『東見記』序
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晋の起居注の好文木の故事が引用されていることで知られる『東見記』は、京都出身で水戸藩に仕えた儒者・人見壹(卜幽軒)の著書です。貞享3年(1686)に刊行されました。 ここには、『東見記』の序を紹介します。卜幽軒の序と卜幽軒の甥の序と、二つ並んでいます。
(本文には訓点がついているのですが、これは省略しました。書き下し文は、その訓点に従って書きましたが、訓み誤りがあるかもしれません。「予少在京師中年而來東關從學於羅山」の「年」の字は、参照した茨城県立歴史館の本文では虫食いによる欠字になっていますが、奈良大学博物館所蔵の『東見記』(貞享3年(1686)刊)の版木の画像、及び清水正健著『増補 水戸の文籍』によれば、「年」の字であると考えられますので、「年」としておきました。 お気づきの点を教えていただければ幸いです。) |
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追記:注の6に記したように、『立命館大学 日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点』というサイトに『近世版木展』というページがあり、そこで奈良大学博物館所蔵の『東見記』(貞享3年(1686)刊)の版木の一部を画像で見ることができます。(2010年10月31日) |
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東見記序 昔呂大臨從學于張横 渠横渠卒東從二程而 學因以其所聞編號東 見録予少在京師中年 而來東關從學於羅山 先生於是集其淸談玉 露以爲一册名曰東見 記焉余非欲比肩於與 叔其從學於東亦從同 同於以云爾 野壹題
(書き下し文)
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昔、呂大臨、學に張横渠に從ふ。横渠卒(しゅっ)して、東のかた二程に從つて學ぶ。因つて其の聞ける所を以て、編して「東見録」と號す。予(われ)少(わか)うして京師(けいし)に在り。中年にして東關に來(きた)る。羅山先生に從つて學ぶ。是(ここ)に於て、其の淸談玉露を集めて以て一册と爲し、名づけて「東見記」と曰ふ。
余(われ)肩を與叔に比せんと欲するに非ず。其の學に東に從ふこと、亦從つて同同なり。於(ここ)を以て爾(しか)云ふ。 野壹題す |
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〇 呂大臨 (りょ・たいりん)= 字は与叔。京兆藍田の人。呂大忠・呂大鈞の弟にあたる。蔭官により出仕し、太学博士・秘書省正字となった。兄とともに張載の門人となり、張載が亡くなると、程顥・程頤に師事した。謝良佐・游酢・楊時と併称される程門の四子のひとり。煕寧九年(1076)から藍田に郷約を組織し、民間の教化・互助に尽力した。『考古図』、『易章句』、『大易図像伝』、『孟子講義』。 (1040~1092) (これは、『枕流亭』というサイトの『中国史人物事典』によりました。)
〇 張横渠(ちょう・おうきょ)=北宋の儒者・張載(ちょう・さい)のこと。字は子厚。号は横渠。陝西横渠(おうきょ)鎮の人。二程と交わり深く、宋学創始者の一人。気一元論的な太虚の説を立て、天地の性・気質の性の説を創出。著「易説」「正蒙」「張子全書」。(1020~1077)
〇 二程(にてい)=北宋の儒者、程顥(ていこう)・程頤(ていい)兄弟の称。
〇 程顥(ていこう)=北宋の大儒。字は伯淳。明道先生と呼ばれた。河南洛陽の人。少年時代に周敦頤(しゅうとんい)に学ぶ。宇宙の本体を乾元(けんげん)の気とする道徳説を主唱。弟の頤(い)とともにニ程子と併称。著「定性書」。(1032~1085)
〇 程頤(ていい)=北宋の大儒。字は正叔。諡(おくりな)は正公。顥(こう)の弟で、ニ程子とと並称。伊川(いせん)先生と称。河南洛陽の人。謹厳徳行、少年時代に周敦頤(しゅうとんい)に学ぶ。のち性理学を大成。天理の説を提唱。哲宗の時、崇政殿説書(侍講)となったが、蘇軾(そしょく)門流と争い、また新法党に忌まれて生涯を終えた。著「易伝」「伊川先生文集」「経説」など。 (1033~1107)
〇 羅山(らざん)先生=江戸初期の幕府の儒官、林羅山。名は忠・信勝。僧号、道春。京都の人。藤原惺窩 (せいか)に朱子学を学び、家康以後4代の侍講となる。また、上野忍ヶ岡に学問所および先聖殿を建て、昌平黌(しょうへいこう)の起源をなした。多くの漢籍に訓点(道春点)を加えて刊行。著「本朝神社考」「春鑑抄」など。(1583~1657) (以上『広辞苑』第6版によりました。)
