資料122 李景亮「人虎伝」(『唐代伝奇』による) 



        人 虎 傳        李 景 亮

隴西李徴皇族子家於虢略徴少博學善屬文弱冠從州府貢焉時號名士天寶十載春於尚書右丞楊沒榜下登進士第後數年調補江南尉徴性疎逸恃才倨傲不能屈跡卑僚嘗鬱鬱不樂毎同舎會既酣顧謂其群官曰生乃與君等爲伍耶其寮佐咸嫉之及謝秩則退歸閉門不與人通者近歳餘後迫衣食乃具粧東遊呉楚之閒以干郡國長吏呉楚人聞其聲固久矣及至皆開館以俟之宴遊極歡將去悉厚遺以實其囊橐徴在呉楚且周歳所獲饋遺甚多西歸虢略未至舎於汝墳逆旅中忽被疾發狂鞭捶僕者僕者不勝其苦如是旬餘疾益甚無何夜狂走莫知其適家僮跡其去而伺之盡一月而徴竟不囘於是僕者驅其乘馬挈其囊橐而遠遁去至明年陳郡袁傪以監察御史奉詔使嶺南乘傳至商於界晨將發其驛吏白曰道有虎暴而食人故過於此者非晝而莫敢進今尚早願且駐車決不可前傪怒曰我天子使衆騎極多山澤之獸能爲害耶遂命駕去行未盡一里果有一虎自草中突出傪驚甚俄而虎匿身草中人聲而言曰異乎哉幾傷我故人也傪聆其音似李徴傪昔與徴同登進士第分極深別有年矣忽聞其語既驚且異而莫測焉遂問曰子爲誰得非故人隴西子乎虎呻吟數聲若嗟泣之状已而謂傪曰我李徴也君幸少留與我一語傪即降騎因問曰李君李君何爲而至是也虎曰我自與足下別音問曠阻且久矣幸喜得無恙乎今又去何適向者見君有二吏驅而前驛隷挈印囊以導庸非爲御史而出使乎傪曰近者幸得備御史之列今乃使嶺南虎曰吾子以文學立身位登朝序可謂盛矣況憲臺清峻分糾百揆聖明愼擇尤異於人心喜故人居此地甚可賀傪曰往者吾與執事同年成名交契深密異於常友自聲容閒阻時去如流想望風儀心目倶斷不意今日獲君念舊之言雖然執事何爲不我見而自匿於草莽中故人之分豈當如是耶虎曰我今不爲人矣安得見君乎傪即詰其事虎曰我前身客呉楚去歳方還道次汝墳忽嬰疾發狂走山谷中俄以左右手據地而歩自是覺心愈狠力愈倍及視其肱髀則有釐毛生焉又見冕衣而行於道者負而奔者翼而翺者毳而馳者則欲得而啗之既至漢陰南以饑腸所迫値一人腯然其肌因擒以咀之立盡由此率以爲常非不念妻孥思朋友直以行負神祇一日化爲異獸有靦於人故分不見矣嗟夫我與君同年登第交契素厚今日執天憲耀親友而我匿身林藪永謝人寰躍而吁天俛而泣地身毀不用是果命乎因呼吟咨嗟殆不自勝遂泣傪且問曰君今既爲異類何尚能人言耶虎曰我今形變而心甚悟故有摚突以洓以恨難盡道耳幸故人念我深恕我無状之咎亦其願也然君自南方囘車我再値君必當昧其平生耳此時視君之軀猶吾幾上一物君亦宜嚴其警從以備之無使成我之罪取笑於士君子又曰我與君眞忘形之友也而我將有所託其可乎傪曰平昔故人安有不可哉恨未知何如事願盡敎之虎曰君不許我我何敢言今既許我豈有隱耶初我於逆旅中爲疾發狂既入荒山而僕者驅我乘馬衣囊悉逃去吾妻孥尚在虢略豈念我花爲異類乎君若自南囘爲賷書訪妻子但云我已死無言今日事幸記之又曰吾於人世且無資業有子尚稚固難自謀君位列周行素秉夙義昔日之分豈他人能右哉必望念其孤弱時賑其乏無使殍死於道途亦恩之大者言已又悲泣傪亦泣曰傪與足下休戚同焉然則足下子亦傪子也當力副厚命又何虞其不至哉虎曰我有舊文數十篇未行於代雖有遺稿盡皆散落君爲我傳録誠不敢列人之閾然亦貴傳於子孫也傪即呼僕命筆隨其口書近二十章文甚高理甚遠傪閲而歎者再三虎曰此吾平生之素也安敢望其傳乎又曰君銜命乘傳當甚奔迫今久留驛隷兢悚萬端與君永訣異途之恨何可言哉傪亦與之敍別久而方去傪自南囘遂專命持書及賵賻之禮寄於徴子月餘徴子自虢略來京詣傪門求先人之柩傪不得已具疏其事後傪以己俸均給徴妻子免饑凍焉傪後官至兵部侍郎


