資料98 福沢諭吉『福翁自伝』(抄)
                       

 

     『福翁自傳』(抄)      福 澤 諭 吉
 

 

緒方の塾風 より

 

 

塾生の勉強 學問勉強と云ふことになつては、當時世の中に緒方塾生の右に出る者はなからうと思はれる其一例を申せば、私が安政三年の三月熱病を煩(わづら)ふて幸に全快に及んだが、病中は括枕(くゝりまくら)で坐蒲団か何かを括つて枕にして居たが、追々元の體に恢復して來た所で、只の枕をして見たいと思ひ、其時に私は中津の倉屋敷に兄と同居して居たので、兄の家來が一人ある其家來に、只の枕をして見たいから持て來いと云つたが、枕がない、どんなに捜してもないと云ふので、不圖思付いた。是れまで倉屋敷に一年ばかり居たが遂(つひ)ぞ枕をしたことがない、と云ふのは時は何時(なんどき)でも構はぬ、殆んど晝夜の區別はない、日が暮れたからと云て寝やうとも思はず頻りに書を讀んで居る。讀書に草臥(くたび)れ眠くなつて來れば、机の上に突臥(つゝぷ)して眠るか、或は床の間の床側(とこぶち)を枕にして眠るか、遂ぞ本當に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどゝ云ふことは只の一度もしたことがない。其時に始めて自分で氣が付て、「成程枕はない筈だ、是れまで枕をして寝たことがなかつたからと始めて氣が付きました。是れでも大抵趣が分りませう。是れは私一人が別段に勉強生でも何でもない、同窓生は大抵そ皆そんなもので、凡そ勉強と云ふことに就ては實に此上に爲(し)やうはないと云ふ程に勉強して居ました。
 それから緒方の塾に這入つてからも私は自分の身に覺えがある。夕方食事の時分に若し酒があれば酒を飲んで初更
(ヨヒ)に寝る。一寝(ひとね)して目が覺めると云ふのが今で云へば十時か十時過、それからヒョイと起きて書を讀む。夜明(よあけ)まで書を讀んで居て、臺所の方で塾の飯炊(めしたき)がコトコト飯を焚く支度をする音が聞えると、それを相圖に又寝る。寝て丁度飯の出來上つた頃起きて、其儘湯屋に行て朝湯に這入て、それから塾に歸つて朝飯を給(た)べて又書を讀むと云ふのが、大抵緒方の塾に居る間殆んど常極(じやうきま)りであつた。勿論衛生などゝ云ふことは頓と構はない。全體は醫者の塾であるから衛生論も喧しく言ひさうなものであるけれども、誰も氣が付かなかつたのか或は思出さなかつたのか、一寸でも喧しく云つたことはない。それで平氣で居られたと云ふのは、考へて見れば身體が丈夫であつたのか、或は又衛生々々と云ふやうなことを無闇に喧しく云へば却て身體が弱くなると思ふて居たのではないかと思はれる。

 

 

原本寫本會讀の法 それから塾で修業する其時の仕方は如何云ふ鹽梅であつたかと申すと、先づ始めて塾に入門した者は何も知らぬ。何も知らぬ者に如何して敎へるかと云ふと、其時江戸で飜刻になつて居る和蘭の文典が二册ある。一をガランマチカと云ひ、一をセインタキスと云ふ。初學の者には先づ其ガランマチカを敎へ、素讀を授ける傍に講釋をもして聞かせる。之を一册讀了(よみをは)るとセインタキスを又其通りにして敎へる。如何やら斯うやら二册の文典が解(げ)せるやうになつた所で會讀をさせる。會讀と云ふことは生徒が十人なら十人、十五人なら十五人に會頭が一人あつて、其會讀するのを聞て居て、出來不出來に依て白玉を附けたり黑玉を付けたりすると云ふ趣向で、ソコで文典二册の素讀も濟めば講釋も濟み會讀も出來るやうになると、夫れから以上は專ら自身自力の研究に任せることにして、會讀本の不審は一字半句も他人に質問するを許さず、又質問を試みるやうな卑劣な者もない。緒方の塾の藏書と云ふものは物理書と醫書と此二種類の外に何もない。ソレモ取集めて僅か十部に足らず、固より和蘭から舶來の原書であるが、一種類唯一部に限つてあるから、文典以上の生徒になれば如何しても其原書を寫さなくてはならぬ。銘々に寫して、其寫本を以て毎月六才位會讀をするのであるが、之を寫すに十人なら十人一緒に寫す譯けに行かないから、誰が先に寫すかと云ふことは籤で定めるので、扨其寫しやうは如何すると云ふに、其時には勿論洋紙と云ふものはない、皆日本紙で、紙を能く磨(すつ)て眞書(しんかき)で寫す。それはどうも埒(らち)が明かない。埒が明かないから、其紙に礬水(だうさ)をして、夫れから筆は鵞筆で以て寫すのが先づ一般の風であつた。其鵞筆と云ふのは如何云ふものであるかと云ふと、其時大阪の藥種屋か何かに、鶴か雁かは知らぬが、三寸ばかりに切た鳥の羽の軸を賣る所が幾らもある。是れは鰹の釣道具にするものとやら聞いて居た。價は至極安い物で、それを買て、磨澄(とぎす)ました小刀(こがたな)で以て其軸をペンのやうに削つて使へば役に立つ。夫れから墨も西洋インキのあられやう譯けはない。日本の墨壺と云ふのは、磨た墨汁を綿か毛氈の切布(きれ)に浸して使ふのであるが、私などが原書の寫本に用るのは、只墨を磨たまゝ墨壺の中に入れて今日のインキのやうにして貯へて置きます。斯う云ふ次第で、塾中誰でも是非寫さなければならぬから寫本はなかなか上達して上手である。一例を擧ぐれば、一人の人が原書を讀む其傍(そば)で、其讀む聲がちやんと耳に這入て、颯々と寫してスペルを誤ることがない。斯う云ふ鹽梅に讀むと寫すと二人掛りで寫したり、又一人で原書を見て寫したりして、出來上れば原書を次の人に廻す。其人が寫了ると又其次の人が寫すと云ふやうに順番にして、一日の會讀分は半紙にして三枚か或は四、五枚より多くはない。

 

 

