(注) | 1. |
〇東見記(とうけんき)=京都出身で水戸藩に仕えた儒者・人見卜幽軒の著。随筆。乾坤の2巻。本文には、「巻之上」「巻之下」とあります。貞享3年(1686)刊。 上記の本文を引用した『東見記』は、雒陽書肆柳枝軒蔵版、貞享3年刊のものです。好文木の記事は、乾(巻之上)の十九の右側に 出ています。 『東見記』は早稲田大学図書館の『古典籍データベース』で見ることができます。 →『古典籍綜合データベース』→『東見記』 → 101カット中の 26カット |
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2. |
〇人見卜幽軒(ひとみ・ぼくゆうけん)=(1599-1670)江戸時代前期の儒者。慶長4年3月生まれ。人見竹洞(ちくどう)の伯父。菅(かん)得庵、林羅山にまなぶ。のち常陸水戸藩主徳川頼房の侍講となり、光圀に仕えた。寛文10年7月8日死去。72歳。京都出身。本姓は小野。名は壱。字(あざな)は道生。別号に林塘。著作に「五経童子問」「土佐日記附註」「東見記」など。 (『講談社日本人名大辞典』2001年12月6日第1刷発行、2001年12月25日第2刷発行によりました。) 〇人見卜幽(ひとみ・ぼくゆう)=慶長4年(1599)~寛文10年(1670)。水戸藩最初の儒者。名は壹。字は道生。幽齋と称す。號は林塘庵のほかに白賁園、把茅亭など。十二歳のとき柏原氏の養子となる。菅得庵に四子五経を学んだ。のちに林羅山の門人となる。著作として『東見記』、『土佐日記附註』などがある。 (これは、『国文学研究資料館』というサイトの資料によりました。「四子」とあるのは、「四書」のことです。 なお、卜幽軒(ぼくゆうけん)のほかに別称として、小野(おの)、道生(どうせい)、壱(いち)、卜幽(ぼくゆう)、林塘(りんとう)、人見壱(ひとみいち)、小野道生(おのどうせい)、人見卜幽(ひとみぼくゆう)、人見林塘(ひとみりんとう)、人見道生(ひとみどうせい)、などがあるそうです。) |
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3. |
上記の『謠抄』(うたいしょう)の本文は、京都大学図書館機構の『京都大学貴重資料デジタルアーカイブ』の『謠抄』(臺林本、古活字本)の画像によりました。(画像コマ番号13/1033の右頁に出ています。) |
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4. | 好文木の故事が出ている『謡抄』(『謡鈔』)・『謡古抄』(『謡古鈔』)について。 好文木の故事が晋の起居注に出ていて、それが晋の武帝のことだとする記事は、上記の通り『東見記』に見られますが、それが晋の起居注に哀帝のことだとして出ている記事は、『謡古抄』に載っていると一般には言われているようです。 しかし、『謡古抄』という本を捜してみましたが、どうしても見つかりません。そこで、茨城県立図書館のレファレンスサービスにお願いして調べていただきました。その結果、好文木の故事を哀帝のことだとする晋の起居注の記事は、『謡抄』(うたいしょう)という本に出ていること、インターネットで『謡抄』の本文の画像が見られること、などを教えていただきました。 その後、茨城県立歴史館で、所蔵の『東見記』を見せていただいた時に『謡古抄』について伺いましたら、これは『謡抄』(うたいしょう)の別名で、『国書総目録』や『古典籍総合目録』に『謡古鈔』(うたいこしょう)として出ている、と教えていただきました。 ここに記してご両所に対して厚く御礼申し上げます。 なお、『広辞苑』第5版では「うたいしょう」として出ていたものが、第6版では「うたいのしょう」としてあります。 |
