資料696 『日本霊異記』下巻の第一、巻二、巻二十四、巻三十五、巻三十九(原文) 




  『日本霊異記』下巻・憶持法花経者舌著之曝髑髏中不朽縁第一

 諾楽宮御大八州国之帝姫阿倍天皇御代、紀伊国牟婁郡熊野村、有永興禅師、化海辺之人、時人貴其行、故美称菩薩、従天皇城有南故、号曰南菩薩、爾時有一禅師、来之於菩薩所、々持之物、法花経一部字細少書減巻数成一巻持之、白銅水瓶一口、縄床一足也、僧常誦持法華大乗、以之為宗、歴一年余、而思別去、敬礼禅師、奉施縄床、而語之曰、今者罷退、欲展山踰於伊勢国、禅師聞之、糯干飯舂篩二斗、以之施師、優婆塞二人副共、遣使見送、是禅師、一日道所送、而以法花経幷鉢干飯粉等、与優婆塞、自此令還、唯以麻縄廿尋水瓶一口、而別去匿、逕之二年、熊野村人、至于熊野河上之山、伐樹作船、聞之有音、誦法花経、累日逕月、猶読不止、造船之人、聞読経音、発心貴之、擎自分糧、以推求之、不瞰形色、故還而居、読経之音、如先不息、後歴半年、為引船人、入山聞之、読経音猶不止、怪白禅師、々々怪往、而聞有実、尋求見之、有一屍骨、以麻縄繋二足懸巌、投身而死、骨側有瓶、乃知別去之禅師也、永興見之、悲哭而還、然歴三年、山人告知、読経之音、如常不止、永興復往、将収其骨、見髑髏者、至于三年、其舌不腐、宛然生有、諒知、大乗不思議力、誦経積功験徳也、賛曰、貴哉禅師、受血肉身、常誦法華、得大乗験、投身曝骨、而髑髏中、著舌不爛、是聖不凡矣、又吉野金峯、有一禅師、往峯行道、禅師往前有音、読於法花経金剛般若経、聞之留立、排開草中、而見之者、有一髑髏、歴久日曝、其舌不爛、而生著有、禅師取収浄処、禱髑髏言、以因縁故、汝値於我、便以草葺、覆於其上、共住読経、六時行道、禅師随読法花、髑髏共読、故見彼舌、々振動矣、是亦奇異之事也、


   『日本霊異記』下巻・殺生物命結怨作狐狗互相報怨縁第二

 禅師永興者、諾楽左京興福寺沙門矣、俗姓葦屋君氏、一云市往氏、摂津国手嶋郡人也、住于紀伊国牟婁軍熊野村而修行、時彼村有病者、是将来於禅師住寺、勧請禅師、而令看病、呪之時愈、即退発病、如是生怪、多日不輟、強盟猶呪、病者託曰、我是狐矣、無用不伏、禅師莫強、問之何故、答斯先殺我、々報彼怨、是人纔死、生犬殺我、聞怪教化、不放而殺、一年之後、其死人臥室、禅師之弟子臥病、爾時有人、繋犬於禅師而来、彼犬嘷吠、抓脱枷鎖、断鏁欲奔、禅師怪之、告犬主言、応放知由、纔放走入病弟子室、咋狐引出、禅師禁犬、不免殺、晰委、斃人還報彼怨、嗚呼惟也、怨報不朽、何以故、毗瑠璃王、報過去怨、而殺釈衆九千九百九十万人、以怨報怨、々猶不滅、如車輪転、若有人能学忍辱時、見怨人者、為我恩師、不報彼怨、以之為忍、是故怨者、即忍之師、所以書伝云、若不罵忍、心危打殺其母者、其斯謂之矣、


