資料165 常陸山之碑(第19代横綱常陸山の碑)




 

常陸山之碑

出羽海谷右衛門本姓ハ市毛初ノ名ハ谷後谷右衛門ト改ム明治七年一月十九日茨城縣水戸下市寶鏡院門前ニ生ル父高成母池上氏琴子家代々水戸藩主川侯ニ仕フ曽祖父谷右衛門日置流雪荷派ノ弓術ニ達シヨク一寸二分ノ強弓ヲ用フ弓翁ト號ス烈公ニ師範役タリ藤田東湖以下一藩ノ人士其門ニ集ル谷右衛門曽祖父ノ名ト共ニ其強力ヲ傳ヘ幼ニシテ膂力衆ニ超エタリ父高成資性剛毅才幹アリ射御書數ニ通ジ子弟ヲ教養スル嚴ニシテ法アリ谷右衛門已ニ小學校ヲ卒ヘテ中學校ニ入リ在學三年宿昔惘瀬了嶽瓮泪紺譽織單貪團暴丱峠派稙眛9蘯ガ東京専門学校ニ剣道ヲ教授シアルニ頼リ徐ニ入學ノ期ヲ待テリ高治其英氣溌剌俊邁ノ氣眉宇ノ間ニ見ルヽヲ視之ヲ試ミント欲ス一日竹刀ヲ執ツテ相搏ツ谷右衛門剛勇敢テ下ラズ蘯B業麕泪領藁魅殆灰却テ其體力ノ能ク幾于ナルヲ知ラントス一夕伴フテ龜戸天神ノ境内ニ到リ池畔ノ巨石重量四十貫ナルヲ指シ谷右能ク動カシ得ベキ乎ト問フ唯々トシテ之ヲ弄スル毬ノ如シ即チ更ニ其大ナルヲ以テスルニ之ヲ抱キ之ヲ捧ゲテ行ク事百歩顧ミ問フテ曰ク尚爲ス可キ乎ト静ニ之ヲ原位ニ復シ神色自若タリ而シテ其石ノ重量實ニ六十貫ヲ算ストイフ高治驚歎久之曰ク谷右汝力士タラザル乎ト笑ツテ答ヘズ相携ヘテ帰ル時ニ従兄渡邊治氏當代ノ政論家ニシテ茨城縣選出ノ代議士タリ朝野新聞主筆トシテ文名嘖々江湖ニ鳴ル谷右衛門ノ事ヲ傳聞シ亦力士タルヲ勧誘ス谷右衛門素之レ武門ノ出一世ノ士氣頽敗セルヲ慨シ之ヲ覺醒セントスルノ志アリ意ヤヽ動ク雖然父母未ダ許サズ内藤渡邊二氏爲ニ大ニ説ク處アリ明治二十四年春僅ニ許サレテ同郷ノ人先代出羽海運右衛門ノ門ニ入ル時ニ年歯十八義公老後退隠ノ地ナル西山ニ因ミ御西山ト稱シ其年五月場所初メテ土俵ニ上リ二十五年六月番附面序ノ口ニ其名ヲ現ス二十六年一月序ノ二段ニ進ミ二十七年一月場所師名ヲ襲ヒ常陸山ト改ム二十七年五月三段目ニ昇リ翌二十八年五月幕下ニ列スルニ至リシモ同年十月二十日谷右衛門心ニ期スル處アリ伊勢松坂ノ巡業地ヨリ脱シテ名古屋ニ走リ同地力士并ニ大坂力士ノ群ニ入リ其技ヲ練磨スル年餘東京ニ帰ル此時體肥エ骨太ク技倆亦大ニ上達シテ強勇無双嚮フ所前ナシ三十一年一月新ニ幕下大頭ニ附出サレテ土付カズノ好成績ヲ収メ同年五月拾兩大頭ニ進ミ翌三十二年一躍シテ幕内ニ入リ前頭四枚目ニ昇リ同五月場所同筆頭トナリ三十三年五月小結ヲ經ズシテ直ニ關脇ニ進ミ三十四年五月大関ニ昇進シ三十七年一月遂ニ横綱ヲ允許セラル谷右衛門父母ニ事ヘテ至孝ナリ両親老ヲ養フテ郷里ニ在ス偶々其疾メルヲ聞クヤ趨ツテ之ニ趣イテ枕席ニ侍シ藥餌自ラ任ジ他ヲ煩サズ日々東京ト水戸間ヲ往復シテ倦怠ナシ前年父歿スルヤ慟哭痛歎喪ニ服シテ出デズ聞ク者敬服セザルナシ常ニ曰ク我ハ孝子ナリ孝子ハ善事ヲ思フト又能ク弟妹ヲ慈ムコト深ク五弟一妹皆畏敬ス孝悌此ノ如シ亦其爻ニ厚ク交友悉ク悦服ス帝國軍艦淺間艦長八代六郎氏軍神廣瀬武夫氏之ト友トシ善ク終ニ兄弟ノ義ヲ盟フ谷右衛門騎馬ヲ能クシ又水府流水泳ノ達人ナリ而シテ其卓越進取ノ氣象ハ廣ク海外ノ事情ヲ究メント欲ス醫学博士