| (注) | 1. |
上記の「酔翁亭記」の本文は、新釈漢文大系16『古文真宝(後集)』(星川清孝著。明治書院、昭和38年7月20日初版発行、昭和46年5月10日14版発行) によりました。同書の本文には訓点が施されており、文中改行がなされていますが、ここではそのいずれも省略してあります。 また、同書には題意・訓読・通釈・語釈・余説が付いています。題意に、「年譜によれば仁宗の慶暦五年(1045)、欧陽脩三十九歳の時に、小人たちの讒訴により左遷されて、朝廷から出て滁州の知事となった。『西清詩話』によれば、その当時、公は醒心・酔翁の両亭を琅琊の幽谷に築いたという。滁州は安徽省にある。この亭の由来、その地の風景及び太守自身のこの亭における游楽の心境を述べた記事文である。」とあります。 |
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| 2. |
本文の「射者中弈者勝」の「射者中」については、これを「弓を射る遊び」ととる人と、「壺に矢を投げ入れる遊び」と取る人がいます。 |
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| 3. |
欧陽永叔(おうようえいしゅく)=永叔は欧陽脩の字(あざな)です。 〇欧陽脩(おうようしゅう)=北宋の政治家・学者。廬陵(江西𠮷安)の人。字は永叔、号は酔翁・六一居士、諡は文忠。仁宗・英宗・神宗に仕え、王安石の新法に反対して引退。唐宋八家の一人。著「欧陽文忠公全集」「新唐書」「新五代史」「集古録」「詩本義」など。(1007~1072)(以上、『広辞苑』第7版による。) 〇『フリー百科事典 ウィキペディア』の「欧陽脩」 →『フリー百科事典 ウィキペディア』 →「欧陽脩」 |
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| 4. |
この「酔翁亭記」について遠藤哲夫氏は、その著・新釈漢文大系72『唐宋八大家文読本
三』の「欧陽修とその文学」の中で次のように書いておられます。 「欧陽修(1007~1072)の名「修」は、また「脩」とも書かれる。」(同書、1頁) 「四十歳を迎えた欧陽修は自ら酔翁と号し、滁州の西南の山間にある亭を酔翁亭と名づけ、「酔翁亭記」と題する一文を記し、その地の人々とここに宴遊して酒に酔い、民とともに楽しむ為政者の心境を述べているが、今までの派閥の闘争に疲れ、又自己の失脚を苦笑する思いが言外ににじみ出ているようにも感じられる。」(同書、4頁) 「その作品中に有名な「酔翁亭記」があり、その冒頭は「滁(じょ)を環(めぐ)りて皆山なり」で始まるが、『朱子語類』に次のような記述がある。「欧陽公の文章も何回もの推敲(すいこう)を経て立派なものとなっている。近ごろ欧陽公の『酔翁亭記』の下書きを入手した者がいるが、それを見ると、最初は『滁州の四面に山有り云々』として四方の山岳を列挙して記述すること数十字に及んでいたのが、後にこれを改めて『環滁皆山也』の五字になっているのである」と。欧陽修の文体が韓愈のそれに比して雄壮豪快の点において欠ける所があると評されながら、しかも委曲を尽くして相手を納得させずにはおかない平易明快な達意の叙述は、練りに練った構想、博大な見聞、着実な学習と思索に支えられたものなのである。」(同書、6~7頁) |
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| 5. |
「隷書酔翁亭記」が早稲田大学の「古典籍総合データーベース」にあります。(下谷御成道(江戸):青雲堂、天保13(1842)年) →「古典籍総合データベース」 →「隷書酔翁亭記」 |
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| 6. | 〇
蘇東坡の書いた「酔翁亭記」の碑の写真が『眉山三蘇祠博物館』というホームページに出ています。碑は酔翁亭に建っているそうです。碑文は楷書体のきちんとした文字で書かれています。(写真は拡大して見ることができます。) →『眉山三蘇祠博物館』 → 蘇軾書「酔翁亭記碑」の写真 『眉山三蘇祠博物館』は、中国四川省眉山市にある博物館。北宋の有名な文学者、蘇洵(父)・蘇軾(兄)・蘇轍(弟)の親子三人の旧居を三人の記念博物館として公開しているものだそうです。 〇諸橋轍次氏の酔翁亭等訪問記 『漢文教室』16号(1955年1月発行)の中に、諸橋轍次氏が酔翁亭などを訪れた訪問記(「中国の名蹟巡り」)が掲載されていて、その中に、「酔翁亭には「酔翁亭の記」、豊楽亭には「豊楽亭の記」を、何れも蘇東坡が大きな文字で立派な楷書を以て書いた碑が立っておったのがうれしかった」と出ています。 → 漢字文化資料館『漢文教室』クラシックス |
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| 7. | 〇 蘇東坡書の「酔翁亭記」が国立国会図書館デジタルコレクションにあります。これは上記の碑にある楷書体とは違う書体のものです。(明治12年4月8日刊) → 国立国会図書館デジタルコレクション → 「蘇東坡書酔翁亭記」 |
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