(注) | 1. |
国宝 「風信帖」(ふうしんじょう)は、わが国の真言宗の
開祖である空海(774~835)が、わが国の天台宗の開祖である最澄(767~822)に宛てた手紙3通を集めて1巻としたもので、1通目の書き出しが「風信雲書」で始まるところから、「風信帖」と呼ばれています。
なお、1通目と区別するため、それぞれ冒頭の2文字をとって、2通目を「忽披帖(こっぴじょう)」、 3通目を「忽恵帖(こつけいじょう)」と呼ぶことがあります。 |
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2. | 改行は書状の通りにしてあります。 なお、文末に見られる「謹空」とは、「(古代中国の上奏文で、天子の裁可を記すために紙の終りに空白をおいたことから)手紙の末尾に添えて敬意を表す語」だそうです。(『広辞苑』第7版による。) |
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3. | 漢字の字体も、できるだけ書状の漢字に合わせるようにしました。「九月十一日の手紙」の空の「」(「毎」の下に「水」)の漢字は、島根県立大学の “e漢字” を利用させていただきま した。 | ||||
4. | 「風信帖」は、京都の東寺(教王護国寺)所蔵です。 | ||||
5. | 空海の手紙は、もと5通あったものが、1通は盗難にあって紛失、1通は関白豊臣秀次の懇望によって進上されて、現在の3通になった、ということが、「風信帖」巻末の別紙の記載によって知られます。 日本名筆選36『光明皇后 空海 最澄 集』(二玄社、1995年2月28日初版第1刷発行)によって、別紙のその記載を見ておきます。(改行は原文どおりです。) 本寄進状雖為五通猶本主良瑜之許留置之 間守禅或人一枚盗取之由良瑜送ニ一枚紛失之由 載之者也既副置状 當關白殿下秀次公以與山上人為御所 望付消息四枚之内一枚進上畢 天正廿壬辰年四月九日 ( 〇良瑜送ニ一枚紛失之由……「送」の次の「ニ」は、縦書きの「送」の右下に小さく書かれて いる片仮名の「ニ」です。) |
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6. | 「風信帖」は三筆の随一といわれる空海の代表作で、島谷弘幸氏は、 『書の至宝日本と中国』(朝日新聞社、2006年1月11日発行)の作品解説の中で、「伝統的な王羲之(303~361)書法に加えて顔真卿(709~785)の書法をも手中にしたもので、一通目から三通目まで豊潤で重厚、闊達自在と変化に富んだ多様な書法を展開しており、書道史・仏教史の上でも注目される遺品である」と書いておられます。 | ||||
7. |
上記の読み(訓読)は、下記の書籍を参考にして記載しました。 〇『国宝への旅 第10巻』(日本放送出版協会、昭和63年2月5日第1刷発行、平成3年11月20日第6刷発行) 〇『弘法大師空海 ・人と書』(木本南邨著、朱鷺書房 ・2003年10月20日第1版第1刷発行) 〇『すぐわかる日本の書 飛鳥時代~昭和初期の名筆』(可成屋編、東京美術 平成14年12月10日初版第1刷発行) (なお、『弘法大師空海 ・人と書』掲載の「風信帖」の読み下し文は、高木訷元著『弘法大師の書簡』によった由です。) |
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8. |
東京国立博物館のホームページに、2011年7月20日~9月25日に開催された特別展「空海と密教美術」展についての解説
ページがあり、そこに「風信帖」について次のように記述されています。 空海が最澄にあてた3通の自筆の手紙を継いだものです。その名は第1通の冒頭に「風信雲書」とあることにちなみます。奧書よりもともとは5通ありましたが、1通は盗難にあい、もう1通は天正20年(1592)関白豊臣秀次に進上されたとあります。延暦寺に伝来しましたが、付属の寄進状より文和4年(1355)に東寺の所有になったことが分かります。内容より空海39歳から40歳ころのものと推測されます。 東京国立博物館 → 特別展 → 過去の特別展 → 特別展「空海と密教美術」展 |
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9. | 嘗て、『好古齋』というホームページに東京国立博物館の「東洋館」で展示された「風信帖」の写真が出ていましたが、残念ながら現在は見られないようです。 |