資料319 『舎密局必携』巻三附録「撮形術」(本文)



  

       『舎密局必携』巻三 附録「撮形術」   堀江公肅 閲
                                  上野彦馬 抄訳


                          


       撮形術 ポトガラヒー

 

 

 

 

(按)撮影術ノ 皇國ニ傳ル、茲ニ數年矣、四方ノ君子争テ其術ヲ學ブ者、又鮮ナカラズ、惜ム器械ノ工、製藥ノ術、未ダ精巧ヲ究メザルヲ、而シテ製藥ノ業ハ舎密家ノ管轄スル所、故ニ此書上梓ニ臨ミ、撮影術ヲ附録スルハ、敢テ是ヲ以テ、此術ヲ詳ニスト謂ニ非ス、徒其概ヲ擧ゲ須要藥材ノ名標ヲ題スルノミ
○沃度剝篤亜叟母
(ヨードポットアシュム)其他ノ諸劑塩類ハ、大率中篇ニ散出セリ、

 

 

 

第二十八圖ハ一個ノ玉鏡(レンス)ニシテ土地ノ形勢人家等ヲ摸寫スルニ供シ、第二十九圖ハ二個玉鏡ニシテ肖像ヲ寫スニ供ス、而シテ第三十圖ハ「ステレウスコープ」ニ採用スル者ナリ、
『舍密局必携』巻三附録撮形術第30図『舍密局必携』巻三附録撮形術第28・29図
『舍密局必携』巻三附録撮形術第32図『舍密局必携』巻三附録撮形術第31図
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第一 順次整備及ビ装置照準
先ヅ玉鏡筥子、及ビ玻璃板筥子ヲ取リ出シ、爾后
撮影ヲ三弗多(フート)ノ處ニ置キ肖像若クハ地景ヲ寫スノ度ニ隨ヒ、玉鏡ノ一ヲ以テ、撮影ニ装置ス、此業ニ老煉セント欲セバ、地形若クハ家屋ヲ以テ、始ムルニ如カズ、
撮影器ノ後面ニ、無澤玻璃板ヲ挿入シ第三十一圖(ホ)ノ部玉鏡ノ蓋子ヲ取リ除キ第二十九圖(ホ)ノ部撮影器ノ運轉部分ヲ伸縮シ、第三十一圖(ヘ)(ペ)ノ部以テ無澤玻璃板上、肖像ヲ顕サシム、此后黒色ノ綿布ヲ頭ニ蔽ヒ、密ニ玉鏡ノ度ヲ加減シ、物影明亮尖鋭ナル肖像、現出スルヲ窺フ○撮影器内ニ、日光ノ漏射スルヲ禁ズ、
第二 玻璃板ヲ洗滌スル法
細意玻璃板ヲ以テ、紙上或ハ毛布上、扁平ニ置キ、是レニ少許ノ磠砂精
(サルモヤックケ゜ースト)ヲ亜爾箇耳(アルコール)ト共ニ滴シ束綿ヲ以テ其面上ヲ諸方向ニ琢磨シ、以テ汚點ナキニ至ルト雖、尚毎回少許ノ亜爾箇耳ヲ滴シ、清潔ノ確徴ヲ得ベシ、是レガタメニ、呼吸滊ヲ板上ニ吹キ、一線ノ汚點モ見ヘザルヲ良トス、
前キニ採用シタル玻璃板ハ、二十四小時間、
剝篤亜斯ト水ノ溶液ニ浸シ、其后清水ヲ以テ毎回洗灌シ、爾后同上ノ法ヲ以テ、清淨ナラシム、
第三 格羅細穩(コロヂオン)ヲ玻璃板ニ注キ蔽フ法
板上格羅細穩ヲ蔽フニハ、日光ノ弱
ヲ擇ビ強ヲ忌ム○燭光ヲ用ユルトキハ、細心従事セズンバアルベカラズ、如何ントナレバ、格羅細穩内ノ依的爾(ヱーテル)既ニ燭炎ノ少距離ニ於テ其炎ヲ引キ焚起スレバナリ○格羅細穩(コロヂオン)ヲ一齊ニ蔽フコトハ、老煉ヲ要ス、故ニ後嗣開載スルガ如ク、従事センコトヲ要ス、