   『日本霊異記』下巻・依妨修行人得猴身縁第廿四

 
 近江国野州郡部内、御上嶺、有神社、名曰陀我大神、奉依封六戸、社辺有堂、白壁天皇御世之宝亀年中、其堂居住、大安寺僧恵勝、暫頃修行時、夢人語言、為我読経、驚覚念怪、明日小白猴現来言、住此道場、而為我読法華経云、僧問言、汝誰耶、猴答言、我東天竺国大王也、彼国有修行僧、従者数千、所以農業怠 数千者千余数云数千也、因我制言、従者莫多、其時我者、禁従衆多、不妨修道、雖不禁修道、因妨従者、而成罪報、猶後生受此獼猴身、成此社神、故為脱斯身、居住此堂、為我読法華経、僧言、然者供養行也、時獼猴答言、無本応供物、僧言、此村籾多有、此乎充我供養料、令読経、獼猴答言、朝庭貺我、而有典主、念之己物、不免我、々恣不用典主者即彼神社司也、僧言、無供養者、何為奉読経、獼猴答言、然者、浅井郡有諸比丘、将読六巻抄、故我入其智識 浅井郡者、同国内有郡也、六巻抄者、是律名也、此僧念怪、随獼猴語、往告檀曰山階寺満預大法師、陳猴誂語、其檀曰師、不受而言、此猴語也、我者不信、不受不聴、即将読抄、為設之頃、堂童子優婆塞、忩々走来言、小白猴居堂上、纔見、九間大堂、仆如微塵、皆悉折摧、仏像皆破、僧坊皆仆、見誠如告、既悉破損、檀曰僧更作七間堂、信彼陀我大神顕名猴之語、同入知識、而読所願六巻抄、幷成大神所願、然後、乎至于願了、都無障難、夫妨修善道、儻得成獼猴報、故僧勧催、猶不可妨、得悪報故、往昔過去、羅睺羅作国王時、制一独覚、不令乞食、入境不聴、七日頃飢、依此罪報、羅睺羅、不生六年、在母胎中者、其斯謂之矣、


   『日本霊異記』下巻・仮官勢非理為政得悪報縁第卅五

  
白壁天皇之世、筑紫肥前国松浦郡人、火君之氏、忽然死而至琰魔国、時王校之、不合死期、故更敢返、還時見之大海之中、有如釜地獄、其中有如黒栓之物、而涌返沈、浮出告火君言、待耶物白耶、即亦涌返沈、一復浮而言、待物白、如是三遍、於四之遍言、我是遠江国榛原郡人、物部古丸也、我存世時、白米綱丁、而経数年、佰姓之物、非理打徴、由其罪報、今受此苦、願為我奉写法花経者、脱我之罪、火君見聞、自黄泉甦還来、而具解送於大宰府、々得解状、転解朝庭、々々不信、故大弁官、取彼黄泉之事状、而継累経廿年也、従四位上菅野朝臣真道、任其官上、見彼状以奏山部天皇、々々聞之、請施皎僧頭、而詔之言、世間衆生、至地獄受苦、経廿余年、免耶不也、僧頭答曰、受苦之始也、何以知爾、以人間百年、為地獄一日一夜、故未免也、天皇聞之、弾指、勅遣使於遠江国、令訪古丸之行事、方得問之、如解状、不異有実、天皇信悲、以延暦十五年三月朔七日、始召経師四人、為古麿、奉写法花経一部、充経六万九千三百八十四文字、勧率知識、挙皇太子大臣百官、皆悉加入其知識也、天皇勧請善珠大徳為講師、請施皎僧頭為読師、於平城宮野寺、備大法会、為講読件経、贈福救彼霊之苦也、嗚呼鄙哉、古丸用于狐借虎皮之勢、非理為政、受悪報者、不睠因果之賤心、太甚也、非無因果也、


