資料325 井伊直弼「茶道の政道の助となるべきを論へる文」
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茶道の政道の助となるべきを論(あげつら)へる文 井 伊 直 弼 |
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(注) | 1. | 上記の井伊直弼の「茶道の政道の助となるべきを論(あげつら)へる文」は、日本思想大系38『近世政道論』(奈良本辰也・校注、岩波書店・1976年5月28日第1刷発行)によりました。 | ||
2. | 底本は、『近世政道論』巻末の解題に、「本書の底本としては『井伊大老茶道談』(中村勝麿編、1914年、箒文社刊)によった。中村氏が「此一文、元表題ナシ。今便宜ノメ、文中ノ意ヲ取リテ之ヲ附ス」とされたのにしたがった」とあります。 | |||
3. | 同じく巻末の解題に、次のようにあります。 「井伊直弼は彦根藩13代藩主、また幕府大老として困難な幕末政局を担当、万延元年(1860)3月、江戸城桜田門外で攘夷派の剣に斃れた。本書は茶道と政道のかかわり如何、の架空の質問者に答え、真正な茶道は大いに政道の助けになるべきものであることを論じたものである。(中略)茶道に関する井伊直弼の全貌は、弘化3年境遇の激変によって彦根藩主になった直後の「茶湯一会集」、これより少し前から書きつづけられていた「閑夜茶話」によって知れる。これらは執筆の時期をおよそ確認できるのに対し、本書は確かでない。(以下略)」 |
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4. | 本文中の平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通の仮名に直してあります。(「ことごとしき」「いよいよ」「おのれおのれ」) | |||
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〇井伊直弼(いい・なおすけ)=幕末の大老。彦根藩主。掃部頭(かもんのかみ)。徳川家茂(いえもち)を将軍の継嗣とし、また勅許を待たずに諸外国と条約を結び、反対派を弾圧したので(安政の大獄)、水戸・薩摩浪士らに桜田門外で殺された。(1815-1860) 〇井伊(いい)=姓氏の一つ。江戸時代の譜代大名。近江彦根藩主。遠江井伊谷(いいのや)の土豪の出自。直政は徳川家康に仕え、その子直勝は彦根に築城、家督を弟直孝に譲る。以下歴代、掃部頭(かもんのかみ)を称し、5人の大老を出し、幕政の中枢を占める。(以上、『広辞苑』第6版による。) |
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6. | 思想大系本の頭注から、いくつかを引かせていただきます。(詳しくは思想大系本を参照してください。) 〇澍露軒=彦根の埋木舎(直弼17~32歳までの住居)の内に設けた直弼の茶室。 〇炭流れたる=炭が真っ赤におこって燃え尽きていくさまをいう。 〇烏府=炭入れのこと。 〇流祖=茶道石州流の流祖・片桐石見守貞昌(1605~73)。 〇君子素其位而行、~=『中庸』14章にある文。「素」は自覚して安んずる意。引用者注、『新釈漢文大系』(赤塚忠著)では、「素」を「処(おる)」の意とみています。「君子は自分の当面する位置・境遇において道を行うに最善をつくし、みだりに他人の境遇をうらやんで、よこしまな行いにおちいることがない。」 〇本書=直弼の著作「茶湯一会集」を指すか。 〇遺教経=仏垂般涅槃略説教誡経ともいう。釈迦がまさに入滅せんとするに際し拘尺那城外で諸弟子を集めて遺言した最後の教え。 引用者注、「亦不レ称レ意」は「亦、意に称(かな)はず」と読むか。 〇しひ事=誣ひ事。事実をゆがめて強弁すること。 〇為天下国家~=『中庸』20章。九経として修身についで、尊賢・親親・敬大臣・体群臣・子庶民・来百工・柔遠人・懐諸侯をあげている。 引用者注、『新釈漢文大系』には、「天下・国家を治めるには、9つもの原則がある。(何かといえば、)それは君主がわが身を正しく修めることであり、賢者を尊ぶことであり、親しいものを親愛することであり、大臣を敬うことであり、多くの臣下を鄭重に待遇することであり、もろもろの民をいつくしむことであり、つかさつかさの工人たちをねぎらいはげますことであり、遠い外国から来服する君をなつけることであり、(また)国内の諸侯を安心させることである」とあります。 〇道其不行矣=『中庸』5章。引用者注、『新釈漢文大系』には、「子曰、道其不行矣夫。」(子曰く、道は其れ行はれざるかな、と。)とあります。 〇事なき助=殊なき助。この上ない助け。 |
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7. | 資料67に「井伊掃部頭直弼台霊塔について」があります。 | |||
8. | 『国立国会図書館デジタルコレクション』に『修養史傳 井伊直弼言行録』(武田鶯塘著、東亜堂書房・大正7年4月19日発行)があります。 |