毛筆ヲ以テ玻璃板上ノ塵埃ヲ掃除シ、此隅角ヲ左手ノ拇ト、指間トニ支持シ、爰ニ於テ全板ヲ蔽フニ須要適量ノ格羅細穩ヲ以テ、板ノ上方ヨリ注キ始ム○剰餘ノ分ハ瞬時壜中ニ容レ、固封スベシ、
次ノ圖ニ參考スベシ、
『舍密局必携』巻三附録撮形術第33図
按スルニ當今消極像板ニハ格魯細穩ニ沃陳劑ヲ和シテ玻璃板上ニ注キ操作ス盖シ毎回ノ實驗ヲ經其術進奥シタル徴ニシテ此法ヲ用ル寸ハ像影緻密其他ノ所在澄明ナルコト格魯細穩ノ右ニ出ル者ナシ昔時ハ紙ニ蝋油等ヲ塗リテ透明ナラシム然レドモ其纎維透明ヲ妨クルノ病ヲ免レス因テ蛋清或ハ格魯細穩ヲ用ユルニ至ル然レドモ復タ蛋清ハ乾燥スルコト遲ノ失アリ余甞テ蛋清ニ沃陳材ヲ和シテ玻璃板上ニ注キ之ヲ暗所ニ乾シテ後チ常法ヲ以テ試ミシニ光線ニ感スルコト敏捷且鮮明ナレドモ次亜硫酸曹達ヲ以テ洗滌スル寸動モスレハ脱剝スルノ恐アリ○格魯細穩来舶ノ品ハ勿論自製ノ者ト雖太タ髙價ナリ因テ蛋清ヲ是ニ代用シテ確徴ヲ得ンタメ他日復タ之ヲ試コト毎回而シテ其患ハ剝脱ノミナルヲ以テ熟考スルニ全ク銀液ノ醇薄ニ関渉ス
格羅細穩(コロチオン)既ニ、玻璃板ヨリ滴流セザルニ至ルヤ、第四号ノ銀液採用ニ經階スベシ、
第四号 銀液ヲ用テ光線ニ感ジ易ラシムル法
此操作ハ日光ノ外ニシテ、所
謂撮影術所属ノ暗室内ニ在テ、光線弱キ蠟燭若クハ燭光ヲ用ユベシ、銀液製法ハ、百分ノ清雨水、或ハ同量ノ淡河水、及ビ七分ノ消酸銀ヲ以テス、
此溶液ハ、壜ニ容レ、再ビ之ヲ箱中ニ納メ、居恒密封シテ、暗黒ナラシムルヲ要ス、
銀液既ニ成リテ、澄明ニ至ラバ、之ヲ第三十四圖ノ如キ「ヱラスチカゴム」ニテ製セル、直立箱ニ注入シ、玻璃ヲ鈎上
第三十五圖ニ保置ス、此時格羅細穩ヲ蔽布セル面ヲ以テ、箱ノ斜面ニ向ケツヽ挿入ス○格羅細穩ノ膜ハ、銀ニ接シテ、濁色ヲ帶ビ、油様ノ線ヲ顯ハス、
『舍密局必携』巻三附録撮形術第35図『舍密局必携』巻三附録撮形術第34図 
鈎ヲ以テ一二回上下シ、以テ格羅細穩
(コロヂオン)ノ感動ヲ進マシム○格羅細穩ニ一齊白色「パールムールアクチフ」ヲ與ヘシムルニハ、二分時間乃至三分時間ヲ以テ足レリトス、斯ノ如クスル時ハ、舍密力徳ニヨリ、沃陳銀ヲ形トル○注意シツヽ、玻璃板ヲ箱ヨリ引キ揚ゲ、一二秒時間其剩液ヲ箱中ニ滴落シ、其后細意以テ之レヲ玻璃匡第三十六圖内ニ納ム、須ク格羅細穩ノ面位ヲ以テ、前方ニ致シ、玉鏡ニ方向スベシ、
『舍密局必携』巻三附録撮形術第37図『舍密局必携』巻三附録撮形術第36図
玻璃匡子毎
ニ托出スベキ内匡子第三十七圖ヲ具ス、匡子内玻璃板ヲ納メタル后ハ、之ヲ保持スルニ、能ク注意シテ、其所向ヲ正シクスベシ、若シ否ラザル寸ハ、銀液逆流シテ、此彼ノ面位若クハ脇方ニ汚點ヲ顯ハシ、格羅細穩ノ膜ニ、線ヲ生ズル患アリ、
斯ノ如ク操作セル玻璃板ハ、直
ニ撮影鏡器内ノ無澤玻璃板ニ代ヘテ挿入シ、第五号ノ所業ニ經階スベシ、
第五号 物影反射光線感動ノタメ暗黒装置