自身自力の研究 扨その寫本の物理書醫書の會讀を如何するかと云ふに、講釋の爲人(して)もなければ讀んで聞かして呉れる人もない。内證で敎へることも聞くことも書生間の恥辱として、萬々一も之を犯す者はない。唯自分一人で以てそれを讀碎かなければならぬ。讀碎くには文典を土臺にして辭書に便る外に道はない。其辭書と云ふものは、此處(こゝ)にヅーフと云ふ寫本の字引が塾に一部ある。是れはなかなか大部なもので、日本の紙で凡そ三千枚ある。之を一部拵へると云ふことはなかなか大きな騒ぎで容易に出來たものではない。是れは昔長崎の出島に在留して居た和蘭のドクトル・ヅーフと云ふ人が、ハルマと云ふ獨逸和蘭對譯の原書の字引を飜譯したもので、蘭學社會唯一の寶書と崇められ、夫れを日本人が傳寫して、緒方の塾中にもたつた一部しかないから、三人も四人もヅーフの周圍に寄合つて見て居た。夫れからモウ一歩立上(たちのぼ)るとウェーランドと云ふ和蘭の原書の字引が一部ある。それは六册物で和蘭の註が入れてある。ヅーフで分らなければウェーランドを見る。所が初學の間はウェーランドを見ても分る氣遣(きづかひ)はない。夫ゆゑ便る所は只ヅーフのみ。會讀は一六とか三八とか大抵日が極つて居て、いよいよ明日が會讀だと云ふ其晩は、如何(いか)な懶惰生でも大抵寝ることはない。ヅーフ部屋と云ふ字引のある部屋に、五人も十人も群をなして無言で字引を引きつゝ勉強して居る。夫れから翌朝の會讀になる。會讀をするにも籤で以て此處から此處までは誰と極めてする。會頭は勿論原書を持て居るので、五人なら五人、十人なら十人、自分に割當てられた所を順々に講じて、若し其者が出來なければ次に廻す。又其人も出來なければ其次に廻す。其中で解(げ)し得た者は白玉、解し傷(そこな)ふた者は黑玉、夫れから自分の讀む領分を一寸でも滯りなく立派に讀んで了つたと云ふ者は白い三角を付ける。是れは只の丸玉の三倍ぐらゐ優等な印で、凡そ塾中の等級は七、八級位に分けてあつた。而(さう)して毎級第一番の上席を三ヶ月占めて居れば登級すると云ふ規則で、會讀以外の書なれば、先進生が後進生に講釋もして聞かせ不審も聞いて遣り至極深切にして兄弟のやうにあるけれども、會讀の一段になつては全く當人の自力に任せて構ふ者がないから、塾生は毎月六度づゝ試驗に逢ふやうなものだ。爾う云ふ譯けで次第々々に昇級すれば、殆んど塾中の原書を讀盡して云はゞ手を空(むなし)うするやうな事になる、其時には何か六かしいものはないかと云ふので、實用もない原書の緒言とか序文とか云ふやうな者を集めて、最上等の塾生だけで會讀をしたり、又は先生に講義を願たこともある。私などは即ち其講義聽聞者の一人でありしが、之を聽聞する中にも樣々先生の説を聞いて、其緻密なること其放膽なること實に蘭學界の一大家、名實共に違はぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り塾に歸て朋友相互に、「今日の先生の彼の卓説は如何だい。何だか吾々は頓に無學無識になつたやうだなどゝ話したのは今に覺えて居ます。
 市中に出て大に酒を飲むとか暴れるとか云ふのは、大抵會讀を仕舞つた其晩か翌日あたりで、次の會讀までにはマダ四日も五日も暇があると云ふ時に勝手次第に出て行たので、會讀の日に近くなると所謂月に六囘の試驗だから非常に勉強して居ました。書物を能く讀むと否とは人々の才不才にも依りますけれども、兎も角も外面を胡麻化して何年居たから登級するの卒業するのと云ふことは絶えてなく、正味の實力を養ふと云ふのが事實に行はれて居つたから、大概の塾生は能く原書を讀むことに達して居ました。
(この項以下略)

 

 

 

 

 

      始めて亞米利加に渡る

 

 

咸臨丸 ソレカラ私が江戸に來た翌年、即ち安政六年冬、德川政府から亞米利加に軍艦を遣ると云ふ日本開闢以來未曾有の事を決斷しました。扨その軍艦と申しても至極小さなもので、蒸氣は百馬力、ヒュルプマシーネと申して、港の出入に蒸氣を焚くばかり、航海中は唯風を便りに運轉せねばならぬ。二、三年前和蘭から買入れ、價は小判で二萬五千兩、船の名を咸臨丸(かんりんまる)と云ふ。其前安政二年の頃から幕府の人が長崎に行て、蘭人に航海術を傳習して其技術も漸く進歩したから、此度使節がワシントンに行くに付き、日本の軍艦もサンフランシスコまで航海と斯う云ふ譯けで幕議一決、艦長は時の軍艦奉行木村攝津守(きむらせつつのかみ)、これに隨從する指揮官は勝麟太郎(かつりんたらう)、運用方は佐々倉桐太郎(さゝくらきりたらう)、濱口(はまぐち)與[興]右衛門(ゑもん)、鈴藤勇次郎(すゞふぢゆうじらう)、測量は小野友五郎(おのともごらう)、伴鐵太郎(ばんてつたらう)、松岡磐吉(まつをかばんきち)、蒸氣は肥田濱五郎(ひだはまごらう)、山本金次郎(やまもときんじらう)、公用方には吉岡勇平(よしをかゆうへい)、小永井五八郎(こながゐごはちらう)、通辯官は中濱萬次郎(なかはままんじらう)、少年士官には根津欽次郎(ねづきんじらう)、赤松大三郎(あかまつだいざぶらう)、岡田井藏(をかだせいざう)、小杉雅之進(こすぎまさのしん)と、醫師二人、水夫火夫六十五人、艦長の從者を併せて九十六人。船の割にしては多勢の乘組員でありしが、此航海の事に就ては色々お話がある。
 今度咸臨丸の航海は日本開闢以來初めての大事業で、乘組士官の面々は固より日本人ばかりで事に當ると覺悟して居た處が、其時亞米利加の甲比丹
(かぴてん)ブルックと云ふ人が、太平洋の海底測量の爲めに小帆前船ヘネモコパラ號に乘て航海中、薩摩の大島沖で難船して幸に助かり、横濱に來て德川政府の保護を受けて、甲比丹以下、士官一人、醫師一人、水夫四、五人、久しく滯留の折柄、日本の軍艦がサンフランシスコに航海と聞き、幸便だから之に乘て歸國したいと云ふので、其事が定まらうとすると、日本の乘組員は米國人と一緒に乘るのは厭(いや)だと云ふ。何故(なぜ)かと云ふに、若し其人達を連れて歸れば、却て銘々共が亞米利加人に連れて行て貰たやうに思はれて、日本人の名譽に係るから乘せないと剛情を張る。夫れ是れで政府も餘程困つた樣子でありしが、到頭ソレを無理壓付(おしつ)けにして同船させたのは、政府の長老も内實は日本士官の伎倆を覺束なく思ひ、一人でも米國の航海士が同船したらばマサカの時に何かの便利にならうと云ふ老婆心であつたと思はれる。

