資料248 二葉亭四迷訳「あひびき」(改訳・ツルゲーネフ)

 

      
   


       
あ ひ ゞ き (改譯 ツルゲーネフ)


 秋は九月中旬
(なかば)の事で、一日(あるひ)自分がさる樺林(かばゝやし)の中(うち)に坐つてゐたことが有つた。朝から小雨が降つて、その霽間(はれま)にはをりをり生暖(なまあゝか)な日景(ひかげ)も射(さ)すといふ氣紛(きまぐ)れな空合(そらあひ)である。耐力(たわい)の無い白雲(しらくも)が一面に空を蔽(おほ)ふかとすれば、ふとまた彼處此處(あちこち)一寸(ちよいと)雲切(くもぎれ)がして、その間から朗(ほがらか)に晴れた蒼空が美しい利口さうな眼のやうに見える。自分は坐つて、四方(あたり)を顧眄(みまは)して、耳を傾けてゐると、つい頭の上で木(こ)の葉(は)が微(かすか)に戰(そよ)いでゐたが、それを聞いたばかりでも時節は知れた。春のは面白さうに笑ひさゞめくやうで、夏のは柔(やさ)しくそよそよとして、生温(なまぬる)い話聲のやうで、秋の末となると、おどおどした薄寒(うそさむ)さうな音であるが、今はそれとは違つて、漸く聞取れるか聞取れぬ程の、睡むさうな、私語(さゝや)ぐやうな音である。力の無い風がそよそよと木末(こずゑ)を吹いて通る。雨に濡れた林の中の光景(やうす)が照ると曇るとで間斷なく變つてゐたが、或時は其處に在るほどの物が一時(じ)に微笑でもしたやうに燦爛(きらきら)となると、むらむらと立た樺の細い幹がふと白絹(しらぎぬ)のやうな柔(やさ)しい光澤(つや)を帶びて、其處らに落散つた葉が急に斑(まだら)に金色(きんいろ)に光るそこで頭の茸々(もじやもじや)したパアポロトニク 蕨の類 の美しい長い莖(ぢく)までが最(も)う秋だけに熟(つ)え過ぎた葡萄(ぶだう)のやうに色づいて、際限(はてし)もなく縺(もつ)れつ絡(から)みつして目前に透(す)いて見えるかと思ふとまた四邊(あたり)一面に急に薄靑くなつて、瞬く間に煌々(きらきら)した所が滅(な)くなつて了へば、樺の木立(こだち)も光澤(つや)が失せて、宛然(まるで)まだ冬の冷たい閃(ちら)つく日光(ひかげ)を受けぬ降りたての雪か何(なに)ぞのやうに白々(しろじろ)となると──小雨が音のせぬやうに、忍んで、ぱらぱらと降出す。樺の葉は著しく色は褪(あ)せてゐても、流石(さすが)に尚ほ靑かつたが、唯其處らに疎(まばら)に見える稚木(わかぎ)のみは總て赤くも黄(きい)ろくも色づいて、ふと日光(ひかげ)が雨に濡れたばかりの細枝(こえだ)の繁みをちらちらと漏れて來る時には、俄(にはか)に目(ま)ばゆい程に光り出す。鳥は一羽も啼かず、皆何處(どこ)にか隱(かく)れて靜まり返つてゐたが、唯をりをり人を弄(なぶ)るやうな四十雀(しゞふから)の聲のみが鋼鐵の鈴でも鳴らす如(や)うに聞える。此樺の林へ來る前に、高い白楊(はこやなぎ)の林を犬を伴(つ)れて通つて來たが、自分は一躰此白楊(はこやなぎ)といふ樹は、餘り好かぬ。幹と云へば薄い連翹色(れんげういろ)で、葉と云へば鼠がゝつた緑色の、鐵物細工(かなものざいく)を見るやうなので、頭を一杯に延して、空中で擴げて、團扇(うちは)のやうな格好(かつかう)をして震へてゐるので、自分は好かぬが、長い莖(くき)に無器用に附着(くツつ)けたやうな圓い小汚ない葉をうるさく振立てる所も好かぬ。