資料314 志賀重昂「間宮先生の肖像について」





       間宮先生の肖像について   志 賀 重 昂  
 

謹啓。茨城縣は在來數多の偉人を孕み出し候處、何れも其權威日本國の中のみに限られ、一言に申せば氏神的に御座候。然るに獨り間宮林藏は其姓名及事業、西洋の史册に顯れ、氏神的に非ず全く世界的なるは、日本人として日本國の誇りなりと存居候。然れば間宮先生の肖像は内外國人何れも一見せばやと切望致居候處、如何なる文書類にも之を認めず、一同遺憾に存居候に付、東京美術學校長正木君に此趣を書送候處、正木校長より同校助敎授松岡輝夫君を選定し、此件に當らせらるべき旨申越され、松岡君にも來訪被致候に付、其の材料として茨城縣師範學校中村治太君所藏の間宮先生肖像を示し申候。此れは先年中村君が間宮先生の肖像なきを遺憾とし、先生を面知し居れる老婆幸田りん子に依り、容貌風采服装等を周密に聞き取られ、此くして後茨城縣のさる畫家に托し、右老婆の所説通り寫さしめたるものにて御座候。然るに松岡君には此肖像を熟覽の上申さるゝ樣、この畫は善く出來居れども、六十幾歳に見ゆる間宮先生にして、大事業を敢行せし頃の林藏其人に非ず、故に颯爽たる人を動かすに足るべきもの無く、間宮林藏としては無意味なる時代の肖像なり。それも先生の生前に寫實せしものなれば兎に角、一老婆の記憶より想像せし作物なれば、ドチラ途此畫通り寫す可らず、尤も參考として倔強の材料なるが、これよりも寧ろ先生の血統の生存者に面會し、其容貌風采を知りたし云々とて立ち去られ候。因て先生生家の現主人間宮正倫君に宛、上京の節には林藏先生樺太探検の際使用されたる頭巾、海上測量用の鐡鎖等諸遺物携行の上、松岡君に面會あり度書送致置候處、四十二年十二月上旬上京、右物品携行して松岡君に面會被致候。其節正倫君には祖父庄平君が生前に當り伯父の林藏に善くも似たる人なりと稱へたる一老人ありたれば、前年此の人を寫眞に撮影せばやと請ひたるに、何分當世の事物に慣れざる老人の事とて、撮影するを大に忌み嫌ひたれば、已むを得ず水海道町にて自分と共に列び、漸くの事にて撮影せしものある旨申され候處、松岡氏にはそは妙なり、獨り林藏先生に似たる件の老人のみならず、今日よりも未だ年若き正倫君をも併せ知るを得ば、林藏先生を畫くに好參考なりと申され候に付、正倫君には歸村後右寫眞を松岡君に送附せられ候。然るに同月十二日松岡君來訪曰く、中村君所藏の林藏君肖像と、正倫君と老人の寫眞との三個容貌に一の共通點あることを自分の頭腦に浮び出でたれば、この浮びたる思想の打消えざる内に染筆すべし、然し此くして林藏先生の表情を寫さんとするに、頭巾を用ひては其の容貌は半ば以上隱れ、切角の特色を著す能はず、然ればとて頭巾は先生當時使用のものなれば之を寫さゞるも遺憾なり、畢竟如何すべきやと申され候に付、小生には松岡君の遺憾は然ることながら、矢張り林藏先生の特色を著す方可然とし頭巾を用ひざることに一決致候。松岡君曰く、然る上は先生の結髮は如何なる風を取るべきやと、是には林藏先生が其の生前畫工に描かしめたる淸吏と滿洲德楞にて船中對酌の圖有之、この圖中の人物は極めて小さく畫きあり候へ共、幸ひに先生の結髮の風だけは相判り候に付、髷は此の圖に據ることゝし、かくて先生が間宮家の定紋付の羽織を穿ち脚絆を履き、海上測量用の鐡鎖を持ち居らるゝ所を寫すべしと、松岡君には自信の色を表して歸られ候。却説(さて)右の松岡輝夫君は、未だ年壯の畫家には候へ共、彼の醫學博士にして而も景樹派の和歌に堪能に、宮内省御歌所御用掛となり、伊藤山縣兩公の歌の師匠たる井上通泰君、及び法制局參事官兼宮内省書記官内務省嘱託の法學士にして而も文學に堪能に、都下の文學新聞より文壇遊撃將軍の筆頭なりと呼ばれたる柳田國男君の實弟にして、兩兄共に現代の風變り人物に有之、隨て松岡君も今の畫學界に一異彩を放ち、現に日英博覽會出品の畫を文部省より嘱託せられたる人に有之候に付、此の人の揮灑(きさい)せし間宮林藏は遺憾なく間宮其人の英姿を我が眼前に活躍せしむべきものなるべく、小生には領(うなじ)を延ばして其の出來を日々待ち居候。尤も出來上り候上は間宮先生の肖像は今後此を以てオーソリチーとするは必定なりと存候に付、撮影して繪葉書に調製し、門外の知人に配布する心得に御座候。間宮林藏肖像畫の顚末に付書綴り候上、間宮先生生地の縁故に依り、右貴新聞まで御届け申上置き候。匆々拜具。

