(注) | 1. |
上記の「扣鈕」は、『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の『うた日記』(春陽堂、明治40年9月30日発行)によりました。 本文は総ルビになっていますが、ここでは引用者が必要と認めたものだけに読み仮名をつけ、他は省略してあります。 → 『国立国会図書館デジタルコレクション』の「うた日記」49~50/324) |
|||
2. | 『うた日記』は、鷗外の日露戦争従軍詩歌集。明治37~38年、第二軍軍医部長として日露戦争に従軍した鷗外が、陣中で手帳の端に書きつけた詩歌俳句を、月日順に編んだ歌日記です。 内容は、引用者の勘定では、新体詩55篇、訳詩9篇(ドイツの詩人8人とハンガリーの詩人1人)、長歌12首、短歌325首(全体の扉の短歌、「隕石(ほしいし)」「夢がたり」「あふさきるさ」「無名草」の題脇にある短歌各1首、計5首を除く)、俳句172句、となりましたが、角川書店刊の『日本近代文学大系11 森鷗外集 I 』(昭和49年9月30日初版発行)では、新体詩58篇、訳詩9篇、長歌9首、短歌331首、俳句168句、となっています(補注93、同書442頁)。 なお、ここにいう「扣鈕(ぼたん)」とは、カフスボタン(カフ‐リンクス)のことです。 |
||||
3. |
鷗外の長男・森於菟著『父親としての森鷗外』(ちくま文庫、1993年9月22日第1刷発行。これは、1969年12月23日、筑摩叢書159として筑摩書房から刊行されたもの)の中に、於菟が次のように書いています。 日露戦役に第二軍軍医部長として出征した父は凱旋後記念として『うた日記』を出版 した。その中に南山の戦の後に詠じた「釦鈕」がある。 「南山の たたかひの日に、袖口の こがねのぼたん ひとつおとしつ その扣鈕惜し。 べるりんの 都大路の ぱつさあじゆ 電灯あをき 店にて買ひぬ はたとせまへに。 えぽれつと かがやきし友 こがね髪ゆらぎし少女 はや老いにけん 死にもやしけん。 はたとせの身のうきしづみ よろこびも かなしびも知る 袖のぼたんよ かたはとなりぬ。 ますらをの 玉と砕けしもももちたり それ惜しけど こも惜し扣鈕 身に添ふ扣鈕」 この「黄金髪ゆらぎし少女」が「舞姫」のエリスで父にとっては永遠の恋人ではなかったかと思う。エリスは太田豊太郎との間に子を儲け仲を裂かれて気が狂ったのであるが、父にもその青年士官としての独逸留学時代にある期間親しくした婦人があった。私が幼時祖母からきいた所によるとその婦人が父の帰朝後間もなく後を慕って横浜まで来た。これはその当時貧しい一家を興すすべての望みを父にかけていた祖父母、そして折角役について昇進の階を上り初めようとする父に対しての上司の御覚えばかりを気にしていた老人等には非常な事件であった。親孝行な父を総掛かりで説き伏せて父を女に遇わせず代りに父の弟篤次郎と親戚の某博士とを横浜港外の船にやり、旅費を与えて故国に帰らせた。 一生を通じて女性に対して恬淡に見えた父が胸中忘れかねていたのはこの人ではなかったか。私ははからず父から聞いた二、三の片言隻語から推察する事が出来る。 『歌日記』の出たあとで父は当時中学生の私に「このぼたんは昔伯林で買ったのだが戦争の時片方なくしてしまった。とっておけ」といってそのかたわの扣鈕をくれた。歌の情も解さぬ少年の私はただ外国のものといううれししさに銀の星と金の三日月とをつないだ扣鈕を、これも父からもらった外国貨幣を入れてある小箱の中に入れた。私はある時祖母が私にいうのを聞いた。「あの時私達は気強く女を帰らせお前の母を娶らせたが父の気に入らず離縁になった。お前を母のない子にした責任は私達にある」と。 |
||||
(「III 父親としての森鷗外」の「父の映像」同文庫、108~9頁。) | |||||
なお、巻末の長沼行太郎の解説によれば、この「父の映像」は、『東京日日新聞』に昭和11年4月1日から7日にかけて連載(34~38回)されたものだそうです。 | |||||