 

 

木村攝津守 艦長木村攝津守と云ふ人は軍艦奉行の職を奉じて海軍の長上官であるから、身分相當に從者を連れて行くに違ひない。夫れから私はどうも其船に乘て亞米利加に行て見たい志はあるけれども、木村と云ふ人は一向知らない。去年大阪から出て來た斗りで、そんな幕府の役人などに縁のある譯けはない。所が幸に江戸に桂川(かつらがは)と云ふ幕府の蘭家の侍醫がある。其家は日本國中蘭學醫の總本山とでも名を命(つ)けて宜しい名家であるから、江戸は扨置き日本國中蘭學社會の人で桂川と云ふ名前を知らない者はない。ソレ故私なども江戸に來れば何は扨置き桂川の家には訪問するので、度々其家に出入して居る。其桂川の家と木村の家とは親類──極近い親類である。夫れから私は桂川に頼で、如何かして木村さんの御供をして亞米利加に行きたいが紹介して下さることは出來まいかと懇願して、桂川の手紙を貰て木村の家に行て其願意を述べた所が、木村では即刻許して呉れて、宜しい連れて行て遣らうと斯う云ふことになつた。と云ふのは、案ずるに、其時の世態人情に於て、外國航海など云へば、開闢以來の珍事と云はうか、寧ろ恐ろしい命掛(いのちが)けの事で、木村は勿論軍艦奉行であるから家來はある、あるけれども其家來と云ふ者も餘り行く氣はない所に、假初にも自分から進で行きたいと云ふのであるから、實は彼方でも妙な奴だ、幸(さいはひ)と云ふ位なことであつたらうと思ふ。直に許されて私は御供をすることになつた。

 

 

浦賀に上陸して酒を飲む 咸臨丸の出帆は萬延元年の正月で、品川沖を出て先づ浦賀に行た。同時に日本から亞米利加に使節が立て行くので、亞米利加から其使節の迎船(むかひせん)が來た。ポーハタンと云ふ其軍艦に乘て行くのであるが、其ポーハタンは後から來ることになつて、咸臨丸は先に出帆して先づ浦賀に泊つた。浦賀に居て面白い事がある。船に乘組で居る人は皆若い人で、もう是れが日本の訣別(オワカレ)であるから浦賀に上陸して酒を飲まうではないかと云出した者がある。何れも同説で、夫れから陸(をか)に上つて茶屋見たやうな處に行て、さんざん酒を飲でサア船に歸ると云ふ時に、誠に手癖の惡い話で、其茶屋の廊下の棚の上に嗽茶椀(うがひぢやわん)が一つあつた、是れは船の中で役に立ちさうな物だと思て、一寸と私がそれを盗で來た。其時は冬の事で、サア出帆した所が大嵐、毎日々々の大嵐、なかなか茶椀に飯を盛つて本式に喫(た)べるなんと云ふことは容易な事ではない。所が私の盗だ喫茶椀が役に立て、其中に一杯飯を入れて、其上に汁でも何でも皆掛けて、立て食ふ。誠に世話のない話で、大層便利を得て、亞米利加まで行て、歸りの航海中も毎日用ひて、到頭日本まで持て歸て、久しく私の家にゴロチャラして居た。程經て聞けば其浦賀で上陸して飲食ひした處は遊女屋だと云ふ。夫れは其當時私は知らなかつたが、さうして見ると彼の大きな茶椀は女郎の喫茶椀であつたらう。思へば穢ないやうだが、航海中は誠に調法、唯一の寶物であつたのが可笑しい。

 

 

銀貨狼藉 扨それから船が出てずつと北の方に乘出した。其咸臨丸と云ふのは百馬力の船であるから、航海中始終石炭を焚くと云ふことは出來ない。只港を出るとき這入るときに焚く丈けで、沖に出れば丸で帆前船、と云ふのは石炭が積まれますまい、石炭がなければ帆で行かなければならぬ。其帆前船に乘て太平洋を渡るのであるから、それはそれは毎日の暴風で、艀船(はしけぶね)が四艘あつたが激浪の爲めに二艘も取られて仕舞ふた。其時は私は艦長の家來であるから、艦長の爲めに始終左右の用を辨じて居た。艦長は船の艫(とも)の方の部屋に居るので、或る日朝起きていつもの通り用を辨じませうと思て艫の部屋に行た、所が其部屋に弗(ドルラル)が何百枚か何千枚か知れぬ程散亂して居る。如何したのかと思ふと、前夜の大嵐で、袋に入れて押入の中に積上げてあつた弗、定めし錠も卸してあつたに違ひないが、劇しい船の動搖で、弗の袋が戸を押破つて外に散亂したものと見える。是れは大變な事と思て、直に引返して舳(おもて)の方に居る公用方の吉岡勇平に其次第を告げると、同人も大に驚き、場所に駈付け、私も加勢して其弗を拾集めて袋に入れて元の通り戸棚に入れたことがあるが、元来船中にこんな事の起る其次第は、當時外國爲替と云ふ事に就て一寸とも考へがないので、旅をすれば金が要る、金が要れば金を持て行くと云ふ極簡單な話で、何萬弗だか知れない弗を、袋などに入れて艦長の部屋に藏めて置た其金が、嵐の爲めに溢れ出たと云ふやうな奇談を生じたのである。夫れでも大抵四十年前の事情が分りませう。今ならば一向譯けはない。爲替で一寸と送つて遣れば、何も正金を船に積で行く必要はないが、商賣思想のない昔の武家は大抵こんなものである。航海中は毎日の嵐で、始終船中に波を打上げる。今でも私は覺えて居るが、甲板の下に居ると上に四角な窓があるので、船が傾くと其窓から大洋の立浪(たつなみ)が能く見える。それは大層な波で、船體が三十七、八度傾くと云ふことは毎度の事であつた。四十五度傾くと沈むと云ふけれども、幸に大きな災もなく只其航路を進で行く。進で行く中に、何も見えるものはない其中で以て、一度帆前船に遇ふたことがあつた。ソレは亞米利加の船で、支那人を乘せて行くのだと云ふ其船を一艘見た切り、外には何も見ない。 