此樹の觀て心地(こゝろもち)の好い時と云つては、低い灌木の中に一本高く聳(そび)えて、あかあかとした入日の光(かげ)を眞面(まとも)に受けて、根方から木末(こずゑ)まで同じ樺色に染りながら、燦然(きらきら)として風に騷ぐ夏の夕暮か──さもなくば、風の吹く晴れた日に、蒼空(あをぞら)を影にして立ちながら、ざわざわと風に揉立(もみた)てられる其勢に葉が捥(もが)れて、颯(さつ)と吹飛されさうな時かである。兎に角此樹は好かぬので、其林(そこ)には休まず、この樺の林まで來て、地上をわづか離れて下枝(したえ)の生えた雨凌(あましの)ぎになりさうな木を見立てゝ、其下に巣を作つて、四方の景色を眺めながら、遊獵者でなければ其味を知らぬといふ、例の穩かな靜かな夢を結んだ。
 何位
(どのぐらゐ)眠つてゐたか判然しないが、兎に角久(しば)らくして眼を覺して見ると、林の中(うち)は一杯日照(あた)つてゐて、何方(どちら)を向いても、嬉しさうに騷ぐ木(こ)の葉(は)を透(すか)して蒼空が華やかに火花でも散らしたやうになつて見える雲は狂ひ廻る風に吹拂はれて隱(かく)れて了ひ、空はからりと晴れて、空氣は爽然(さばさば)とした一種の涼味を含んで人の精神(こゝろ)を爽(さわやか)にする、尤も雨が霽(あが)つて靜かな夜になる時分には、大概いつも此樣(こん)な前觸(まへぶれ)があるもので。そこで自分はも獲(と)れるか獲(と)れぬか最う一度運を試(た)めさうと思つて、起上(たちあが)らうとして、只(と)見ると、彼方(むかふ)に悄然(しよんぼり)と坐つてゐる者がある。熟(よ)く視れば、それは百姓の娘(こ)らしい少女(むすめ)で。二十歩ばかり彼方(むかふ)に、物思はし氣に首を垂れて、兩手を膝に落して、片々(かたかた)の手を半分啓(ひろ)げて大きな草花の束を輕(そつ)と持つてゐたが、花束は呼吸(いき)をする毎(たび)に段々滑つて縞の袴(ペチーコート)の上へ落ちかゝつてゐる。柔軟(しんなり)した淸潔(きれい)な短い白襯衣(しろしやつ)を着て、喉元と手首の所で釦(ぼたん)を掛けて、大粒な黄ろい飾玉を二條(ふたすぢ)にして領(えり)から胸へ垂らしてゐたが、なかなかの器量好(きりやうよし)で、象牙のやうな色白の額際(ひたへぎは)で幅の狹い緋(ひ)の片巾(きれ)を巻いて、その下から美しい灰色の白つぽい濃い髮の毛の叮嚀に梳(とか)したのを少し見せて、二ツの半圓を描(ゑが)かせて、左右に分けてゐる顔の他(た)の部分は日を受けて黄ろい點(しみ)をほんのりと見せてゐたが、こんな色は薄皮(うすかは)の者でなければ見られぬもので。伏目になつて居たから、眼は見えなかつたが、その代り秀でた細い眉と長い睫毛(まつげ)は判然(はつきり)見えた睫毛(まつげ)は濡(うる)んでゐて、片々(かたかた)の頰にも蒼ざめた唇へ掛けて涙の傳(つたは)つた痕(あと)が夕日を受けてきらきらと見える。總じて首付が可愛(かわい)らしい。鼻が少し大きく圓すぎたが、それすら左(さ)ほど眼障(めざはり)にもならぬ。面色(おもざし)が殊に氣に入つたが、洵(まこと)に柔和で微塵も厭味氣(いやみけ)がなく、さも物憂さうで、何か悲しい事に出會つて邪氣(あどけ)なく途方に暮れた氣味が溢れるばかりである。誰(たれ)かを待合せてゐるものと見えて、何か微(かすか)な物音がすると、急に面(かほ)を擧げて、四方(あたり)を顧視(みまは)して、大きな涼しい牝鹿のやうな眼を薄暗い木影で光らした。で、大きくした眼を物音のした方へ向けたまゝで、暫らく聞澄してゐたが、軈(やが)て溜息をして、靜に此方(こちら)へ向き直つて、前よりは一層低く屈(こゞ)むで、徐々(そろそろ)花を擇(よ)り出した。眶(まぶち)が赤らむで、唇はさも苦しさうに痙攣(ひきつ)つて、濃い睫毛(まつげ)の下から、またしても涙が淀み淀み流れ出て日光に煌(きら)めく。