北里柴三郎氏其志ヲ壯トシ深ク之ヲ慫慂ス明治四十年八月海ニ航シテ先ヅ米國ニ赴ク農医學博士高峰讓吉氏又其壯遊ヲ稱シ懇撫子ノ如シ白亞館ニ大統領ルーズヴエルト卿ニ謁シ携フル所ノ衛府ノ太刀一口ヲ贈ルル卿之ヲ待ツ慇懃款談刻ニ及ブ盖シ異例トス彼國ノ新聞紙競フテ其訪来ノ記事ヲ掲ゲ又特ニ其肖像印畫ヲ附録トシテ發刊セルモノアリ英佛獨露ヲ漫遊シテ翌四十一年三月帰ル歸来數年尚土俵ヲ勤メ大正三年五月先師出羽海ヲ襲名シ年寄ノ班ニ列ス大正四年五月推サレテ東京大角力協會取締ニ任ズ同年七月再度米國ニ遊ビ大ニ畫策スル所アリ三遊四遊ヲ圖ル時會々大正六年十一月國技館火アリ當時協會ノ内情未ダ振ハズ國内ノ經濟亦萎縮ノ状態ニ在リ谷右衛門此間ニ處シテ奮然トシテ起チ協員ヲ督勵シ空手能ク百萬ノ資ヲ収メ遂ニ同館再築ノ大事業ヲ完成ス江東ノ一角東洋唯一ノ大鐵傘形大建築物ハ正ニ是レ出羽海谷右衛門記念物タラズンバアラズ始メ谷右衛門力士トナリ其天稟ノ勇力ト豪邁ノ意氣ヲ發揮シテ入幕以来出場スルコト二十五場所百八十九番ノ相撲ニ勝ツコト百五十回引分二十二回預リ二回其敗レタルモノ僅ニ十五回英姿一度土俵ニ上ルヤ人皆目シテ必勝ノ力士トス出羽海谷右衛門ハ其力士時代ニ於テ豪勇絶倫ヲ謳歌サレ而シテ相撲協會ヲ主宰スルヤ無比ノ勲績ヲ貽ス信ニ稀世ノ大偉人ナリト称スベシ谷右衛門已ニ相撲界ニ入ル常ニ武士道ヲ尊重シテ專ラ持スルニ端正部下ニ莅ム嚴格ナリ濟輩爲ニ座ヲ正シテ之ヲ迎フ 皇族各宮殿下ノ國技館ニ相撲ヲ台覧アラセラルルヤ常ニ侍座其攻防ニ於ル虚實ヲ言上ス各宮殿下深ク其誠衷ヲ御感アラセラル曽テ相撲大鑑ヲ編シテ故實典例發達習慣等ヲ縷述シテ浩翰千餘頁ニ亘ル又甞テ門弟及ビ後進ノ爲ニ常陸山會ヲ組織シ相撲道ノ振作ヲ計ル故子爵秋元興朝氏故三宅碩夫氏故宮田哲雄氏故笹川三男三氏故山田喜久次郎氏故佐藤信郎氏及櫻井八四郎氏等深ク此擧ヲ賛シ大ニ之ヲ援助ス現ニ子爵秋元春朝氏會長タリ盖シ力士後援會ノ嚆矢ナリ門弟ヲ養成スル一千餘名就中最モ著ルヽ者大日本相撲協會取締出羽海梶之助同入間川七五郎故検査役秀ノ山與四郎横綱大錦夘一郎同栃木山守也同常ノ花寛市大関九州山十郎同對馬津彌吉同大ノ里萬助同常陸岩英太郎ヲ始メトシテ関脇小結ニ進ムモノ二十有餘名大正十一年四月英國皇儲殿下本邦ニ來訪アラセラレ川公爵邸ニ於テ國技相撲ノ台覧ノ際奔走盡力最モ努ム殿下特ニ握手ヲ賜ヒ其労ヲ犒ハセラル踰エテ六月三日病アリ博士國手十餘名極力治療ニ盡シタルモ天壽ヲ假サズ同月十九日午後一時溘焉トシテ本所相生町ノ居ニ歿ス享年四十有九生前遺言シテ曰ク人生死アリ予若シ死スルノ時必ズヤ我屍體ヲ解剖シ力士ノ體ノ組織ヲ知ラバ聊カ以テ斯道ニ貢献スルアルヲ得ベキ乎ト遺族旨ヲ守リ同月二十日慶應醫科大學ヨリ教授博士數名出會解剖ノ結果内臓諸般ノ構造及筋肉発達ノ常人ニ卓越セルヲ實證シテ相撲ガ生理上多大ノ効果アルヲ識認シ醫術上絶好ノ資料タルヲ得タリ同月二十二日遺骸ヲ郷里水戸市外酒門村ノ塋域ニ葬ル
今茲昭和十六年ハ歿後正ニ二十周年ニ該ル門下竝ニ水戸ノ有志相圖リテ此碑ヲ建テ追慕ノ衷懷ヲ陳ルト爾云フ   辛巳春日  辱知 九代目 治右衛門謹書