玉鏡ノ蓋ヲ密閉シ、玻璃匡子ノ挿蓋ヲ髙ク引キ揚ゲ、爾后之ヲ鏡器上ニ曲寄ス○爰ニ於テ注意シツヽ玉鏡ノ蓋ヲ解放シ、光線ノ正サニ玉鏡ヲ貫通シテ、格羅細穩膜ニ射シ、恰モ前キニ無澤玻璃板上ニ見ルガ如キ、像影ヲ寫サシム○斯ノ如ク光線ニ感ゼシムル時間ハ、太タ暫時ニシテ、地景家屋ノ如キハ、通常八秒時ヨリ、四十秒時迠ヲ以テ足
リトス、玉鏡ノ大ニシテ、重復ナル者、兼テ地景家屋ヲ寫シ得ベキ、内匡子ヲ具フル者ハ、其操作時間、前ニ比スレハ速ナリ、而シテ時冝ニヨリ、十秒時乃至十二秒時以上ヲ要スルコトアリ、
光線幾多ノ強力アリ、操作幾多ノ速
ナルモ、格羅細穩及ビ銀液ノ種類ニヨリ、遲速ニ感動ヲ起ス、復タ著ルシ○適時間ヲ實驗發明スルハ、撮影術ニ於テ、最モ冀望スル事件ナリ、
光線ノ感動ヲ受クル、至レリト察セバ、玉鏡ノ蓋ヲ密閉シ、挿蓋ヲ再ビ挿入スベシ○爰ニ於テ玻璃匡子ヲ直立シテ、保持シツヽ暗室ニ搬シ、第六号ノ操作、即チ像影ヲ顯ス所業ニ經階ス、
第六号 肖像ヲ顯スコト
光暉弱キ蠟燭火、若クハ燭光ノ側ニ至リ、匡子ヨリ玻璃板ヲ出シ、像影ヲ顯サンガタメ、格羅細穩ノ面ヲ上方ニ向ク、此時未タ像影現出セズ○此像影ヲ顯スニ、二法アリ、一ハ硫酸鐡ヲ用ヒ、一ハ没食酸ヲ用ユ○鐡劑ヲ用ユル寸ハ、像影現出スルコト、太タ疾速容易ナレドモ、没食酸ヲ用ユルガ如ク、其圖鮮明ナラズ、
 ○鐡液ノ法
四十微古窒
(イクチー)ノ硫酸鐡ト、四百微古窒ノ水ヨリ製シ、之ニ加ルニ、八微古窒ノ醋酸ヲ以テス、但シ此劑ハ是ガ為ニ、所属ノ度量器、第三十八圖ノ如キ者ヲ用ヒ量ルベシ、而シテ又之レニ加ルニ硫酸十滴ヲ以テス○此溶液ヲ扁平ノ鉢第三十九圖ニ注キ、玻璃板ノ格羅細穩面ヲ上ニナシ、慎意シツヽ鉢内ヘ容ル、斯ノ如クスル寸ハ、三十秒時ヲ歴テ、像影現出ス○鉢ヨリ玻璃板ヲ取リ出シ、其中央ニ清水ヲ注キ、諸方向ニ流シ洗滌ス、
『舍密局必携』巻三附録撮形術第39図『舍密局必携』巻三附録撮形術第38図
此所業最モ注意シテ、格羅細穩面ノ破裂スルヲ防グベシ○爰ニ於テ、此圖ヲ瞬間時、日影ニ向テ伺フベシ、是レ即チ消極像影
(子カチーフベールト)ニシテ天部ハ黒色、陰影部ハ透明ナル如ク、互ニ反對ノ者トナル、
第七号 得ルトコロノ肖像ヲシテ再ヒ光線ニ感動セシメザル法
此業復タ宜シク弱キ日光、若
クハ蠟燭火ヲ用ヒテ行フベシ、
百微古窒ノ次亜硫酸曹達
(オンドルズウアーフェリフシュールソーダ)ヲ、五百微古窒ノ水ニテ溶シ、之ヲ「ヱラスチカコム」ニテ製セル、箱第四十圖ニ注キ、得ルトコロノ玻璃板上ノ圖、其濕氣アルニ乘シ、格羅細穩面ヲ上方ニナシツヽ、此箱中ニ入ル、
『舍密局必携』巻三附録撮形術第40図
此溶液ハ沃陳銀ヲ奪ヒ一二分時ノ後ハ、悉ク白色トナリ、其后チ黒色ニ變ズ○箱中ヨリ玻璃板ヲ取リ出シ、清水ニテ之レヲ洗滌スルコト、上ニ記載スルガ如シ、終ニ之レヲ斜ニシ、壁ヘ凭依乾燥ス○既ニ乾燥スル寸ハ、後嗣開載スルガ如キ、積極撮影術ニ進奥ス
第八号
 