かうして久(しば)らく時を移してゐたが、少女(むすめ)はをりをり手で面(かほ)を撫廻(なでまは)すばかりで、身動(みうごき)をもせずに聞耳(きゝみゝ)を立てゝゐる、唯聞耳(きゝみゝ)ばかり立てゝゐる……と、ふと又がさがさと音がする──少女(むすめ)は慄然(ぶるぶる)とした。物音は罷(や)まぬのみか、次第に高くなつて、近づいて、遂に思切つた急足の音となる。少女(むすめ)は起直つて、何(なに)となく氣怯(きおくれ)がした樣子で、傍眼(わきめ)も觸らなかつたが、眼差(めざし)はきよときよとして、早く逢ひたいで炎(も)えるやうになる。繁みを漏れて男の姿が隱現(ちらちら)するのを視て、はツと顔を赧(あか)らめて、さもさも嬉しさうに嫣然(につこり)して起上(たちあが)らうとしたが、ふと復(ま)た萎(しを)れて、蒼ざめて、狼狽(どきまぎ)して──男が傍(そば)へ來て立止つてから、漸く悸々(おどおど)した拜むやうな眼付で面(かほ)を視上げた。
 自分は尚ほ物蔭に潛
(ひそ)むでゐながら、如何(どん)な奴かと思つて、其男を視ると、何だか厭な心地(こゝろもち)がした。是は何でも年のゆかぬ素封家(ものもち)に使はれてゐる生意氣な室僕(へやをとこ)か何かで。衣服(きもの)もおつう氣取つて、洒落(しやら)くさい止度氣(しどけ)ない風をしてゐる先づ外套は短い、靑銅(からかね)のやうな色の、主人の着故(きふる)しらしい奴で、端々(はしばし)を連翹色(れんげういろ)に染めた薔薇色(ばらいろ)の頸巻(くびまき)を咽喉(のど)一杯に巻いて、金モールの抹額(はちまき)を付けた黑天鵞絨(びろうど)の帽子を目深(まぶか)に戴(かぶ)ツてゐる。白い襯衣(しやつ)の角(かど)の圓い襟で用捨(ようしや)もなく耳を押付けて、頰を擦(こす)つて、糊(のり)で固めたカフで手首を赤い曲つた指まで隱してゐたが、指にはネザブツトカ 草の名 の形をしたビリューザ 寶石の名 入の指輪を幾個(いくつ)か穿(は)めてゐる。氣を注(つ)けて觀ると、人の面相(かほだち)には男には大概氣に喰はぬ代り、忌々(いまいま)しい事だが、女には動(やゝ)もすると氣に入るのが有るが、此男のもその類(たぐひ)で、桃色で、爽然(さつぱり)した、人を人臭いとも思はぬやうな面相(かほだち)である。粗末な面(かほ)の癖に、故(わざ)と何事も鼻で待遇(あしら)つてゐるやうな、さも詰らないと云ひさうな面色(かほつき)を爲(し)やうとしてゐる樣子で、妄(やたら)に薄鼠色(うすねづみいろ)の只さへ小さな眼をいとゞ細くしたり、眉を皺(しわ)めたり、口の端(はた)を引下げたり、無理に欠(あく)びをしたり、さも故(わざ)とらしい氣の無さゝうな放恣(やりばなし)の風をして、或は勇ましく捲上(まきあが)つた赤ちやけた揉上(もみあげ)を撫(な)でゝ見たり、又は厚い上唇の黄ばむだ髭(ひげ)を引張つて見たりして──いや、どうも見て居られぬ程に氣取る。待合せてゐた少女(むすめ)を見るから、最(も)う氣取り出して、のそりのそり大股に歩いて傍(そば)へ來て、立止ると、一寸(ちよいと)肩を搖(ゆす)つて、兩手を外套の隱袋(かくし)へ入れたが、氣の無さゝうにジロリと少女(むすめ)の面(かほ)を視て、其處へ坐つた。
「待つたか?」と矢張何處か他處
(よそ)を眺めながら、足を搖(うご)かして欠(あく)び雜(まじり)に云ふ。
 少女
(むすめ)は急に返答を爲得(しえ)なかつた。
「どんなに待つたでせう」、と漸う聞えるか聞えぬ程の小聲で云ふ。