 

 

牢屋に大地震の如し 所で三十七日掛て桑港(さんふらんしすこ)に着た。航海中私は身體が丈夫だと見えて怖いと思ふたことは一度もない。始終私は同船の人に戯れて、「是れは何の事はない、生れてからマダ試みたことはないが、牢屋に這入て毎日毎夜大地震に遇て居ると思へば宜いぢやないかと笑て居る位な事で、船が沈まうと云ふことは一寸とも思はない。と云ふのは私が西洋を信ずるの念が骨に徹して居たものと見えて、一寸とも怖いと思たことがない。夫れから途中で水が乏しくなつたので布哇(はわい)に寄るか寄らぬかと云ふ説が起つた。辛抱して行けば布哇に寄らないでも間に合ふであらうが、極用心をすれば寄港して水を取て行く、如何しやうかと云ふたが、遂に布哇に寄らずに桑港に直航と斯う決定して、夫れから水の儉約だ。何でも飲むより外は一切水を使ふことはならぬと云ふことになつた。所で其時に大に人を感激せしめた事がある、と云ふのは船中に亞米利加の水夫が四、五人居ました其水夫等が、動(やゝ)もすると水を使ふので、甲比丹ブルックに、どうも水夫が水を使ふて困ると云たら甲比丹の云ふには、水を使ふたら直に鐵砲で撃殺して呉れ、是れは共同の敵ぢやから説諭も要らなければ理由を質問するにも及ばぬ、即刻銃殺して下さいと云ふ。理屈を云へば、其通りに違ひない。夫れから水夫を呼んで、水を使へば鐵砲で撃殺すから爾う思へと云ふやうな譯けで水を儉約したから、如何やら斯うやら水の盡きると云ふことがなくて、同勢合せて九十六人無事に亞米利加に着いた。船中の混雜はなかなか容易ならぬ事で、水夫共は皆筒袖の着物は着て居るけれども穿物(はきもの)は草鞋(わらぢ)だ。草鞋が何百何千足も貯へてあつたものと見える。船中はもうビショビショで、カラリとした天氣は三十七日の間に四日か五日あつたと思ひます。誠に船の中は大變な混雜であつた(桑港着船の上、艦長の奮發で水夫共に長靴を一足づゝ買て遣て夫れから大に體裁が好くなつた)。

 

 

日本國人の大膽 併し此航海に就ては大に日本の爲めに誇ることがある、と云ふのは抑も日本の人が始めて蒸氣船なるものを見たのは嘉永六年、航海を學び始めたのは安政二年の事で、安政二年に長崎に於て和蘭人から傳習したのが抑も事の始まりで、其業成つて外國に船を乘出さうと云ふことを決したのは安政六年の冬、即ち目に蒸氣船を見てから足掛け七年目、航海術の傳習を始めてから五年目にして、夫れで萬延元年の正月に出帆しやうと云ふ其時、少しも他人の手を藉らずに出掛けて行かうと決斷した其勇氣と云ひ其伎倆と云ひ、是れだけは日本國の名譽として、世界に誇るに足るべき事實だらうと思ふ。前にも申した通り、航海中は一切外國人の甲比丹ブルックの助力は假らないと云ふので、測量するにも日本人自身で測量する。亞米利加の人も亦自分で測量して居る。互に測量したものを後で見合せる丈けの話で、決して亞米利加人に助けて貰ふと云ふことは一寸でもなかつた。ソレ丈けは大に誇ても宜い事だと思ふ。今の朝鮮人、支那人、東洋全體を見渡した所で、航海術を五年學で太平洋を乘越さうと云ふ其事業、其勇氣のある者は決してありはしない。ソレ所ではない。昔々露西亞(ろしや)のペートル帝が和蘭に行て航海術を學んだと云ふが、ペートル大帝でも此事は出來なからう。假令(たと)ひ大帝は一種絶倫の人傑なりとするも、當時の露西亞に於て日本人の如く大膽にして且つ學問思想の緻密なる國民は容易になからうと思はれる。

 

 

米國人の歡迎祝砲 海上恙(つゝが)なく桑港に着いた。着くやいなや土地の重立たる人々は船まで來て祝意を表し、之を歡迎の始めとして、陸上の見物人は黑山の如し。次で陸から祝砲を打つと云ふことになつて、彼方から打てば咸臨丸から應砲せねばならぬと、此事に就て一奇談がある。勝麟太郎と云ふ人は艦長木村の次に居て指揮官であるが、至極船に弱い人で、航海中は病人同樣、自分の部屋の外に出ることは出來なかつたが、着港になれば指揮官の職として萬端差圖する中に、彼の祝砲の事が起た。所で勝の説に、ソレは迚も出來る事でない、ナマジ應砲などして遣(や)り傷(そこな)ふよりも此方は打たぬ方が宜いと云ふ。爾うすると運用方の佐々倉桐太郎は、イヤ打てないことはない、乃公が打て見せる。「馬鹿云へ、貴樣達に出來たら乃公の首を遣ると冷かされて、佐々倉はいよいよ承知しない。何でも應砲して見せると云ふので、夫れから水夫共を差圖して大砲の掃除、火藥の用意して、砂時計を以て時を計り物の見事に應砲が出來た。サア佐々倉が威張り出した。首尾克く出來たから勝の首は乃公の物だ。併し航海中、用も多いから暫く彼(あ)の首を當人に預けて置くと云て、大に船中を笑はした事がある。兎も角もマア祝砲だけは立派に出來た。
 ソコで無事に港に着たらば、サアどうも彼方の人の歡迎と云ふものは、ソレはソレは實に至れり盡せり、此上の仕樣がないと云ふ程の歡迎。亞米利加人の身になつて見れば、亞米利加人が日本に來て始めて國を開いたと云ふ其日本人が、ペルリの日本行より八年目に自分の國に航海して來たと云ふ譯けであるから、丁度自分の學校から出た生徒が實業に着いて自分と同じ事をすると同樣、乃公が其端緒を開いたと云はぬ斗の心地であつたに違ひない。ソコでもう日本人を掌
(てのひら)の上に乘せて、不自由をさせぬやうに不自由をさせぬやうにとばかり、桑港に上陸するや否や馬車を以て迎ひに來て、取敢へず市中のホテルに休息と云ふ其ホテルには、市中の役人か何かは知りませぬが、市中の重立つた人が雲霞の如く出掛けて來た。樣々の接待饗應。ソレカラ桑港の近傍に、メールアイランドと云ふ處に海軍港がある。其海軍港附屬の官舎を咸臨丸一行の止宿所に貸して呉れ、船は航海中なかなか損所が出來たからとて、船渠(どつく)に入れて修復をして呉れる。逗留中は勿論彼方で賄も何もそつくり爲て呉れる筈であるが、水夫を始め日本人が洋食に慣れない、矢張り日本の飯でなければ喰へないと云ふので、自分賄と云ふ譯けにした所が、亞米利加の人は兼て日本人の魚類を好むと云ふことを能く知て居るので、毎日々々魚を持て來て呉れたり、或は日本人は風呂に這入ることが好きだと云ふので、毎日風呂を立てゝ呉れると云ふやうな譯け。所でメールアイランドと云ふ處は町でないものですから、折節今日は桑港に來いと云て誘ふ。夫れから船に乘て行くと、ホテルに案内して饗應すると云ふやうな事が毎度ある。所が此方は一切萬事不慣れで、例へば馬車を見ても始めてだから實に驚いた。其處に車があつて馬が付て居れば乘物だと云ふことは分りさうなものだが、一見したばかりでは一寸と考が付かぬ。所で戸を開けて這入ると馬が駈出す。成程是れは馬の挽く車だと始めて發明するやうな譯け。