○没食酸ヲ用ヒ像影ヲ顯ハサシムル法
此業モ復タ光線弱キ蠟燭、若
クハ燭光ヲ採用ス、一微古窒ノ没食酸(ガルノートシュール)ヲ三百微古窒ノ水ニ溶シ、之ニ三十微古窒ノ醋酸ヲ加フ○此溶液ハ、暗所ニ於テ僅ニ四日ヨリ、五日ノ間ナラデハ、貯ヘ置クコト能ハス○此故ニ小量ニ製スルヲ良トス、其法、二粒ノ没食酸、六微古窒ノ醋酸ト、六十微古窒ノ水ヲ以テス○此溶液ヲ少許ツヽ、玻璃板上ニ注グ、但シ玻璃板ハ、左手ニテ水平ニ持ツベシ○暫アツテ像影現出ス、爰ニ於テ、再ビ玻璃板上ノ溶液ヲ還注シ、直チニ二三滴ノ銀液ヲ加ヘ、亦再ビ板上ニ注グ、須ラク注意シテ旋轉シ、板面ノ所在、蔽ヒ至ラザル処ナカルベシ○像影赤色ヲ帶ル乎、又ハ茶褐色ヲ帶ル寸ハ、久キニ過ルノ徴トス、復タ像影著シク現出スベキ者ナレドモ、其現出明著ナラザル者ハ、早ニ過ルノ徴トス○斯ノ如キ期ニ望バ、清水ヲ以テ洗滌シタル后、再ビ其格羅細穩面ニ、少許ノ銀液ヲ滴シタル新鮮ノ没食酸ヲ注グベシ○水ヲ以テ洗滌シタル后ハ、上ニ説示シタルト同法ニテ、次亜硫酸曹達ヲ用ヒ、洗滌乾燥ス、
第八号 格羅細穩(コロヂオ)ヲ用ヒ、玻璃板上ニ得ルトコロノ像影ヲ以テ、紙上ニ發兌スル法
得ルトコロノ消極玻璃像ハ、之ヲ紙上ニ寫シ、積極像
(ホスチーフベールド)トナスヲ要ス、
數多ノ發兌
(アフドリユツク)ヲ行ント欲セバ、消極玻璃像ニ仮漆(フェルニス)ヲ布キ、以テ格羅細穩面ノ、損スルヲ防ク、
此法ヲ行ハント欲セバ、次ニ示ス仮漆ヲ以テ、恰モ格羅細穩ヲ以テ、玻璃板上ニ注クガ如クス○仮漆ヲ注ギタル后、玻璃板ヨリ之ヲ漏滴シ、乾燥セシム、
 ○仮漆
(フェルニス)ノ法
    百微古窒
即百拇立方 亜爾箇耳
    八微古窒      ゴムラック
    一微古窒      サンダラキ
右溶解シタル后、汚物沈澱シテ、其液澄明ニナル、之ヲ清淨ナル壜ニ貯フ、若シ沈澱セザル寸ハ、漉紙ヲ以テ篩過スベシ、此時注意シテ、仮漆ヲ同所ニ二回、觸レシムルコト勿レ、
 ○積極紙製法
此製法ハ滑ナル積極紙ニ、薄ク塩酸銀ヲ布ク者ナリ、是レガタメニ、溶液ヲ製スル、左ノ法ヲ以テス、
 百分
  水
 五分   磠砂
又ハ同量ノ食塩ヲ代用ス
此溶液ヲ四線、若クハ五線ノ髙サヨリ、扁平ノ鉢ニ注キ、所謂積極紙ヲ以テ適冝ノ大サニ截リ浮バシム紙ノ滑ナル面ヲ以テ液ノ方ニ浸スベシ○五分時ノ后、紙ヲ塩液槽ヨリ取リ出シ、其隅角ヲ懸ケ乾燥ス○滴下乾燥ヲ進マシメンタメ、下邉ノ隅角ヨリ、小切セル漉紙ヲ以テ受ク○此操作ハ、日光ニナスヲ禁ゼズ、而シテ斯ノ如ク塩劑ヲ施セル紙ハ、塵埃濕氣ヲ防キ、一月間冝シク貯フベシ、
此紙ハ「パピールサーレ」ト名クル、筥子内ニ納メ置ク、若シ悉ク之
ヲ採用セバ、復タ同上ノ法ヲ以テ積極紙ヲ製スベシ、
次ニ示ス事件ハ暗室ニ在テ、蠟燭火ヲ採用シ、所業ス、
  三十微古窒 硝酸銀
  二百微古窒 水
右溶液トナス○之
ヲ扁平ナル瓷製ノ鉢ニ注ギ、塩劑ヲ施セル紙ノ表面ヲ下ニ向ケ、浮バシム、
爰ニ於テ、紙中ニ塩酸銀ヲ形ドル○紙ヲ浮べ置クノ時間ハ、應
ニ五分時間ナルベシ、而シテ后乾燥セシムルコト、上ニ記載シタルト同轍ナリ○此所業復暗室ニ在テナスベシ○銀劑ヲ施セル紙ハ、暗所ニアルト雖、暖氣ノタメニ、茶褐色ニ變ジ、廢物トナルガユヘ、僅ニ暫時貯フコトヲ得、
『舍密局必携』巻三附録撮形術第41図
「コピールラーム」
第四十一圖ヲ取リ、其蓋ヲ放チ、其底ヲナス厚玻璃板ヲ掃清シ、此上ニ消極玻璃板ノ玻璃面ヲ置ク○塩酸銀ヲ形レル紙ノ表面ヲ以テ、玻璃板ノ格羅細穩面上ニ置キ、此上ニ蓋ヲ蔽ヒ、再ビ「ラット」發條ヲ具セル條板ヲ云固定ス○斯ノ如クスル寸ハ、發條(フヱール)ノタメニ其紙、格羅細穩上ニ壓迫サレ、扁着ス○此「コピールラーム」ヲ戸外ニ搬シ、玻璃面ヲ以テ、青天若クハ日光ニ向フ、
