資料319 『舎密局必携』巻三附録「撮形術」(本文)
『舎密局必携』巻三 附録「撮形術」 堀江公肅 閲
上野彦馬 抄訳
(注)1.上記の堀江公肅閲・上野彦馬抄訳『舎密局必携』前編、巻三附録「撮形
術ポトガラヒー」の本文は、文久二壬戌年(1862年)正月、京都吉野屋仁兵
衛・江戸和泉屋金右衛門・大坂河内屋喜兵衛・勢州伊勢屋治兵衛 発行の『舎
密局必携』前編三冊によりました。
2.上記の堀江公肅閲・上野彦馬抄訳『舎密局必携』前編は、早稲田大学図
書館のHPにある『古典籍総合データベース』で見せていただきました。
早稲田大学図書館HP → 古典籍総合データベース
→ 『舎密局必携』前編 / 上野彦馬抄訳
巻三附録「撮形術ポトガラヒー」の本文は、
『舎密局必携』前編 三 (21~40 / 41)
3. 表記について
(1)文中の「古+(下に)又」「日-ヒ」「l+モ」は、それぞれ「事」「コ
ト」「トモ(ドモ)」に置き換えてあります。
(2)四角の枠で囲んである見出し(「第一 順次整備及ビ装置照準」など)
は、枠を省略して太字で表記してあります。
(3)冒頭にある「(按)撮影術ノ 皇國ニ傳ル」の「皇国」の前の空白部分
は、その次の言葉の主体に対する敬意を表す、所謂「闕字(けつじ)」です。
(4)終わり近くにある「○格羅細穩(コロヂオン)配合」の「其一」「其二」の
ところには、それぞれすぐ下に(ここでは、横書きなのですぐ右に)波括
弧が付いていますが、ここではそれを省略してあります。
(5)二行に分かち書きしてある部分は、小字で1行に表記してあります。
(付)なお、片仮名の振り仮名(読み仮名)等が正しく読み取れていない部分があるかもしれません
ので、それを含めてお気づきの点をお知らせいただければ幸いです。
4.書名の『舎密局必携』について
『舎密局必携』(セイミきょく・ひっけい)の「舎密」とは、オランダ
語 chemie(シェミイ)の音訳で、「化学」のことだそうです。ここでい
う「舎密局」とは、「化学実験室とでもいう意味」(芝哲夫著『日本の化学
の開拓者たち』による)だそうです。
従って、書名の意味は、「化学実験室が必ず備え付けておかなければ
ならない本」(「化学実験室で化学の実験に携わる者が必ず持っていな
ければならない本」)ということになるようです。
なお、「舎密局」(セイミきょく)には、明治政府が明治2年(1869)
大坂に開講した理化学研究教育機関という意味もあります。
舎密局(セイミきょく)=明治政府が1869年(明治2)大坂に開講
した理化学研究教育機関。89年京都へ移転。94年の高等学校令
により第三高等学校と改称、京都帝国大学に至る。
セイミ[chemie オランダ ・舎密]=江戸後期から明治初期にかけての
「化学」の呼称。舎密学。西周、復某氏書「かの一技一術を講
ずる輩の、洋兵とか、…舎密とか、医術とかいひ喧さやぐは」
(以上、「舎密局」「セイミ」の項は『広辞苑』第6版による。)
「舎密(せいみ)」という語の作者について、フリー百科事典『ウィキぺディア』
に、次のようにあります。(2019年6月6日付記)
舎密(せいみ)とは江戸時代後期の蘭学者の宇田川榕菴がオランダ語で化学
を意味する単語 chemie[xe'mi]を音写して当てた言葉。宇田川榕菴はウィリ
アム・ヘンリーの“Epitome of
chemistry”のオランダ語版を日本語に翻訳し、
『舎密開宗』の名で世に出した。
一方、川本幸民はユリウス・シュテックハルトの“Die Schule der Chemie”
のオランダ語版を日本語に翻訳して、中国で使用されていた「化学」の語を用
いて『化学新書』という名で世に出した。(後略)
フリー百科事典『ウィキぺディア』
→「舎密」
ちくま学芸文庫『幕末─写真の時代』(小沢健志・編、1996年6月10日第1刷発
行)に、次のようにあります。(本書は、1994年3月10日、筑摩書房より刊行され
た『幕末─写真の時代』を再編集したものの由です。)