「ふむ!」と、男は帽子を脱
(と)つて、殆ど眉間(みけん)から生えだした濃い髮の毛の思切つて渦を巻かした奴を勿體らしく撫(な)でゝ、大樣(おほやう)に四方(あたり)を顧眄(みまは)して、さて又密(そつ)と帽子を冠(かぶ)つて、大切な頭を蔽(かく)して了つた「危なく忘れる所よ。それにこの雨だもの!」と復(ま)た欠(あく)「用は多し、さうさうは仕盡(しき)れるもんぢやねえ。その癖動(やゝ)ともすれば小言(こゞと)だ。時にお立(たち)は明日(あした)だよ……」
「明日
(あした)?」と吃驚(びつくり)して男の顔を視る。
「明日
(あした)だ……おいおい頼むぜ」と少女(むすめ)の慄然(ぶるぶる)として、密(そつ)と俯向(うつむ)いたのを見て、忌々(いまいま)しさうに、早口に云ふ「頼むぜ、アクーリナ、泣かれちや可厭(あやまる)。おれはそいつが甚(きつ)い嫌(きらひ)だ」、と低い鼻に皺(しわ)を寄せて、「泣くなら直ぐ歸(け)へらう……何だべらぼうな──泣く!」
「あら、泣きやしませんよ」、と周章
(あわて)て云つて無理に涙を飲込む。暫らくして、「それぢや明日(あした)お立(たち)なさるの? いつ復(ま)た會はれるだらうねえ?」
「逢はれるよ、心配せんでも。さうよ、來年でなけりや──さ來年か何時
(いつ)か。」少し鼻聲で、氣の無さゝうに、「旦(だん)つく彼得堡(ペテルブルグ)で役にでも就きたい樣子だ。ひよつとかすると、外國へ徃(い)くかも知れん。」
「別れたら私
(あたし)の事なんざ忘れてお了ひなさるだらうねえ」、と悲しさうに云ふ。
「何故? 大丈夫、忘れつこはねえだがお前も是からは些
(ちつ)と氣を注(つ)けるが好(い)いぜ、惡踠(わるあが)きも好加減(いゝかげん)にして、些(ちつ)たあ親父(おやぢ)の云ふ事も聽きねえ。おれは大丈夫だ、忘れつこはねへ──そりや……」と平氣で伸(のび)をしながら、復(ま)た欠(あくび)をして、「ねえ。」
「ほんとに、ヴィクトル、アレクサンドルイチ、忘れちや厭よ」、と拜むやうに云つて、「こんなにお前さんの事を思ふのも、慾德
(よくとく)づくぢやないんだから……親父(おとつ)さんの言ふ事を聽けつてお言ひなさるけれど、私(あたし)にやそんな事(こた)あ出來ないわ……」
「何故?」と仰向
(あふむ)けに臥倒(ねころ)ぶ拍子に、兩手を頭に敷(か)つて、胸から押出したやうな調子で云ふ。
「何故つて、お前さん、──あの始末だもの……」
 と口を噤
(つぐ)むで了ふ。男は時計の鋼製の鎖を弄(いぢ)りだしたが、久(しば)らくしてから、
「おい、アクーリナ、お前だつて馬鹿ぢやあるめえ、なあ、そんな詰らん言
(こと)をいふもんぢやねえ。おれはお前の爲めを思つて言ふのだ、可(い)いか、解つたか? そりやお前は馬鹿ぢやねえ、お前の母親(おつかあ)も然うだが、お前も全然(まるつきり)の百姓ぢやねえ。だが然うは云つても敎育はねえの──そんなら人の言ふ事なら、唯(はい)といつて聽くもんだ。」
「だつて怖
(こは)いやうだもの。」
「ヘン、馬鹿を言つてらあ
何が怖(こは)い事があるもんか! 何んだそりや」、と少女(むすめ)の傍(そば)へ摺寄(すりよ)つて、「花か?」
「花ですよ」、と心細さうに云つたが、「このポレワーヤ、リャビンカ
