資料245 二葉亭四迷訳「あひびき」(ツルゲーネフ)

 

     

       
あ ひ ゞ き (ツルゲーネフ)明治二十一年〔國民之友〕


    
このあひゞきは先年佛蘭西で死去した、露國では有名な小説家、ツルゲーネフ
   といふ人の端物の作です。今度德富先生の御依頼で譯して見ました。私の譯文
   は我ながら不思議とソノ何んだが、是れでも原文は極めて面白いです。


 秋九月中旬といふころ、一日自分がさる樺の林の中に座してゐたことが有
た。今朝から小雨が降りそゝぎ、その晴れ間にはおりおり生ま煖かな日かげも射して、まことに氣まぐれな空ら合ひ。あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思ふと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、無理に押し分けたやうな雲間から澄みて怜悧(さか)し氣に見える人の眼の如くに朗かに晴れた蒼空(あをそら)がのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けてゐた。木の葉が頭上(づじやう)で幽かに戰いだが、その音を聞たばかりでも季節は知られた。それは春先する、面白さうな、笑ふやうなさゞめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し聲でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶさうなお饒舌(しやべ)りでもなかたが、只漸く聞取れるか聞取れぬ程のしめやかな私語の聲で有つた。そよ吹く風は忍ぶやうに木末を傳た。照ると曇るとで、雨にじめつく林の中のやうすが間斷なく移り變た。或はそこに在りとある物總て一時に微笑したやうに、隈なくあかみわたて、さのみ繁くもない樺のほそぼそとした幹は思ひがけずも白絹めく、やさしい光澤(つや)を帶び、地上に散り布いた、細かな、落ち葉は俄かに日に映じてまばゆきまでに金色(こんじき)を放ち、頭(かしら)をかきむしたやうな「パアポロトニク」(蕨の類ゐ)のみごとな莖、加之(しか)も熟(つ)え過ぎた葡萄めく色を帶びたのが、際限もなくもつれつからみつして、目前に透かして見られた。
 或はまた四邊一面
(あたりいちめん)俄かに薄暗くなりだして、瞬く間に物のあいろも見えなくなり、樺の木立ちも、降り積た儘でまだ日の眼に逢はぬ雪のやうに、白くおぼろに霞む──と小雨が忍びやかに、怪し氣に、私語するやうにパラパラと降て通た。樺の木の葉は著しく光澤(つや)は褪めてゐても流石に尚ほ靑かた、が只そちこちに立つ稚木のみは總て赤くも黄ろくも色づいて、をりをり日の光りが今ま雨に濡れた計りの細枝の繁味を漏れて滑りながらに脱(ぬ)けて來るのをあびては、キラキラときらめいてゐた。鳥は一聲も音を聞かせず、皆何處にか隱れて竊まりかへてゐたが、只折節に人をさみした白頭翁(しゞうがら)の聲のみが、故鈴(ふるすゞ)でも鳴らす如くに、響きわたた。この樺の林へ來るまへに、自分は獵犬を曳いて、さる高く茂た白楊(はこやなぎ)の林を過ぎたが、この樹は──白楊は──全體虫がすかぬ。幹といへば、蒼味がゝた連翹色で、葉といへば、鼠みとも附かず緑りとも附かず、下手な鉄物細工を見るやうで、而(しか)も長(たけ)一杯に頸を引き伸して、大團扇のやうに空中に立ちはだかて──どうにも虫が好かぬ。長たらしい莖へ無器用に付けたやうな薄きたない圓葉をうるさく振り立てゝ──どうも虫が好かぬ。