資料232 小野篁広才の事(宇治拾遺物語より)




           
  小野篁広才の事       宇治拾遺物語より 
 

 

 今は昔、小野篁といふ人おはしけり。嵯峨の帝の御時に、内裏(だいり)にふだをたてたりけるに、無惡善と書きたりけり。帝、篁に、「よめ」とおほせられたりければ、「よみはよみ候(さぶら)ひなん。されど恐(おそれ)にて候へば、え申(まうし)さぶらはじ」と奏しければ、「たゞ申せ」と、たびたび仰(おほせ)られければ、「さがなくてよからんと申し(まうし)て候ぞ。されば君をのろひ參らせて候なり」と申し(まうし)ければ、「おのれはなちては、たれか書かん」と仰(おほせ)られければ、「さればこそ、申さぶらはじとは申て候つれ」と申に、御門「さて、なにも書きたらん物は、よみてんや」と、おほせられければ、「何にても、よみさぶらひなん」と申ければ、かた假名のねもじを十二書かせて、給(たまひ)て、「よめ」とおほせられければ、「ねこの子のこねこ、しゝの子の子じゝ」とよみたりければ、御門ほゝゑませ給て、ことなくてやみにけり。 

 

 

 

 

 

 

    (注) 1. 上記の「小野篁廣才の事」の本文は、日本古典文学大系27「宇治拾遺物語」
         (渡邊綱也・西尾光一 校注。岩波書店、昭和35年5月6日第1刷発行、昭和38年
         10月15日第3刷発行) によりました。
           「小野篁廣才の事」は、巻3の17、大系本では「49 小野篁廣才の事」になっ
         ています。
     2. 本文中の「候」は、「さぶらふ」と読ませています。
     3. 大系本の「ねもじ」の頭注に、「当時の片仮名では、「ネ」の他に「子」を用いた。
         子は、音がシで、訓はコともネともよんだ」とあります。篁は、「猫の子の子猫、獅子
         の子の子獅子」と読んだわけです。(子子の子の子子子、子子の子の子子子)
     4. 「さがなくてよからん」について。
          新潮日本古典集成『宇治拾遺物語』
(新潮社、昭和60年9月10日発行、平成元年9
                                    月10日二刷)
               
「さが」は、生れつきの性であって、善悪のどちらにも通ずる。易林本『節
            用集』に、「無
悪」を「サガナシ」と読んでいる。ここでも、「悪(さが)なし」と
            読んで、「嵯峨なし」に掛けている。(同書、頭注)
          新日本古典文学大系『宇治拾遺物語』
(岩波書店、1990年11月20日第1刷発行)
               
この訓じ方、説話によって相違する。「さがなくはよかりなまし」(江談抄)、
             「さがなくてよし」(十訓抄)、「さがなくはよけん」(世継物語)など。「さが」は
            生れつきの性分をさし、善悪双方にいう。ここでは「悪無(さがな)し」と読み、
             「嵯峨無し」に通ずるとしたのである。(同書、脚注)
          ※ 
『江談抄』の本文が、注9に掲げてあります。
     5. 小野篁(おの・の・たかむら)=平安前期
貴族・文人。参議岑守(みねもり)の子。 
                       遣唐副使に任命されたが、大使藤原常嗣の専横を怒って病と称して
                 従わず、隠岐
(おき)に流され、のち召還されて参議。博学で詩文に長
                 じた。「令義解
(りょうのぎげ)」を撰。野相公。野宰相。(802〜852)
          嵯峨天皇(さが・てんのう)=平安初期の天皇。桓武天皇の皇子。名は神野
(か
                        みの)
。「弘仁格式」「新撰姓氏録(しょうじろく)」を編纂させ、漢詩文に長じ、
                 「文華秀麗集」「凌雲集」を撰進させた。書道に堪能で、三筆の一人。
                 (在位809−823)(786〜842)    
(以上、『広辞苑』第6版による)
     
. 上記の本文を、読みやすく書き直しておきましょう。
             
                  小野篁広才の事
       今は昔、小野篁といふ人おはしけり。嵯峨の帝の御時に、内裏に札を
      立てたりけるに、無悪善と書きたりけり。帝、篁に、「読め」と仰せら
      れたりければ、「読みは読みさぶらひなん。されど、恐れにてさぶらへ
      ば、え申しさぶらはじ」と奏しければ、「ただ申せ」と、たびたび仰せ
      られければ、「嵯峨なくて善からんと申してさぶらふぞ。されば、君を
      呪
(のろ)ひまゐらせてさぶらふなり」と申しければ、「おのれ放ちては
      誰
(たれ)か書かん」と仰せられければ、「さればこそ、申しさぶらはじ
      とは申してさぶらひつれ」と申すに、帝「さて、なにも書きたらんもの
      は、読みてんや」と仰せられければ、「何にても、読みさぶらひなん」
      と申しければ、片仮名のね文字を十二書かせて、給ひて、「読め」と仰
      せられければ、「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読みたりければ、
      帝、ほほゑませたまひて、事なくてやみにけり。