暫時斯ノ如クシ置ク寸ハ、白色塩酸銀ハ、光線ノ匡中ニ射入スル強弱ニ隨ヒ、容易帶色ス○爰ニ於テ、今應
ニ積極像影ヲ形ドリ、晷且ツ光線ヲ反射シテ、物影忽然トシテ、天然ノ本相ヲ顯ス、
四分時若
クハ五分時ノ后「コピールラーム」ヲ暗室ニ搬シ、光線ノ感觸至極ナル歟ヲ撿査センガタメ、其紙辨ノ一端ヲ開キ伺フ○若夫レ曇影ノ処、緑色様ニ帶色シ、白色ノ地微赤色ヲ帶ブ寸ハ、像影方ニ鮮明ナルノ徴トス○若復タ斯ノ如クナラザル寸ハ、「コピールラーム」ヲ元トノ如ク整復シ、光線ニ向フ○諸像影悉ク同等ノ度ヲ得ルヲ要セズ、唯其美味ハ規律ノ因テ示ストコロナリ○像影其適冝ナル度ヲ得ル寸ハ、暗室ニ在テ「コピールラーム」ヨリ取リ出シ、清水ヲ填テル槽ニ投シ、以テ剰餘ノ銀ヲ溶解セシム○爰ニ於テ像影ヲ居恒暗室ニ在テ操作ス一分ノ次亜硫酸曹達ト、五分ノ水ヨリ製セル、溶液ニ浸シ、十分時乃至二十分時ニ至ラシム、復タ紙ヲ日光ニ向ケテ伺ヒ、澄明ニ至ルヲマツ○此后暗室ノ外ニ在テ、像影ヲ多分ノ水ニ毎回洗滌シ、而シテ五時乃至六時間清水ニ浸シテ、一時毎ニ轉回シ、以テ妨害タル曹達塩ヲ脱セシム○爰ニ於テ懸乾シ、爾后適冝ニ截切シ、護謨(ゴム)ヲ以テ白筥ニ綴附シ、光澤ヲ與ヘンガタメ之ヲ搾出ス、之ヲ全成ノ者トス○色分ヲシテ、活潑ナラシメンタメ、蠟ヲ塗ルコトアリ、佛朗察ニ於テハ專ラ此法ヲ行ヒ和蘭ニ於テモ、通常此法ヲ採用ス○其法、火上徐々ニ少許ノ白蠟ヲ熔解シ、是ニ適量ノ老賢垤爾(ラヘンデル)油ヲ注グ若シ止ムヲ得サル寸ハ、帝列並丁油ヲ代用ス是レ蠟ノ温ト、固ヲ保存シ、指ヲ以テ延暢シ、易カラシメンタメナリ○此蠟ノ少許ヲ、指ニテ像影紙上ニ屑絲或ハ屑麻ヲ以テ徐々ニ壓拍シ、澤色ノ出ル迠摩擦ス、上文開載シタル操作ハ、地景家屋ノ寫真ニ適當スト雖、肖像ニ於テハ、未タ清美ヲ盡サズ、如何ントナレバ、其色茶褐色若クハ黒褐色ナレバナリ、此故ニ肖像ニ於テハ、青黒色ニシテ、澄明色ヲ得セシメンコトヲ要ス○其法、次ニ記載スルガ如シ、
像影ヲ水ヨリ出シ、次亜硫酸曹達ノ溶液ニ代ヘ、少許ノ金液ヲ注ケル、槽中ニ投入ス、此金液ハ、一微古窒ノ塩酸金ト、五百微古窒ノ水、及ヒ四微古窒ノ次亜硫酸曹達ト五百微古窒ノ水ヨリ製セル者ナリ○第一溶液即
塩酸金溶液ハ暗所ニ貯フベシ○此溶液ヲ混和スルニハ、暗所ニ於テ次法ニ隨ヒ、今採用セント欲スル半時前、或ハ一時前ニ製シ置クヲ要ス○目度器ニ、適冝ナル分量ノ次亜硫酸曹達ノ溶液ヲ填テ、之ヲ瓷槽ニ注ギ、其后徐々ニ攪動シツヽ、同量ノ金液ヲ加フ○慎テ次亜硫酸曹達ノ溶液ヲ金液中ニ注クコト勿レ、若然スル寸ハ、其溶液直チニ黒色トナル○暗所ニ於テ此混液中ニ、積極像影紙ヲ四分時間、若クハ五分時間放置シ、金液ノ陸續タル舍密力徳ヲ保タシム、爰ニ於テ其色青黒色ニ、紫黒ヲ帶ブ者トナル○此法ヲ行フ久キニ過グベカラズ、若過久ナル寸ハ、美色ヲ損ス、
佛朗察人ハ此操作ヲ「ヒラケ゜」ト名ケ、此着色槽ヨリ積極像影ヲ出シ、直
ニ次亜硫酸曹達ノ槽中ニ投ジ、洗滌スルコト、上ニ示シタルガ如シ○美ニシテ久貯變ゼザル積極像影ハ、金液槽ノ操作、善良ナル徴トス○積極像影ニハ、酸液槽ヲ用ユルコトヲ禁ズ○酸液ヲ用ユル寸ハ、方ニ美黒色ヲ顯スト雖、硫化銀ヲ形トリ、其積極像影、後日消滅スルノ恐アリ、
 ○格羅細穩
(コロヂオン)配合
       百微古窒   格羅細穩
   其一  一微古窒   ヨヂュレ、デ、カドミュム
       四分一微古窒 ブロミュレ、デ、カドミュム