  (注) 1.  本文は、新釈漢文大系44『唐代伝奇』(内田泉之助・乾一夫著、明治書院・昭和46年9月25日初版発行)によりました。 ただし、返り点・句読点、改行等は、省略しました。
 同書には、訓読・口語訳・語釈などがついています。       
   
    2.   「人虎伝」には、『太平広記』所収のものと、『唐代叢書』系統のものとがあります。    
    3.  この新釈漢文大系所収の「人虎伝」の本文は、『太平広記』所収のものによっています。    
    4.   『唐代叢書』系統の本文である、『国訳漢文大成』の「晋唐小説」に収めてある「人虎伝」が、資料123にあります。
 → 資料123 李景亮「人虎伝」(『国訳漢文大成』による)
   
    5.  「この作は、『太平広記』によれば「李徴」と題し、『宣室志』(唐の張読撰)からとったことが記されている。今、本文は『太平広記』により、作品名及び撰者については、『人虎伝』李景亮撰とする『古今説海』(明の陸楫編)並びに『唐代叢書』(清の陳蓮塘編)の記載に従っておく」と、乾一夫氏の「解説」にあります。    
    6.   「人虎伝」は、中島敦の「山月記」の典拠となった作品として有名ですが、「山月記」が依拠したものは『太平広記』の本文ではなく、『唐代叢書』系統の本文です。この系統の本文には、後人が付加したと見られる部分や、「山月記」という題名の由来となったと思われる「渓山明月」という語を配した李徴の詩などが見られます。
 なお、中島敦の「山月記」が依拠した「人虎伝」は、『国訳漢文大成』の「晋唐小説」に収めてあるものによって見ることができます。
 [以上、(注)の2~5は、新釈漢文大系44『唐代伝奇』の乾一夫氏の「解説」及び「余説」によって記述しました。詳しくは、同書を参照してください。]      
   
    7.   『国訳漢文大成』の「晋唐小説」は、文学部 第12巻に収められています。大正9年刊の本の複版が、1955年(昭和30年)東洋文化協会から出ています。    
    8.   『唐代伝奇』所収の「人虎伝」は1386字、『国訳漢文大成』所収の「人虎伝」 は2015字で、後者が629字多くなっています。    
    9.   『高専実践事例集』というホームページの中に、「こんな授業を待っていた」というページがあり、その中に、東京工業高等専門学校教授・吉原英夫氏の「国語の現代文と古文・漢文の融合~『山月記』と『人虎伝』」という実践例があって、大変参考になります。
 この中で吉原氏は、<中島敦が依拠したのは、「山月記」に草むらでの対話や漢詩が見えるところから、『古今説海』か『唐人説薈』(引用者注:『唐代叢書』に同じ)である。 ただし、具体的にどの本によったのかは、中島の蔵書が散逸してしまっているので、分からない。国訳漢文大成『晋唐小説』(文学部第十二巻)で読んだのではないかとも言われているが、確証はない>としておられます。
   








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