4. | 詩の語句の注をつけておきます。(お気づきの点をお教え下さい。) 〇扣鈕(ボタン) 普通は「釦」「鈕」などの漢字をあてる。「扣」をボタンや止め金の意に用いるのは俗語としての用法、と漢和辞典にある。ここは、カフスボタン(カフ‐リンクス)のこと。洋服やワイシャツの袖口をとめる飾りボタン。「こがねのぼたん」とあるので、金製のカフスボタン。 〇ぱつさあじゆ passage (フランス語)。パリの商店街で、ガラス屋根のアーケードとしたもの。ここは、ベルリンのアーケードの商店街をいう。 なお、「ぱつさあじゆ」については、注8に記事がありますので、ご覧ください。 〇はたとせ 二十年。 〇えぽれつと épaulette (フランス語)。 肩章。文武官や有爵者が制服の肩につけるしるし。官職・等級によって区別がある。角川書店刊の『日本近代文学大系11 森鷗外集』 I の頭注には、「肩章。ドイツ留学当時に親しんだドイツ陸軍の若い将校や軍医をさす」とあります(注釈は三好行雄氏)。 〇かたは(片端) ここは、揃いのカフスボタンの一つをなくして、不揃いになったことを「かたわ」といったもの。 〇こがね髮 ゆらぎし少女(をとめ) これについて、前掲の『日本近代文学大系11 森鷗外集』 I の頭注には、「この少女をエリス(ドイツ留学より帰朝後、鷗外を追って来日した女性)とする説(小堀杏奴、森於菟)、あるはいはルチウス(ドイツで親しかった女性、「独逸日記」参照)とする説(藤井公明)などあるが、いずれも憶測にとどまる。しかし、かならずしも特定のひとりに限定する必要はない。鷗外の青春を彩った記念である」とありますが、いかがであろうか。 〇ますらを 益荒男・大夫・丈夫などの漢字をあてる。 強く勇ましい男子。ここは、勇壮な兵士をさしていう。 〇ももちたり 百千人。数多くの人。ここは、数多くの兵 士。「ももち(百千)」は、物事の数の多いこと。「たり(人)」は、人を数えるのに用いる接尾語。 〇こも 「こ」は、指示代名詞。「これ」に同じ。「も」は、付け加える意を表す係助詞。 |
||||
5. | フリー百科事典『ウィキペディア』に「うた日記」の項目があります。 | ||||
6. |
この「扣鈕」の詩を刻んだ詩碑が、津和野の鷗外生家跡に建てられています(注の7参照)。このことについて、森於菟著『父親としての森鷗外』の中に次のようにあります。 話が少し前後するが、「沙羅の木」詩壁の除幕を父の三十三回忌に観潮楼跡で行った翌日、私は佐藤春夫氏夫妻と一緒に島根県津和野町に旅行し父の生家跡(もと他にあった生家がここに移されたもの)に行われた記念碑除幕式に参列した。この碑は素朴な自然石でその碑面に鷗外の「歌日記」から「釦鈕(ぼたん)」を佐藤氏がえらび、かつ自ら揮毫されたのを刻んだのであった。(ちくま文庫、407頁) 引用者注:鷗外の三十三回忌は、昭和29年7月9日です。 |
||||
7. | 津和野の鷗外生家跡にあるこの詩碑の写真が、『津和野ガイド』というサイトの「森鷗外旧宅」というページで見られます。 「森鷗外旧宅」の説明板の文言を引いておきます。(漢数字を算用数字に書き換えてあります。) 国指定文化財(史跡) 森 鷗 外 旧 宅 昭和44年10月29日指定 森鷗外(本名森林太郎)は、文久2年(1862)1月19日この家に生まれ、明治5年(1872)に10歳で上京するまでここで過ごしました。その当時の様子は作品「ヰタ・セクスアリス」の中にも描かれています。 鷗外は、軍医総監陸軍省医務局長、帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)となる一方、文学者としても活躍し、明治大正を代表する文豪として夏目漱石と並び称されています。 死に臨んで「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言し、大正11年(1922)7月9日60歳で永眠しました。 建物は嘉永6年(1853)に発生した大火の後に建てられたものと伝えられ、森家が東京へ移住した後、別の場所へ移築されましたが、昭和29年(1954)鷗外33回忌を機に町へ寄付され、この場所へ戻されました。その後、昭和60年に大規模な保存修復を行い現在に至っています。また、庭先の詩碑は、鷗外の「扣鈕」の詩を佐藤春夫の筆により建立されたものです。 平成7年(1995)にはこの旧宅に隣接して森鷗外記念館が開館し、鷗外の生涯と功績を顕彰しています。 |
