資料158 斎藤茂吉の随筆から



       斎藤茂吉の随筆から


   アウチスムス

 自分には生来はにかむ性質があつて、児童の頃から親戚などに行つて、我儘な振舞をしたりすることは到底出来なかつた。この性質はあとを引いて、学生時代に友人の訪問する内村鑑三先生とか夏目漱石先生とかへは一度も訪問せずにしまつた。心中ひどく憧憬してゐてそんな工合である。幸田露伴先生には、少年の頃から常に自分の心裏を往来してゐて、やうやく対座し得たのは私が五十歳を過ぎてからのことである。
 それゆゑ人前で講演したりすると動悸がして敵(かな)はない。人に臆せて、あとで非常に疲労するのみではない、止せば好かつたといふ念慮が底から湧いて来て苦しむことが多い。
 大正六年長崎に行つて教員をした時は、精神病学と法医学とを受持ち、否応なしに講義せねばならなかつたので其処で幾分の修養を積み、学生の茶話会などの席上でも話することが出来た。それから大正十年に欧羅巴(ヨーロツパ)に渡り、墺太利(オーストリア)維也納(ウイン)に留学した。西洋人は一般に人に遠慮しない風俗習慣を持つてゐて、児童なども人にはにかまない。そこで私も自然的な訓練を経て、ただ一人で墺太利国内から独逸の方へ、大学の専門教室を廻り、論文や著書の上のみで知つてゐた教授に親しく会ひ、あらん限りの語学上の骨折をして少しづつ話合ふことが出来たのみならず、時には諧謔を交へることさへ出来た。しとやかな日本の道徳から行けば図々しいとも看られる程であるが、自分自身にとつてはなかなかの尊い修業であつた。
 大正十四年に帰朝して、当座はその修業を持ちこたへてゐたが漸く後戻りがはじまつて、人なかに出るのが厭になり、いつしか天然の山川にむかつて今までに覚えなかつた親愛を感じはじめた。または、映画館などの隅にゐて、美男美女の葛藤をただ傍観するのが好いやうになつた。してみれば人の世界では自分は生来役者でなくて観客としての役目になつてゐるやうであ。尊い欧羅巴での修業も所詮附焼刃に終つたと思へば心細いこと限りない。
 自分の接触する多くの病者の中には、特に外界に向つて過敏な感じを持つものが多い。部屋の隅で沈黙してゐる、真夏でも布団を冠(かぶ)つて自分を保護する、亢ずれば他人から一寸でも触られると反抗憤怒する。この環境との閉鎖状態のひどいのを、プロイレル博士は、Autismusと名づけた。これは自分などの場合とは比較にもならず強いものであるが、自分はさういふ病者に同情の念を禁ずることが出来ない。何とかしたい何とかしたいといふ念がいつも附纏(つきまつ)はつてゐる。併しこれは宗教家などの持つ済度救抜の大度量から来てゐるのでなくて、投影された自分を見て、それに同情してゐるのだといふことになれば、やはり利己の結果なので誠に心細い訣合(わけあひ)である。
 そして一方この人間界には、宗教にたづさはる人、仏教でも基督教でも、実にもの柔かく円満無礙(むげ)の人が多い。これは必ずしも大徳・聖者といはれる人とは限らない、概ねさうである。これは仏なり神なりと同居してゐる人々であるからでもあらうが、仏門に帰する少年などの中には、環境に対して極めて弱い、寧ろアウチスムス的傾向を持つた者が必ずゐただらうと思ふが、彼等は修業のすゑに尊い境地に到達したものに相違あるまい。
 自分は、ある時比叡山上で少年僧が人に応待する径路を見、また樺太に行つたとき基督教伝道のありさまを見、如是の心境を積み重ねて行くうちにあの円満無礙に到り著くのかとおもふと、いまだ下手な応待ぶり、巧でない説教ぶりに対しても、何となし後光でも差して来るやうな心持になつたものである。
                         (「童馬小筆」より)


   蚤を飼ふ

 このごろは、ナフタリンだの何のと、種々様々な駆虫剤が便利に手に入ることが出来るので、蚤なども殆ど居なくなつたけれども、そのころは蚤が多くて毎夜苦しめられた。そのかはり、動物学で学んだ蚤の幼虫などは、畳の隅、絨毯の下などには幾つも幾つもゐたものである。私はある時その幼虫と繭と成虫とを丁寧に飼つて居たことがある。特に雌雄の蚤の生きてゐる有様とか、その交尾の有様とかいふものは普通の中等教科書には書いてないので、私は苦心して随分長く飼つて置いたことがある。飼ふには重曹とか舎利塩などのやうな広口の瓶の空いたのを利用して、口は紙で蔽うてそれに針で沢山の穴をあけて置く。また時々血を吸はせるには、太股(ふともも)のところに瓶の口を当てて置くと蚤が来て血を吸ふ。さういふときに交尾状態をも観察し得るので、あの小さい雄の奴がまるで電光の如くに雌に飛びつく。もはや清潔法は完備し、駆虫剤の普及のために蚤族も追々減少して見れば、さういふ実験をしようとしても今は困難であるから、私の子どもなどはもうかういふことは知らないでゐる。
                     (「三筋町界隈」八の一部)