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與叔(よしゅく)=呂大臨 の字(あざな)。
〇 野壹=卜幽軒は本姓が小野なので、小野の「野」と名の「壹」を採ったものと思われます。 |
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東見記序 伏顧帝舜好問而好察邇言仲 尼入太廟毎事問大聖而必有 問矣古人爲學不問不措故以 審問愼思爲之次凡欲力學者 以不問爲大患上才者必以我 爲善故有不問中才者必自衒 而恥下問故有不問下才者必 庸昧不能辨疑故有不問若斯 而自暴自棄無奈之何我伯父 卜幽叟少而精勤講學洛下負 笈者盈門人皆稱師然遇人必 問及其壯來于東都優而仕遊 于羅山林先生之門以能問所 稱而問則箚記爲策自名曰東 見記以傚呂藍田雖細事瑣言 必記之以備遺忘余自幼從之 便知能學者能問不問必不成 矣其記藏於從弟懋齋之家剞 劂氏請之鏤梓唯刀筆之餘而 雖無大補然初學便覽聊足用 之耶懋齋許之剞劂氏請余之 叙因書卷端云
貞享丙寅夏五寉山野節序
(書き下し文)
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伏して顧みれば、帝舜問ふを好みて、好んで邇言を察す。仲尼太廟に入りて、事毎(ごと)に問ふ。大聖にして必ず問ふ有り。古人の學を爲すは、問はざれば措かず。故に、審(つまびら)かに問ひ、愼みて思ふを以て、之(これ)が次となす。凡(およ)そ學を力めんと欲する者の、問はざるを以て大患と爲す。上才の者は、必ず我を以て善と爲す。故に問はざること有り。中才の者は、必ず自ら衒(てら)ひて、下問を恥づ。故に、問はざること有り。下才の者は、必ず庸昧にして疑ひを辨ずること能はず。故に、問はざること有り。斯(か)くの若(ごと)くにして、自(みづか)ら暴(そこな)ひ自ら棄つるは、之(これ)を奈何(いかん)ともすること無し。我が伯父卜幽叟、少(わか)くして精勤、學を洛下に講ず。笈を負ふ者の門に盈(み)つ。人皆、師と稱す。然も、人に遇ひては必ず問ふ。其の壯なるに及んで東都に來り、優にして仕ふ。羅山林先生の門に遊びて、能く問ふを以て稱せらる。而して、問ふときは則ち箚記して策を爲す。自(みづか)ら名づけて『東見記』と曰ふ。以て呂藍田に傚ふ。細事瑣言と雖も、必ず之を記して、以て遺忘に備ふ。余、幼きより之に從ふ。便(すなは)ち知んぬ、能く學ぶ者は能く問ふ、問はざれば必ず成らざることを。其の記は、從弟懋齋(ぼうさい)が家に藏す。剞劂氏(きけつし)、之を請ひて梓に鏤(きざ)む。唯、刀筆の餘にして大なる補ひ無しと雖も、然も初學、覽に便せば、聊か之を用ふるに足らんか。懋齋、之を許す。剞劂氏、余が叙を請ふ。因りて卷の端に書すと云ふ。 貞享丙寅夏五、寉山野節序す。 |
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〇 邇言(じげん)=卑近で通俗的な、だれにでもわかりやすいことば。「舜好レ問而好レ察2邇言1」(中庸) (『改訂新版漢字源』学習研究社、1988年11月10日初版発行、2002年4月1日改訂新版発行によりました。)
〇 仲尼入太廟毎事問=『論語』八佾篇に、「子入大廟、毎事問。或曰、孰謂鄹人之子知禮乎。入大廟、毎事問。子聞之曰、是禮也。」とあります。
〇 箚記(とうき・さっき)=書き記すこと。また、読書して得たところを随時に書き記した書。
〇 呂藍田(りょ・らんでん)=呂大臨(與叔)に同じ。藍田は号という。
〇 懋齋(ぼうさい)=人見懋齋。諱は傳。字は士傳。初め道設と称し、のち、又左衛門と改め、懋齋と号した。また、竹墩、井々堂等の号がある。京都の人。本姓は藤田氏。叔父人見卜幽に嗣子がなかったため、その養子となり、小野姓人見氏を継いだ。寛文8年、彰考館に入り、天和3年、総裁となる。元禄9年没す。年59。(1637~1696)(主として、清水正健著『増補 水戸の文籍』 (水戸の学風普及会、昭和9年7月15日発行)によりました。なお、水戸史学選書『水戸史學先賢傳』[名越時正監修。水戸史学会、昭和59年7月15日第1刷発行] に「懋齋人見傳」が載っています。
〇 剞劂氏(きけつし)=彫刻師。版木を彫る人。
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(注) |
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上記の『東見記』の本文は、貞享3年(1686)刊の雒陽書肆柳枝軒蔵版の版本によりました。