(参考)

                     
      
    
間宮林蔵肖像(松岡映丘・画 間宮林蔵記念館[伊奈間宮家]蔵)



  (注) 1.  上記の志賀重昂「間宮先生の肖像について」は、明治43年の新聞「いはらき」紙上に載掲されたものです。掲載された月日は、現在のところ不明です。
 本文は、荒井庸夫著『間宮林蔵 日本測地学の先達』(ふるさと文庫:崙書房、1979年12月発行)所収のものによりました。      
   
    2.   ここに掲載した間宮林蔵肖像(松岡映丘・画 間宮林蔵記念館[伊奈間宮家]蔵)は、『間宮林蔵の世界へようこそ』というホームページから転載させていただきました。
 このホームページには、間宮林蔵の肖像画についての解説が「間宮林蔵の肖像」というページにあります。
 間宮林蔵の肖像画が描かれるに至った消息を伝える志賀重昂の「間宮林蔵先生肖像」という文章が、注10に挙げてありますので、ご覧ください。
 なお、松岡映丘については、『福崎町立柳田國男・松岡家記念館』というホームページに、「松岡映丘(輝夫)」を紹介したページがあります。
 また、『姫路市立美術館デジタルミュージアム』に、「松岡映丘」のページがあって、映丘の紹介と幾つかの作品を見ることができます。
 お断り: 『姫路市立美術館デジタルミュージアム』は、残念ながら現在は見られないようです。(2017.11.01)              
   
    3.   〇志賀重昂(しが・しげたか)=地理学者。号は矧川しんせん。愛知県の人。札幌農学校卒。三宅雪嶺らと雑誌「日本人」を創刊、国粋主義を主張。世界各地を巡遊。著「日本風景論」「世界山水図説」など。(1863-1927)
 〇間宮林蔵(まみや・りんぞう)=江戸後期の探検家、幕府隠密。名は倫宗ともむね。常陸の人。伊能忠敬に測量術を学び、幕命によって北樺太を探検。1809年(文化6)、後の間宮海峡を発見。シーボルト事件を幕府に密告したとされる。著「東韃紀行」。(1775~1844)(以上、『広辞苑』第6版による。)
 
 
〇間宮林蔵(まみや・りんぞう)=(1775-1844) 江戸後期の探検家。諱(いみな)は倫宗(ともむね)。常陸(ひたち)の生まれ。幕府の蝦夷(えぞ)地御用雇となり蝦夷地に勤務、伊能忠敬に測量術を学ぶ。千島・西蝦夷・樺太を探検。間宮海峡を発見し、樺太(サハリン)が島であることを実証。シーボルト事件の告発者といわれる。 (『大辞林』第2版による。)    

 〇間宮林蔵(まみや・りんぞう)=1780~1844? 江戸時代後期の探検家。常陸国(ひたちのくに)筑波郡上平柳(かみひらやなぎ)村(現・伊奈(いな)村。引用者注:現在は、つくばみらい市上平柳)に生まれる。名は倫宗(ともむね)、林蔵は通称である。幼時より数理に優れ、その後江戸に出て修養を積んだ。1800年(寛政12)、蝦夷(えぞ)地(現・北海道)御用御雇となり、蝦夷地に勤務して各地測量に従事した。伊能忠敬(いのうただたか)に測量術を学び、1822年(文政5)に完成した『実測蝦夷地図』は、太平洋岸が忠敬、そのほかは林蔵の実測によるものといわれている。1808年(文化5)、松田伝十郎(でんじゅうろう)とともに樺太(からふと)探検を命ぜられ、林蔵は白主(しらぬし)より東海岸の北知床(きたしれとこ)岬に至ったが怒濤(どとう)のためマアヌイから西海岸に出た。伝十郎のあとを追って北上し、ラッカ岬にまで至った。しかしこの探検に満足せず、さらに願い出て単身樺太への第2回探検に挑戦し、翌年、ナニオーに達して樺太が離れ島であることを確認した。さらに土人の船に便乗し、黒竜江(こくりゅうこう)をさかのぼり、毎年満州官吏が土人の撫育(ぶいく)と交易のためにやってくるデレンに到着。人情・風俗・産物などを調査し、再び黒竜江を下って帰った。この海峡は約100マイル。もっとも狹い部分はわずかに4マイルで、両岸は黒竜江から流出する砂に埋まり、中央部に狹い水道があるだけであった。これが冬季は凍結し、氷上交通が可能となった。著書に『北蝦夷図説』『東韃紀行(とうだつきこう)』などがあり、いずれもこの方面最初の記録となった。林蔵によって初めて樺太が1つの島であることが確認された。このことは蘭医(らんい)シーボルトによって紹介され、世界地図に初めて「間宮海峡」の名が登場した。シーボルトは、その著『ニッポン』に林蔵の探検記『東韃紀行』を載せ、確認した大陸と樺太とを区分する海峡を、マミヤセトと命名して林蔵の功績を世界に紹介した。
 しかし、幕府が洋学者を迫害した、いわゆるシーボルト事件が起こり、林蔵がこれにかかわったということで晩年は不遇であった。江戸深川で病没した。<鈴木茂乃夫>       
 〇間宮林蔵の墓=1955年(昭和30)県指定史跡。筑波郡伊奈村(引用者注:現在は、つくばみらい市上平柳)の専称寺にある。台を除く墓石の高さは53cm、幅23cm。間宮林蔵が第1回の樺太探検に出発する際、菩提(ぼだい)寺である専称寺に自ら建立したものである。このとき、林蔵は幕府の官吏に登用されて8年、まだ普請役雇(ふしんやくやとい)という低い身分であったため、一般農民なみの小さな墓石を建てたと伝えられている。墓石の両側面には、女性の戒名が刻まれている。左はアイヌの娘、右は妻とみられている。<大谷恒彦> (以上、『茨城県大百科事典』(1981年、茨城新聞社発行)による。) 
   