 

 

敷物に驚く  (いづ)れも日本人は大小を挾して穿物は麻裏草履を穿て居る。ソレでホテルに案内されて行て見ると、絨氈が敷詰めてある其絨氈はどんな物かと云ふと、先づ日本で云へば餘程の贅澤者が一寸四方幾干(イクラ)と云ふ金を出して買ふて、紙入にするとか莨入(たばこいれ)にするとか云ふやうなソンナ珍らしい品物を、八疊も十疊も恐ろしい廣い處に敷詰めてあつて、其上を靴で歩くとは、扨々途方もない事だと實に驚いた。けれども亞米利加人が往來を歩いた靴の儘で颯々と上るから此方も麻裏草履で其上に上つた。上ると突然(イキナリ)酒が出る。德利の口を開けると恐ろしい音がして、先づ變な事だと思ふたのはシャンパンだ。其コップの中に何か浮いて居るのも分らない。三、四月暖氣の時節に氷があらうとは思ひも寄らぬ話で、ズーッと銘々の前にコップが竝んで、其酒を飲む時の有樣を申せば、列座の日本人中で、先づコップに浮いて居るものを口の中に入れて膽を潰して吹出す者もあれば、口から出さずにガリガリ嚙む者もあると云ふやうな譯けで、漸く氷が這入て居ると云ふことが分つた。ソコで又煙草を一服と思た所で、煙草盆がない、灰吹がないから、其とき私はストーヴの火で一寸點(つ)けた。マッチも出て居たらうけれどもマッチも何も知りはせぬから、ストーヴで吸付(すひつ)けた所が、どうも灰吹がないので吸殻(すひがら)を棄てる所がない。夫れから懷中の紙を出して其紙の中に吸殻を吹出して、念を入れて揉(もん)で揉で火の氣のないやうに捩付(ねぢつ)けて袂に入れて、暫くして又後の一服を遣らうとする其時に、袂から煙が出て居る。何ぞ圖らん、能く消したと思た其吸殻の火が紙に移て煙が出て來たとは大に膽を潰した。都てこんな事ばかりで、私は生れてから嫁入をしたことはないが、花嫁が勝手の分らぬ家に住込んで、見ず知らずの人に取巻かれてチヤフヤ云はれて、笑ふ者もあれば雜談(ざふだん)を云ふ者もある其中で、お嫁さんばかり獨り靜にしてお行儀を繕ひ、人に笑はれぬやうにしやうとして却てマゴツイテ顔を赤くする其苦しさはこんなものであらうと、凡そ推察が出來ました。

 

 

磊落書生も花嫁の如し 日本を出るまでは天下獨歩、眼中人なし怖い者なしと威張て居た磊落書生も、始めて亞米利加に來て花嫁のやうに小さくなつて仕舞たのは、自分でも可笑しかつた。夫れから彼方の貴女紳士が打寄りダンシングとか云て踊りをして見せると云ふのは毎度の事で、扨行て見た處が少しも分らず、妙な風をして男女が座敷中を飛廻はる其樣子は、どうにも斯うにも唯可笑くて堪らない、けれども笑ては惡いと思ふから成るたけ我慢して笑はないやうにして見て居たが、是れも初めの中は隨分苦勞であつた。

 

 

女尊男卑の風俗に驚  一寸した事でも右の通りの始末で、社會上の習慣風俗は少しも分らない。或る時にメールアイランドの近處にバレーフォーと云ふ處があつて、其處に和蘭の醫者が居る。和蘭人は如何(どう)しても日本人と縁が近いので、其醫者が艦長の木村さんを招待したいから來て呉れないかと云ふので、其醫者の家に行た所が、田舎相應の流行家と見えて、なかなかの御馳走が出る中に、如何(いか)にも不審な事には、お内儀(かみ)さんが出て來て座敷に坐り込んで頻りに客の取持をすると、御亭主が周旋奔走して居る。是れは可笑しい。丸で日本とアベコベな事をして居る。御亭主が客の相手になつてお内儀さんが周旋奔走するのが當然(アタリマヘ)であるに、左りとはどうも可笑しい。ソコで御馳走は何かと云ふと、豚の子の丸煮が出た。是れにも膽を潰した。如何だ、マア呆返(あきれかへ)つたな、丸で安達(あだち)ヶ原(はら)に行たやうな譯けだと、斯う思ふた。さんざん馳走を受けて、其歸りに馬に乘らないかと云ふ。ソレは面白い、久振りだから乘らうと云て、其馬を借りて乘て來た。艦長木村は江戸の旗本だから、馬に乘ることは上手だ。江戸に居れば毎日馬に乘らぬことはない。夫れから其馬に乘てどんどん驅けて來ると、亞米利加人が驚いて、日本人が馬に乘ることを知て居ると云ふて不思議な顔をして居る。爾う云ふ譯けで雙方共に事情が少しも分らない。

 

 

