資料267 幽谷藤田先生墓誌銘 



 

    幽谷藤田先生墓誌銘 
昔者 神聖法天建極以御宇内及文以堯舜周孔之道而典章制度大備矣歴世之久變故不一斯文湮晦異端邪説相踵而起南蠻鴂舌動乃誣民變於夷嗚呼先生生於千載之後天資豪邁學通古今夙有志濟物迺欲修曠世之墜典以明 神聖之道天不假年齎志以歿哀哉先生者水戸人諱一正字子定藤田氏稱次郎左衛門父曰言德母根本氏爲人容貌奇偉目光閃閃射人幼以神童稱事親純孝其居喪三年不御酒肉從茲郷黨子弟徃徃或傚之十三屬文議論卓異大爲世嗟稱淸客商來在長崎亦嗟以爲雖西土亦少比十五 文公擢之市井補史館生員時四方賢豪如髙山正之蒲生秀實之徒多來遊者焉十八 幕府執政白河源侯聞其名欲觀其文辭先生爲著正名論取筆立成人莫不感嘆其後論時事坐不敬廢尋復舊職 文公纘 義公之緒督勵史臣專任先生以刊修事 武公繼述以先生爲總裁 公勵精求治先生蓋多所風議云人或忌之出爲郡宰先生於田賦制考古徴今素有成規至是論税法不行遂辭職復爲史館總裁及 今公進班列通事先生以英傑之質踐禮守規治家嚴肅而慨然懷天下之憂弱冠慮戎狄伺邊欲有所匡濟恒愛瓌奇非常之士士多願從遊者先生學無不該而尤致意於經世之畧凡典章制度研究古今沿革必歸實用其於經義引經證經學前賢説折其衷發其所未廢百家之言指其邪正之處斷以聖經史學則貫穿古今以究治亂興廢之由旁及地理譜牒之類盡詳其原委而如論蠻夷形勢變革歴歴如指掌其敎子弟務在勵名節振風俗與人接訥訥若不能言至其開襟胸吐露肝膽則議論英發聽者莫不感激興起先生既不得大用居常無聊澆以酒以自遣欲大所論著端緒既就卒發中風口不能言至明日奄然而逝嗚呼哀哉享年五十有三實文政九年十二月朔也先生娶丹氏生二男五女長男熊太郎早夭次彪字斌卿遊學在江戸聞病而遽歸家迺葬先生于水戸城西常磐原銘曰天生哲人豈其偶然任重載盛一朝奪旃嗟也英靈九泉敢瞑繼往開來以待天定碩果不食正氣奚罄

  
          

 
  (注) 1.  上記の「幽谷藤田先生墓誌銘」は、『會澤正志齋文稿』(名越時正編、国書刊行会・平成14年9月21日初版第1刷発行)掲載のものによりました。
 ただし、本文に施されている返り点は、これを省略しました。文中には9字の闕字があります。
 
    2.  会沢正志斎は、この「幽谷藤田先生墓誌銘」の他に、「幽谷先生次郎左衛門藤田君墓表」も書いています。  
    3.  「幽谷先生次郎左衛門藤田君墓表」が資料268にあります。  
    4.  藤田幽谷の墓は、水戸市松本町の常磐共有墓地にあります。  
    5.  〇藤田幽谷(ふじた・ゆうこく)=江戸後期の儒学者。名は一正。水戸の商家生れ。東湖の父。立原翠軒に学び、18歳で「正名論」を著し、水戸学の立場を確立。のち翠軒と対立。彰考館総裁。著「修史始末」「勧農或問」など。(1774~1826)
 〇会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)=江戸後期の儒学者。名は安
(やすし)。水戸藩士。藤田幽谷に学ぶ。彰考館総裁・弘道館総教。著「新論」で尊王攘夷を唱え、幕末期の政治運動に大きな影響を与えた。(1782~1863)(以上、『広辞苑』第6版による)
 
         


        
           



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