     7
. 『十訓抄』には、次のように出ています。(『十訓抄』中巻「第七 可專思慮事」六)

          嵯峨帝御とき、無惡善と書ける落書有けり。野相公に見せらるゝに、「さがなくてよ
          し。」とよめり。惡は、さがと云よみの有故に、御かどの御氣色あしくて、「扨は臣が所
         爲か。」と仰られければ、「か樣の御うたがひ侍には、智臣朝にすゝみ難や。」と申け
         れば、御かど、
             一伏三仰不來待。 書暗降雨戀筒寢。
         とかゝせ給て、「是をよめ。」と給はせけり。
             月夜には來ぬ人またるかきくらし雨もふらなむこひつつもねむ
         とよめりければ、御氣色直りにけりとなむ。「落し文は、讀ところに咎有。」と云こと、是
         より始るとかや。童部のうつむきさいと云物に、一つふして、三仰けるを、月夜と云也。
         抑、此歌古今集に、よみ人しらずとて入り。嵯峨帝より後人よみたらば、此儀にかな
         はず。若御かど始て作出給へるを、彼集に入たるにや。又前代より人のよみおける
         古歌歟、不審なり。  (岩波文庫『十訓抄』197−198頁)
           注:一伏三仰不來待……『東斎随筆』(冷泉家時雨亭叢書 第43巻所収)には、「一伏三仰不
                   來人待」と「人」が入っています。このほうが意味が取りやすくなっています。
                    また、「一伏三仰」については、「一伏三起・一伏三向」が万葉集に出ていて、万
                   葉集ではこれを「ころ」と読ませています。「三伏一仰」なら、万葉集で「三伏一向」
                   を「つく」と読んでいるので、「つく=月」で都合がいいのですが、ここの「一伏三仰」
                   はどう考えればいいのでしょうか。「三伏一仰」と書くべきところを書き誤ったとみる
                   べきでしょうか。(「一伏三起・一伏三向」を「ころ」、「三伏一向」を「つく」と読むこと
                   については、資料39「万葉集の戯書(戯訓)」の「5.ゲームの用語によるもの」
                   の「(3)一伏三起・一伏三向」「(4)三伏一向」の解説をご覧ください。 
                    なお、新編日本古典文学全集51『十訓抄』(浅見和彦 校注・訳、小学館1997年
                   12月20日第1版第1刷発行、2003年6月10日第1版第3刷発行)の頭注に、<「一
                   伏三仰」で「月夜」と読んだ例として、『万葉集』巻十「春霞たなびく今日の暮三伏一

                        
向夜(ゆふづくよ)清く照るらむ高松の野に」。>とあるのですが(同書294頁)、万葉
                   集は「三伏一向」ですから、<「一伏三仰」で「月夜」と読んだ例>にはならないの
                   ではないでしょうか。
                     同書の頭注には、「嵯峨帝の出した謎の漢詩は童戯がヒント。双六では賽
(さい)
                   振るのを、「筒の中をば夜とし、外に出ては昼とす」(宴曲抄・双六)というが、第二句
                   の「筒」「寝」もそれによったものだろう」とあります。