この樹の見て快よい時と云ては、只背びくな灌木の中央に一段高く聳えて、入り日をまともに受け、根本より木末に至るまでむらなく樺色に染まり乍ら、風に戰いでゐる夏の夕暮か、──さなくば空名殘りなく晴れ渡て風のすさまじく吹く日、あをそらを影にして立ちながら、ザワザワざわつき、風に吹きなやまされる木の葉の今にも梢をもぎ離れて遠く吹き飛ばされさうに見える時かで。兎に角自分は此樹を好まぬので、ソコデその白楊の林には憩はず、わざわざこの樺の林にまで辿り着いて、地上わづか離れて下枝の生へた、雨凌ぎになりさうな木立を見立てゝ、さて其の下に栖を構へ、四邊の風景を眺めながら、唯遊獵者のみが覺えの有るといふ、例の穩かな、罪のない夢を結んだ。
 何ン時ばかり眠
てゐたか、ハキリしないが、兎に角暫らくして眼を覺まして見ると、林の中は日の光りが到らぬ隈もなく、うれしさうに騷ぐ木の葉を漏れて、はなやかに晴れた蒼空(あをそら)がまるで火花でも散らしたやうに、鮮かに見渡された。雲は狂ひ廻はる風に吹き拂はれて形を潛め、空には纎雲(ちりくも)だも留めず、大氣中に含まれた一種淸凉の氣は人の氣を爽かにして、穩かな晴夜の來る前觸れをするかと思はれた。自分は將に起き上りてまたさらに運だめし(但し銃獵の事で)をしやうとして、フト端然と坐してゐる人の姿を認めた。眸子を定めて能く見れば、それは農夫の娘らしい少女であた。廿歩ばかりあなたに、物思はし氣に頭を垂れ、力なさゝうに兩の手を膝に落して、端然と坐してゐた。旁々の手を見れば、半はむき出しで、その上に載せた草花の束ねが呼吸をするたびに縞のペチコートの上をしづかにころがてゐた。淸らかな白の表衣をしとやかに着做して、咽喉元(のどもと)と手頸のあたりでボタンをかけ、大粒な黄ろい飾り玉を二列に分て襟から胸へ垂らしてゐた。この少女なかなかの美人で、象牙をも欺むく色白の額際で巾の狹い緋の抹額を締めてゐたが、その下から美しい鶉色で、加之も白く光る濃い頭髮を叮嚀に梳(とか)したのがこぼれ出て、二の半圓を描いて、左右に別れてゐた。顔の他の部分は日に燒けてはゐたが、薄皮だけに却て見所が有つた。眼ざしは分らなかた、──始終下目のみ使つてゐからで、シカシその代り秀でた細眉と長ひ睫毛とは明かに見られた。睫毛はうるんでゐて、旁々の頰にも亦蒼さめた唇へかけて、涙の傳つた痕が夕日にはえて、アリアリと見えた。總じて首付が愛らしく、鼻がすこし大く圓すぎたが、それすら左のみ眼障りにはならなかた程で。取分け自分の氣に入たはその面ざし、まことに柔和でしとやかで、取繕ろた氣色は微塵もなく、さも憂はしさうで、そしてまた愛度氣なく途方に暮れた趣きも有た。たれをか待合はせてゐるのと見えて、何か幽かに物音がしたかと思ふと、少女はあわてゝ頭(かしら)を擡げて、振り反つて見て、その大方の涼しい眼、牝鹿のものゝやうにをどをどしたのをば、薄暗い木蔭でひらかせた。クワと見ひらいた眼を物音のした方へ向けて、シケジケ視詰めたまゝ、暫らく聞きすましていたが、軈て溜息を吐(つ)いて、靜に此方(こなた)を振り向いて、前よりは一際(きわ)低く屈みながら、また徐ろに花を擇(え)り分け初めた。擦りあかめたまぶちに、嚴しく拘攣する唇、またしても濃い睫毛の下よりこぼれ出る涙の雫は流れよどみて日にきらめいた。かうして暫く時刻を移していたが、その間少女は、かわいさうに、みじろぎをもせず、唯折々手で涙を拭ひ乍ら、聞き澄ましてのみいた、只管聞き澄ましてのみいた……フとまたガサガサと物音がした、──少女はブルブルと震へた。物音は罷まぬのみか、次第に高まて、近づいて、遂に思ひ切た濶歩の音になると──少女は起き直た。何となく心おくれのした氣色。ヒタと視詰めた眼ざしにをどをどした所も有た、心の焦られて堪へかねた氣味も見えた。しげみを漏れて男の姿がチラリ。少女はそなたを注視して、俄にハと顔を赧らめて、我も仕合とおもひ顔にニコリ笑て、起ち上らうとして、フトまた萎れて、蒼ざめて、どきまぎして、──先の男が傍に來て立ち留つてから、漸くおづおづ頭を擡げて、念ずるやうに其の顔を視詰めた。