    4.    資料275に、『志賀重昂撰「間宮先生埋骨之処」(間宮林蔵顕彰碑)』があります。    
    5.   『ぶらり重兵衛の歴史探訪2』というサイトの「会ってみたいな、この人に」(銅像巡り)の中に、「間宮林蔵」のページがあり、そこに銅像の写真のほか、間宮林蔵記念館・生家・間宮林蔵をめぐる人々・シーボルト事件と間宮林蔵・お墓のある専称寺などについての写真や記事があって参考になります。    
      NHK総合テレビ『その時歴史が動いた』で、平成20年6月4日(水)、間宮林蔵が取り上げられました。 
 第328回 「北方探検 異境の大地を踏破せよ ~間宮林蔵 執念の旅路~」  
 また、平成21年2月25日(水)の『その時歴史が動いた』でも、伊能忠敬・ジョン万次郎とともに取り上げられました。
 第352回 「江戸の世に挑んだ男たち ~伊能忠敬・間宮林蔵・ジョン万次郎~」 
   
    7.  つくばみらい市上平柳(旧・筑波郡伊奈町上平柳)にある『間宮林蔵記念館』の紹介が、『間宮林蔵の世界へようこそ』というホームページの中にあります。     
    8.   「北海道開拓の基礎を築いた指導者たち」というサイトに、「18 世界地図に「間宮海峡」の名を残した間宮林蔵の生涯と業績」があります。    
    9.  『世界と日本人』というサイトの File.19に「世界地図に載った日本人  間宮林蔵」があり、そこに間宮林蔵の肖像画(顔の部分)と解説が出ています。
(お断り) 現在は見られないようですので、リンクを外しました。(2012年6月26日)
   
    10.  『志賀重昂全集 第5巻』(昭和3年2月10日発行)所収の「間宮林蔵先生肖像」という文章を次に引いておきます。(全集第5巻、407~9頁)

       間宮林藏先生肖像
謹啓間宮林藏の事業は露西亞にてはゴローニン、キリロフ、和蘭及び獨逸にてはシーボルド、佛蘭西にては有名なルクルーの著書に載り居り、又英國百科字典にも相見え候に付、其世界的なるは日本人として日本國の誇りなりと存居候。然れば間宮先生の肖像は、内外國人何れも一見せばやと切望致居候處、如何なる文書類にも之を認めず、一同遺憾に存居候に付、東京美術學校長正木君に宛、小生の爲め右肖像を揮灑下さるべき仁を撰定願度樣書送致候處、正木校長には同校助敎授松岡輝夫君を選定被致候依て松岡君には今の世に有りと在らゆる資料に據りて間宮先生の容貌、頭腦の大サ、風采、髷の結方、衣装等を考證し、其の要領を得られ候に付かくて間宮先生が間宮家の常紋付の羽織を穿ち、脚絆を履き、海上測量用の鐡鎖を持ち居らるゝ所を寫すことゝ決定被致候。以上の如くにして松岡君には工夫すること半年、年は三十四五歳なる壯健者(松岡君の友人)をモデルとし、羽織は當時なる士分の旅行装(鐡色)を用ゐ、袴(波形の模樣)は其の幼時間宮先生を面知せる老婆幸田りん子の所説に據りかくて三回描き改め、意匠慘澹の餘、出來したるものこそ即ち此の肖像畫に御座候、愚考にては此より以上のものは復たと出來難き哉と存候に付寫眞に撮影し、繪葉書に調製し、内外人に一千五百枚配付致候、即ち後日の爲め此の肖像畫の出來せし顚末を我兄迄御報告致置候、匆々拜具。(著者より茨城縣の知人に宛てたる書翰)
   






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