 

 


 

  

 

 

(碑陰)  

 

 

                          昭和十六年四月吉日建之

 

 


              
年 寄 
   出羽海梶之助 
根  岸  治 右 エ 門
   入間川七五郎 
尼ヶ崎  間 垣  末 吉
栃木山 春日野 剛 史  紫電竜  阿武松緑之助
常ノ花 藤 島  秀 光 釋迦ヶ嶽山 響 庄太郎
宇都宮 九 重  貴 昭 達ノ矢  君ヶ濱源之助
   千田川喜三郎 
大門岩  山 分 嘉エ門 
   立田川 好 永 
光  風   待乳山楯之丞
外ヶ濱 峰 彌太郎 常陸岩  境 川 英太郎
常陸嶽 竹 縄  理 一 伊勢錦  清見瀉 又 藏
新  海 荒 磯  幸 藏 洋ノ花  中 立 虎之助
武蔵山 出來山    武 常陽山  稲 川 七兵衛
和歌島 関ノ戸 三 郎 出羽ケ嶽田子ノ浦文次郎
         
出羽ノ花 武蔵川 國 市 

              幕 内
大関 安藝ノ海節男  同 綾 若  眞 生
 同   五ツ島名良男  同 神東山  忠也
関脇 肥州山  榮  同 両 國 梶之助
小結 出羽湊  利吉  同 松ノ里  直市
前頭 笠置山 勝一  同 鹿島洋  起市
 同  九州山  義雄  同 十三錦  市松
 同  龍王山   光   同 駒ノ里  秀雄
 同  櫻 昇  利 一  同 大邱山  高祥
 同  大和錦  幸男  同 陸奥ノ里敏男
 同  綾 昇  竹 藏  同 倭 岩 英太郎
 同  藤ノ里    藏  同 四海波好一郎
 同  相撲川 佶 延  