草の名 は今私(あたし)が摘(つ)んで來たの」、と少し乘地(のりぢ)になる「これを牛の仔に喰べさせると藥になるつて。ほら、チェレダー 草の名 ──飼面(そばつかす)の藥。一寸(ちよいと)御覽なさい、綺麗ぢや有りませんか(あたし)やこんな綺麗な花あ始て見てよ。ほら、ネザブツトカ 草の名 、ほら菫(すみれ)……あ、これはね、お前さんに呈(あ)げやうと思つて摘(つ)んで來たの」、と云ひながら、黄ろいリャビンカの下に靑々としたワシリヨーク 草花の名 を細い草で結(ゆは)へた大きな花束のあつたのを取出して、「入(い)りませんか?」
 男はしぶしぶ手を出して、花束を取つて、氣の無さゝうに香
(にほひ)を嗅(か)いで、それを指頭(ゆびさき)で囘轉(まは)しながら、空を視上げて、物思はし氣な勿體ぶつた面(かほ)をしてゐる。少女(むすめ)は熟(じつ)と其面(そのかほ)を視てゐたが、その眼付を視れば、愁(うれひ)を持つてゐながら、惚々(ほれぼれ)として、身をも心をも打任(うちまか)せて、男を吾佛(あがほとけ)と崇(あが)めて、言ふなりに爲つてゐる趣が溢れるばかりである。男に氣を兼ねてゐるから、泣きたいのを耐(こら)へて、名殘惜しさうに面(かほ)ばかり見てゐるそれに男は大王(スルタン)か何(なに)ぞのやうに偃臥(ねそべつ)て、格別の慈悲を以て、厭な所を我慢して、本尊となつて拜まれてゐる。その赤ら面(がほ)を視てゐると、故(わざ)と平氣な風をして鼻で遇(あし)らつてゐる傍(そば)から、得々と己惚(うぬぼ)れてゐる所もちよいちよい見えて、誠に面(つら)が憎かつた。少女(むすめ)は此時さも男が可愛(かわゆ)くて可愛くて、胸の締(しまり)も何も亡(なく)して了つて、魂が自然(おのづ)とあこがれ出て、男の膝に纏(まつ)はるといひさうな風で、何んとも言へず美しかつたのに、男は、何をするかと思へば、ワシリヨークを草の上へ落して了つて、外套の腰の隱袋(かくし)から靑銅(からかね)の縁(ふち)を附けた圓い眼鏡を取出して、片々(かたかた)の眼窩(め)へ篏(は)めに懸つたけれども幾ら眉を皺(しわ)めたり、頰を擡(もちや)げたりして、鼻まで手傳(てつだひ)に出して支へやうとしても、どうも外(はづ)れて掌(てのひら)へ落る。
「なにそれは?」と少女
(むすめ)が遂に不思議さうに問(き)くと、
「眼鏡」、と傲然として答へた。
「それを掛けると如何
(どう)かなるの?」
「よく見えるのよ。」
「一寸
(ちよいと)見せて頂戴な。」
 男は面
(かほ)を皺(しか)めたが、それでも眼鏡を渡して、
「破
(こは)しちや不可(いけねえ)ぜ。」
「大丈夫ですよ」、と恐る恐る眼鏡を眼に宛
(あて)がつて、「おや、何も見えなくつてよ」、と邪氣(あどけ)なく云ふ。
「そ、そんな……眼を細くしろい、眼を」、と不機嫌な先生といふ聲で叱ると、少女
(むすめ)は眼鏡を宛(あて)がつてゐた方の眼を細くした。「ちよツ、間拔けめ、そつちの眼ぢやねい、こつちのだい」、とまた大聲に叱つて、仕改(しか)へる間(ま)もあらせず、眼鏡を引奪(ひつたく)つて了つた。
 少女
(むすめ)は顔を赧(あか)らめて、忍び音に笑つたが、他所(よそ)を顧(む)いて、
「どうでも私達
(あたしたち)の持つもんぢやないと見(め)える。」
「知れた事よ。」
 可哀
(かわい)さうに少女(むすめ)は吻(ほつ)と溜息をして、口を噤(つぐ)むで了つた。久(しば)らくすると、突如(だしぬけ)に、
「あゝ厭だ! お前さんに別れちや一日
(いちんち)だつて辛抱が出來ない。」
 男は衣服
(きもの)の裾で眼鏡を拭いて、再び隱袋(かくし)へ納(い)れて、
「そりや當座は些
(ちつ)たあ辛からうさ。」
 とお慈悲に肩を叩いてやると、少女
(むすめ)は密(そつ)と其手を外して、怖々(おづおづ)接吻する。