       百微古窒   格羅細穩
       半微古窒   ヨードポットアシュム 
   其二  十分三微古窒 ヨヂュレ、デ、カドミュム    
       十分一微古窒 ブロミュレ、デ、カドミュム  
       十分二微古窒 ブロミュレ、デ、アンモニュム 
「ウオンクトーフ
ン」氏ノ著書中記載セル者ニ比スレバ、此法ヲ優レリトス、否ザレバ、預メ此簡法ニ従事シ、習學センコトヲ要ス、
 ○格羅細穩
(コロヂオン)製法
    五微古窒  綿火藥
    二百微古窒 亜爾箇耳
    三百微古窒 硫化依的爾 
 酷暑ノ時ハ、亜爾箇耳
(アルコール)ト、硫<ママ>依的爾(ズウアーフルヱーテル)同量ヲ以テス、」
先ヅ依的爾ヲ綿火藥ニ注グ、爰ニ於テ其纎維分折ス、爾后手ヲ留メズ築動シツヽ、亜耳箇爾ヲ加フ、斯ノ如クスル寸ハ、綿火藥直チニ溶解ニ至ル○静定沈澱ノ後チ、全ク澄明ニ至ラバ、其澄明ノ分ヲ他壜ニ注ギ、後時以テ、上ニ記載シタル、沃陳劑ヲ加フルニ供ス、
爾他ノ製藥ニ枸櫞酸
(シトル。ウンシュール)適量ヲ准備シテ、醋酸ニ代用ス、其配合ハ没食酸ト同量ヲ和ス○枸櫞酸ヲ用ユル寸ハ、酸臭ノ散逸セザル利アリ、
 ○附考
一生窒米的耳立方ノ水ハ、其秤量涅垤蘭土ノ一微古窒トナス、
同立方ノ依的爾
(ヱーテル)ハ、僅ニ零微古窒七
同立方ノ亜爾箇耳
(アルコール)ハ、僅ニ零微古窒八
此故ニ百微古窒ノ依的爾ハ、百四十五生窒米的耳立方ニ同シ、
百微古窒ノ亜爾箇耳ハ、百二十五生窒米的耳立方ニ同シ、
百微古窒ノ格羅細穩ハ、百三十五生窒米的耳立方ニ同シ、
○格羅細穩濃厚ニ過ル寸ハ、板上之ヲ注ク寸ニ方ツテ、線或ハ雛
<ママ>ヲ生ズ、故ニ少許ノ依的爾ヲ加ヘ、稀液トナスベシ、
操作ノ時、暖度ノ髙キニ隨ヒ、格羅細穩ハ稀薄ニナシ採用ス、否ラザレバ、依的爾ノ精、忽チ蒸發スルノ患アリ、
撮影石版術
撮影術(ポトガニピー)ヲ發明セシ二賢ノ裡、尼布設(ニープセ)氏剏テ撮影石版術ヲ經驗シ、華耳斯(ハルス)質殊ニ亜斯巴爾多(アスパルト)土瀝土脂石脂ノ類人造ニテハ石炭ヨリ分析スヲ採用シテ、華耳斯(ハルス)ノ稟性ヲ覺悟セリ、其法亜斯巴爾多ヲ老賢垤児(ラヘンデル)油ニ溶解シテ、板面ニ乾燥シ、暫時日光ニ曝シ試ルニ、此物再ヒ油中ニ溶解スルコトナシ○故ニ學者宜ク疑惑ヲ容レズ、光線ハ能ク華耳斯(ハルス)質ヲシテ、大氣ヨリ酸素ヲ吸収セシメ硬固且ツ溶解スベカラザルニ至ルノ理アルコトヲ察スベシ○甞テ尼布設(ニープセ)氏、此理ニ因循シテ、銅版ヲ施行スルニ、酸類ヲ以テ竄蝕セシムルコトヲ試驗セリ○其後達傑兒列(ダゲルレ)氏、他法ヲ以テ之ヲ施ス、其發明ハ光線ノ賦力ヲ陰影ニテ感セシム、然ニ尼布設氏ノ首唱、未地ニ落チズ計ラザリキ、千八百五十四年ノ左右、巴列察(パレイス)府ヨリ報告アリ曰、毫モ筆者ノ手ヲ勞セズ、直ニ寫真影石版ヲ發兌セリト○當時人咸之ヲ表シテ、尼布設(ニープセ)氏ノ首唱セシ亜斯巴爾多ノ試驗再興シ、且ツ冥秋ヲ得タリト云ヘリ、而シテ學者種々ノ疑ヲ容ルベキニ、却テ之ヲ試驗シ、忽チ其業ヲ全セリ○是美藝ニシテ宛モ老煉術者ノ石上ニ圖書セルガ如ク、太タ鮮明、人咸其新發明ヲ賞セザルハナシ、
目今遵用スル所ノ操作法ハ、撞末セル亜斯巴爾多
(アスパルト)ヲ硫酸依的児(エーテル)ニ溶解シ、暗處ニ於テ、清潔ナル石盤ヲ水平ニ安置シ、其調匀溶液ヲ注グ、爰ニ於テ其稠膜乾燥スル寸ハ、細微無數ノ破線ヲ生ズ○今夫レ此石ハ、光線ニ感シ易キガユヘ、隨意積極像影(ポシチーフベールド)ヲ施シ得ベシ、先ヅ發兌セント欲スル消極像影(子ガチーフベールド)玻璃板ニ撮影シタル者ヲ以テ、石上ニ覆ヒ、又其上ニ玻璃板ヲ置キ暫時其面ヲ日光ニ向ツ○此后其石ヲ再ヒ工局ニ搬シ、多分ノ硫酸依的児ヲ注キ、而シテ洗灌ス○此所業ニヨリ、石面ノ黒色部ノ所在亜斯巴爾多ノ光線ニ感ゼザル部分徐々ニ消逸シ、次第ニ石面ノ處々膚ヲ著シ、終ニ其々石面上鮮明ノ像影現出ス、爾後紙上發行ノ業、尋常ノ石版術ト同シ、而シテ尋常ノ石版ニ比スレバ、美ナルコト逈ニ遠シ、
 (按)墨製及ヒ發兌法等、中篇石版ノ篇、擧テ詳ナリ、
舍密局必携巻三前篇

