資料694 『日本霊異記』上巻の第一、第二、第七、第九、第十八、第三十(原文) 




       『日本霊異記』上巻・捉雷縁第一

 小子部栖軽者、泊瀬朝倉宮廿三年治天下雄略天皇謂大泊瀬稚武天皇之随身、肺脯侍者矣、天皇住磐余宮之時、天皇与后、寐大安殿、婚合之時、栖軽不知而参入也、天皇恥輟、当於時而空雷鳴、即天皇勅栖軽而詔、汝鳴雷奉請之耶、答白将請、天皇詔言、爾汝奉請、栖軽奉勅、従宮罷出、緋縵著額、擎赤幡桙、乗馬、従阿倍山田前之道与豊浦寺前之路走往、至于軽諸越之衢、叫嗁請言、天鳴雷神、天皇奉請呼云々、然而自此還馬走言、雖雷神、而何故不聞天皇之請耶、走還時、豊浦寺与飯岡間、鳴雷落在、栖軽見之、即呼神司、入轝籠而持、向於大宮、奏天皇言、雷神奉請、時雷放光明炫、天皇見之、恐偉進幣帛、令返落処、其落処者、今呼雷崗在古京小治田宮之北者、然後時栖軽卒也、天皇勅留、七日七夜、詠彼忠信、雷落同処、作彼墓収、立碑文柱言、取雷栖軽之墓也、此雷悪怨而鳴落、踊践於碑文柱、彼柱之折間、雷揲所捕、天皇聞之、放雷不死、雷慌七日七夜留在、天皇勅使、樹碑文柱言、生之死之捕雷栖軽之墓也、所謂古京時名為雷崗語本是也、


   『日本霊異記』上巻・狐為妻令生子縁第二

 昔欽明天皇是磯城嶋金刺宮食国天皇天国押開広庭命也御世、三乃国大乃郡人、応為妻覓好嬢、乗路而行、時曠野中、遇於姝女、其女媚壮馴之、壮睇之言、何行雅嬢、々答、将覓能壮而行女也、壮亦語言、成我妻耶、女答言聴、即将於家、交通相住、比頃懐任、生一男子、時其家犬、十二月十五日生子、彼犬之子、毎向家室而期剋、睚眥嘷吠、家室脅惶、告家長言、此犬打殺、雖然患告、而猶不殺、於二月三月之頃、設年米舂、時其家室、於稲舂女等、将充間食、入於碓屋、即彼犬子、将咋家室而追吠、即驚譟恐、成野干、登籬上而居、家長見言、汝与我之中、子相生故、吾不忘汝、毎来相寐、故随夫語、而来寐、故名為支都禰也、時彼妻著紅襴染裳今之桃花裳也、而窈窕、裳襴引逝也、夫視去容、恋歌曰、古比波未那和我宇弊邇於知奴多万可支流波呂可邇美江天伊爾師古由恵邇、故其令相生子、名号岐都禰、亦其子姓、負狐直也、是人強力多有、走疾如鳥飛矣、三乃国狐直等根本是也、


   『日本霊異記』上巻・贖亀命放生得現報亀所助縁第七

 
禅師弘済者、百済国人也、当百済乱時、備後国三谷郡大領之先祖、為救百済、遣軍旅時、発誓願言、若平還来、為諸神祇、造立伽藍、起多諸寺、遂免災難、即請禅師、相共還来、造三谷寺、其禅師所以造立伽藍及諸寺、道俗観之、共為欽敬、禅師為造尊像、上京売財、既買得金丹等物、還到難破之津、時海辺人、売大亀四口、禅師勧人、買而放之、即借人舟、将童子二人、共乗度海、日晩夜深、舟人起欲、行到備前骨嶋之辺、取童子等、擲入海中、然後告禅師云、応速入海、師雖教化、賊猶不許、於茲発願、而入海中、水及腰時、以石当脚、其暁見之、亀負之矣、其備中浦、海辺其亀、三領而去、疑是放亀報恩乎、于時賊等六人、其寺売金丹、檀越先量過価、禅師後出見之、賊等忙然、不知退進、禅師憐愍、不加刑罰、造仏厳塔、供養已了、後住海辺、化往来人、春秋八十有余而卒、畜生猶不忘恩、返報恩、何况哉人而忘恩乎、