「お前はなかなかしほらしい所があるからなあ」、と得意になつて微笑して、「だが仕方がねえぢやねえか? まア積つても見ろ
吾徒(こちとら)にや此樣(こん)な鄙(けち)な所(とこ)にやゐられねえぢやねえか(も)う直(ぢき)に冬がお出でなさるが、田舎の冬と來た日にや怖毛(おぞけ)を振つ了(ちま)ふからな。それから思ふと彼得堡(ペテルブルグ)は違つたもんだ! そこいらが結搆だらけだ、到底(とて)もお前なんぞは夢にだつて見た事のない物(もん)ばかしだ。家(うち)だつて建前(たてまへ)が違はあ、それから立派な町もありや、會社も有る、何(なに)しても文明開化といふものだ──大したもんよ!……」
 少女
(むすめ)は子供のやうに少し口を開(あ)いて、一心になつて聽いてゐる。
「と話して聞しても」と寢返りを打つて、「無駄か。お前にや空々寂々だ。」
「何故え? 解りますわ、よく解りますわ。」
「ほ、ほう、えらいな!」
 少女
(むすめ)は萎(しを)れた。
「何故此頃は然う邪慳
(じやけん)だらう?」
 と伏目になつて云ふ。
「なんだと、此頃は? ……ふゝむ、此頃か! 此頃が好
(い)い!」
 と何
(なに)となく不足らしい。二人とも默つて了つた。
「どれ、歸
(けへ)らうか。」
 と男が肱
(ひぢ)を杖(つ)いて起直りさうにすると……
「あら、最
(も)う些(ちつ)とお出(い)でなさいよ。」
 と少女
(むすめ)は拜むやうに云ふ。
「何故?……暇乞
(いとまごひ)なら最(も)う濟んだぢやねえか?」
「最
(も)う些(ちつ)とお出でなさいよ。」
 男は再び横になつて、口笛を吹出したが、少女
(むすめ)は其面(そのかほ)を凝然(じつ)と視た儘で傍眼(わきめ)も觸(ふ)らぬ。見れば、段々胸が悸々(わくわく)し出した樣子で、唇も痙攣(ひきつ)れば、今まで蒼ざめてゐた頰も紅(あか)らむで來る……軈(やが)ておろおろ聲で、
「ヴィクトル、アレクサンドルイチ、お前さんは……あんまり……あんまりだ。」
「何が?」
 と眉を皺
(しわ)めて、少し首を擡(もちや)げて、女の方へ捩向(ねぢむ)ける。
「だつて無情
(あんまり)だわ。今が別れだといふのに、何とも言はないで。何とか一言位(しとことぐらゐ)言つて呉れたつて可(よ)さゝうなものだ、一言位(しとことぐらゐ)……」
「如何
(どう)言へば可(い)いといふんだ?」
「如何
(どう)言へば可(い)いか、知らないけれど……そんな事(こた)あ百も承知してる癖に……最(も)う今が別れだといふのに一言(しとこと)も……あんまりだから可(い)!」
「可異
(をかし)な事をいふ奴だな! 如何(どう)言へば可(い)いんだといふに?」
「何とか一言
(しとこと)……」
「えい、しちツくどい!」と忌々
(いまいま)しさうに云つて、起上(たちあが)る。
「あら、堪忍
(かに)……かにして頂戴よ」、と狼狽(うろたへ)て云ふ、涙を飲込みながら。
「腹も立たねえが、お前の沒曉
(わからず)やにも困るぢやねえか。如何(どう)すれば可(い)といふんだ? もともと女房(にようぼ)にされねえな得心(とくしん)づくぢやねえか? え、得心(とくしん)づくぢやねえか? そんなら何が不足だ? 何が不足だよ?」
 と返答を催促するやうに、ぐつと少女
(むすめ)の面(かほ)を覗込むで、手を啓(ひろ)げて出すと、
「何も不足……不足は無いけれど」、と吃
(ども)りながら、恐々(おそるおそる)震へる手を出して、「たゞ何とか一言(しとこと)……」
 涙がはらはらと漏
(こぼ)れる。
「へん、とうとうお株を始めた」、と平氣なもので、帽子を目深
(まぶか)にする。
