資料101 唯円坊之碑(唯円の道場池の碑・碑文)



         唯圓坊之碑

慧日院大谷勝信師題額
河和田唯圓大德我宗祖親鸞聖人上足之弟子也以鴻才辯説有名歴事如信覺如兩宗主
闡明宗意殊詳安心旨趣初如信上人侍聖人之日大德述疑端受聖人之慈誨事詳于歎異
鈔世傳此鈔或係大德筆盖信上人滅後異義競起於是大德忘老顯上人口傳眞信傳有縁
知識之敎者歟延慶元年冬大德上洛謁覺如上人對善惡二業之問且述自他之事見于慕
歸繪詞有唯善者亦師事大德或云大德善之異母兄也善初名弘雅號大納言阿闍梨小野
宮少將入道具親之孫少將阿闍梨禪念房之子而仁和寺相應坊守助僧正弟子也隱遁住
河和田有妻子家甚貧正安元年覺慧師令善上洛住大谷南房事出于存覺上人一期記由
是觀之大德聖人滅後擁護法燈之輔弼闢邪顯正之干城也今此池大德所住道塲之舊墟
也名道塲池又心字池俗傳大部郷平太郎弟有平次郎者性暴戻由妻因縁深歸聖人名唯
圓聖人亦來于此説法云文明十三年城主春秋朝勝令第十世實了移竹内號泉溪寺春秋
氏滅子孫歸俗元禄二年德川光圀見什寶令第十五世性圓再興寺明年更名報佛寺尋移
春秋氏城墟内城之地十六年本堂成爾來相繼至第二十三世法弘今年當宗祖聖人六百
五十囘遠忌辰里人深慨遺跡之荒蕪胥謀啓荊蕀浚池植樹頗復舊觀且建石刻文傳于後
世其志可隨喜也現宗主彰如上人甞諭曰欲知眞諦門奥義須讀歎異鈔欲守俗諦門軌範
須繙蓮如上人御一代記聞書方今信仰復興求道之人無不知歎異鈔者然則可謂大德之
念力千載不磨也庶幾四海兄弟獲得同一信心以協念佛成佛是眞宗之祖意矣
明治四十四年辛亥祖忌後五日             後學近角常觀謹識
                            北條時雨 書


  (注) 1.  「唯圓坊之碑」は、水戸市河和田町の報仏寺の南方、約700mのところにある、「唯円の道場池」にあります。碑文にある通り、明治44年に建てられた碑です。
 唯円坊は、碑文にもあるように『歎異抄』の著者と目される人物であり、報仏寺開基の 僧でもあります。                
   
    2.  碑の上部に横書きで「唯圓坊之碑 勝信」と右から書いてあります(「勝信」は縦書き。
 碑文は勿論縦書きです。最初の行「慧日院大谷勝信師題額」の次に、本文が16行(1行36字)あり、最後に建碑の日付、碑文の撰文者名、書家の名前が2行に書かれています。(従って、本文の字数は、572字(36×16-4)ということになります。碑面の総字数は、上部の題額を除いて全19行、608字になります。)
   
    3.  上記の「唯圓坊之碑」の改行は、碑文の通りにしてあります。    
    4. お断り:碑の本文10行目、左から4字目の「亦」(「聖人亦來」の「亦」)は、碑には「毎」の初めの2画の右端をはねた形のものの下に「灬」(れんが)を書いた形の文字になっています。(この漢字は、島根県立大学 “e漢字” によりました。)    
    5.  碑の文中に出てくる「慕歸繪詞」「存覺上人一期記」は、(注)の18 に紹介してある 「龍谷大学電子図書館 (貴重書画像データベース)」 で、見る(読む)ことができます。    
    6.  碑文中に、「延慶元年冬大德上洛謁覺如上人對善惡二業之問且述自他之事見于慕歸繪詞」とありますが、「延慶元年」(1308)は「正應元年」(1288)が正しいようです。(注)の19 に引いた西本願寺蔵の『慕歸繪詞』(重要文化財)にも、「正應元年」となっています。(注)の18 に引いた「龍谷大学電子図書館(貴重書画像データベース)」で見られる龍谷大学学術情報センター所蔵の『慕歸繪詞』には、 「延應元年」(1239)となっているようです。    
    7.  碑陰には、「寄附連名」として寄附者の名前が、「河和田村 一金貮十五円 平戸義治」以下、金額とともに記してあります。    
    8.  碑の手前に建てられている「唯円の道場池」(関南沖・書)という解説の碑には、向かって左の側面に、

