(注) | 1. |
「岳陽樓記」の本文は、新釈漢文大系18『文章軌範(正篇)下』(前野直彬著、明治書院、昭和37年9月15日初版発行、昭和45年5月10日12版発行)によりました。 ただし、本文の訓点・句読点、段落分け等は省略しました。 |
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2. | 「岳陽樓記」の作者は、范仲淹(989~1052)。北宋の文章家・政治家。字(あざな)は希文。蘇州呉県の人。27歳のとき科挙に及第。韓琦とともに陝西で西夏の侵攻を防いだ。諡(おくりな)は文正。その作品は『范文正公集』27巻として伝えられている。 | ||||
3. |
岳陽楼は、湖南省岳陽市の西門の、三層からなる城楼。洞庭湖の東北端に建てられていて、ここに登れば洞庭湖が一望のもとに眺められる。古来多くの詩人がここで詩を作っているが、孟浩然の「氣蒸雲夢澤 波憾岳陽城」(「臨洞庭」)と杜甫の「呉楚東南坼 乾坤日夜浮」(「登岳陽樓」)は特に有名で、岳陽楼から洞庭湖を詠じた詩の中の二大傑作といわれている。 次に、その二つの詩を挙げておきます。 臨洞庭 登岳陽樓 孟浩然 杜甫 八月湖水平 昔聞洞庭水 涵虚混太清 今上岳陽樓 氣蒸雲夢澤 呉楚東南坼 波撼岳陽城 乾坤日夜浮 欲濟無舟楫 親朋無一字 端居恥聖明 老病有孤舟 坐觀垂釣者 戎馬關山北 徒有羨魚情 憑軒涕泗流 |
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4. |
范仲淹の「岳陽樓記」は、いわゆる「先憂後楽」の、政治家としての守るべき態度を述べた文章としてよく知られています。 水戸徳川家江戸上屋敷内の庭園「後楽園」の名も、この文章から光圀が命名したものです。この庭園は、初代藩主頼房が1629(寛永6)年に造営に着手し、2代光圀の代に完成した回遊式築山泉水庭園です。「後楽園」を「小石川後楽園」という名前にしたのは1923(大正12)年のことで、岡山の後楽園と区別するためでした。 というのは、そこには次のような事情があったのです。 岡山の後楽園は1687(貞享4)年に着工し、1700(元禄13)年に一応の完成をみました。初め「御後園」といっていましたが、1971(明治4)年に「御後園」を「後楽園」と改称しました。そして、1922(大正11)年、名勝の指定を受けました。 翌1923(大正12)年、東京の「後楽園」も史跡及び名勝に指定されましたが、既に岡山の庭園が「後楽園」として名勝指定を受けていたので、それと区別するため「小石川後楽園」と呼ぶことになった、というわけです。 「小石川後楽園」は、昭和27年3月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定されました。(岡山の「後楽園」は、この時、特別名勝の指定を受けています。) 特別史跡及び特別名勝の「小石川後楽園」は、現在は都立庭園として一般に公開されています。 なお、財団法人・東京都公園協会のホームページによれば、特別史跡と特別名勝の二重指定を受けているのは、東京の「小石川後楽園」「浜離宮」、京都の「鹿苑寺(金閣寺)」「慈照寺(銀閣寺)」「醍醐寺三宝院」、奈良の「平城京左京三条ニ坊宮跡」、広島の「厳島」の7か所だけだそうです。 |
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5. | 財団法人東京都公園協会のホームページ『公園へ行こう!』(緑と水の総合サイト)の中に、「小石川後楽園」のページがあります。 | ||||