸の賀茂眞淵(かもまぶち)先生が、先ほどお見えになりました。」
といふ。思ひがけないことばに宣長は驚いて、
 「先生が、どうしてこちらへ。」
 「なんでも、山城・大和(やまと)方面の御旅行がすんで、これから參宮をなさるのださうです。あの新上屋(しんじやうや)におとまりになつて、さつきお出かけの途中『何かめづらしい本はないか。』と、お寄りくださいました。」
 「それは惜しいことをした。どうかしてお目にかかりたいものだが。」
 「あとを追つておいでになつたら、たいてい追ひつけませう。」
 宣長は、大急ぎで眞淵のやうすを聞き取つてあとを追つたが、松阪の町のはづれまで行つても、それらしい人は見えない。次の宿(しゆく)の先まで行つてみたが、やはり追ひつけなかつた。宣長は力を落して、すごすごともどつて來た。さうして新上屋の主人に萬一お歸りにまたとまられることがあつたら、すぐ知らせてもらひたいと頼んでおいた。
 望みがかなつて、宣長が眞淵を新上屋の一室にたづねることができたのは、それから數日ののちであつた。二人は、ほの暗い行燈(あんどん)のもとで對面した。眞淵はもう七十歳に近く、いろいろりつぱな著書(ちよしよ)もあつて、天下に聞えた老大家。宣長はまだ三十歳餘りで、温和な人となりのうちに、どことなく才氣のひらめいてゐる少壯の學者(がくしや)。年こそ違へ、二人は同じ學問の道をたどつてゐるのである。
 だんだん話をしてゐるうちに、眞淵は宣長の學識(がくしき)の尋常(じんじやう)でないことを知つて、非常(ひじやう)にたのもしく思つた。話が古事記のことにおよぶと、宣長は、
 「私は、かねがね古事記を研究したいと思つてをります。それについて、何か御注意くださることはございますまいか。」
 「それは、よいところにお氣づきでした。私も、實は早くから古事記を研究したい考へはあつたのですが、それには萬葉集(まんえふしふ)を調べておくことが大切だと思つて、その方の研究に取りかかつたのです。ところが、いつのまにか年を取つてしまつて、古事記に手をのばすことができなくなりました。あなたは、まだお若いから、しつかり努力なさつたら、きつとこの研究を大成することができませう。ただ、注意しなければならないのは、順序(じゆんじよ)正しく進むといふことです。これは、學問の研究には特に必要ですから、まづ土臺を作つて、それから一歩一歩高くのぼり、最後の目的(もくてき)に達するやうになさい。」
 夏の夜は、ふけやすい。家々の戸は、もう皆とざされてゐる。老學者の言に深く感動した宣長は、未來の希望に胸ををどらせながら、ひつそりした町筋をわが家へ向かつた。
 そののち、宣長は絶えず文通して眞淵の敎へを受け、師弟の關係は日一日と親密(しんみつ)の度を加へたが、面會の機會は松阪の一夜以後とうとう來なかつた。
 宣長は眞淵の志を受けつぎ、三十五年の間努力に努力を續けて、つひに古事記の研究を大成した。有名な古事記傳といふ大著述(だいちよじゆつ)は、この研究の結果(けつくわ)で、わが國の學問の上に不滅の光を放つてゐる。      

     「松阪の一夜」(『初等科修身四』の挿絵)
           「松阪の一夜」 教科書の挿絵


  (注) 1.  上記の「松阪の一夜」の本文は、『初等科修身 四』(文部省、昭和18年1月15日発行・昭和18年2月20日翻刻発行、発行所・日本書籍株式会社)の、ほるぷ出版の復刻版(昭和57年2月1日刊)によりました。(「松阪の一夜」が『初等科修身 四』に載ったのは、昭和17年2月21日発行が最初。)
 なお、この文章は、『尋常小学国語読本』巻十一(文部省発行)にも掲載されていますが(第十七課 松阪の一夜)、読点の打ち方や、漢字の当て方、一部の表現などに違いが見られます。(「松阪の一夜」の『尋常小学国語読本』への最初の掲載は、大正4年。)
 『初等科修身 四』(昭和18年版)と 『尋常小学国語読本』巻十一(昭和4年版)との主な違いを、注9にあげておきます。      
   
    2.  本居宣長が松阪で賀茂真淵に会ったのは、宝暦13年(1763年)5月25日のことでした。    
    3.  『本居宣長記念館』のホームページに、「教科書に載った「松坂の一夜」」という解説文があります。この解説に、「松阪の一夜」の「原作は佐佐木信綱」とあります。         
    4.  佐佐木信綱の「松坂の一夜」を、『本居宣長記念館』のホームページで読むことができます。
 『本居宣長記念館』
  → 「佐佐木信綱の「松坂の一夜」資料」
 佐佐木信綱の「松坂の一夜」は、『賀茂真淵と本居宣長』(大正6年4月10日、広文堂書店発行)、『〔増訂〕賀茂真淵と本居宣長』(昭和10年1月10日、湯川弘文社発行)に掲載されています。
   
    5.  「松阪の一夜」という題名の読みについて。
 私は今まで「松阪の一夜」を「まつざかのいちや」と読んでいましたが、気がついてみると、「松阪」は「まつさか」と読むのが正しいようですから、「まつさかのいちや」と清音に読むべきである(文中の「松阪」も同じ)と思われます。蛇足ながら、一言付け足しておきます。
 また、「一夜」の読みについて、『本居宣長記念館』のホームページに「いちやかひとよか」の項があり、「ひとよ」であろう、と言っています。「ひとよ」と読んだほうがいいのでしょうか。
   