 自分は尚ほ物蔭に潛みながら、怪しと思ふ心にほだされて、その男の顔をツクヅク眺めたが、あからさまにいへば、余り氣には入らなかつた。
 是れはどう見ても弱冠の素封家の、あまやかされすぎた、給事らしい男で有つた。衣服を見れば故らに風流をめかしてゐるうちにも、また何處となく止度氣ないのを飾る氣味も有
て、主人の着故るしめく、茶の短い外套をはをり、はしばしを連翹色に染めた、薔薇色の頸巻をまいて、金モールの抹額を付けた黑帽を眉深にかぶてゐた。白襯衣の角のない襟は用捨もなく押し付けるやうに耳朶を撑へて、また兩頰を擦り、糊で固めた腕飾りは全く手頸をかくして、赤い先の曲た指、Turquoise 寶石の一種 製の Myosotis 艸の名 を飾りに付けた金銀の指環を幾個ともなくはめてゐた指にまで至た。世には一種の面貌が有る、自分の觀察した所では、常に男子の氣にもとる代り、不幸にも女子の氣に適ふ面貌が有るが、此男のかほつきは全くその一で、桃色で、淸らかで、そして極めて傲慢さうで。己(おの)があらけない貌だちに故意(わざ)と人を輕ろしめ世に倦みはてた色を装はふとして居たものと見えて、絶えず只さへ少ひさな、薄白く、鼠ばみた眼を細めたり、眉をしわめたり、口角を引き下げたり、強て欠伸をしたり、さも氣のなさゝうな、やりばなしな風を装ふて、或は勇ましく捲き上たもみあげを撫でゝ見たり、または厚い上唇の上の黄ばみた髭を引張て見たりして──ヤどうも見て居られぬ程に樣子を賣る男で有た。待合せてゐた例の少女の姿を見た時から、モウ樣子を賣り出して、ノソリノソリと大股にあるいて傍へ寄りて、立ち止て、肩をゆすて、兩手を外套のかくしへ押し入れて、氣の無さゝうな眼を走らしてヂロリと少女の顔を見流して、そして下に居た。
「待
たか?」ト初めて口をきいた、尚ほ何處をか眺めた儘で、欠伸をしながら、足を搖かしながら「ウー?」
 少女は急に返答をしえなか
た。
「どんなに待
たでせう」ト遂にかすかにいた。
「フム」ト云
て、先の男は帽子を脱した。さも勿體らしく殆ど眉際(まゆぎわ)よりはへだした濃い縮れ髮を撫でゝ、鷹揚に四邊(あたり)を四顧して、さてまたソと帽子をかぶて、大切な頭をかくして仕舞た。「あぶなく忘れる所よ。それに此の雨だもの!」トまた欠伸。「用は多し、さうさうは仕切れるもんぢやない、その癖動ともすれば小言だ。トキニ出立は明日になた……」
「あした!」ト少女はビ
クリして男の顔を視詰た。
「あした……オイオイ頼むぜ」ト男は忌々しさうに口早に云
た。少女のブルブルと震へて差うつむいたのを見て。「頼むぜ「アクーリナ」泣かれちやあやまる。おれはそれが大嫌ひだ」。ト低い鼻に皺を寄せて、「泣くならおれはすぐ歸らう……何だ馬鹿氣た──泣く!」
「アラ泣はしませんよ」、トあわてゝ「アクーリナ」は云
た、せぐり來る涙を漸くの事で呑み込みながら。暫らくして、「それぢや明日(あした)お立ちなさるの。いつまた逢はれるだらうネー」
「逢はれるよ、心配せんでも。左やう、來年──でなければさらいねんだ。旦那は彼得堡で役にでも就きたいやうすだ」、トすこし鼻聲で氣のなさゝうに云
て「ガ事に寄ると外國へ徃くかも知れん」。
「若しさうでもな
たらモウわたしの事なんざア忘れてお仕舞ひなさるだらうネー」、ト云たが、如何にも心細さうで有た。