 

 

 


  

  (注)1.上記の堀江公肅閲・上野彦馬抄訳『舎密局必携』前編、巻三附録「撮形
     術ポトガラヒー」の本文は、文久二壬戌年(1862年)正月、
京都吉野屋仁兵
     衛・
江戸和泉屋金右衛門・大坂河内屋喜兵衛・勢州伊勢屋治兵衛 発行の『舎
     密局必携』前編三冊によりました。
    2.上記の堀江公肅閲・上野彦馬抄訳『舎密局必携』前編は、早稲田大学図
     書館のHPにある古典籍総合データベースで見せていただきました。
       早稲田大学図書館HP → 古典籍総合データベース
                     → 舎密局必携』前編 / 上野彦馬抄訳
           巻三附録「撮形術ポトガラヒー」の本文は、
               舎密局必携』前編 三 (21~40 / 41)
    3. 表記について
    (1)文中の「古+
(下に)又」「日-ヒ」「l+モ」は、それぞれ「事」「コ
      ト」「トモ(ドモ)」に置き換えてあります。
    (2)四角の枠で囲んである見出し(「第一 順次整備及ビ装置照準」など)
      は、枠を省略して太字で表記してあります。
    (3)冒頭にある「
(按)撮影術ノ 皇國ニ傳ル」の「皇国」の前の空白部分
           は、その次の言葉の主体に対する敬意を表す、所謂「闕字
(けつじ)」です。
    (4)終わり近くにある「○格羅細穩
(コロヂオン)配合」の「其一」「其二」の
           ところには、それぞれすぐ下に(ここでは、横書きなのですぐ右に)波括
      弧が付いていますが、ここではそれを省略してあります。
    (5)二行に分かち書きしてある部分は、小字で1行に表記してあります。   
     
(付)なお、片仮名の振り仮名(読み仮名)等が正しく読み取れていない部分があるかもしれません
          ので、それを含めてお気づきの点をお知らせいただければ幸いです。

    4.書名の『舎密局必携』について
      『舎密局必携』(セイミきょく・ひっけい)の「舎密」とは、オランダ
      語 chemie(シェミ
)の音訳で、「化学」のことだそうです。ここでい
       う「舎密局」とは、「化学実験室とでもいう意味」
(芝哲夫著『日本の化学
       の開拓者たち』による)
だそうです。
       従って、書名の意味は、「化学実験室が必ず備え付けておかなければ
           ならない本」(「化学実験室で化学の実験に携わる者が必ず持っていな
           ければならない本」)ということになるようです。

      なお、「舎密局」(セイミきょく)には、明治政府が明治2年(1869)
     大坂に開講した理化学研究教育機関という意味もあります。
        舎密局(セイミきょく)=明治政府が1869年(明治2)大坂に開講
          した理化学研究教育機関。89年京都へ移転。94年の高等学校令
          により第三高等学校と改称、京都帝国大学に至る。         

         セイミ[chemie オランダ ・舎密]=江戸後期から明治初期にかけての
          「化学」の呼称。舎密学。西周、復某氏書「かの一技一術を講
           ずる輩の、洋兵とか、…舎密とか、医術とかいひ喧
さやぐは」
           
 (以上、「舎密局」「セイミ」の項は『広辞苑』第6版による。)

             「舎密(せいみ)」という語の作者について、フリー百科事典『ウィキぺディア』
      に、次のようにあります。(2019年6月6日付記)
         舎密(せいみ)とは江戸時代後期の蘭学者の宇田川榕菴がオランダ語で化学
                を意味する単語 chemie[xe'mi]を音写して当てた言葉。宇田川榕菴はウィリ
        アム・ヘンリーの“Epitome of chemistry”のオランダ語版を日本語に翻訳し、
        『舎密開宗』の名で世に出した。
         一方、川本幸民はユリウス・シュテックハルトの“Die Schule der Chemie”
        のオランダ語版を日本語に翻訳して、中国で使用されていた「化学」の語を用
        いて『化学新書』という名で世に出した。(後略)
            フリー百科事典『ウィキぺディア』「舎密」