安政2年(1855)ようやく幕府は長崎の地に近代化の第一として海軍伝習所
を設立し、その後オランダよりカッテンディーケならびにポンペを教官として
迎えた。
ポンペは医学伝習所、さらに化学を研究するための舎密研究所を創設させ
ている。(中略)
この(わが国の)近代化を代表する文化のひとつである写真術を伝えた第
一の伝承者は、長崎の人上野俊之丞(1790~1851)で、彼の伝記には「俊之丞
は御用時計師にて和蘭製など仕る」とある。その俊之丞が薩摩藩の注文もあっ
てダゲレオタイプを入手したのは天保14年(1843)より嘉永元年(1848)まで
の間のことであったろうといわれている。
俊之丞の次子彦馬はポンペの舎密研究所*に入所、のち文久2年(1862)に
は長崎の新大工町の川畔に上野撮影局を開業した。
(筆者:越中哲也氏、同書115~116頁)
* ポンペの舎密研究所……長崎大学薬学部のHPの「2 化学者としての上野
彦馬」には、「ポンペ・メールデルフォールトの塾「舎密試験所」」
とあります。
5.上野彦馬(うえの・ひこま)=日本の写真術の先駆者の一人。俊之丞の子。
長崎に生まれ、ポンペについて化学を学ぶ。1862年(文久2)
に「舎密局セイミきょく必携」を著して湿版写真術を解説。長崎
で写真館を開き、坂本竜馬らを撮影。(1838-1904)
※ 上野俊之丞(うえの・しゅんのじょう)=江戸後期の薩摩藩御用商人。長
崎の人。1848年(嘉永1)オランダ船より銀板写真の器具
を輸入。(1790-1851)
(以上、『広辞苑』第6版による。)
堀江公肅(ほりえ・こうしゅく)=日本の写真術の先駆者の一人。本名、鍬
次郎(くわじろう)。安政年間に津藩から長崎に派遣され、舍
密(セイミ)学を蘭医ポンペに学んだ。ポンペは写真機を持っ
ていたが使いこなせず、興味を持った堀江と上野彦馬が苦心
して暗箱や薬品を作り、写すことができたという。後に堀江
は帰郷して藩校有造館で舍密学を講じたが、慶応2年(1866)
35歳で亡くなった。(昭和58年6月1日号(第565号)の『津市制だより』
掲載の「津の初期の写真家たち」による。→これは『レファレンス協同データベー
ス』(地-04-6)三重県立図書館提供によりました。)
6.フリー百科事典『ウィキペディア』に、「上野彦馬」の項があります。
7.『日本写真芸術学会誌』平成20年度第17巻第1号に、日本大学大学院芸
術学研究科の田中里実氏による<『舎密局必携』前篇三附録「撮形術ポト
ガラヒー」現代語訳>が掲載されています。
お断り: 残念ながら現在は見られないようです。(2017.10.30)
8.東京大学大学院情報学環・学際情報学府の『文化資源統合アーカイブ』
に、「歴史写真資料」のページがあり、そこに「上野彦馬略歴」がありま
す。
お断り: 残念ながら現在は見られないようです。(2017.10.30)
9.学校法人・産業能率大学のHPに、「[写真の開祖]上野彦馬」のページ
があります。
お断り: 残念ながら現在は見られないようです。(2017.10.30)
10.長崎大学薬学部のHPに、『長崎薬学史の研究』があり、その「第二章
近代薬学の導入期」に「2 化学者としての上野彦馬」のページがあります。
11.三重産経情報館の『おもしろ三重版』というHPに、「歴史に生きる三
重の人々」というページがあり、そこの「堀江鍬次郎(上野彦馬と共に
日本写真の始祖)」の記事に、「「舎密局必携」抄訳者となっている上野
彦馬は堀江より7才年下で、長崎伝習所で学友になり彼等は長崎で約5年
間を学び、のち、津の有造館洋学館で舍密を教えることとなり、その教科
書として「舎密局必携」は藩からの援助も受けて出版されたのである。当
初の予定では、前編、中編、後編、附録の四編、計十六冊が出される予定
だったが、上野の帰国と堀江の死で前編三冊で終わってしまった」とあり
ます。堀江鍬次郎は、文政13年(1830)生まれ、慶応2年(1865)没。
12.資料320に「『舍密局必携』巻三附録「撮形術」(ひらがな・読み仮名
付き)」があります。