 

 

 

       十 両 
  前頭 八方山   計
   同   豊 島 雅 男
    同   武ノ里 武三
    同   白 鷲 政 雄
    同   雷 門 嘉 吉
    同   山陽山喜久光
    同   雲仙嶽 光徳
    同   一 渡    明
    同   鐘
渕 四郎
       
行 司    
      式 守 伊之助
      木 村 善之輔
      木 村 善太郎
      式 守 伊三郎
      木 村  良 雄  

           水戸有志
    塙    七平 原      寛
   鈴木剛次郎 高田    利
   小柴巳之助 加藤  虎雄
   丸山徳三郎 竹内權兵衛
   三宅   保 酒泉彦太郎
   江幡  保男 上野  邦重
   堤 孝三郎 町田  觀柳
   岸     勇 鈴木  錬平
   小林  久吉 中田彦太郎
   鹽原  熊吉 菊池源一郎
  秋元    正 小林彦右衛門
  長瀬  精 佐藤  晩香
  弓削  徳次 
東京稲葉 晴

 

 

 

 

 

                      設計施工者
                         東京東両國
                    青木庄太郎
 

 

 

 

 

 

  

      (注) 1. 「常陸山之碑」は、水戸市宮町の東照宮境内にあります。碑は、碑文にあるように、
         昭和16年、常陸山の没後20周年にあたって建てられました。 
        2. 碑の本文の上部に、右書き
(文字を右から左へ書くこと)で「常陸山之碑」と書いてあり、そ
         の左端に「海軍大将竹下勇」と縦書きで揮毫者の名前が書いてあります。碑の本文
         の筆者は、碑面にあるように、出羽ノ海部屋9代目治右衛門です。
        3. 碑文は、1行90字、全29行です。碑の大きさは、下記の本山桂川氏の紹介文にあ
         るように、高さ2丈5尺、幅1間余の大きなものです。
               4. 本山桂川氏の『金石文化の研究 第八集』(金石文化研究所、昭和26年6月10日
         印刷発行)に、碑の全文が掲載されています。 
               5. 上記の碑の本文は、本山桂川氏の『金石文化の研究 第八集』に載せてある本文
         と、東照宮の宮司さんから頂いた「常陸山と記念碑について」というプリントのコピーを
         参考に、直接碑にあたって確認の上記載しました。東照宮の宮司さんには、ここに更め
         て御礼申 し上げます。
        6. 本文中の漢字について。
          学・學、称・稱、関・關、医・醫などの漢字は、できるだけ碑文に合わせるようにしまし
         たが、すべてが碑文の字体通りになっているわけではありません。
          なお、本文中に「溌」としてある漢字(英氣溌剌)は、「さんずい+發」の字体が使って
         あるのですが、うまく表示できないために、止むを得ず「溌」にしてあることをお断りして
         おきます。  
        7. 碑文の本文について、いくつかの注をつけておきます。
         (1)「俊ノ氣眉宇ノ間ニ見ルヽヲ」の「見ルヽ」は、「あらわ(現)るる」と読むものと思
           われます。
         (2)「其體力ノ能ク幾于ナルヲ」の「于」は、どうとるのでしょうか。
         (3)「亦其爻ニ厚ク交友悉ク悦服ス」の「爻」は、「音、コウ。まじわる、の意。」辞書に
           よっては、「=交」としたものもあります。
         (4)「携フル所ノ衛府ノ太刀一口ヲ贈ルル」の「贈ルル」は、「贈ラル」とあるべきところ
           でしょうか。
         (5)「部下に莅ム嚴格ナリ」の「莅」(のぞむ)は、碑には「草かんむり+泣」という字体
           になっています。
         なお、読み方について、種々ご意見をお寄せ頂ければ幸いです。
        8. 碑陰は、右に「昭和十六年四月吉日建之」と縦に書いてあり、その左に、上から順に
         「年寄」、次の段に「幕内」、その下に「十両」と「行司」、その下に「水戸有志」が書かれ
         ています。
               9. 碑文中に「小學校ヲ卒ヘテ中學校ニ入リ在學三年宿昔惘瀬了嶽瓮泪紺譽織單貪團
                  出テ」とある「中學校」は、旧制水戸中学(正確には「茨城県尋常中学校」)、現在の水
         戸一高のことです。
              10. 『金石文化の研究 第八集』の本山桂川氏の紹介文に、次のように記されています。
         これは、昭和26年に書かれたものです。
            