       ちくま学芸文庫『幕末─写真の時代』(小沢健志・編、1996年6月10日第1刷発
      行)に、次のようにあります。(本書は、1994年3月10日、筑摩書房より刊行され
      た『幕末─写真の時代』を再編集したものの由です。)
         安政2年(1855)ようやく幕府は長崎の地に近代化の第一として海軍伝習所
        を設立し、その後オランダよりカッテンディーケならびにポンペを教官として
        迎えた。
         ポンペは医学伝習所、さらに化学を研究するための舎密研究所を創設させ
         ている。(中略)
          この(わが国の)近代化を代表する文化のひとつである写真術を伝えた第
        一の伝承者は、長崎の人上野俊之丞(1790~1851)で、彼の伝記には「俊之丞
        は御用時計師にて和蘭製など仕る」とある。その俊之丞が薩摩藩の注文もあっ
        てダゲレオタイプを入手したのは天保14年(1843)より嘉永元年(1848)まで
               の間のことであったろうといわれている。       
          俊之丞の次子彦馬はポンペの舎密研究所*に入所、のち文久2年(1862)に
        は長崎の新大工町の川畔に上野撮影局を開業した。
                             (筆者:越中哲也氏、同書115~116頁)

       
* ポンペの舎密研究所……長崎大学薬学部のHPの「2 化学者としての上野
            彦馬」には、「ポンペ・メールデルフォールトの塾「舎密試験所」」
            とあります。

    5.上野彦馬
(うえの・ひこま)=日本の写真術の先駆者の一人。俊之丞の子。
           長崎に生まれ、ポンペについて化学を学ぶ。1862年
(文久2)
            
に「舎密局セイミきょく必携」を著して湿版写真術を解説。長崎
              で写真館を開き、坂本竜馬らを撮影。(1838-1904)
      ※ 上野俊之丞
(うえの・しゅんのじょう)=江戸後期の薩摩藩御用商人。長
           崎の人。1848年(嘉永1)オランダ船より銀板写真の器具
           を輸入。(1790-1851)
                                             
(以上、『広辞苑』第6版による。)     
      堀江公肅
(ほりえ・こうしゅく)=日本の写真術の先駆者の一人。本名、鍬
           次郎
(くわじろう)。安政年間に津藩から長崎に派遣され、舍
           密
(セイミ)学を蘭医ポンペに学んだ。ポンペは写真機を持っ
           ていたが使いこなせず、興味を持った堀江と上野彦馬が苦心
           して暗箱や薬品を作り、写すことができたという。
後に堀江
            は帰郷して藩校有造館で舍密学を講じたが、慶応2年(1866)
           35歳で亡くなった。(昭和58年6月1日号(第565号)の『津市制だより』
           掲載の「津の初期の写真家たち」による。→これは『レファレンス協同データベー
           ス』(地-04-6)三重県立図書館提供によりました。)              
    6.フリー百科事典『ウィキペディア』に、上野彦馬の項があります。
    7.日本写真芸術学会誌』平成20年度第17巻第1号に、日本大学大学院芸
     術学研究科の田中里実氏による<『舎密局必携』前篇三附録「撮形術ポト
     ガラヒー」現代語訳>が掲載されています。
        お断り: 残念ながら現在は見られないようです。(2017.10.30)
    8.東京大学大学院情報学環・学際情報学府の『文化資源統合アーカイブ』
     に、歴史写真資料のページがあり、そこに「上野彦馬略歴」がありま
     す。
        お断り: 残念ながら現在は見られないようです。(2017.10.30)

    9.学校法人・産業能率大学のHPに、[写真の開祖]上野彦馬のページ
          があります。
        お断り: 残念ながら現在は見られないようです。(2017.10.30)
     10.
長崎大学薬学部のHPに、『長崎薬学史の研究』があり、その「第二章
          近代薬学の導入期」に
2 化学者としての上野彦馬のページがあります。
     11.三重産経情報館の『おもしろ三重版』というHPに、「歴史に生きる三
     重の人々」というページがあり、そこの「
堀江鍬次郎(上野彦馬と共に
     
日本写真の始祖)」の記事に、「「舎密局必携」抄訳者となっている上野
     彦馬は堀江より7才年下で、長崎伝習所で学友になり彼等は長崎で約5年
     間を学び、のち、津の有造館洋学館で舍密を教えることとなり、その教科
     書として「舎密局必携」は藩からの援助も受けて出版されたのである。当
     初の予定では、前編、中編、後編、附録の四編、計十六冊が出される予定
     だったが、上野の帰国と堀江の死で前編三冊で終わってしまった」とあり
     ます。堀江鍬次郎は、文政13年(1830)生まれ、慶応2年(1865)没。
     12.資料320に
『舍密局必携』巻三附録「撮形術」(ひらがな・読み仮名
     
付き)があります。     

 



 

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