事物の説明に隔靴の歎あり  夫れから又、亞米利加人が案内して諸方の製作所などを見せて呉れた。其時は桑港地方にマダ鐵道は出來ない時代である。工業は樣々の製作所があつて、ソレを見せて呉れた。其處がどうも不思議な譯けで、電氣利用の電燈はないけれども、電信はある。夫れからガルヴァニの鍍金(めつき)法と云ふものも實際に行れて居た。亞米利加人の考に、さう云ふものは日本人の夢にも知らない事だらうと思て見せて呉れた所が、此方はチャント知て居る。是れはテレグラフだ。是れはガルヴァニの力で斯う云ふことをして居るのだ。又砂糖の製造所があつて、大きな釜を眞空にして沸騰を早くすると云ふことを遣て居る。ソレを懇々と説くけれども、此方は知て居る、眞空にすれば沸騰が早くなると云ふことは。且つ其砂糖を清淨にするには骨炭で漉せば清淨になると云ふこともチャント知て居る。先方では爾う云ふ事は思ひも寄らぬ事だと斯う察して、懇ろに敎へて呉れるのであらうが、此方は日本に居る中に數年の間そんな事ばかり穿鑿して居たのであるから、ソレは少しも驚くに足らない。只驚いたのは、掃溜(はきだめ)に行て見ても濱邊に行て見ても、鐵の多いには驚いた。申さば石油の箱見たやうな物とか、いろいろな罐詰の空殻などが澤山棄てゝある。是れは不思議だ。江戸に火事があると燒跡に釘拾ひがウヤウヤ出て居る。所で亞米利加に行て見ると、鐵は丸で塵埃(ごみ)同樣に棄てゝあるので、どうも不思議だと思ふたことがある。
 夫れから物價の高いにも驚いた。牡蠣
(かき)を一罎買ふと半弗、幾つあるかと思ふと二十粒か三十粒位しかない。日本では二十四文か三十二文と云ふ其牡蠣が、亞米利加では一分二朱もする勘定で、恐ろしい物の高い所だ、呆れた話だと思たやうな次第で、社會上政治上經濟上の事は一向分らなかつた。

 

 

ワシントンの子孫如何と問ふ  所で私が不圖胸に浮かんで或人に聞いて見たのは外でない、今華盛頓(わしんとん)の子孫は如何なつて居るかと尋ねた所が、其人の云ふに、華盛頓の子孫には女がある筈だ、今如何して居るか知らないが、何でも誰かの内室になつて居る容子(ようす)だと如何にも冷淡な答で、何とも思て居らぬ。是れは不思議だ。勿論私も亞米利加は共和國、大統領は四年交代と云ふことは百も承知のことながら、華盛頓の子孫といへば大變な者に違ひないと思ふたのは、此方の腦中には源頼朝、德川家康と云ふやうな考があつて、ソレから割出して聞た所が、今の通りの答に驚いて、是れは不思議と思ふたことは今でも能く覺えて居る。理學上の事に就ては少しも膽を潰すと云ふことはなかつたが、一方の社會上の事に就ては全く方角が付かなかつた。
 或時にメールアイランドの海軍港に居る甲比丹のマツキヅガルと云ふ人が、日本の貨幣を見たいと云ふので、艦長は豫
(かね)てそんな事の爲めに用意したものと見え、新古金銀が數々あるから、慶長小判を始めとして萬延年中までの貨幣を揃へて甲比丹の處へ送て遣た。所が珍しい珍しいと斗りで、寶を貰つたと云ふ考は一寸とも顔色に見えない。昨日は有難うと云て其翌朝お内儀さんが花を持て來て呉れた。私は其取次をして獨り竊に感服した。人間と云ふものはアヽありたい、如何にも心の置き所が高尚だ、金や銀を貰つたからと云てキョトキョト悦ぶと云ふのは卑劣な話だ、アヽありたいものだと、大きに感心したことがある。

 

 

軍艦の修繕に價を求めず  前に云ふた通り亞米利加人は誠に能く世話をして呉れた。軍艦を船渠に入れて修覆して呉れたのみならず、乘組員の手元に入用な箱を拵へて呉れるとか云ふことまでも親切にして呉れた。いよいよ船の仕度も出來て歸ると云ふ時に、軍艦の修覆其他の入用を拂ひたいと云ふと、彼方の人は笑て居る。代金などゝは何の事だと云ふやうな調子で一寸とも話にならない。何と云ふても勘定を取りさうにもしない。

 

 

始めて日本に英辭書を入る  其時に私と通辯の中濱萬次郎と云ふ人と兩人がウエブストルの字引を一册づゝ買て來た。是れが日本にウエブストルと云ふ字引の輸入の第一番、それを買てモウ外には何も殘ることなく、首尾克く出帆して來た。

 

 

義勇兵  所で私が二度目に亞米利加に行たとき、甲比丹ブルックに再會して八年目に聞た話がある。それは最初日本の咸臨丸が亞米利加に着たとき、桑港でなかなか議論があつた。今度日本の軍艦が來たから其接待を盛にしなければならぬと云ふので、彼處に陸軍の出張所を見たやうなものがある。其處へ甲比丹ブルックが行て、大に歡迎しやうではないかと相談を掛けると、華盛頓に伺ふた上でなければ出來ないと云ふ。「そんな事をして居ては間に合はないから、何でも出張所の獨斷で遣れと談じても、兎角埒(らち)が明かないから、甲比丹は少し立腹して、いよいよ政府の筋で出來なければ此方に仕樣があると云て、夫れから方向を轉じて桑港の義勇兵に持込んで、どうだ斯う云ふ譯けであるから接待せぬかと云ふと、義勇兵は大悦びで直に用意が出來た。全體此義勇兵と云ふものは不斷軍役のあるではなし、大將は御醫者樣で、少將は染物屋の主人と云ふやうな者で組立てゝあるけれども、チャント軍服も持て居れば鐵砲も何もすつかり備へて居て、日曜か何か暇な時か又は月夜などに操練をして、イザ戰爭と云ふ時に出て行くと云ふばかりで、太平の時は先づ若い者の道樂仕事であるから、折角拵へた軍服も滅多に着ることがない所に、今度甲比丹ブルックの話を聞て千歳一遇の好機會と思ひ、晴れの軍服を光らして日本の軍艦咸臨丸を歡迎したのであると、甲比丹が話して居ました。

 

 