||||
津和野町教育委員会 | |||||
8. | 秦恒平氏の「e-文庫・湖(umi)」というサイトの「論文寄稿」に、平山城児・立教大学名誉教授の「万葉調短歌と鴎外の「うた日記」」(初出は、『国文学踏査』第21号・平成21年(2009)3月15日発行)が掲載されており、その中で平山教授は川上俊之氏の「ぱつさあじゆ考」(『鷗外』42号)から引用しておられます。その部分を引かせていただきます。(詳しくは「万葉調短歌と鷗外の「うた日記」」をご覧ください。) 秦恒平文庫・「e-文庫・湖(umi)」 → 左側の「e-Literary Magazine」 → 「著者別一覧へ」 → 「著者別一覧」の「●は行」 → 平山城児・論攷・万葉調短歌と鷗外の「うた日記」 → 万葉調短歌と鷗外の「うた日記」 この「ぱつさあじゆ」については、川上俊之の「「ぱつき(ママ)あじゆ」考」(『鷗外』42号)が極めて適切な注解を施している。三好注には「passage(仏)歩道。」とあるが、これは「抜裏」と訳すべきで、「鷗外が留学していた頃にウンター・デン・リンデンから入ることができたカイザー・ガレリーまたはパッサージュともいわれたアーケードと思われる」とあって、そこには各種の専門店、レストラン、ビヤホール、ショールーム、コーヒー店、蝋人形館などもあり、「そのようなシックな感じの賑わいのなかにあった服飾店でカフス・ボタンを買い求めた過去の平和な一瞬が、戦場にある鷗外の脳裏をかすめたと想像することもできる。青い電灯の下で品定めをした時に、連れ添っていたとも思わる(ママ)謎の乙女」もいたのではないかと記している。川上がそこに引いている、オシップ・デイモフの「襟」(鷗外訳『三田文学』明44・1)の文章を、もう少し長めに引用すると次の通りである。 晩には方々を歩いたつけ。珈琲店はヰクトリアとバウエルとへ行つた。それから黒猫(シヤア、ノアル)やリンデンや抜裏(パツサアジユ)なんぞの寄席にちよいちよい這入つて覗いて見た。 そんな「抜裏」で買い求めた「扣鈕」は、正に鷗外の青春の象徴であったろう。それを失ってしまった鷗外の気持は痛いほどに伝わってくる。そうした意味で、これは鷗外の詩の中でも第一に推したい優れた抒情詩である。 引用者注: (1)(ママ)とあるのは、平山氏の注記です。 (2)三好注とあるのは、角川書店刊の『日本近代文学大系11 森鷗外集』 I にある三好行雄氏の頭注のことです。 (3)「抜(け)裏」(ぬけうら)=通り抜けられる裏道。 (4)鷗外訳のオシップ・デイモフの「襟」は、青空文庫で読むことができます。(ただし、現代表記です。) → 鷗外訳 「襟」オシップ・ディモフ |
||||
9. |
岐阜市の『鷲見(すみ)工務店』のホームページに、「パッサージュ」について解説したページがあり、写真も出ていて参考になります。 →「パッサージュ」 |
||||
10. | 津和野町の「森鷗外記念館」の施設案内のページがあります。 | ||||
11. | 国立国会図書館の『近代日本人の肖像』で、森鷗外の肖像写真を見ることができます。 | ||||
12. | 資料347に「森鷗外「我百首」があります。 | ||||
13. | 資料25に「森鷗外の遺言(余ハ少年ノ時ヨリ……)」があります。 | ||||
14. | 書肆山田から、岡井隆著「森鷗外の『うた日記』」(2012年1月15日初版
第1刷発行)が出ています。(2012年6月27日付記) |
||||
15. |
岩波書店の『図書』2022年5月号に、永田和宏氏が「「うた日記」の鷗外─音韻定型詩の可能性拡大への挑戦」を書いておられます。そこで氏は、この扣鈕の詩の形式が「気をつけないと仏足石歌であることさえも気づかずに読んでしまいそうだ。それでもいいのだが、鷗外のなかでは明らかに仏足石歌という古来の形式を現代的に生かしてみたいという挑戦の意識があったはずだ」と書いておられます。 なるほど、この詩は五七五七七七という仏足石歌の形をとっていることに気づかされました。(2022年5月2日) |
||||