資料339 芥川龍之介「森先生」「夏目先生」


 

 

       森先生         
                          芥川龍之介

 僕はこの頃「鷗外全集」第六巻を一讀し、不思議に思はずにはゐられなかつた。先生の學は古今を貫き、識は東西を壓してゐるのは今更のやうに言はずとも善い。のみならず先生の小説や戲曲は大抵は渾然と出來上つてゐる。(所謂ネオ・ロマン主義は日本にも幾多の作品を生んだ。が、先生の戲曲「生田川」ほど完成したものは少かつたであらう)しかし先生の短歌や俳句は如何に贔屓眼
(ひいきめ)に見るとしても、畢(つい)に作家の域にはひつてゐない。先生は現世にも珍らしい耳を持つてゐた詩人である。たとへば「玉篋二人浦島(たまくしげふたりうらしま)」を讀んでも、如何に先生が日本語の響(ひゞき)を知つてゐたかは窺はれるであらう。これは又先生の短歌や俳句にも髣髴出來ない訣ではない。同時に又體裁を成してゐることはいづれも整然と出來上つてゐる。この點では殆ど先生としては人工を盡したと言つても善いかも知れない。
 けれども先生の短歌や發句
(ほつく)は何か一つ微妙なものを失つてゐる。詩歌はその又微妙なものさへ摑めば、或程度の巧拙などは餘り氣がかりになるものではない。が、先生の短歌や發句は巧(かう)は即ち巧(かう)であるものの、不思議にも僕等に迫つて來ない。これは先生には短歌や發句は餘戲に外ならなかつた爲であらうか? しかしこの微妙なものは先生の戲曲や小説にもやはり鋒茫(ほうばう)を露はしてゐない。(かう云ふのは先生の戲曲や小説を必ずしも無價値であると云ふのではない。)のみならず夏目先生の餘戲だつた漢詩は、──殊に晩年の絶句などはおのづからこの微妙なものを捉へることに成功してゐる。(若し「わが佛(ほとけ)尊し」の譏(そし)りを受けることを顧みないとすれば。)
 僕はかう云ふことを考へた揚句、畢竟森先生は僕等のやうに神經質に生まれついてゐなかつたと云ふ結論に達した。或は畢
(つひ)に詩人よりも何か他(た)のものだつたと云ふ結論に達した。「澁江抽齋」を書いた森先生は空前の大家だつたのに違ひない。僕はかう云ふ森先生に恐怖に近い敬意を感じてゐる。いや、或は書かなかつたとしても、先生の精力は聰明の資(し)と共に僕を動かさずには措かなかつたであらう。僕はいつか森先生の書齋に和服を着た先生と話してゐた。方丈の室(しつ)に近い書齋の隅には新しい薄縁(うすべ)りが一枚あり、その上には蟲干しでも始まつたやうに古手紙が何本も並んでゐた。先生は僕にかう言つた。──「この間柴野栗山(?)の手紙を集めて本に出した人が來たから、僕はあの本はよく出來てゐる、唯手紙が年代順に並べてないのは惜しいと言つた。するとその人は日本の手紙は生憎(あいにく)月日(つきひ)しか書いてないから、年代順に並べることは到底出來ないと返事をした。それから僕はこの古手紙を指さし、ここに北條霞亭の手紙が何十本かある、しかし皆年代順に並んでゐると言つた。」! 僕はその時の先生の昂然としてゐたのを覺えてゐる。かう云ふ先生に瞠目するものは必ずしも僕一人には限らないであらう。しかし正直に白狀すれば、僕はアナトオル・フランスの「ジアン、ダアク」よりも寧ろボオドレエルの一行(ぎやう)を殘したいと思つてゐる一人である。


 

 

 

 



       夏目先生
                          芥川龍之介

 僕はいつか夏目先生が風流漱石山人になつてゐるのに驚嘆した。僕の知つてゐた先生は才氣渙發する老人である。のみならず機嫌の惡い時には先輩の諸氏は暫く問はず、後進の僕などには往生だつた。成程天才と云ふものはかう云ふものかと思つたこともないではない。何でも冬に近い木曜日の夜、先生はお客と話しながら、少しも顔をこちらへ向けずに僕に「葉巻をとつてくれ給へ」と言つた。しかし葉巻がどこにあるかは生憎僕には見當もつかない。僕はやむを得ず「どこにありますか?」と尋ねた。すると先生は何も言はずに猛然と(かう云ふのは少しも誇張ではない。)顋
(あご)を右へ振つた。僕は怯(を)づ怯づ右を眺め、やつと客間の隅の机の上に葉巻の箱を發見した。
 「それから」「門」「行人」「道草」等
(とう)はいづれもかう云ふ先生の情熱の生んだ作品である。先生は枯淡に住したかつたかも知れない。實際又多少は住してゐたであらう。が、僕が知つてゐる晩年さへ、決して文人などと云ふものではなかつた。まして「明暗」以前にはもつと猛烈だつたのに違ひない。僕は先生のことを考へる度に老辣無双の感を新たにしてゐる。が、一度身の上の相談を持ちこんだ時、先生は胃の具合も善かつたと見え、かう僕に話しかけた。──「何も君に忠告するんぢやないよ。唯僕が君の位置に立つてゐるとすればだね。」……僕は實はこの時には先生に顋を振られた時よりも遙かに參らずにはゐられなかつた。

 

 

 

    (注) 1. 上記の「森先生」「夏目先生」の本文は、『芥川龍之介全集』第9巻(岩波書店、1978
          年4月24日第1刷発行・1983年1月20日第2刷発行)所収の『文藝的な、餘りに文藝的
          な』によりました。
(「十三 森先生」「十七 夏目先生」)
         2. 全集所載の本文は総振り仮名(総ルビ)になっていますが、ここでは引用者が必要と認
          めたものだけに振り仮名
(ルビ)をつけてあります。
         3. 「森先生」の本文中の傍点の部分(「或程度」「和服を着た」)は、下線によって表して
         あります。
         4. 全集巻末の「後記」に、次のようにあります。
(全集第9巻、516頁)
           文藝的な、餘りに文藝的な
            昭和2年(1927)4月1日、5月1日、6月1日および8月1日発行の雑誌『改造』
           第9巻第4、5、6、8号に掲載された。掲載第1回の第4号には「──併せて谷崎
           潤一郎氏に答ふ──」の副題がある。本全集は『改造』を底本とし、著者訂正書
           入れ
(『改造』の切抜、日本近代文学会蔵)を参照した。
            第4号掲載分は一─二十、第5号は二十一─二十八、第6号は二十九─三十三、
           第8号は三十四─四十である。なお底本では掲載の毎に項目番号を「一」から初め
           ている
(ただし第6号は「二十九」から「三十三」とする)が、本全集では従来の全集に傚い、通
            し番号に改めた。

          従って、ここに掲げた「森先生」「夏目先生」の本文は、昭和2年(1927)4月1日発行
         の雑誌『改造』第9巻第4号(掲載第1回)に掲載されたもの、ということになります。




                   トップページ(目次)  前の資料へ  次の資料へ