布哇寄港  祝砲と共に目出度桑港を出帆して、今度は布哇寄港と定まり、水夫は二、三人亞米利加から連れて來たけれども、甲比丹のブルックは居らず、本當の日本人ばかりで、何うやら斯うやら布哇を捜出(さがしだ)して、其處へ寄港して三、四日逗留した。逗留中、布哇の風俗に就ては物珍しく云ふ程の要用はないだらう、と思ふのは、三十年前の布哇も今も變つたことはなからう、其土人の風俗は汚ない有樣で、一見蠻民と云ふより外仕方がない。王樣にも遇ふたが、是れも國王陛下と云へば大層なやうだけれども、其處へ行て見れば驚く程の事はない。夫婦連で出て來て、國王は只羅紗の服を着て居ると云ふ位な事、家も日本で云へば中位の西洋造り、寶物を見せると云ふから何かと思たら、鳥の羽で拵へた敷物を持て來て、是れが一番のお寶物だと云ふ。あれが皇弟か、其皇弟が笊を提げて買物に行くやうな譯けで、マア村の漁師の親方ぐらゐの者であつた。 

 

 

少女の寫眞  それから布哇で石炭を積込んで出帆した。其時に一寸した事だが奇談がある。私は豫(かね)て申す通り一體の性質が花柳に戯れるなどゝ云ふことは假初にも身に犯した事のないのみならず、口でもそんな如何はしい話をした事もない。ソレゆゑ同行の人は妙な男だと云ふ位には思ふて居たらう。夫れから布哇を出帆した其日に、船中の人に寫眞を出して見せた。是れはどうだ(其寫眞は此處に在りとて、福澤先生が筆記者に示されたるものを見るに、四十年前の福澤先生の傍に立ち居るは十五、六の少女なり。)──其寫眞と云ふのは此通りの寫眞だらう。ソコで此少女が藝者か女郎か娘かは勿論其時に見さかひのある譯けはない──お前達は桑港に長く逗留して居たが、婦人と親しく相竝んで寫眞を撮るなぞと云ふことは出來なかつたらう、サアどうだ、朝夕口でばかり下らない事を云て居るが、實行しなければ話にならないぢやないかと、大に冷かして遣た。是れは寫眞屋の娘で、歳は十五とか云た。其寫眞屋には前にも行たことがあるが、丁度雨の降る日だ、其時私獨りで行た所が娘が居たから、お前さん一緒に取らうではないかと云ふと、亞米利加の娘だから何とも思ひはしない、取りませうと云ふて一緒に取たのである。此寫眞を見せた所が、船中の若い士官達は大に驚いたけれども、口惜(くや)しくも出來なからう、と云ふのは桑港で此事を云出すと直に眞似をする者があるから默つて隱して置いて、いよいよ布哇を離れてもう亞米利加にも何處にも縁のないと云ふ時に見せて遣て、一時の戯に人を冷かしたことがある。 

 

 

不在中櫻田の事變   歸る時は南の方を通つたと思ふ。行くときとは違て至極海上は穩かで、何でも其歳には閏(うるふ)があつて、閏を罩(こ)めて五月五日の午前に浦賀に着した。浦賀には是非錨を卸すと云ふのがお極りで、浦賀に着するや否や、船中數十日の其間は勿論湯に這入ると云ふことの出來る譯けもない、口嗽(うがひ)をする水がヤット出ると云ふ位な事で、身體は汚れて居るし、髪はクシャクシャになつて居る、何は扨置き一番先に月代(さかやき)をして夫れから風呂に這入らうと思ふて、小舟に乘て陸(をか)に着くと、木村のお迎が數十日前から浦賀に詰掛けて居て、木村の家來に島安太郎(しまやすたらう)と云ふ用人がある、ソレが海岸まで迎ひに來て、私が一番先に陸に上つて其島に遇ふた。正月の初に亞米利加に出帆して浦賀に着くまでと云ふものは風の便りもない、郵便もなければ船の交通と云ふものもない。其間は僅に六ヶ月の間であるが、故郷の樣子は何にも聞かないから、殆んど六ヶ年も遇はぬやうな心地。ヒョイと浦賀の海岸で島に遇て、イヤ誠にお久振り、時に何か日本に變つた事はないかと尋ねた所が、島安太郎が顔色を變へて、イヤあつたともあつたとも大變な事があつたと云ふ其時、私が、一寸と島さん待て呉れ、云ふて呉れるな、私が中(あ)てゝ見せやう、大變と云へば何でも是れは水戸の浪人が掃部樣(かもんさま)の邸に暴込んだと云ふやうな事ではないかと云ふと、島は更らに驚き、どうしてお前さんはそんな事を知て居る、何處で誰れに聞た==聞たつて聞ないたつて分るぢやないか、私はマア雲氣(うんき)を考へて見るに、そんな事ではないかと思ふ==イヤ是れはどうも驚いた、邸に暴込んだ所ではない、斯う斯う云ふ譯けだと云て、櫻田騷動の話をした。其歳の三月三日に櫻田に大騷動のあつた時であるから、其事を話したので、天下の治安と云ふものは大凡そ分るもので、私が出立する前から世の中の樣子を考へて見ると、どうせ騷動がありさうな事だと思て居たから、偶然にも中つたので誠に面白かつた。
 其前年から徐々
(そろそろ)攘夷説が行れると云ふ世の中になつて來て、亞米利加に逗留中、艦長が玩具半分(おもちやはんぶん)に蝙蝠傘を一本買た。珍しいものだと云て皆寄(よつ)て拈(ひね)くつて見ながら、如何だらう之を日本に持て歸てさして廻つたら==イヤそれは分切(わかりき)つて居る、新錢座の艦長の屋敷から日本橋まで行く間に浪人者に斬られて仕舞ふに違ひない、先づ屋敷の中で折節ひろげて見るより外に用のない品物だと云たことがある。凡そ此くらゐな世の中で、歸國の後は日々に攘夷論が盛んになつて來た。

 

 