寛永の名力士谷風の碑は仙台の東禅寺内に在るが、これに相対比すべき近代の名力士
            として「梅ヶ谷・常陸山」時代をつくった常陸山は水戸市の出身で、その墓も市外酒門村にあ
            る。昭和十六年、没後二十周年にあたり記念の碑が建てられた。高さ二丈五尺、幅一間余の
            巨碑である。もと宮下の国道に面して建てられたが、区画整理の施行により昭和二十五年秋、
            東照宮の丘上に移された。碑陰には「昭和十六年四月吉日建之」とあり、建立者として年寄
            出羽海梶之助を筆頭に、同入間川七五郎、春日野剛史、藤島秀光以下幕内四十四人、十両
            九人、行司式守伊之助以下五人及び土地の有志の名が刻んである。(中略)碑文は頗る長文
            であるが、新碑ながら仮名混りの文体で、甚だ興味深く読むことが出来る。戦後角力道復活の
            今日、これが全文を左に掲げるのも必ずしも意義なしとしない。

       
 11. 常陸山(ひたちやま)=第19代の横綱。水戸の人。本名、市毛谷右衛門。梅ヶ谷と
             ともに明治の相撲黄金時代を現出。1914年(大正3)引退、年寄出羽海を襲
             名。(1874〜1922)                     
(『広辞苑』第6版による)
         
 常陸山(ひたちやま)=(1874〜1922) 第19代横綱。本名市毛谷右衛門。茨城県
             出身。好敵手梅ヶ谷とともに大相撲の人気を高め、国技館開設の機運を作る。
             年寄出羽海を襲名。                  
   (『大辞林』第ニ版による)
       12. フリー百科事典『ウィキペディア』の
「常陸山谷右エ門」の項で、常陸山の年譜や紋付
         姿の肖像写真を見ることができます。(この写真をクリックすると大きくなります。)
       13.
『綱の系譜』というサイトで、「第19代横綱:常陸山谷右衛門」の化粧回し姿の写真
         を見ることができます。
       14.
『大相撲 記録の玉手箱』というホームページに、『相撲人名鑑』というページがあって、
         参考になります。
常陸山についても、詳しい紹介が出ています。
             
お断り: 残念ながら現在は見られないようです。(2017年11月1日) 
       
15. 式守伊之助著『常陸山谷右衛門─近代相撲を確立した郷土の“角聖”─』(筑波書林、1988
         年9月15日第1刷発行、ふるさと文庫の1冊)という本があります。
        16. 坂田暁風著『城東歴史散歩』(平成13年9月20日発行)に、「常陸山谷右衛門──
         角聖」という項目があり、参考になります。(同書、264〜277頁)
   