   『日本霊異記』下巻・智行並具禅師重得人身生国皇之子縁第卅九

 
釈善珠禅師者、俗姓跡連也、負母之姓、而為跡氏也、幼時随母、居住大和国山辺郡磯城嶋村、得度精懃修学、智行双有、皇臣見敬、道俗所貴、弘法導人、以為行業、是以天皇、貴其行徳、拝任僧正也、而彼禅師之頤右方、有大黶也、平城宮治天下山部天皇御世、延暦十七年之比頃、禅師善珠、臨命終時、依世俗法、問飯占時、神霊託卜者言、我必宿於日本国王之夫人丹治比嬢女之胎、将生王子、吾面黶著生、以知虚実耳、命終之後、延暦十八年之比頃、丹治比夫人、誕生一王子、其頤右方、黶著如先、善珠禅師之面黶、不失而著生、故名号大徳親王、然経三年許、存世而薨、問飯占時、大徳親王之霊、託卜者言、我是善珠法師也、暫間生国王之子耳、為吾焼香供養矣、是故当知、善珠大徳、重得人身、生人王之子矣、内教言、人家々者、其斯謂之矣、是亦奇異事矣、
 又伊予国神野郡部内有山、名号石鎚山、是即彼山有石槌神之名也、其山高、而凡夫不得登到、但浄行人耳、登到而居住、昔諾楽宮廿五年治天下勝宝応真聖武太上天皇之御世、又同宮九年治天下帝姫阿陪天皇御世、彼山有浄行禅師而修行、其名為寂仙菩薩、其時世人道俗、貴彼浄行故、美称菩薩、帝姫天皇御世於九年、宝字二年歳次戊戌年、寂仙禅師、臨命終日、而留録文、授弟子告之而言、自我命終以後、歴廿八年之間、生於国王之子、名為神野、是以当知我寂仙云々、然歴廿八年、而平安宮治天下山部天皇御世、延暦五年歳次丙寅年、則生於山部天皇々子、其名為神野親王、今平安宮統治天下賀美能天皇是也、是以定知、此聖君也、又何以知聖君耶、世俗云、国皇法、人殺罪人者、必随法殺、而是天皇者、出弘仁年号、伝世、応殺之人、成流罪活彼命、以人治也、是以昢知聖君也、或人誹謗、非聖君、何以故、此天皇時、天下旱厲有、又天災地妖飢饉難繁多有、又養鷹犬取鳥猪鹿、是非慈悲心、是儀非然、食国内物、皆国皇之物、指針許末、私物都無也、国皇随自在之儀也、雖百姓、敢誹之耶、又聖君堯舜之世、猶在旱厲、故不可誹之也、
 


  (注) 1.  上記の『日本霊異記』の本文は、新日本古典文学大系30の『日本霊異記』(出雲路修・校注、岩波書店・1996年12月20日第1刷発行)によりました。ただし、原文についている返り点は、ここではこれを省略しました。    
    2.  「殺生物命結怨作狐狗互相報怨縁第二」の本文の終わり近くにある「禅師禁犬、不免殺」の「」の漢字は、「漢字辞典オンライン」というサイトに拠らせていただきました。
 また、本文の終わり近くにある「是以昢知聖君也」の「昢」の漢字は、新日本古典文学大系30には「目+出」の漢字になっています。この漢字が表記できないので、日本古典文学大系70の「日本霊異記」に出ている「昢」にしてあることを、お断りしておきます。
   
3.  新日本古典文学大系30の『日本霊異記』には原文のほかに訓読文が出ています。その訓読文について凡例には、「景戒の同時代人の視点での訓読文を作成した」とあります。ぜひその訓読文を同書に当たってご覧ください。
    4.  『日本霊異記』にほんりょういき(ニホンレイイキとも)=平安初期の仏教説話集。三巻。僧景戒撰。奈良時代から弘仁(810~824)年間に至る朝野の異聞、殊に因果応報などに関する説話116話を漢文で記した書。正しくは「日本国現報善悪霊異記」。霊異記。(『広辞苑』第7版による。)    
    5.  ウィキペディアに「日本霊異記」の項があります。
  → ウィキペディア
   →「日本国現報善悪霊異記」
   
    6.   『日本霊異記』の本文は、上記の新日本古典文学大系30の『日本霊異記』のほかに、次のような本が出ています。(これらの研究書は、日本古典文学大系70『日本霊異記』や新日本古典文学大系30の『日本霊異記』に記載されているものやその他を参考にさせていただきました。)
 〇『校訳日本霊異記』(板橋倫行 校訳、春陽堂・1929年)
 〇日本古典全集『校本日本霊異記』(日本古典全集刊行会、1929年)
    これは国立国会図書館デジタルコレクションに入っているものです
 〇『校本日本霊異記』(佐藤謙三 校本、明世堂・1943年)
 〇日本古典全書『日本霊異記』(武田祐吉 校注、朝日新聞社・1950年)
 〇アテネ文庫『日本霊異記』(松浦貞俊 校注、弘文堂・1956年)
 〇角川文庫『日本霊異記』(板橋倫行 校注、角川書店・1957年)
 〇古典日本文学全集Ⅰ『日本霊異記』現代語訳(倉野憲司 訳、筑摩書房・1960年)
 〇『校注真福寺本日本霊異記』(小泉道 校注、1962年)
 〇日本古典文学大系70『日本霊異記』(遠藤嘉基・春日和男 校注、岩波書店・1967年)
 〇『日本国現報善悪霊異記註釈』(大東文化大学東洋研究所・1973年)
 〇日本古典文学全集『日本霊異記』(中田祝夫 校注・訳、小学館・1975年)
 〇講談社学術文庫『日本霊異記(上)』全訳注・『(中)』・『(下)』(中田祝夫 訳注、1978~1980年)
 〇新潮日本古典集成『日本霊異記』(小泉道 校注、新潮社・1984年)
   