「何故? 大丈夫! 忘れはしない、ガ「アクーリナ」ち
と是れからは氣を附けるがいゝぜ、わるあがきもいゝ加減にして、をやぢの云ふ事もちとは聽くがいゝ。おれは大丈夫だ、忘れる氣遣ひはない、──それはな……イ」、ト平氣で伸をしながら、また欠伸をした。
「ほんとに、「ヴヰクトル、アレクサンドルイチ」、忘れちや
いやですよ」。ト少女は祈るが如くに云た、「こんなにお前さんの事を思ふのも、慾德づくぢやないから……おとつさんのいふこと聽けとおいひなさるけれど……わたしにはそんな事(こと)出來ない……」
「何故
(なぜ)?」ト仰ふ向けざまにねころぶ拍子に、兩手を頭に敷きながら、宛も胸から押し出したやうな聲で尋ねた。
「なぜとい
てお前さん──アノ始末だもの……」
 少女は口をつぐんだ。「ヴヰクトル」は袂時計の鎖をいらひだした。
「ヲイ、「アクーリナ」、おまへだ
て馬鹿ぢや有るまい」トまた話し出した、「そんなくだらん事をいふのは置いて貰はふぜ。おれはお前の爲を思ていふのだ、わかたか? 勿論お前は馬鹿ぢやない、やぱりお袋の性(しやう)を受けてると見えて、それこそ徹頭徹尾いまのソノ農婦といふでもないが、シカシ兎も角も敎育はないの──そんなら人のいふことならハイと云て聞てるがいゝぢやないか?」
「だ
てこわいやうだもの」。
、こわい。何もこわいことはちともないぢやないか? 何だそれは」、と「アクーリナ」の傍へすりよて「花か?」
「花ですよ」ト云
たが、如何にも哀れそうで有た「この淸凉茶は今あたしが摘んで來たの」トすこし氣の乘たやうす「これを牛の子にたべさせると藥になるて。ホラ Burmarigole ──そばかすの藥。チイと御覽なさいよ、うつくしいぢや有りませんか、あたし産れてからまだこんなうつくしい花見たことないのよ。ホラ myosotis、ホラ菫……ア、これは、お前さんにあげやうと思て摘んで來たのですよ」、ト云ひながら、黄ろな野艸の花の下にあた、靑々とした Bluebottle の、細い草で束ねたのを取り出して「入りませんか?」
「ヴヰクトル」はしぶしぶ手を出して、花束を取
て、氣の無さゝうに匂ひを嗅いで、そして勿體を付けて物思はしさうに空を視あげながら、その花束を指頭でまわしはじめた。「アクーリナ」は「ヴヰクトル」の顔をジと視詰めた……その愁然とした眼付のうちになさけを含め、やさしい誠心(まごゝろ)を込め、吾佛とあふぎ敬ふ氣ざしを現はしてゐた。男の氣をかねてゐれば、敢て泣顔は見せなかつたが、その代り名殘り惜しさうに只管その顔をのみ眺めてゐた。それに「ヴヰクトル」といへば史丹の如くに臥そべて、グと大負けに負けて、人柄を崩して、いやながら暫く「アクーリナ」の本尊になつて、その禮拜祈念を受けつかはしてをつた。その顔を、あから顔を見れば、故らに作た偃蹇恣雎、無頓着な色を帶びてゐたうちにも、何處ともなく得々とした所が見透かされて、憎かつた。そして顧みて「アクーリナ」を視れば、魂が止め度なく身をうかれ出て、男の方へのみ引かされて、甘へきつているやうで──アヽよかた! 暫くして「ヴヰクトル」は、……「ヴヰクトル」は花束を艸の上に取り落して仕舞ひ、靑銅の框を嵌めた眼鏡を外套の隱袋から取り出して、眼へ宛がはふとしてみた、がいくら眉を皺め、頰を捻ぢ上げ、鼻まで仰ふ向かせて眼鏡を支えやうとして見ても、──どうしても外れて手の中へのみ落ちた。
「なにそれは?」と「アクーリナ」がケヾンな顔をして尋ねた。
「眼鏡」と「ヴヰクトル」は傲然として答へた。
「それをかけるとどうかなるの?」
「よく見えるのよ」。
「チ
イと拜見な」。
「ヴヰクトル」は顔をしかめたが、それでも眼鏡は渡した。