幕府に雇はる  亞米利加から歸てから塾生も次第に増して相替らず敎授して居る中に、私は亞米利加渡航を幸に彼の國人に直接して英語ばかり研究して、歸てからも出來るだけ英書を讀むやうにして、生徒の敎授にも蘭書は敎へないで悉く英書を敎へる。所がマダなかなか英書が六かしくて自由自在に讀めない。讀めないから便る所は英蘭對譯の字書のみ。敎授とは云ひながら、實は敎ふるが如く學ぶが如く、共に勉強して居る中に、私は幕府の外國方(今で云へば外務省)に雇はれた。其次第は外國の公使領事から政府の閣老又は外國奉行へ差出す書翰を飜譯する爲めである。當時の日本に英佛等の文を讀む者もなければ書く者もないから、諸外國の公使領事より來る公文には必ず和蘭の飜譯文を添ふるの慣例にてありしが、幕府人に横文字讀む者とては一人もなく、止むを得ず吾々如き陪臣(大名の家來)の蘭書讀む者を雇ふて用を辨じたことであるが、雇はれたに就ては自から利益のあると云ふのは、例へば英公使、米公使と云ふやうな者から來る書翰の原文が英文で、ソレに和蘭の譯文が添ふてある。如何かして此飜譯文を見ずに直接(ヂカ)に英文を飜譯してやりたいものだと思て試みる、試みて居る間に分らぬ處がある、分らぬと蘭譯文を見る、見ると分ると云ふやうな譯けで、なかなか英文研究の爲めになりました。ソレからもう一つには幕府の外務省には自から書物がある、種々樣々な英文の原書がある。役所に出て居て讀むのは勿論、借りて自家(うち)へ持て來ることも出來るから、ソンナ事で幕府に雇はれたのは身の爲めに大に便利になりました。

 

 


                      (「始めて亞米利加に渡る」終)

 

  

 

            福澤諭吉写真(萬延元年1860 サンフランシスコにて) 画像をクリックすると、拡大画面が見られます。
              
福澤諭吉の写真(万延元年 1860 サンフランシスコにて)
                (「少女の寫眞」の項、及び 注5参照)


 

 

  

 

 

 

 

    

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注)
1. 上記の本文は、『福澤諭吉全集』第7巻(岩波書店、昭和34年12月1日初版
  発行、昭和45年4月13日再版発行)所収の「福翁自傳」によりました。
2.  同全集の「後記」によれば、「福翁自傳」は福澤諭吉64歳の秋ごろから書き
  始められ、ほぼ1年ぐらいで完結した由です。福澤の口述を速記者矢野由次郎
  が速記し、速記者の翻訳浄書したものを福澤が自身で丁寧に加筆訂正して完
  成したということです。
   それで、全集の「福翁自傳」の題辞の下には、「福澤諭吉 口述、矢野由次
  郎 速記」とあります。
3. 仮名二字(三字)の繰り返し符号(「く」を縦に長く伸ばした形)は、仮名に直
   して表記しました。
4. 全集第1巻の凡例によれば、文中の片仮名の振り仮名について、「今日普
  通の讀み方と異なる福澤の特殊な讀み方を原形のまゝ保存する場合に限り、
  片假名を以てこれを表示することにした」とあります。
   平仮名の振り仮名は、校訂者(富田正文・土橋俊一両氏)の考えで新たに
  施したものの由です。
5. 福澤諭吉のサンフランシスコでの写真は、上記の『福澤諭吉全集』第7巻か
  ら引用させていただきました。
   小沢健志編『幕末 写真の時代』
(ちくま学芸文庫、1996年6月10日台刷発行、同7月
  1日第2刷発行)
に、「福沢諭吉とアメリカの娘 ウィリアム・シュー撮影 万延元年
  (1860) ガラス湿板(着色)  サンフランシスコで写真館主の令嬢とともに撮
  影。唇や頬などが薄く紅色に着色されている。帰国の際、ハワイを出航したの
  ちに咸臨丸乗組みの若い士官らにこれを見せ、一同を悔しがらせたと、『福翁
   自伝』にある有名な写真。」と、紹介されています。
6. 「緒方の塾風」の「原本寫本會讀の法」に出てくる「毎月六才位會讀をする
  のであるが」の「六才」については、慶應通信(株)発行(昭和32年11月15日
  初版、平成4年5月17日17版)の『福翁自伝』の注に、「六才は正しくは六斎と
  書き、元来は仏教上毎月6回行為を慎む日をさすのであるが、ここでは毎月6
  回の定例日という意味で、一六とか三八とかいう風に5日おきにきめられてい
  る日のこと」とあります。
7. 「始めて亞米利加に渡る」の「咸臨丸」に出てくる「佐々倉桐太郎」と「濱口」
  の名前について、上記の慶應通信版『福翁自伝』には、「佐々倉桐太郎(とう
  たろう)」「濱口興右衛門(おきえもん)」となっています。
8. 同じく「始めて亞米利加に渡る」の「始めて日本に英辭書を入る」に出てくる
  ウエブスターの辞書について、上記の慶應通信版『福翁自伝』の注によれば、
   福澤諭吉と中濱萬次郎がアメリカで求めてきたウエブスターの辞書は、岩崎
   克己氏の研究によって、大辞書ではなく、抄略版であることが明らかになった
   ということです。 (同書105頁参照) 
9. 同じく「始めて亞米利加に渡る」の「布哇寄港」で福澤諭吉たちが訪れた萬延
  元(1860)年当時のハワイは、まだ、カメハメハ4世治世下の独立王国でした。
  ハワイが アメリカ合衆国に併合されたのは明治31(1898)年のことで、明治33
  (1900)年、アメリカの准州となり、昭和34(1959)年に50番目の州となりました。
10.
慶應義塾のホームページに「慶應義塾を知る・楽しむ」があり、そこに詳しい
 
「福澤諭吉年譜」があります。
      
お断り: 残念ながら現在は見られないようです。(2017.10.30)
11. 慶應義塾のホームページの「慶應義塾写真データベース」に、
「福澤諭吉」
  関係の写真が多数あります。
12. 国立国会図書館のホームページに
「近代日本人の肖像」のページがあり、そ
  こに
「福沢諭吉」があり、諭吉の写真、簡単な経歴、『国立国会図書館デジタル
  コレクション』
載の著作等が載っています。
  (
『国立国会図書館デジタルコレクション』では、『学問ノススメ』(第1-17編合本  
 
版・明治13年7月出版)を画像で見ることができます。) 
13. 岩波文庫に『
新訂 福翁自伝』(ワイド版岩波文庫も)があります。
14. 福翁自伝(ふくおうじでん)=福沢諭吉の自伝。1898年(明治31)より翌年にか
          けて「時事新報」に連載。多彩な人生と思想を明快な口語文で綴り、
         自伝文学の白眉。              
 (『広辞苑』第6版による)
15. 慶應義塾図書館のサイトに、『FUKUZAWA COLLECTION デジタルで読む
  福沢諭吉』というページがあり、そこで『西洋事情』『文明論之概略』『福翁自傳』
  などを画像で見る(読む)ことができます。
 

 


 

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