    7.  霊異記の伝本について
 日本古典文学大系70『日本霊異記』(遠藤嘉基・春日和男 校注、岩波書店・1967年)の解説に、小泉 道 氏の執筆による「諸本」があり、そこに次のように出ています。
 「霊異記の伝本には、興福寺本(上巻だけ)・真福寺本(中下二巻)・前田家本(下巻だけ)・三昧院本(高野本、3巻あるが各巻に欠脱や省略のある流布本)の4本があり、3巻揃った完本は無い。これらはそれぞれ別系統である上、その殆んどが別本を合わせ成ったとみられる。」(同書、8頁)

 ここには、それぞれの伝本について小泉氏の詳しい解説が見られますが、以下にほんの少しだけ抜き書きさせていただきます。

 興福寺本:上巻だけの巻子本で、序文と35条の説話が記されている。霊異記の伝本の最古のものという点で、貴重な資料。不用意によるとみられる誤写や脱字は少なからずあるが、他の伝本に多少とも存するような、後人の私意による省略や改訂などは見られない。
 真福寺本:中巻と下巻の巻子本。両巻とも巻頭が破損し、序文の中途から始まり、目録のあと、中巻は42条、下巻は39条の説話が目録通りに記され、各巻末に尾題を付す。
 前田家本:胡蝶装1冊の下巻だけの零本である。類聚本にない巻首201字がこれにある。前田家本の特徴の第一は、下巻の巻首が完備し、真福寺本に欠く首題・署名・序文の前半177字があること。特徴の第二は、諸本との間に説話条の異同があること。特徴の第三は、前半(下23縁まで)と後半(下24以後)とに体裁の相違があること。
 三昧院本:もと高野山金剛三昧院の所蔵の3巻の巻子本だが、現在行方を失している。摹本として、江戸時代の書写とみられる国立国会図書館本と京都府立図書館本がある。前者は原本を忠実に摹したと認められるが、後者は私意による改変が目立ち、資料価値は低い。三昧院本は、その本文は興福寺本や真福寺本よりも劣るが、これらにも誤写が少なからずあるから、この二本を底本として霊異記を校訂する場合、対校本として欠かせてはならない。特に、中巻の訓釈288は当本だけにある点、貴重なものである。
 刊本の群書類従本(狩谷棭齋「校本日本霊異記」)は、上巻は三昧院本(棭齋は高野本と称す)の摹本、中下巻は真福寺本(棭齋は尾張本と称す)の摹本の影鈔本をそれぞれ底本として校訂したものである。
 なお、書陵部に上下二巻の日本霊異記があるが、各巻の首尾に「日本霊異記」と題しながら、その内容はいわゆる霊異記とは全く異なり、神明鏡の一異本である。霊異記が延宝本によって流布される以前においては、日本霊異記という名称が、景戒撰述の書のみに限られていなかったようだ。(同書、8~21頁より抜き書き)

 以上、長々と抜き書きさせていただいたが、同書にはかなり詳しく書かれているので、詳細は同書に当たっていただきたい。
   
    8.  『日本霊異記』の写本を幾つか挙げておきます。
 〇国書データベース『日本国現報善悪霊異記』正徳4年
 〇筑波大学デジタルコレクション『日本霊異記』正徳4年
 〇国立公文書館デジタルアーカイブ『日本霊異記』正徳4年刊
 〇興福寺本『日本霊異記』奈良地域関連資料データベース(奈良女子大学)
 〇伴信友校蔵書『霊異記』京都大学貴重資料デジタルアーカイブ(中巻・下巻の中から一部が抜き書きされています。)
 〇不忍文庫本『日本霊異記』上(國學院大学図書館デジタルライブラリー)
   
 









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