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5. | 『謡抄』を辞書で引いてみました。 〇謡抄(うたいのしょう)=謡曲の最初の注釈書。1595年(文禄4)豊臣秀次の命により、山科言経(ときつね)や五山の禅僧らが謡曲百番の語句を注したもの。(『広辞苑』第6版による。) 〇謡抄(うたいしょう)=20巻 [別称] 謡曲古鈔・謡古鈔・謡注甲集・謡注・謡之巻・謡鈔巻・謡講釈。 [著者]有節周保・英甫永雄・山科言経・鳥飼道※(日+折)等。(『国書総目録』第1巻による。) |
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6. | 『十訓抄』の底本について 岩波文庫の『十訓抄』の底本は、「東京大学国文学研究室蔵三巻本十訓抄を底本とし、同系統の岩崎文庫蔵三巻本を以て校合した」と凡例にあります。 新版日本古典文学全集『十訓抄』は、「善本とされる宮内庁書陵部所蔵本(片仮名本)を底本とし、これに、国会図書館所蔵本、東京大学文学部国文学研究室所蔵本、水府明徳会彰考館所蔵本、国立歴史民俗博物館所蔵本および板本(享保六年刊)などによって校訂を行った」と凡例にあります。 |
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7. | 『古今著聞集』には、貞木の話は出ていますが、好文木の話は出ていません。 | ||||
8. | 引用書 〇岩波文庫『十訓抄』(永積安明校訂、昭和17年9月25日第1刷発行、昭和32年9月5日第2刷発行) 〇新版日本古典文学全集『十訓抄』(校注・訳 浅見和彦、小学館、1997年12月20日第1版第1刷発行、2003年6月10日第1版第3刷発行) 〇日本古典文学大系40『謡曲集 上』(横道萬里雄・表章校注、岩波書店、昭和35年12月5日第1刷発行、昭和39年2月25日第3刷発行) 〇日本古典文学大系51『浄瑠璃集 上』(乙葉弘 校注、岩波書店、昭和35年6月6日第1刷発行、昭和38年8月20日第2刷発行) 〇日本古典文学大系84『古今著聞集』(永積安明・島田勇雄校注、岩波書店、昭和41年3月10日第1刷発行) |
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9. | 資料231に「人見卜幽軒『東見記』序」があります。 | ||||
10. | 元・跡見学園女子大学学長嶋田英誠先生のホームページに、『跡見群芳譜』があり、そこに「ウメ(梅)」のページがあって参考になります。 | ||||
11. | 参考までに、『十訓抄』と謡曲「老松」の引用前後の文を、もう少し引いておきます。 A.岩波文庫『十訓抄』より 抑、松樹を貞木と云事は、まさしく人の爲にかの木の貞心あるにはあらず。 霜雪のはげしきにも色をあらためず、いつとなくみどりなれば、是を貞心にな らはするなり。「貞松は歳のさむきにあらはれ、忠臣は國のあやうきに見ゆ。」 と潘安仁が西征賦にかける、その心なり。菅家、太宰府に趣かせたまひけると き、 こちふかば匂ひをこせよ梅のはな あるじなしとて春をわするな とよみをきて、都を出てつくしに移て後、紅梅殿の梅の片枝とび參て、おひつ きにけり。或時、此梅にむかひて、 古里のはなのものいふ世なりせば むかしの事をとはましものを とながめさせたまひたりければかの木、 先久於故宅。癈離於久年。 麋鹿在住所。無主亦有花。 かく申たりけるこそ、あさましとも哀とも、こゝろも詞もをよばれね。唐國の 御門、文を好て讀たまひければひらけ、學文をこたりたまへば散凋ける梅あり、 好文木とはいひける。それもなをものをばいはざりけれ。これこそ誠の貞木とは 覺ゆれ。忠孝おなじことなれば、孝子のふるまひも、このうちに侍べし。重華は 頑なる父につかへ、珀瑜は怒れる母にしたがふ。董永が身をうりし志、郭巨が子 をうづむ悲、とりどりなり。このたぐひは、唐のことなれば、孝子傳・蒙求など にしるせるによりて、みな人口づけたるものがたりなれば、くはしく書のぶるに をよばず。吾朝のこと、つねに人口に有外、一兩條申べし。