                        (補注1)中公新書の鈴木棠三著『ことば遊び』(昭和50年12月20日初版)に、『江
                    談抄』三に出ている「無悪善」の話が取り上げてあり、鈴木氏は、「一伏三仰」      
                    を「ツキ(ク)ヨ」と読んでいることについて、次のように書いておられます。
                       とすると、嵯峨天皇の「一伏三仰不来人」は、「三伏一仰」でなければツキ
                       (ク)ヨとならぬはずである。世が降ってこういうことも分らなくなっていたため
                       に誤ったのであろうか。『十訓抄』にも同じ話が出ているが、「わらはべのう
                       つむきさいといふ物に、一つ伏して三仰
(あふぬ)けるを月夜と云也」と記して
                           あるのも、よく知らぬ人が付けたコメントである。(同書113頁)
                        (補注2)新日本古典文学大系32『江談抄 中外抄 富家語』(岩波書店、1997年6月
                    27日第1刷発行)の「江談抄」の「一伏三仰」の注で、後藤昭雄氏は次のように
                     書いておられます。 
                       一伏三仰を「つきよ」と読むのは万葉集に見える戯訓の用法。万葉集・1874 
                       では「三伏一仰」をツクヨと読むが、これは樗蒲というばくちで、四枚の木片を
                       投げ、その出た目が三伏一仰(下向き三、上向き一)のとき、ツクというのを
                       借りた戯訓。2988、3284の「一伏三起」「一伏三向」は、同様の戯訓でコロ。
                       一伏三仰をツキと読むのはこれらを誤解したものか。(同書90頁、脚注)
                                            (補注:
2008年1月8日記)
                          月夜には……古今和歌集、巻15(恋歌5)775の歌に、結句が「わびつつもねむ」となってい
                    る歌があります。今、岩波文庫『古今和歌集』(佐伯梅友・校注)によって挙げると、
                     775  月夜にはこぬ人またる かき曇り雨もふらなん わびつゝもねん
                          童部のうつむきさいと云物……「むきさい」について、上記の新編日本古典文学全集51『十
                    訓抄』の頭注に、「朝鮮の遊戯、
(しぎ)に近いか。四本の細長い(さじ)を投げ
                    て、その表裏の数で駒を進めて遊ぶ」とあります。
                    (「
」の漢字(木+四)は、島根県立大学のe漢字フォントを利用させていただき
                    ました。)
                          若御かど始て作出給へるを、彼集に入たるにや……もし帝はじめて作り出でたまへるを、
                    かの集に入れたるにや。日本古典文学全集の頭注に、「あるいは、嵯峨天皇が
                    初めて作り出された謎かけの言葉を、和歌に直して、の意か」とあります。

     
8. 次に、『東斎随筆』の本文を引いておきます。
          一 嵯峨帝御時無惡善トカケル落書アリケリ野相公ニ見セラルヽニサカナクテヨケン
             トヨメリ惡ハサカトヨムユヘ也御門御氣色アシクテサテハ臣カ所爲カト仰ラレケレ
             ハ加樣ノ御疑侍ランニハ智臣朝ニスヽミカタクヤト申ケレハ一伏三仰不來人待
             書暗雨降戀筒寢トカヽセ給テコレヲヨメトテ給ハセケリ  
               月夜ニハコヌ人マタルカキクモリ雨モフラナンコヒツヽモ子ン
             トヨメリケレハ御氣色ナヲリニケリトナン落フミハヨム所ニトカアリト云事ハコレヨ
             リハジマレルトカヤワラヘノウツムキサイト云物一フシテ三アフケルヲ月夜トイフ
             也此哥ハ古今集ニヨミ人不知ノ哥也
                今案嵯峨帝ハ弘仁十四年四月十七日ニ御位ヲ皇太弟淳和天皇ニ讓リ給
                テ仁明天皇ノ御在位之時承和元年八月ニ始テ嵯峨院ニウツラセ給フ同九
                年七月十五日ニ崩御アリ然ハ無惡善ノ落書ハ嵯峨院ニマシケル時ノ事ニ
                ヤ御在位ノ時ニテハ其謂ナカルヘシ
          
(冷泉家時雨亭叢書第43巻(朝日新聞社 1997年12月1日第1刷発行)所収の『東斎随筆』による)

              
東斎随筆(とうさいずいひつ)=説話。一条兼良編。2巻。室町中期の成立。音
                 楽・草木・鳥獣・人事・詩歌・政道・仏法・神道など11門に分類して78
                 話を記したもの。日本で随筆と称した最初の書といわれる。
                                     
 (『広辞苑』第6版による)
      9. 新日本古典文学大系32『江談抄 中外抄 富家語』
(後藤昭雄・池上洵一・山根對助校注、
          岩波書店、1997年6月27日第1刷発行)
から、巻末にある『江談抄』第三(42)の原文と、本
         文の書き下し文とを次に引いておきます。底本は、「国文学研究資料館 史料館蔵本」
         の由です。

               嵯峨天皇御時落書多々事
           嵯峨天皇之時、無悪善
云落書、世間多々也。篁読云、無悪サカナクハヨカリナマシ
           読云々。天皇聞之給、篁所為也被仰蒙罪トスル之処、篁申云、更不可候事也。
           才学之道、然者自今以後可絶
云々。天皇尤以道理也。然者此文可読被仰令
           書給。
           
ツキヨニハコヌヒトマタルカキクモリアメモフラナンコヒツヽモネン
           一 伏 三 仰 不 来 待 書 暗 降 雨 慕 漏 寝 
如此読云々
           十廿丗 五十。落書事。
           海岸香。
在怨落書也。
           二冂口月八三。
中トホセ。市中用小斗。
           欲
唐ノケサウ文。谷傍有欠欲日本返事。木頭切月中破不用。
           粟天八一泥
加故都。
           或人云為市々々有砂々々。 又左縄足出 志女砥与布。 
             