「こわしちやいけんぜ」。
「大丈夫ですよ」トこわごわ眼鏡を眼のそばへ持つて來て「ヲヤ何にも見えないよ」ト愛度氣なくい
た。
「そ、そんな……眼を細くしなく
ちやいかない、眼を」トさながら不機嫌な敎師のやうな聲で叱た。「アクーリナ」は眼鏡を宛てがてゐた方の眼を細めた。「チヨツ、まぬけめ、そちの眼ぢやない、こちの眼だ」トまた大聲に叱て、仕替える間もあらせず、「アクーリナ」の持てゐた眼鏡をひたくてしまた。
「アクーリナ」は顔を赤くして、氣まりわるさうに笑
て、餘所をむいて、
「どうでも私たちの持つもんぢやないと見える」。
「知れた事
」。
 かわいさうに、「アクーリナ」は太い溜息をして默してしま
た。
「アヽ、「ヴヰクトル、アレクサンドルイチ」、どうかして、一所に居られるやうには成らないもんかネー」トだしぬけに云
た。
「ヴヰクトル」は衣服の裾で眼鏡を拭ひ、再び隱袋に納めて、
「それや
當坐四五日はちとは淋しからう」ト寛大の處置を以て、手づから「アクーリナ」の肩を輕く叩いた。「アクーリナ」はその手をソト肩から外して、おづおづ接吻した。「ちとは淋しからう」トまた繰返して云て、得々と微笑して、「だが已を得ざる次第ぢやないか? マても見るがいゝ、旦那もさうだが、おれにしてもこんなケチな所にやゐられない、葢しモウぢきに冬だが、田舎の冬といふやつは忍ぶ可らずだ、それから思ふと彼得堡、たいしたもんだ! うそとおもふなら徃て見るがいゝ、お前たちが夢に見た事もない結搆なものばかりだ。かう立派な建家、町、カイ社、文明開化──それや不思議なものよ!……」(「アクーリナ」は小兒の如くに、口をあいて、一心になて聞き惚れてゐた。)
「ト噺をして聞かしても」ト「ヴヰクトル」は寢返りを打
て、「無駄か。お前にや空々寂々だ」。
「なぜへ、「ヴヰクトル、アレクサンドルイチ」、わかります
、よく解ります」。
「ホ、それはおえらいな!」
「アクーリナ」は萎れた。
「なぜ此頃わさう邪慳だらう?」ト頭をうなだれたまゝで云
た。
「ナニ此頃わ邪慳だと……?」ト何となく不平さうで「此頃! フヽム此頃!……」
 兩人とも暫時無言。
「ドレ歸らうか」ト「ヴヰクトル」は臂を杖に起ちあがらうとした。
「アラモウち
とお出でなさいよ」ト「アクーリナ」は祈るやうに云た。
「何故?……暇乞ひならモウ是れで濟んでゐるぢやなひか?」
「モウち
とお出でなさひよ」。
「ヴヰクトル」は再び横にな
て、口笛を吹きだした。「アクーリナ」はその顔をジと視詰めた、次第々々に胸が波だて來た樣子で、唇も拘攣しだせば、今まで靑ざめてゐた頰もまたほの赤くなりだした……
「ヴヰクトル、アレクサンドルイチ」トにじみ聲で「お前さんも……あんまり……あんまりだ」。
「何が?」ト眉を皺めて、すこし起きあが
て、キと「アクーリナ」の方を向いた。
「あんまりだ
、「ヴヰクトル、アレクサンドルイチ」、今別れたらまたいつ逢はれるか知れないのだから、なんとか一ト言ぐらゐ云てよさゝうなものだ、何とか一ト言ぐらゐ……」
「どういへばいゝといふんだ?」
「どういへばいゝか知らないけれど……そんな事
百も承知してゐるくせに……モ今が別れだといふのに一ト言も……あんまりだからいゝ!」
「可笑しな事をいふやつだな! どういへばいゝといふんだ?」
「何とか一ト言くらゐ……」
「エーくどい!」ト忌々しさうに云
て、「ヴヰクトル」は起ちあがた。
「アラかに……かにして頂戴よ」ト「アクーリナ」は早や口に云
た、辛うじて涙を呑み込みながら。