       17. 常陸山谷右衛門の「谷右衛門」の読み方は、「たにえもん」だと思っていましたら、
         上記の式守伊之助氏の本の奥付に「たにうえもん」となっていました。この読みは、著者
          の式守伊之助氏がお書きになったのか、編集部で付けたのかがはっきりしませんが、
         本文には読みが出ていないようです。(この他にも一部の本に、「たにうえもん」とした
         ものが見受けられます。)
          確かに左衛門「さえもん」に対して右衛門は「うえもん」ですし、「うえもん」を早く言うと
         「うぇもん」、つまり、「えもん」となるので、「たにうえもん」という表記もあるのかなあ、と
         も思いますが、昔はともかく、今は「たにうえもん」と書くと「ta_ni_u_e_mon」と読まれてし
         まいますから、「たにえもん」という表記がいいと思うのですが……。(昔は「たにゑもん」
         と書いたでしょうから、「taniwemon」と読んだ人もいたのでしょうか。)
          と、ここまで書いて、大修館書店の「漢字Q&Aコーナー」のことを思い出しました。もし
         かしたら、ここに出ているかと思ったら、やはり出ていました。《Q0331:石川五右衛門
         の「五右衛門」はどうやったら「ごえもん」と読めるのですか、「五(ご)」「右(え)」「衛(も)」
         「門(ん)」なのですか?》という質問です。これに対する答えは、「右衛門」で「えもん」と
         読むのだ、ということでした。詳しくは、大修館書店HP「燕館」別館『漢字文化資料館』 の
         「漢字Q&Aコーナー」で、
Q0331をご覧ください。
                
『漢字文化資料館』 → 「漢字Q&Aコーナー」
                               
→ 「Q&A検索」 → 「右衛門」と入力して検索  → Q0331 
          ということで、やはり「たにえもん」と読むのが正しい、ということです。
      18. 碑文の通りに改行した本文を、次に示します。1行が90字あるので、次の2行で実際の
        1行です。
       