    6.  〇本居宣長(もとおり・のりなが)=江戸中期の国学者。国学四大人の一人。号は鈴屋(すずのや)など。小津定利の子。伊勢松坂の人。京に上って医学修業のかたわら源氏物語などを研究。賀茂真淵に入門して古道研究を志し、三十余年を費やして大著「古事記伝」を完成。儒仏を排して古道に帰るべきを説き、また、「もののあはれ」の文学評論を展開、「てにをは」・活用などの研究において一時期を画した。著「源氏物語玉の小櫛」「古今集遠鏡」「てにをは紐鏡」「詞の玉緒」「石上私淑言(いそのかみささめごと)」「直毘霊(なおびのみたま)」「玉勝間」「うひ山ぶみ」「馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)」「玉くしげ」など。(1730─1801)
 引用者注:国学四大人(こくがく・しうし、こくがく・したいじん)=荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤の4人の国学者をいう。「四大人」の読みは、「しうし」が本来の読みなのでしょうか?
 〇賀茂真淵(かも・の・まぶち)=江戸中期の国学者・歌人。岡部氏。号は県居(あがたい)。遠江岡部郷の人。荷田春満(かだのあずままろ)に学び、江戸に出て諸生を教授。古典の研究、古道の復興、古代歌調の復活に没頭。田安宗武に仕えて国学の師。本居宣長・荒木田久老・加藤千蔭・村田春海・楫取魚彦(かとりなひこ)らはその門人。著「万葉集考」「歌意考」「冠辞考」「国歌論臆説」「語意考」「国意考」「古今和歌集打聴」など。(1697─1769)  
 引用者注:  賀茂真淵は、教科書では「かもまぶち」と、「の」を入れずに読んでいます。普通は「かものまぶち」と、「の」を入れて読んでいますが、『YAHOO!百科事典』では、「かもまぶち」と「の」を入れずに読ませています。氏・姓の場合は「の」を入れて読み、苗字の場合は「の」を入れない、ということからすると、「生家の岡部氏は京都の賀茂神社の神官の家柄の末流で、その系譜に誇りを持つ真淵は賀茂氏を称した」(平凡社『国民百科事典 3』1976年)そうなので、「かものまぶち」と「の」を入れて読むのがよいようです。また、著書の「万葉集考」は、「万葉考」の別名です。  
 〇まつさか(松阪・松坂)=三重県中部の市。もと古田氏5万5千石の城下町。のち紀州藩の別府。伊勢商人の輩出地。本居宣長の生地。人口16万9千。 (引用者注:現在の市名は、松阪市(まつさか・し)(以上、『広辞苑』第6版による。)               
 〇賀茂真淵(かものまぶち)=(1697-1769)江戸中期の国学者・歌人。本姓、岡部。号、県居(あがたい)。遠江(とおとうみ)の人。荷田春満(かだのあずままろ)に学び、のち田安宗武に仕えた。万葉集を中心に古典を広く研究し、純粋な古代精神(古道)の復活を説いた。門下に本居宣長・村田春海・加藤千蔭・荒木田久老・楫取魚彦(かとりなひこ)らがいる。著「万葉考」「歌意考」「国意考」「冠辞考」「祝詞考」など。(三省堂『大辞林』による。)      
   
    7.  本居宣長記念館のホームページに、詳しい「本居宣長年譜」があります(「年度索引」)。    
    8.   フリー百科事典『ウィキペディア』「本居宣長」の項があります。    
    9.   『初等科修身 四』(昭和18年版)と 『尋常小学国語読本』巻十一(昭和4年版)との主な違いを、次に挙げておきます。(読点の有無、漢字と仮名の違い、などには触れてありません。)

 『初等科修身 四』(昭和18年版)

 『尋常小学国語読本』巻十一(昭和4年版)

 

古本屋へ行くと、

 

古本屋に行くと、

 

 

おあひになりたいと

 

會ひたいと

 

 

いはれてゐた江戸の 

 

御話しになる江戸の

 

 

思ひがけないことばに

 

あまり思ひがけない言葉に

 

 

お寄りくださいました。

 

御立寄り下さいました。

 

 

松阪の町のはづれまで 

 

松阪の町はづれまで 

 

 

新上屋の一室にたづねる 

 

新上屋の一室に訪ふ

 

 

行燈(あんどん)のもとで對面した。 

 

行燈(あんどん)のもとで對坐した。

 

 

三十歳餘りで、

 

三十歳餘り、

 

 

少壯の學者。              

 

篤學の壯年。

 

 

話をしてゐるうちに、          

 

話してゐるうちに、 

 

 

尋常でないことを知つて、       

 

尋常でないことをさとつて、  

 

 

お氣づきでした。

 

氣がつきました。 

 

 

私も、實は早くから古事記を研究したい考へはあつたのですが、それには萬葉集(まんえふしふ)を調べておくことが大切だと思つて、その方の研究に取りかかつたのです。ところが、

 

私も實は我が國の古代精神を知りたいといふ希望から、古事記を研究しようとしたが、どうも古い言葉がよくわからないと十分なことは出來ない。古い言葉を調べるのに一番よいのは萬葉集です。そこで先づ順序(じよ)として萬葉集の研究を始めたところが、

 

 

深く感動した宣長は、

 

深く感激した宣長は、

 

 

わが國の學問の上に

 

我が國文學の上に

 

   
    10.  資料362に「松阪の一夜」(『尋常小学国語読本 巻十一』所収)があります。    





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