本文の改行は、原文の通りにしてあります。ただし、訓点(返り点と送り仮名)は省略してあります。
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2. |
〇東見記(とうけんき)=京都出身で水戸藩に仕えた儒者・人見卜幽軒の著。随筆。2巻(乾・坤、本文には「巻之上」「巻之下」とあります)。貞享3年刊。好文木の記事は、乾(巻之上)の十九・左に出ています。
〇東見記=林羅山に就きて聞ける所を箚記せしものなり。凡二巻。貞享三年刻成る。自其の巻首に弁して。昔は呂大臨あり。張横渠に從學す。横渠の卒するや。東の方二程に從ひて學び。其聞く所を編して。東見録と號す。予少年京師に在り。中年東關に來りて。羅山先生に從學す。是に於て其の淸談玉露を集めて一册となし。東見記と名づく。予や敢て與叔に比肩せんと欲するにはあらず。其の學に東に從ふもの同々なり。此を以て云爾。と云へり。(『増補 水戸の文籍』 清水正健著。水戸の學風普及會、昭和9年7月15日発行)
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3. |
〇人見卜幽軒(ひとみ・ぼくゆうけん)=(1599-1670)江戸時代前期の儒者。慶長4年3月生まれ。人見竹洞(ちくどう)の伯父。菅(かん)得庵、林羅山にまなぶ。のち常陸水戸藩主徳川頼房の侍講となり、光圀に仕えた。寛文10年7月8日死去。72歳。京都出身。本姓は小野。名は壱。字(あざな)は道生。別号に林塘。著作に「五経童子問」「土佐日記附註」「東見記」など。(『講談社日本人名大辞典』2001年12月6日第1刷発行、2001年12月25日第2刷発行)
〇人見卜幽(ひとみ・ぼくゆう)=慶長4年(1599)~寛文10年(1670)。水戸藩最初の儒者。名は壹。字は道生。幽齋と称す。號は林塘庵のほかに白賁園、把茅亭など。十二歳のとき柏原氏の養子となる。菅得庵に四子五経を学んだ。のちに林羅山の門人となる。著作として『東見記』、『土佐日記附註』などがある。(これは、『国文学研究資料館』というサイトの資料によりました。なお、「四子」とあるのは、「四書」のことです。「資料」は、「古書印譜データベース」の人見卜幽の解説です。この「古書印譜データベース」の利用は登録制となっているようです。)
〇人見林塘=諱を壹と云ひ。字を道生と呼ぶ。卜幽軒と稱し。林塘菴と號す。又白賁園把茅亭等の別號あり。京師の人にして。初め菅玄同に學び。後林羅山の門に入る。寛永五年。威公に仕へて儒官となり。寛文元年致仕。十年歿す。年七十二。(『増補 水戸の文籍』 清水正健著。水戸の學風普及會、昭和9年7月15日発行)
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4. |
参考までに、『東見記』の最初の記事を引いておきます。著者・人見卜幽軒の師、林羅山についての記事です。
羅山(ラサン)
道春ヲ羅浮山(ラフサン)ト云 所謂(イハレ)ハ藤惺齋(タウノセイサイ)先生(センジヤウ)初(ハシメ)テ名(ナ)付ク 先生ノ曰ク 昔(ムカシ)羅豫章(ラヨシヤウ)在(アリテ)2羅浮(ラフ)山ニ1通セリ
2
春秋之ノ義ニ1
而今(イマ)林氏能(ヨ)ク明(アキ)ラカニスルコト2春秋ヲ1略(ホヽ)似(ニ)タリ
2豫章ニ1自(ヨ)リ
レ是レ 與(アタ)フルノレ書ヲ之時
毎(ツ子)ニ云フ2羅浮氏ト1
普通の文に書き直してみます。
羅山(ラザン) 道春を羅浮山(ラフザン)と云ふ。所謂(イワレ)は藤惺齋(トウノセイサイ)先生(センジョウ)
初めて名付く。先生の曰く、昔、羅豫章、羅浮山に在りて、春秋の義に通ぜり。今、林氏、能く春秋を明らかにすること、略(ほぼ)豫章に似たり。是れより書を與ふるの時、毎(つね)に羅浮氏と云ふ。
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5. |
資料230に 「好文木」について があります。
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6. |
『立命館大学 日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点』というサイトに、『近世版木展』というページがあり、そこで奈良大学博物館所蔵の『東見記』(貞享3年(1686)刊)の版木の一部を画像で見ることができます。 |
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