常陸山之碑
      
出羽海谷右衛門本姓ハ市毛初ノ名ハ谷後谷右衛門ト改ム明治七年一月十九日茨城縣水戸下市寶鏡院門前ニ生
       ル父高成母池上氏琴子家代々水戸藩主川侯ニ仕フ曽祖父谷右衛門日置流雪荷派ノ弓術ニ達シ
      ヨク一寸二分ノ強弓ヲ用フ弓翁ト號ス烈公ニ師範役タリ藤田東湖以下一藩ノ人士其門ニ集ル谷右衛門曽祖父
       ノ名ト共ニ其強力ヲ傳ヘ幼ニシテ膂力衆ニ超エタリ父高成資性剛毅才幹アリ射御書數ニ通ジ子
      弟ヲ教養スル嚴ニシテ法アリ谷右衛門已ニ小學校ヲ卒ヘテ中學校ニ入リ在學三年宿昔惘瀬了嶽瓮泪紺譽織
       東都ニ出テ叔父内藤蘯ガ東京専門学校ニ剣道ヲ教授シアルニ頼リ徐ニ入學ノ期ヲ待テリ蘯
      其英氣溌剌俊邁ノ氣眉宇ノ間ニ見ルヽヲ視之ヲ試ミント欲ス一日竹刀ヲ執ツテ相搏ツ谷右衛門剛勇敢テ下ラ
       ズ蘯B業麕泪領藁魅殆灰却テ其體力ノ能ク幾于ナルヲ知ラントス一夕伴フテ龜戸天神ノ境内
      ニ到リ池畔ノ巨石重量四十貫ナルヲ指シ谷右能ク動カシ得ベキ乎ト問フ唯々トシテ之ヲ弄スル毬ノ如シ即チ
       更ニ其大ナルヲ以テスルニ之ヲ抱キ之ヲ捧ゲテ行ク事百歩顧ミ問フテ曰ク尚爲ス可キ乎ト静ニ
      之ヲ原位ニ復シ神色自若タリ而シテ其石ノ重量實ニ六十貫ヲ算ストイフ高治驚歎久之曰ク谷右汝力士タラザ
       ル乎ト笑ツテ答ヘズ相携ヘテ帰ル時ニ従兄渡邊治氏當代ノ政論家ニシテ茨城縣選出ノ代議士タ
      リ朝野新聞主筆トシテ文名嘖々江湖ニ鳴ル谷右衛門ノ事ヲ傳聞シ亦力士タルヲ勧誘ス谷右衛門素之レ武門ノ
       出一世ノ士氣頽敗セルヲ慨シ之ヲ覺醒セントスルノ志アリ意ヤヽ動ク雖然父母未ダ許サズ内藤
      渡邊二氏爲ニ大ニ説ク處アリ明治二十四年春僅ニ許サレテ同郷ノ人先代出羽海運右衛門ノ門ニ入ル時ニ年歯
       十八義公老後退隠ノ地ナル西山ニ因ミ御西山ト稱シ其年五月場所初メテ土俵ニ上リ二十五年六
      月番附面序ノ口ニ其名ヲ現ス二十六年一月序ノ二段ニ進ミ二十七年一月場所師名ヲ襲ヒ常陸山ト改ム二十七
       年五月三段目ニ昇リ翌二十八年五月幕下ニ列スルニ至リシモ同年十月二十日谷右衛門心ニ期ス
      ル處アリ伊勢松坂ノ巡業地ヨリ脱シテ名古屋ニ走リ同地力士并ニ大坂力士ノ群ニ入リ其技ヲ練磨スル年餘東
       京ニ帰ル此時體肥エ骨太ク技倆亦大ニ上達シテ強勇無双嚮フ所前ナシ三十一年一月新ニ幕下大
      頭ニ附出サレテ土付カズノ好成績ヲ収メ同年五月拾兩大頭ニ進ミ翌三十二年一躍シテ幕内ニ入リ前頭四枚目
       ニ昇リ同五月場所同筆頭トナリ三十三年五月小結ヲ經ズシテ直ニ關脇ニ進ミ三十四年五月大関
      ニ昇進シ三十七年一月遂ニ横綱ヲ允許セラル谷右衛門父母ニ事ヘテ至孝ナリ兩親老ヲ養フテ郷里ニ在ス偶々
       其疾メルヲ聞クヤ趨ツテ之ニ趣イテ枕席ニ侍シ藥餌自ラ任ジ他ヲ煩サズ日々東京ト水戸間ヲ往
      復シテ倦怠ナシ前年父歿スルヤ慟哭痛歎喪ニ服シテ出デズ聞ク者敬服セザルナシ常ニ曰ク我ハ孝子ナリ孝子
       ハ善事ヲ思フト又能ク弟妹ヲ慈ムコト深ク五弟一妹皆畏敬ス孝悌此ノ如シ亦其爻ニ厚ク交友悉
      ク悦服ス帝國軍艦淺間艦長八代六郎氏軍神廣瀬武夫氏之ト友トシ善ク終ニ兄弟ノ義ヲ盟フ谷右衛門騎馬ヲ能
       クシ又水府流水泳ノ達人ナリ而シテ其卓越進取ノ氣象ハ廣ク海外ノ事情ヲ究メント欲ス醫学博
      士北里柴三郎氏其志ヲ壯トシ深ク之ヲ慫慂ス明治四十年八月海ニ航シテ先ヅ米國ニ赴ク農医學博士睚讓吉
       氏又其壯遊ヲ稱シ懇撫子ノ如シ白亞館ニ大統領ルーズヴエルト卿ニ謁シ携フル所ノ衛府ノ太刀