親鸞の直弟子で歎異抄の著者とされる唯円は、この地榎本に道場を開いて修行し、稲田の草庵からたびたび訪れて滞在した親鸞とともに布教活動をしたと伝えられている。今わずかに残る池は道場の池または心字の池と呼ばれたもので、二十三世法弘は唯円の六百五十年忌に当って池をさらい樹木を植え碑を建立した。

とあり、向かって右の側面に、
              平成二年三月設置
                水戸市教育委員会 
と刻まれています。
 ここに「唯円の六百五十年忌に当って」とあるのは、「親鸞の六百五十年忌に当って」 とするのが正しいのではないでしょうか。)             
   
    9.   傍らの「河和田八景」という解説板には、次のように書かれています。

      河和田八景
            天保年間選定(一八四二年頃)
道場池夜雨  
 この道場池は別名心字池とも言い、浄土真宗の宗祖親鸞聖人の弟子唯円大徳が、仁治元年(一二四〇)榎本のこの地に念仏の道場を開いた。鹿島より下野国(栃木県)への塩の道に面し、近くには市も立ったという。人々は道場で心身を清め、旅路の無事を祈った。
  念仏の声火を噴きし坊の跡
     あはれ葉麦の畑中にして
            吉野秀雄歌集より  
 河和田十勝にも、「榎本の自雨」と選ばれており、このあたりの雨景、特に夜の雨は風情があったのであろう。                                                 
             ゆたかな河和田をつくる会 

 解説板には「榎本の自雨」とあるのですが、これは「榎本の白雨」が正しいのではないでしょうか。葛飾北斎の『富嶽三十六景』に「山下白雨」があり、歌川広重の『東海道五拾三次』にも「庄野白雨」があります。もし「白雨」が正しいとしたら、「白雨」は夕立・俄か雨のことですから、解説の「夜の雨」は「白雨」とは合わないことになります。) 
   
    10.  唯円坊の入信については、『水戸市史 上巻』(水戸市役所、昭和38年10月5日発行・昭和41年5月30日第2刷発行)に、『報仏寺略縁起集』に載っているという次のような話が紹介してあります。

 唯円坊はもと北条修理之介平芳将の次男北条平次郎則義といったが、常に殺生を好み、放逸無慚の邪悪な人物であった。ところが反対にその妻は信心深い人で、親鸞に帰依し、夫の目を忍んでは稲田の草庵に参詣していた。この妻女があるとき親鸞にむかって、夫が仏法誹謗のものであるため、自分の家では念仏もできないと、その悲しさを訴えたので、親鸞はその志に感じ、帰命尽十方无碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)の十字名号を書き与えた。平次郎の妻はこれを大切に手箱の中に納め、夫の不在中に香華燈明を供えていたが、たまたま帰ってきた夫にその様子を見られてしまった。夫はまさしく密夫の艶書に相違ないと疑い、名号を懐中に逃げ出す女房を斬り殺して、遺体を竹藪に埋めて家にもどった。ところが、不思議にも殺した筈の女房が出迎えたので、平次郎はそれまでのわけを妻に物語った。それを聞いた女房が、自分の懐中を改めたところ、不思議なことに名号がない。そこで藪の中を探してみると、女房の死骸はなく、そこには帰命の二字から袈裟がけに斬られ、血汐に染まった十字名号があった。これを見てさすがの平次郎も自分の罪を深く恥じ入り、妻と連れ立って稲田の草庵へ参り、親鸞に入門して唯円坊と称したという。(同書、393~394頁)
   
    11.  『真宗大谷派(東本願寺)TOMO-NET』というホームページの「参拝のご案内」に「しんらんさまめぐり(親鸞聖人御旧跡案内)」のページがあり、そこに「唯円の道場池」と「報佛寺」の写真(各1葉)と紹介文があります。
       残念ながら現在は見られないようです。(2011年4月7日)
   
    12.   試みに、本文の書き下し文を示してみます。読み方については、さるお方のご教示を戴きました。記して謝意を表します。(なお、読み方についてご意見をいただければ幸です。)