「腹も立たないが、お前のわからずやにも困る……どうすればいゝといふんだ? もともと女房にされないのは得心づくぢやないか? 得心づくぢやないか? そんなら何が不足だ? 何が不足だよ?」トさながら返答を催促するやうに、グ
と「アクーリナ」の顔を覗きこんで、そして指の股をひろげて手をさしだした。
「何も不足……不足はないけれど」ト吃りながら、「アクーリナ」もまた震へる手先をさしだして、「たゞ何とか一ト言……」
 涙をはらはらと流した。
「チ
ヨツ(きま)りを始めた」、ト「ヴヰクトル」は平氣で云た、後(うしろ)から眉間へ帽子を滑らしながら。
「何も不足はないけれど」ト「アクーリナ」は兩手を顔へ宛てゝ、啜り上げて泣きながら、再び言葉を續いだ、「今でさへ家にゐるのがつらく
てつらくてならないのだから、是れから先はどうなる事かと思ふと心細くて心細くてなりやしない……屹度無理矢理にお嫁にやられて……苦勞するに違ひないから……」
「ならべろならべろ、たんと並べろ、」ト「ヴヰクトル」は足を踏み替へ乍ら、口の裏で云
た。
「だからた
た一ト言、一ト言何とか……「アクーリナ」おれも……お、お、おれも……」
 不意に込み上げて來る涙に、胸がつかえて、云ひきれない──「アクーリナ」は草の上へうつぶしに倒れて苦しそうに泣きだした……總身をブルブル震はして頂門で高波を打たせた……こらへに堪へた溜め涙の關が一時に切れたので。「ヴヰクトル」は泣くづをれた「アクーリナ」の背なかを眺めて、暫く眺めて、フト首をすくめて、身を轉じて、そして大股にゆうゆうと立ち去
た。
 暫くた
た……「アクーリナ」は漸く涙をとゞめて、頭を擡げて、跳り上て、四邊(あたり)を視まはして、手を拍た、跡を追て駈けださうとしたが、足が利(き)かない──バタリ膝をつひた……モウ見るに見かねた、自分は木蔭を躍り出て、かけよらうとすると、「アクーリナ」はフト振りかへて自分の姿を見るや否や、忽ち忍び音にアと叫びながら、ムクと跳ね起きて、木の間へ駈け入た、かと思ふとモウ姿は見えなくなつた。草花のみは取り殘されて、歴亂として四邊に充ちた。
 自分はたちどまつた、花束を拾ひ上げた、そして林を去
てのらへ出た。日は靑々とした空に低く漂て、射す影も蒼さめて冷かになり、照るとはなくて只ジミな水色のぼかしを見るやうに四方に充ちわたた。日沒にはまだ半時間も有らうに、モウゆうやけがほの赤く天末を染めだした。黄ろくからびた刈科(かりかぶ)をわたて烈しく吹付ける野分に催されて、そりかへた細かな落ち葉があはたゞしく起き上り、林に沿ふた徃來を横ぎつて、自分の側を駈け通た、のらに向いて壁のやうにたつ林の一面は總てざわざわざわつき、細末の玉の屑を散らしたやうに、煌きはしないが、ちらついてゐた、また枯れ艸、莠、藁の嫌ひなくそこら一面にからみついた蜘蛛の巣は風に吹き靡かされて波たてゐた。
 自分はたちどまつた……心細く成
て來た、眼に遮る物象はサパリとはしてゐれど、おもしろ氣もおかし氣もなく、さびれはてたうちにも、どうやら間近になた冬のすさまじさが見透かされるやうに思はれて。小心な鵶が重さうに羽ばたきをして、烈しく風を切りながら、頭上を高く飛び過ぎたが、フト首を回らして、横目で自分をにらめて、急に飛び上て、聲をちぎるやうに啼きわたりながら、林の向ふへかくれてしまた。鳩が幾羽ともなく群をなして勢込んで穀倉の方から飛んで來たが、フト柱を建てたやうに舞ひ昇て、さてパと一齊に野面に散た──ア、秋だ! 誰だか禿山の向ふを通ると見えて、から車の音が虚空に響きわたた……
 自分は歸宅した、が可哀さうと思
た「アクーリナ」の姿は久しく眼前にちらついて、忘れかねた。持歸た花の束ねは、からびたまゝで、尚ほいまだに祕藏して有る………………
            