「何も不足は無いけれど」、と兩手を面
(かほ)に加(あ)てゝ、欷歔(すゝりあげ)て泣きながら、「是から先は家(うち)に居るのが如何(どんな)に辛いか知れやしない。私(あたし)の身は如何(どう)なる事だと思ふと……屹度無理やりにお嫁に遣られて苦勞するに違ひないんだから、それを思ふと、私(あたし)や……悲しくつて……悲しくつて……」
「並べろ並べろ、たんと並べろ。」
 と地鞴
(ぢたゝら)を踏みながら、口の中(うち)で言つてゐる。
「だから僅
(たつ)た一言(しとこと)、何とか一言(しとこと)……アクーリナ、おれも……お、お、おれも……」
 ふいに嗚咽
(むせ)かへつて泣出したので言葉が斷絶(とぎれ)る──草の上へ打伏(うつぶし)に倒れて、さも苦しさうに泣いてゐる。體はぶるぶる震へて、頸窩(ぼんのくぼ)で高浪を打つ……堪(こら)へに堪(こら)へた溜涙(ためなみだ)の關が一時(じ)に切れたので。それを男は久(しば)らく起(た)つて視てゐたが、軈(やが)て首を竦(すく)めて、ぐるりと背(うしろ)を向けて、大股に去(い)つて了つた。
 久
(しば)らく經(た)つた。少女(むすめ)は漸く落着いて、面(かほ)を擧げたが、ふと跳起(はねお)きて、四方(あたり)を顧眄(みまは)して、手を拍(う)つて驚いた跡を追つて駈出さうとしたが、足が利(き)かない──ぱつたり膝を着く……自分は最(も)う見るに見かねた。矢庭(やには)に木蔭を躍出(をどりで)ると、少女(むすめ)は自分の姿を見るや否や、急に力附いて、忍音(しのびね)に阿(あつ)と云つて起上(たちあが)つて、木(こ)の間(ま)へ隱(かく)れて了つた。草花ばかり取殘されて、四邊(そこら)に散亂してゐる。
 自分は茫然として立つてゐたが、軈
(やが)てワシリヨークの花束を拾上げて、林を野へ出た。日は晴々とした蒼空に低く漂つて、薄く弱い景(かげ)が輝(かゞや)きはせずに朦朧(ぼんやり)と射(さ)してゐる。日沒(ひのいり)には最(も)う半時しか有るまい天末(てんまつ)には微(かすか)に夕燒が見える。風が黄ろく乾(から)びた刈科(かりかぶ)を渡つて烈しく吹付けるので、反(そり)かへつた細かい落葉が周章(あはて)て起上(たちあが)つて、林に沿(つ)いた、徃來を横ぎつて、自分の側(そば)を駈通る壁のやうに野に向いた林の一面がざわざわとして、光るのではないが、ちらちらする枯草や野草や藁(わら)には蜘蛛(くも)の巣が一面に絡着(からみつ)いて、風に煽(あふ)られて浪を打つ。自分は心細くなつて停歩(たちどま)つた……眼中の風物は流石(さすが)に爽然(さつぱり)とはしてゐるが、味氣(あぢき)なく寂れ果てゝ、何處かに間近くなつた冬の凄まじい俤(おもかげ)が見えるやうである。小心な烏が重さうに羽敲(はゞたき)をして、烈しく風を截(き)つて、頭の上を高く飛んで行きながら、首を捩向(ねぢむ)けて、自分の姿を視ると其儘、急に飛上つてちぎつたやうな聲で啼き啼き、林の向(むかふ)へ隱れて了ふと、鳩が幾羽ともなく群を成して、勢込むで穀倉(こくゞら)の方から飛んで來て、ふと棒の捩(よぢ)れたやうに舞昇(まひあが)つて、倉皇(そゝくさ)と野面(のづら)に降りた──秋に違ひない! 誰(たれ)やら禿山(はげやま)の向(むかふ)を通ると見えて、空車(からぐるま)の音が高く響渡る……
 自分は其儘歸宅
(かへつ)て了つたが、可哀(かわい)さうと思つたアクーリナの俤(おもかげ)はなかなか忘れかねたワシリヨークの花束も乾(から)びた儘で、尚ほ今だに藏(とつ)てある……
           