慧日院(ゑにちゐん)大谷勝信(おほたに・しようしん)題額
河和田(かはわだ)の唯圓大德(ゆいゑん・だいとく)は、我が宗祖(しゆうそ)親鸞聖人上足(じやうそく)の弟子なり。鴻才(こうざい)辯説を以 て名有り。如信・覺如兩宗主(しゆうしゆ)に歴事す。宗意(しゆうい)を闡明(せんめい)し、殊に安心(あんじん)の旨趣を詳(つまび)らかにす。初め如信上人(によしん・しやうにん)、聖人(しやうにん)に侍するの日、大德疑端(ぎたん)を述べ聖人の慈誨(じくわい)を受けし事、歎異鈔に詳らかなり。世に傳ふ、此の鈔或 いは大德の筆に係はるか、と。盖(けだ)し、信上人(しん・しやうにん)の滅後、異義競(きそ)ひ起こる。是(ここ)に於て、大德老いを忘れ、上人(しやうにん)口傳(くでん)の眞信(しんしん)を顯(あらは)す。有縁(うゑん)の知識 の敎へを傳ふる者なるか。延慶元年の冬、大德上洛し、覺如上人に謁(えつ)して善惡(ぜんまく)二業(にごふ) の問ひに對(こた)へ、且つ自他を述べし事、慕歸繪詞(ぼきゑことば)に見ゆ。唯善なる者有り。亦、大德 に師事す。或いは云ふ、大德は善の異母兄なり、と。善、初めの名は弘雅、大納言阿闍梨と號す。小野宮少將・入道具親の孫、少將阿闍梨・禪念房の子にして、仁和寺相應坊・守助(もりすけ)僧正の弟子なり。隱遁して河和田に住す。妻子有り。家甚だ貧 し。正安元年、覺慧(かくゑ)師、善をして上洛せしめ、大谷南房に住せしむる事、存覺上人一期記(いちごき) に出づ。是(これ)に由りて之を觀れば、大德は聖人の滅後、法燈を擁護するの輔弼(ほひつ)にして、闢邪顯正の干城(かんじやう) なり。今、此の池は、大德所住の道塲の舊墟なり。道塲池又は心字池と名づく。俗傳に、大部郷(おほぶがう)の平太郎の弟に、平次郎なる者有り。性、暴戻(ぼうれい)なるも、妻の因縁に由りて深く聖人に歸す。唯圓と名づく。聖人も亦、此(ここ)に來(きた)りて説法すと云ふ。文明十三年、城主・春秋(はるあき)朝勝、第十世實了をして竹内 (たけのうち)に移らしめ、泉溪寺と號(なづ)く。春秋氏滅び、子孫俗に歸す。元禄二年、德川光圀什寶(じふほう)を見て、第十五世性圓をして寺を再興せしむ。明年、名を報佛寺と更(あらた)む。尋(つ)いで、春秋氏の城墟の内城(うちじやう)の地に移る。十六年、本堂成る。爾來、相繼いで第二十三世法弘に至る。今年、宗祖(しゆうそ)聖人六百五十囘遠忌(をんき)の辰(とき)に當たり、里人深く遺跡の荒蕪せるを慨(なげ)き、胥(あ)ひ謀 (はか)りて荊蕀(けいきよく)を啓(ひら)き、池を浚(さら)ひ樹を植う。頗(すこぶ)る舊觀に復す。且つ石を建て文を刻し、後世に傳ふ。その志、隨喜すべきなり。現宗主(しゆうしゆ)・彰如上人、甞て諭して曰はく、「眞諦門(しんたいもん)の奥義(あうぎ)を知らんと欲せば、須(すべか)らく歎異鈔を讀むべ し。俗諦門(ぞくたいもん)の軌範を守らんと欲せば、須らく蓮如上人御一代記聞書(ききがき)を繙(ひもと)くべし」と。方今、信仰復興し、求道(ぐだう)の人、 歎異鈔を知らざる者無し。然(しか)れば則ち、大德の念力、千載不磨(せんざいふま)と謂ふべきなり。庶幾(こひねが)はくは、四海の兄弟(け いてい)、同一信心を獲得(きやくとく)し、以て念佛成佛是(これ)眞宗の祖意に協(かな)はんことを。
明治四十四年辛亥祖忌後五日  後學近角常觀謹んで識す。
                   北條時雨  書す。

(「大德」・「宗主」の読みを、それぞれ「だいとく」「しゅうしゅ」としました。─2009年3月11日)      
   
    13.  「唯圓坊之碑」の撰文者・近角常観(ちかずみ・じょうかん)(明治3年・1870~昭和16年・1941)については、次の記述を参照してください。
 → フリー百科事典『ウィキペディア』「近角常観」の項
 → コトバンク「近角常観」の項
   
    14.   なお、近角常観の建てた「求道会館」(きゅうどうかいかん)の公式ホームページがあり、そこで「近角常観」 「建築」その他のページが見られます。 「求道会館」は、東京都指定有形文化財になっているそうです。