(明治二十一年七・八月「國民之友」第三巻第廿五・廿七號所載)

 

 

                 

 


  (注) 1.  上記の二葉亭四迷訳「あひゞき」は、岩波書店版『二葉亭四迷全集 第一巻』(昭和39年9月26日第1刷発行)によりました。    
    2.  この「あひゞき」は、ツルゲーネフの散文詩風の短編小説集『猟人日記』の中の一編を訳したもので、明治21年7月(第3巻第25号)と8月(第3巻第27号)の『国民之友』に掲載されました。    
    3.  本文中の平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通の仮名を当てて表記しました。(「ほそぼそ」「パラパラ」「をりをり」など)    
    4.  明治書院版の『現代日本文学大事典』(久松潜一ほか4氏編集、昭和40年11月30日初版発行)の「あひゞき」の解説には、次のようにあります。
 ……ツルゲーネフ原作の、ロシアの農村に取材した散文詩風の短編小説集『猟人日記』(1847~52)の中の一編。29年11月春陽堂刊行の翻訳集『かた恋』に収めるにあたって全面的に改訳したが、多くの明治作家たちにいちじるしい影響を与えたのは、初出の訳文である。この一編は、若い男女の心理の機微を自然のうつろいを背景にさわやかにえがいているが、原作の音調や句切りにまで注意をくばりながら、自由な洗練された口語文によってその妙味を移植しようとした翻訳文学中の画期的な佳品である。正宗白鳥は、日本の近代文学は、この一編からはじまるとさえいっている。(後略)
〔稲垣達郎〕
   
    5.  上記の岩波書店版『二葉亭四迷全集 第一巻』の巻末に、「あひゞき」「めぐりあひ(奇遇)」「片戀」の反響として、思案外史「「あひびき」を讀んで」(「國民之友」第30号、明治21年9月21日)、蒲原有明「『あひびき』に就て」(「二葉亭四迷」坪内逍遙・内田魯庵編輯、明治42年8月1日発行)が収録してあります。    
    6.  〇二葉亭四迷(ふたばてい・しめい)=小説家。本名、長谷川辰之助。江戸の生れ。東京外語中退。坪内逍遙に兄事。1887年(明治20)「浮雲」を書き、言文一致体の文章と優れた心理描写とで新生面を開いた。ロシア文学の翻訳にも秀で、「あひゞき」などの名訳がある。ほかに「其面影」「平凡」など。1908年ロシアに赴き、病を得て帰国の途中インド洋上に没。(1864~1909)
 〇ツルゲーネフ(Ivan S.Turgenev)=ロシアの小説家。短編集「猟人日記」は農奴制に対する文学的抗議と受け止められた。「貴族の巣」「その前夜」「父と子」などの長編で時代の変動と知識人の精神史を描く。その他「初恋」「アーシャ」(二葉亭四迷訳「片恋」)、「散文詩」など。トゥルゲーネフ。(1818~1883) 
(以上、『広辞苑』第6版による。)       
   
    7.  明治29年11月に春陽堂から刊行された翻訳集『片戀』に収録された、改訳「あひゞき」の本文が、資料248  二葉亭四迷訳「あひびき」(改訳・ツルゲーネフ)にあります。
 なお、改訳「あひゞき」の本文は、『国立国会図書館デジタルコレクション』の中に、明治29年11月13日春陽堂発行のツルゲーネフ著・二葉亭四迷訳『片恋』が入っており、その中に「片恋」の他に「奇遇」「あひゞき」の2編が収録されていて、画像で単
行本の本文を見ることができます。(「あひゞき」は、104-115 /148)
   
    8.  現代かなづかい表記による「あいびき」青空文庫にあります。この本文は、集英社版『日本文学全集1 坪内逍遥・二葉亭四迷集』(1969(昭和44)年12月25日初版発行)によったもので、『国民之友』掲載の本文です。    



            




  
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