 

 

                 

 




            (注) 1. 上記の二葉亭四迷訳「あひゞき(改譯)」は、筑摩書房版『二葉亭四迷全集 第二巻』(昭
          和60年1月30日初版第1刷発行)によりました。
         2. この「あひゞき(改譯)」は、明治21年7月(第3巻第25号)と8月(第3巻第27号)の『国民
          之友』に掲載された「あひゞき」を改訳して、明治29年11月に春陽堂から刊行された翻訳集
          「片戀」に収録したものです。初訳と改訳との間にはかなりの相違があります。
                         (
明治29年11月13日に春陽堂から発行された『片戀』は、『近代デジタルライブラリー』で、画像で見る
             ことができます。注の9を参照してください。)

         3. 本文中の平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通の仮名を当てて表記して
          あります。(「をりをり」「そよそよ」「むらむら」など)
         4. 本文中に白抜き点が使用してあるのですが、これをうまく表示できないので、ここでは、読
          点を少し大きくして、かつ太字(
)にして、白抜き点の替わりにしてあります。 
        
なお、筑波大学比較・理論文学会の「文学研究論集」12号(1995年5月20日発行)に掲
          載されている岡田和子氏の「二葉亭四迷の『めぐりあひ』とロシア語原文における句読点の
          比較─明治時代の洋語学習と《白抜き点》─」の中に、次のような記述があります。これは
          「めぐりあひ」
(『都の花』第1巻第1号─第2巻第6号(明治21年10月─22年1月)所載)についての記述
          ですが、参考までに引用しておきます。(詳しくは同論文をご覧ください。)
            明治になって、この句読点に新たな工夫を試みたのが、二葉亭四迷である。彼は、周知
            の如く、明治19年に山田美妙等と言文一致運動を起こし、新しい日本語の文体を模索す
            るとともに、欧文翻訳の際、句読点にまで注意を払い、《.》と《。》、《,》と《、》を対応させ、
            更に《:/;》に対して《※》(白抜き点)を試みた。即ち、セミコロン等による半独立文の連
            続するロシア語の文章を、意味のみならずその構造をも訳出しようと考えたのである。
            (17頁)      
注 :原文には、のところに白抜き点が印字されています。
         5. 明治21年の「國民之友」に発表された「あひゞき」の本文が、資料245 二葉亭四迷訳「あ
           ひびき」(ツルゲーネフ)にあります。
         6. 明治書院版の『現代日本文学大事典』(久松潜一ほか4氏編集、昭和40年11月30日初版
          発行)の「あひゞき」の解説には、次のようにあります。
             ……ツルゲーネフ原作の、ロシアの農村に取材した散文詩風の短編小説集『猟
            人日記』(1847~52)の中の一編。29年11月春陽堂刊行の翻訳集『かた恋』に収
            めるにあたって全面的に改訳したが、多くの明治作家たちにいちじるしい影響を与
            えたのは、初出の訳文である。この一編は、若い男女の心理の機微を自然のうつ
            ろいを背景にさわやかにえがいているが、原作の音調や句切りにまで注意をくばり
            ながら、自由な洗練された口語文によってその妙味を移植しようとした翻訳文学中
            の画期的な佳品である。正宗白鳥は、日本の近代文学は、この一編からはじまる
            とさえいっている。(後略)
〔稲垣達郎〕         
         7. 二葉亭四迷(ふたばてい・しめい)=小説家。本名、長谷川辰之助。江戸の生れ。東
               京外語中退。坪内逍遙に兄事。1887年(明治20)「浮雲」を書き、言文一致
               体の文章と優れた心理描写とで新生面を開いた。ロシア文学の翻訳にも秀で、
               「あひゞき」などの名訳がある。ほかに「其面影」「平凡」など。1908年ロシアに
               赴き、病を得て帰国の途中インド洋上に没。(1864~1909)
           ツルゲーネフ(Ivan S.Turgenev)=ロシアの小説家。短編集「猟人日記」は農奴制
               に対する文学的抗議と受け止められた。「貴族の巣」「その前夜」「父と子」な
               どの長編で時代の変動と知識人の精神史を描く。その他「初恋」「アーシャ」
               (二葉亭四迷訳「片恋」)、「散文詩」など。トゥルゲーネフ。(1818~1883) 
                                           
(以上、『広辞苑』第6版による。)       
         8. 現代かなづかい表記による「あいびき」青空文庫にあります。この青空文庫の本
          文は、集英社版『日本文学全集1 坪内逍遥・二葉亭四迷集』(1969(昭和44)年12
          月25日初版発行)によったものです。
         9. 『国立国会図書館デジタルコレクション』に、明治29年11月13日春陽堂発行の
          ツルゲーネフ著・二葉亭四迷訳『片恋』が入っており、その中に「片恋」の他に「奇
          遇」「あひゞき」の2編が収録されています。
(「あひゞき」は、104-115 / 148)

 



 

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