      一口ヲ贈ルル卿之ヲ待ツ慇懃款談刻ニ及ブ盖シ異例トス彼國ノ新聞紙競フテ其訪来ノ記事ヲ掲ゲ又特ニ其肖
       像印畫ヲ附録トシテ發刊セルモノアリ英佛獨露ヲ漫遊シテ翌四十一年三月帰ル歸来數年尚土俵
      ヲ勤メ大正三年五月先師出羽海ヲ襲名シ年寄ノ班ニ列ス大正四年五月推サレテ東京大角力協會取締ニ任ズ同
       年七月再度米國ニ遊ビ大ニ畫策スル所アリ三遊四遊ヲ圖ル時會々大正六年十一月國技館火アリ
      當時協會ノ内情未ダ振ハズ國内ノ經濟亦萎縮ノ状態ニ在リ谷右衛門此間ニ處シテ奮
然トシテ起チ協員ヲ督
       勵シ空手能ク百萬ノ資ヲ収メ遂ニ同館再築ノ大事業ヲ完成ス江東ノ一角東洋唯一ノ大鐵傘形大
      建築物ハ正ニ是レ
出羽海谷右衛門記念物タラズンバアラズ始メ谷右衛門力士トナリ其天稟ノ勇力ト豪邁ノ意
       氣ヲ發揮シテ入幕以来出場スルコト二十五場所百八十九番ノ相撲ニ勝ツコト百五十回引分二十
      二回預リ二回其敗レタルモノ僅ニ十五回英姿一度土俵ニ上ルヤ人皆目シテ必勝ノ力士トス出羽海谷右衛門ハ
       其力士時代ニ於テ豪勇絶倫ヲ謳歌サレ而シテ相撲協會ヲ主宰スルヤ無比ノ勲績ヲ貽ス信ニ稀世
      ノ大偉人ナリト称スベシ谷右衛門己ニ相撲界ニ入ル常ニ武士道ヲ尊重シテ專ラ持スルニ端正部下ニ莅ム嚴格
       ナリ濟輩爲ニ座ヲ正シテ之ヲ迎フ 皇族各宮殿下ノ國技館ニ相撲ヲ台覧アラセラルルヤ常ニ侍
      座其攻防ニ於ル虚實ヲ言上ス各宮殿下深ク其誠衷ヲ御感アラセラル曽テ相撲大鑑ヲ編シテ故實典例發達習慣
       等ヲ縷述シテ浩翰千餘頁ニ亘ル又甞テ門弟及ビ後進ノ爲ニ常陸山會ヲ組織シ相撲道ノ振作ヲ計
      ル故子爵秋元興朝氏故三宅碩夫氏故宮田哲雄氏故笹川三男三氏故山田喜久次郎氏故佐藤信郎氏及櫻井八四郎
       氏等深ク此擧ヲ賛シ大ニ之ヲ援助ス現ニ子爵秋元春朝氏會長タリ盖シ力士後援會ノ嚆矢ナリ門
      弟ヲ養成スル一千餘名就中最モ著ルヽ者大日本相撲協會取締出羽海梶之助同入間川七五郎故検査役秀ノ山與
       四郎横綱大錦夘一郎同栃木山守也同常ノ花寛市大関九州山十郎同對馬津彌吉同大ノ里萬助同常
      陸岩英太郎ヲ始メトシテ関脇小結ニ進ムモノ二十有餘名大正十一年四月英國皇儲殿下本邦ニ來訪アラセラレ
       川公爵邸ニ於テ國技相撲ノ台覧ノ際奔走盡力最モ努ム殿下特ニ握手ヲ賜ヒ其労ヲ犒ハセラル
      踰エテ六月三日病アリ博士國手十餘名極力治療ニ盡シタルモ天壽ヲ假サズ同月十九日午後一時溘焉トシテ本
       所相生町ノ居ニ歿ス享年四十有九生前遺言シテ曰ク人生死アリ予若シ死スルノ時必ズヤ我屍體
      ヲ解剖シ力士ノ體ノ組織ヲ知ラバ聊カ以テ斯道ニ貢献スルアルヲ得ベキ乎ト遺族旨ヲ守リ同月二十日慶應醫
       科大學ヨリ教授博士數名出會解剖ノ結果内臓諸般ノ構造及筋肉発達ノ常人ニ卓越セルヲ實證シ
      テ相撲ガ生理上多大ノ効果アルヲ識認シ醫術上絶好ノ資料タルヲ得タリ同月二十二日遺骸ヲ郷里水戸市外酒
       門村ノ塋域ニ葬ル
      今茲昭和十六年ハ歿後正ニ二十周年ニ該ル門下竝ニ水戸ノ有志相圖リテ此碑ヲ建テ追慕ノ衷懷ヲ陳ルト爾云
      フ   辛巳春日  辱知 九代目 治右衛門謹書
      19.水戸市酒門(さかど)町の酒門共有墓地にある「常陸山谷右衛門の墓碑銘」が、資料166に
         あります。
 
 


 
                                      
トップページ(目次) 前の資料へ 次の資料へ