(同書、161~163頁) (なお、「とりどり」の繰り返し部分は、原文は「く」を縦に伸ばした形のものに濁点のついた踊り字になっていますが、ここでは普通の仮名に直しました。 また、漢文の返り点は省略しました。 また、「癈離於久年」の「離」は他の本では「籬」となっていますが、文庫の表記のまま「離」にしてあります。) ※引用者注: 〇貞松は歳のさむきにあらはれ……「貞松」は、流布本には「勁松」とある由です。(文庫脚注) 〇潘安仁(はんあんじん)……晋の文人。名は、岳。陸機とともに潘陸と称せられた。また、美男で有名。 〇春をわするな……流布本には「春なわすれそ」とある由です。(文庫脚注) 〇紅梅殿(こうばいどの)……道真の邸宅。見事な紅梅があったことからいう。 〇おひつきにけり……「生ひつきにけり」の意。 〇ふるさとの……『後拾遺和歌集』巻ニ・春下 世尊寺の桃の花をよみ侍りける 出羽弁 130 ふるさとの花のものいふ世なりせばいかに昔のことを問はまし 出羽弁(いでわのべん)=平安中期の女流歌人。出羽守平季信(すえのぶ)の女(むすめ)。上東門院彰子、後一条天皇の中宮威子、また章子内親王に出仕。古来「栄花物語」続編の作者に擬せられている。生没年未詳。家集「出羽弁集」。(「出羽弁」の項は、『大辞林』第2版による。) 〇とながめさせたまひたりければ……「ながめ」は、「詠(なが)め」で、詩歌を詠む意。 〇先久於故宅云々……この部分は、『十訓抄』の別本には、「先人於故宅 籬廢於舊年 麋鹿猶棲所 無主獨碧天」とあり、『古今著聞集』には、「先久於故宅 癈籬於久年 麋鹿於住所 無主又有花」となっています。 〇学文をこたりたまへば……「学文」は「学問」の意。「学問怠り給へば」。 〇散凋ける……「ちりしぼみける」。 〇重華(ちょうか)……古代の聖天子、舜のこと。 〇珀瑜(はくゆ)……韓伯兪のこと。『蒙求』の標題の一つに「伯兪泣杖」(はくゆつえになく)があり、親孝行な韓伯兪が過失をおかして母に鞭で打たれた時、痛くなかったので、母が老いて力が衰えたことを知り泣いた、という故事。 〇董永(とうえい)……後漢の人。父の葬儀のために、身を売って費用を得ようとした。その孝心に応じて天女が妻となり、絹を織って借金を返して去ったという。 〇郭巨(かくきょ)……後漢の人。家が貧しく、老母が食を減らして彼の子に与えるのを見て、母を助けるために、3歳の子を埋めようとして穴を掘ったところ、黄金が出てきたという。二十四孝の一人。 〇みな人口づけたる……みな人、口づけたる(みんなが常に口にする)。 〇つねに人口に有外……「有外」は、「あるほか」と読む。普段は人の口にのぼらない。 B.『新編日本古典文学全集』(小学館)の『十訓抄』より そもそも、松を貞木といふことは、まさしく人のために、かの木の貞心あるにあらず。雪霜のはげしきにも、色あらたまらず、いつとなく緑なれば、これを貞心にくらぶるなり。 勁松(けいしよう)は年の寒きにあらはれ 忠臣は国の危(あやふ)きに見ゆ と潘安仁(はんあんじん)が「西征の賦」に書ける、そのこころなり。 菅家(くわんけ)、大宰府におぼしめしたちけるころ、 東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春な忘れそ とよみおきて、都を出でて、筑紫に移り給ひてのち、かの紅梅殿(こうばいどの)、梅の片枝、飛び參りて、生(お)ひ付きにけり。 ある時、この梅に向ひて、 ふるさとの花のものいふ世なりせば いかに昔のことをとはまし とながめ給ひければ、この木、 先人於故宅 先人故宅に於(おい)て 籬廃於旧年 籬(まがき)、旧年に廃(すた)る 麋鹿猶棲所 麋鹿(びろく)、猶棲む所 無主独碧天 主無くして独り碧天(へきてん) と申たりけるこそ、あさましともあはれとも、心も及ばれね。 唐国の帝(みかど)、文を好み給ひければ開(ひら)け、學問おこたり給へば散りしぼみける梅はありけれ。好文木(かうぶんぼく)とぞいひける。それなほ、ものをばいはざりけり。