 また、『デジカメ散歩』というホームページがあり、そこでも「求道会館」の写真を見ることができます。(「長生礼賛」 ・「求道会館」・「求道会館・内部1」・「求道会館・内部2」・「求道会館・内部3」・「求道会館・内部4」)
 『デジカメ散歩』の「求道会館」は、現在は見られないようです。(2014年2月10日)
   
    15.  『真宗大谷派(東本願寺)』のホームページに、唯円が著したとされる「歎異抄」の紹介のページがあります。         
  残念ながらこれも現在は見られないようです。(2011年4月7日)       
   
    16.   大谷大学作成の『歎異抄の世界』というホームページがあり、そこで「歎異抄」を読むことができます。(写本 「端坊旧蔵 永正本」を画像で見ることもできます。)    
 また、そこには「歎異抄とは」「親鸞について」などのページもあり、参考になります。
   
    17.   龍谷蔵(龍谷大学図書館 貴重資料画像データベース)で、龍谷大学学術情報センター所蔵の『歎異鈔』や『慕歸繪詞』『存覺上人一期記』その他の写本を、画像で見る(読む)ことができ、大変貴重です。(画面をクリックすることで、拡大して見る(読む)ことができます。) 
 龍谷蔵(龍谷大学図書館 貴重資料画像データベース)
  → 『歎異鈔』(室町末期写本)
  → 『慕歸繪詞』(室町中期写本)
  → 『存覺上人一期記』(江戸時代写本)
   
    18.  『慕歸繪詞』は、中央公論社1990年9月20日発行の『続日本の絵巻 9』で、西本願寺蔵のものを読む(見る)ことができます。、編者は小松茂美氏です。同書の巻末の解説に、

慕帰絵詞は、本願寺三世覚如(1270~1351)の生涯を描いた伝記絵巻。現存十巻。京都の西本願寺に所蔵する。いま、重要文化財に指定されている。観応二年(1351)正月十九日、 82歳で没した父・覚如を追慕して、次男の慈俊従覚が同年十月に詞を撰述して制作されたもの。

とあります。 
 この西本願寺蔵の 『慕歸繪詞』によって、唯円坊の登場する場面を見てみますと、次のようになっています。(読み仮名は、『続日本の絵巻 9』によりました。)

將又、安心(あんじん)をとり侍るうへにも、猶(なお)、自他解了(げりょう)の程を決せんが爲に、正應(しょうおう)元年冬の頃、常陸國河和田唯円房と號せし法侶上洛しける時、對面して日來(ひごろ)不審の法文に於いて善惡二業(にごう)を決し、今度數多(あまた)の問題をあげて、自他數遍の談に及びけり。彼(か)の唯円大德(だいとこ)は(親)鸞聖人の面授なり。鴻才(こうさい)辯説の名譽ありしかば、これに對しても益々当流の氣味を添へけるとぞ。
   
    19.  『濁川の仏教&人生論ノート』というホームページがあり、そこに「仏教資料集」があって、そこでも「歎異抄」(現代かなづかい表記)を読むことができます。また、「仏教資料集」には、「歎異抄」以外の仏典や資料も収めてあって、大変参考になります。
   残念ながら現在は見られないようです。(2011年4月7日)

 ※ 濁川さんは全休と名を改め、『仏教ブログ〈聞其名号信心歓喜乃至一念〉』というブログを経て、『仏からの道』というブログを始められたそうです。(2023年8月7日現在)
   
    20.  水戸商工会議所の『郷土いいとこ再発見』というホームページの「史跡(神社・仏閣・遺跡・墓所)」の中に、「報仏寺」のページがあります。            
    21.  「唯円坊之碑」の碑文を書いた書家の北條時雨については、資料270「書家・北条時雨について」をご覧下さい。    
    22.  〇唯円(ゆいえん)=鎌倉中期、親鸞の弟子。武蔵楢山の城主であった鳥喰(とりばみ)の唯円と、常陸河和田の唯円と二人いるが、後者が「歎異抄」の編者と推定される。(『広辞苑』第6版による)
 〇唯円(ゆいえん)=生没年不詳。鎌倉中期の浄土真宗の僧。常陸の人。親鸞の直弟子として真宗門徒中でも重んじられ、覚如や、覚如のおじ弘雅(唯善)もその教えを受けた。親鸞の法語を集めた「歎異抄」は唯円の編といわれる。(『角川日本史辞典』第二版による)
   
    23.  「河和田の唯円」の「河和田」を「かわだ」と読ませる辞書がありますが、少なくとも現在は「かわわだ」と読んでいます。    






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