       グレエの詩

 昭和二年に岩波書店から発行になつた、“Kusamakura”といふ英文の本があつて、これは漱石先生の短篇小説「草枕」を佐々木梅治先生が訳されたもので「文鳥」の英訳をも添へて居る。
 この本は、例へば「草枕」その七の、『春の夜の灯(ひ)を半透明に崩し拡げて、部屋一面の虹霓(にじ)の世界が濃(こま)やかに揺れるなかに、朦朧と、黒きかとも思はるる程の髪を暈(ぼか)して、真白な姿が雲の底から次第に浮き上がつて来る。其輪郭を見よ』といふのを、“The ghastly lamp shedding a kalf‐transparent light to dispel the darkness of the spring eve transforms itself, together with the vapour, into a glimmering rainbow bridging east to west. In the midst of which a snow white figure with light black hair waving down to the sloping shoulders dimly reveals itself. Behold how it looks! ”と訳してゐるのを見ればその大体を想像することが出来るであらう。
 然るにもう一つあるこの本の特質は、平福百穂画伯が九枚の插絵を描いてゐることである。それを幾色摺(ずり)かの木版で、上等の画仙紙に印刷してあるので、縦(たと)ひ一枚でも珍らしいのに、能くも斯(か)く多く描かれたものだといふ感を起さしめるものである。それから表紙の装幀も画伯みづからして居られる。どうして画伯がこのやうに插絵を多く描かれたかは下のくだりに見えてゐる。
 翻訳者の佐々木先生は中学校で私等の英語の先生であつた。中学以来打絶えて、音信も出来ずにゐたのであつたが、昭和元年になつて突然先生が青山の私の家を訪ねられた。その時は私の病院が火難に逢ひ、未(ま)だ復興も出来ずにゐた状態にあつたので、私は玄関で先生と対談した。何せ二十年余もお会ひ申さぬので、先づ久闊を叙したが、先生は私の咏んだ歌だの、随筆などを読まれては私のことを思出して呉れられるといふことであつた。それから先生はホトトギス派の俳句を学んで、もう相当の数作つて居られるといふことでもあつた。
 『けふまゐつたのは、君は百福さんと御懇意の様子だが、ひとつお願があるのだ。僕は漱石のあの草枕だね、君も読んだらう、あの草枕を英訳して、岩波から出して貰はうとおもつてゐるんだが、百福さんに插絵を描いてもらひたいとおもつてね、ひとつ君に紹介状を書いてもらつて、都合ならこれから早速にでも押しかけて行きたいんだが、よろしく頼みますよ』
 かういふお話であつたので、兎に角私は画伯宛の書面を書き、先生と私との関係などいろいろと書いてまげても御聴可になるやうにも書添へたのであつた。
 私の紹介状も幾らか役に立つたことを後日画伯からも聞いたが、漱石、岩波、御本人と三拍子揃つて画伯の気持に合つたと見えて、本は昭和二年の七月に出版になつた。英文のことだから能くは分からぬが、外国人なども相当に読んだのではなからうかと推察せられるのであつた。然るに佐々木先生は中一年おいて昭和四年の八月十一日に逝去せられた。通知がないので告別式にも行かずにしまつたが、この本は唯一の先生の遺著のやうな姿となつて残つた。
 先生は会話が得手(えて)で、文法のことなどは余りやかましく云はれなかつた。そのころ正則英語学校にも教鞭を執つて居られたが、斎藤校長の文法主義を評して、Grammar !  Grammar !  Nothing but grammar ! などと云つて居た。
 そのころ私等の習つてゐる読本の中に、トオマス・グレエの悲歌(Elegy, written in the country churchyard)があつた。さうすると先生はそれを訳読したあとで、英詩の朗読法に従つてその詩を生徒等に諳記せしめた。生徒等は未だ少年で物覚えの好いころなので、殆ど皆の生徒があの詩を諳(そら)で覚えるまでになつて居た。
    Full many a gem of purest ray serene
      The dark unfathom'd caves of ocean bear;
      Full many a flow'r is born to blush unseen,
      And waste its sweetness on the desert air. 
といふのがその一節である。このグレエの悲歌は有名な詩なので、明治十五年発行になった「新体詩鈔」の中には、矢田部良吉(尚今居士)が、「グレー氏墳上感懐の詩」として載せてあるから、記念のため、この一節の訳を次に記しとどめる。
  深き水底(みなそこ)求むれば  輝く珠も有るぞかし