まことに一日に万里(ばんり)の山海(さんかい)をわけて、飛び参るほどなれば、もの申しけるもことわりなり。この梅こそ貞木とはおぼゆれ。 忠孝一つのことなれば、孝子の振舞もこのうちに侍るべし。 重華(ちようくわ)はかたくななる父に仕へ、伯瑜(はくゆ)は怒(いか)れる母に従ふ。董永(とうえい)が身を売りし志(こころざし)、郭巨(くわくきよ)が子を埋(うづ)む企(くはだ)て、とりどりなり。 このたぐひ、もろこしのことなれば、孝子伝、蒙求(もうぎう)などにしるせるによつて、みな人、口付けたる物語なれば、くはしく書き述ぶるに及ばず。 わが朝(てう)のこと、つねに人の口にあるほか、両条(りやうでう)申すべし。 ※「先久於故宅……」について 1.浅見和彦氏校注・訳の新版日本古典文学全集『十訓抄』には、本文が、 先人於故宅 籬廃於旧年 麋鹿猶棲所 無主独碧天 となっており、「先人故宅(こたく)に於て 籬(まがき)、旧年に廃(すた)る 麋鹿(びろく)猶(なお)棲む所 主無くして独り碧天(へきてん)」と読んでおられます。 そして頭注に、「昔の人の古い邸宅では」として、「国会本、東大本、『古今著聞集』は「先久於故宅」。「先入於故宅(先ヅ故宅ニ入レバ)」の誤りか」としておられます。「無主独碧天」については、「その邸宅の主人はおらず、青空のみが広がっている。「碧天」を国会本・東大本「有花」」としておられます。(引用者:返り点は省略しました。) 氏の口語訳は、「先人の旧宅において 籬は毀(こぼ)ち壊れ はや鹿たちの臥所(ふしど)と化し 主(あるじ)の姿はなく、ひとり青空のみが澄みわたる」となっています。 2.永積安明・島田勇雄両氏校注の日本古典文学大系84『古今著聞集』(岩波書店、昭和41年3月10日第1刷発行)には、本文が、 先久於故宅 癈籬於久年 麋鹿於住所 無主又有花 となっており、頭注に 「「先久」は「先人」(十訓抄元禄六年版)か。先人(道真)の旧宅では、久しく前から籬がこわれており、なれしかの棲みかとなっている。御主人は不在でも、花だけはもとどおり咲いているの意か。ただし傍書のごとく未審」 としておられます。(傍書には「如本不審事等在之」とあります。) C.日本古典文学大系『謡曲集 上』の「老松」より げにや 心なき、草木(そおもく)なりと 申せども、かかる憂き世の 理(ことわり)をば、知るべし 知るべし、諸木(しょぼく)の中に 松梅(まつんめ)は、ことに 天神(てんじん)の、ご慈愛(しあい)にて、紅梅殿(こおばいどの)も 老松も、みな末社と現じ 給へり。さればこの 二つの木は、わが朝(ちょお) よりもなほ、漢家(かんか)に徳を 現はし、唐(とお)の帝(みかど)の おん時は、国に文学(ぶんかく) 盛んなれば、花の 色を増し、匂ひ常より 勝りたり、文学(ぶんかく)廃(すた)れば 匂ひもなく、その色も 深からず、さてこそ 文を(ぶんの)好む、木なりけりとて 梅(んめ)をば、好文木(こおぶんぼく)とは 付けられたり、さて松を、大夫(たいう)と いふことは、秦の始皇の み狩の時、天にはかに かき曇り、大雨頻りに 降りしかば、帝雨を凌がんと、小松の蔭に 寄り給ふ(たもお)、この松にはかに 大木(たいぼく)となり、枝を垂れ 葉を並べ、木(こ)の間(ま)透き間を 塞ぎて、その雨を洩らさ ざりしかば、帝 大夫といふ、爵(しゃく)を贈り 給ひしより、松を大夫と 申すなり。 |
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12. | 『なんでも梅学』というホームページがあり、参考になります。 | ||||