※ 「加故都」の「故」は、底本の「坂」を前田育徳会尊経閣文庫蔵本によって「故」と改めた。
                   「或人云」の「人云」は、底本の「令」を醍醐寺蔵水言鈔によって「人云」と改めた。


                   
嵯峨天皇の御時、落書多々なる事
             
 嵯峨天皇の時、「無悪善」と云ふ落書、世間に多々なり。篁読みて云はく、「『さが
           なくはよかりなまし』と読む」と云々。天皇聞き給ひて、「篁が所為なり」と仰せられて、
           罪を蒙
(かうぶ)らんとするところ、篁申して云はく、「さらに候(さぶら)ふべからざる事なり。
           才学の道、しかれば今より以後絶ゆべし」と申すと云々。天皇、「尤
(もと)ももつて道理
           なり。しからば、この文
(ふみ)読むべし」と仰せられて書かしめ給ふ。 
          
(つきよにはこぬひとまたるかきくもりあめもふらなんこひつつもねん)
           一  伏 三 仰 不 来 待 書 暗 降 雨 慕 漏 寝 
かくのごとく読むと云々。
           十 二十 三十 五十。 落書の事。
           海岸香。
怨み在る落書なり。
           二冂口月八三。
中とほせ。市中小斗を用ゐる。
           欲。
唐のけさう文。  谷の傍らに欠有り。日本の返事を欲す。
           木の頭切れて、月の中破
(わ)る。不用。
           粟天八一泥。
加故都(かこつ)。
           ある人云はく、「為市々々、有砂々々」と。 
           また、左縄足出。
しめとよぶ。               

                
なお、新大系本には詳細な脚注がついていますので、詳しい解説はそちらを参照して    
         ください。
          今、新大系本の脚注によって簡単な注をつけて置きますと、
            
十 二十 三十 五十。── 四十が欠けていることに意味があろうが、未詳。
             海岸香 ── 『江談抄』第一・7の末尾に「非常の宰相江は銅臭、不次の納言は」とあるのに続くべ
                       き語。「海岸香」は、法華経に見える香の名。先例に倣わないやり方で任ぜられた参
                        議大江氏は金で官職を買ったもので俗臭に満ち、抜擢された中納言の清潔さは海岸
                       香のようである、の意。
             二冂口月八三 ── この真ん中に線を引け、の意。そうすると、市中用小斗という字になる。
             欲。
唐のけさう文。  谷の傍らに欠有り。 ── 唐からの懸想文(恋文)に、谷の横に欠があると
                       あり、日本からの返事がほしいという意味。
             木の頭切れて、月の中破
(わ)る。── 木の上が切れると不、月の中央が割れると用。つまり、
                       不用で、前の懸想文に対する返事であろう。

             粟天八一泥 ── あはでやひとりぬる(恋人に逢えないで一人寝をすることであろうか)で、
                       かこつ。泥は名義抄に「ヌル」。
             為市々々、有砂々々 ── 未詳。
             左縄足出  ── この4字をシメとよぶ、の意。シメは、しめなわ。しめなわは、左編みになった
                       縄の藁の端を切らずに足らす。

               10. 国立国会図書館のホームページに
『日本の暦』があり、その中に「大小暦クイズ」
       のコーナーがあって、その上級第2問に、この
「子の字」の話が出ています。
               11.早稲田大学図書館の『古典籍総合データベース』に、万治2年(1659)の版本『宇
       治拾遺物語』があって、本文が見られます。
              
『古典籍総合データベース』 → 『宇治拾遺物語』
               12.『やたがらすナビ』というサイトに、陽明文庫本『宇治拾遺物語』を翻刻した原文があ
       ります。 
              
『やたがらすナビ』 → 陽明文庫本『宇治拾遺物語』
               13.国史大系本の『宇治拾遺物語』巻第一の本文が、Tiaju's Notebook というサイト
       にあって、活字におこした原文が見られます。(ただし、巻第一だけです。)
              Tiaju's Notebook → 『宇治拾遺物語』巻第一(国史大系本) 
               14.参考: 国文学研究資料館のサイトに、宮内庁書陵部蔵の『宇治大納言物語』があり、
         画像で本文が見られます。
             国文学研究資料館 → 『宇治大納言物語』(宮内庁書陵部蔵)




                                   
トップページ(目次)   前の資料へ  次の資料へ