  高き峯をば尋ぬれば     かをる木草の多けれど
  千代の八千代の昔より      人に知られで過ぎにけり
 生徒等は学窓を出でて、それから銘々の職に即(つ)いて、齢(よはひ)も六十に近づきつつあつた。日の要求も慌しいので、中学で諳記させられたグレエの悲歌のことなどは誰ひとり想起するものはないと謂つて好かつた。
 然るに昭和十二年の同窓会のとき、──中学の同級会は折々ある──さうだ支那事変がはじまつて程経つた初冬の夜であつた。銘々が中学時代のことを追想したとき、佐々木先生の逝去の話が出て、それからあの朗読法で諳記させられたトオマス・グレエの悲歌の話も出た。
 ところが陸軍省医務局長小泉軍医中将はそのとき、このグレエの詩についておもしろい話をした。『あの時無理無理諳記させられたらう、僕は諳記物は得意でないので、いやで溜(た)まらなかつたが、それでも為方(しかた)なしに諳記したよ。ところが面白いんだ』と、かう前置をして話し出した。
 世界戦が聯合軍側の勝利に帰して、独逸を監督する位置となつて、伯林(ベルリン)のホテル・カイゼルホーフにも日本監督事務所があつたほどで、日・英・仏・米の軍人は独逸に対して非常な威力を示し得る得意の状況に置かれて居る時である。
 小泉君はそのころまだ軍医大佐であつたが、聯合軍側の将校の一団と共に独逸のケルンに行つた時であつた。晩餐の卓は何かの祝日のために特別の宴を設けられたのであつたが、各国の将校どもは卓上演説をする、隠し芸のやうなものをやる、吟咏をやるといつた調子で、小泉君にも何かやれとしきりに薦めるが、独逸仕込みの学問系統にある小泉君は、英仏語を以て流暢に意志を発表することもさう容易でなく、やや渋つてゐたが、ふと中学時代に諳記させられたグレエの詩のことをおもひ出して、それを英仏の将校のまへで朗々とやつた。『なあに、かまふことは無い、やらんよりは好いとおもつてね』と小泉君は云つたが、“Let not ambition mock their useful toil, / Their homely joys, and destiny obscure”などといふあたりからはじめて、“The boast of Heraldry, the pomp of Pow'r / And all that Beauty, all that Wealth e'er gave/ A wait alike th' inevitable hour, / The paths of glory lead but to the grave”に至り、其れから前に引いた、Full many a gem の一節に及んだが、英国の将校などははじめは瞠目してゐたが、飛立つて驚き、割れるやうな拍手を浴せられたのであつた。
『奴等は何でも大に驚いた風だつたよ。……僕を学者か何かのやうにおもつてね、……またやれまたやれなんか云ひやがつてね、……為方がないから、また、Let not ambition とやつたつけ……』
 この話はたいへんに面白かつた。小泉君のつもりでは行き当りばつたりにやつたのだが、英国や米国の将校の心になつて見れば、一語一語に意味があり、独逸に対する諷刺にもなるし、詩は専門的に一流の詩だし、本場の将校等の感服したのも無理ではなかつた。
 この話は実に面白かつた。さうして期せずして佐々木先生に対する追悼の会にもなつて、私の身にも沁みたので、忘れてしまはぬうちに書きとどめて置かうとおもつたのであつた。(昭和十三年十月)
  


  (注) 1.  上の本文は、『斎藤茂吉選集 第11巻 随筆』(1981年11月27日第1刷発行)によりました。ただし、ルビは一部を残してほぼ省略しました。           
    2.  初出は、巻末の「初出一覧」によると、「童馬小筆」は『中央公論』昭和12年4月、「三筋町界隈」は『文藝春秋』昭和12年1月、「グレエの詩」は『砂石』昭和16年4月となっています。    
    3.   「蚤を飼ふ」(蚤を飼う)という見出し(題)は、引用者が仮に付けたもので、原文にはありません。この文章は、「三筋町界隈」の「八」の一部です。
 『斎藤茂吉全集 第7巻』随筆3(岩波書店、1975年初版発行)に、「蚤」という文章があり、青空文庫で読むことができます。(ただし、新字新仮名表記です。)
 青空文庫 → 斎藤茂吉「蚤」
   
    4.  「アウチスムス」の中の「修業」・「応待」は、それぞれ「修行」・「応対」がよいと思われますが、原文のままにしてあります。    
    5.  トーマス・グレイの詩を矢田部良吉(尚今)が訳した「グレー氏墳上感懐の詩」が、資料185にあります。
  → 資料185「グレー氏墳上感懐の詩」
   
           







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