13. | 梅の異名(異称) 『日本国語大辞典』の記述によって、梅の異名(異称)を記しておきます。(50音順) 〇風見草(かざみぐさ)=①植物「うめ(梅)」の異名。《季・春》 *蔵玉集「香散見草 梅 ‹略› 山里の軒端に咲けるかざみぐさ色をも香をも誰れ見はやさん」 ②植物「やなぎ(柳)」の異名。(以下、略) ③植物「ヒヤシンス」の異名。(以下、略) 〇風待草(かぜまちぐさ)=植物「うめ(梅)」の異名。《季・春》 *蔵玉集「異名 ‹略› 匂草 梅風待草 同」 〇香栄草(かはえぐさ)=植物「うめ(梅)」の異名。《季・春》 *藻塩草‐九・梅「香はへ草 是も異名也。み山にはみ雪ふるらし難波人うら風しほるかはへ草かな」 〇 好文木(こうぶんぼく)=(前出) 〇木花(このはな)=①木に咲く花。特に、桜の花をいう。②梅の花の雅称。「此の花」と意識されることもある。《季・春》 *古今‐仮名序「なにはづに咲くやこのはな冬ごもりいまははるべと咲くやこの花」 *喜撰式「梅、このはなと云」 *謡曲・弱法師「所は難波津の梅ならば、ただこの花とこそ仰せあるべけれ」 *俳諧・毛吹草‐二「連歌四季之詞 初春 ‹略› 梅 この花春告草」 [補注] ②の「古今」の例を大根の花と解する説があった。「古今序注‐上」の「歌論義云、このはなとは、大根の花歟。而古今注相違歟。但孫姫式云、浪花津之蘆菔 ‹略› 順和名云蘆菔大根也」など。 〇此花(このはな)=①(「このはな(木花)①」から転じて)桜の花の雅称。(略) ②(「このはな(木花)②」から転じて)梅の花の雅称。③ ‹略› 親王の異称。④ ‹略›菊の花の雅称。 ⑤江戸時代の酒の銘柄。転じて、酒の異称。(略) 匂草(においぐさ)=植物「うめ(梅)」の異名。《季・春》 *蔵玉集「‹堀川院異名›吉野草 桜 ‹同› 匂草 梅」 〇初名草(はつなぐさ)=寒梅の異称。《季・春》 *蔵玉集「万代に咲る中にも初名くさ春を待たでや花を見るらん」 *譬喩尽‐一「初無草(はつナぐさ)」 〇花の兄(はなのあに)=(四季の花のなかで他の花にさきがけて咲くところから)梅の異称。《季・春》 *梵燈庵主袖下集「花兄と申は梅の異名也、初春の発句にすべし。たとへば梅を花の兄と申事、万の草木の先に花開が故に、花の兄と申なり。」 *光悦本謡曲・難波「花の中にもはじめなれば、梅花を花乃兄共いへり」 〇春告草(はるつげぐさ)=植物「うめ(梅)」の異名。《季・春》 *藻塩草‐九・梅「 み吉野の春つげ草の花の色あらぬ梢にかかる白雲」 *俳諧・毛吹草‐二「梅 この花春告草」 *女中言葉「春つげ草 梅の事」 |
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14. | 江戸時代の随筆家・雑学者、山崎美成(やまざき・よししげ)の『三養雑記』巻四に、「好文木」という記事が出ています。(2019年5月25日付記) * 好文木 梅を好文木といふことは、軒端梅(のきばのうめ)の謠曲(うたひ)にありて人の知(しる)ことなれども、唐土(たうど)の書にはたえて見えざることなり、臥雲日件録(ぐわうんにつけんろく)にも見えたればふるく故事とすることゝおもはれたり、さてその來所は謠古抄(うたひこせう)に、好文木、晋起居注云哀帝讀書則四時隨之開華、故好文木(カウブンボク、シンノキキヨチユウニイフ、アイテイシヨヲヨムトキハ(スナハチ)シジコレニシタガヒテハナヲヒラク、ユヱニカウブンボク)と云(いふ)なり、また東見記に、梅云好文木故事在晋起居注、晋武好文則梅開、廢學則梅不開(ウメヲカウブンボクトイフコジシンノキキヨチユウニ、シンブブンヲコノム(スナハチ)ウメヒラク、ガクヲハイスレバ(スナハチ)ウメヒラカズ)云云とあり、武帝哀帝いづれか是(ぜ)なりや、説郛(せつふ)などにも起居注はくさぐさ收めたれど、好文木の事は見えず、 * 上記の本文は、国文学研究資料館のページに出ている東北大学附属図書館・狩野文庫マイクロの『三養雑記』(江戸・青雲堂英文藏、天保11年(1840)刊)によりました。「好文木」という記事は、巻四に出ています。 →国文学研究資料館 →東北大学デジタルコレクション・狩野文庫マイクロの 『三養雑記』巻四(113/139) 〇臥雲日件録(がうんにっけんろく)=室町時代中期の臨済宗の僧、瑞溪周鳳(ずいけい・しゅうほう)明徳2年(1392)~文明5年(1472)の日記。 〇説郛(せっぷ)=元末明初の陶宗儀による漢籍叢書。 |