   『日本霊異記』上巻・嬰児鷲所擒以他国得逢父縁第九

 
飛鳥川原板葺宮御宇天皇之世癸卯年春三月頃、但馬国七美郡、山里人家、有嬰児女、中庭匍匐、鷲擒騰空、指東而翥、父母懇惻、哭悲追求、不知所到、故為修福、逕八箇年、以難破長柄豊前宮御宇天皇之世庚戌年秋八月下旬、鷲擒子之父、有縁事、至於丹波後国加佐郡部内、宿于他家、其家童女、汲水趣井、宿人洗足、副往見之、亦村童女、集井宿汲水、而奪宿家童女之丼、惜不令奪、其村童女、等皆同心、陵蔑之曰、汝鷲噉残、何故無礼、罵厭而打、所拍哭帰、家主待問、汝何故哭、宿人如見具陳上事、即問所以彼拍罵曰鷲噉残也、家主答言、其年其月日之時、余登于捕鳩之樹而居、鷲擒嬰児、従西而来、落巣養雛、嬰児慓啼、彼雛望之、驚恐不啄、余聞啼音、自巣取下、育女子是也、所擒之年月日時、校之当今語、明知我児、爾父悲哭、具告知於鷲擒之事、主人知実、応語自許、噫乎彼父、邂逅次於有児之家、遂得是乎、誠知、天哀所資、父子深縁也、是奇異之事矣、



   『日本霊異記』上巻・憶持法花経得現報示奇表縁第十八

 昔大和国葛木上郡、有一持経人、丹治比之氏也、其生知、年八歳以前、誦持法花経、意唯一字不得存、至于廿有余歳、猶難得持、因観音以悔過、于時夢見、有人曰、汝昔先身、生在伊予国別郡日下部猴之子時、汝奉誦法花経、而燈焼一文、故不得誦、今往見之、従夢醒驚、而思怪之、白其親曰、急有縁事、欲往伊予、二親聴許、然諮往当、到之猴家、叩門喚人、乃女人出、含咲還入、白家母曰、門在客人、恰似死郎、聞之出見、猶疑死子、家長見之、亦怪問之、仁者何人、答陳国郡之名、客人亦問之、答具告知往姓名也、明知是我先父母、即長跪拝、猴愛之喚入、居床而瞻言、若死昔我子之霊矣、客人具述夢状謂、翁姥吾先父母、猴亦語因、而示之曰、我先子号某、其子住堂、読経及以持水瓶等是也、先子聞之、入堂内、取彼法花経、開見之、当不所誦之文、燈焼失也、于時懺悔、奉直之後、熟然得持、於是祖子相見、一怪一喜、父子之義、不失孝養、賛曰、善哉日下部之氏、読経求道、過現二生、重誦本経、現孝二父、美名伝後、是聖非凡、誠知、法花威神、観音験力、善悪因果経云、欲知過去因、見其現在果、欲知未来報、見其現在業者、其斯謂之矣、



   『日本霊異記』上巻・非理奪他物為悪行受悪報示奇事縁第卅

 
膳臣広国者、豊前国宮子郡少領也、藤原宮御宇天皇之代、慶雲二年乙巳秋九月十五日庚申、広国忽死、逕之三日、戌日申時、更甦之、而語之曰、使有二人、一頂髪挙束、一少子也、伴副往程、二駅度許、路中有大河、度椅之、以金塗厳、自其椅行至彼方、有甚𬣐国、問使人曰、是何国矣、答度何国也、至其京時、有八官人、佩兵追往、前有金宮、入宮門見有王、坐乎黄金之坐、王詔広国曰、今召汝者、依汝妻憂申之事、即召一女、見之昔死妻、以鉄釘打頂通尻、打額通項、以鉄縄縛四枝、八人懸挙而将来、王問之言、汝知是女耶、広国白言、実我之妻也、復問、汝知鞫罪耶、答我不知、問女、々答我実知之、儐吾而自家出遺故、悕惻厭媚、王詔広国曰、汝実無罪、可還於家、然慎以黄泉之事、勿妄宣伝、若欲見父、往於南方、往於見之、実有我父、抱甚熱之銅柱而立、鉄釘卅七、於其身打立、以鉄杖、夙三百段昼三百段夕三百段、合九百段、毎日打迫、広国見之、悲而語之言、嗚呼云何図之、受是苦也、父語子言、我受是苦、吾子汝知不也、我為養妻子故、或殺生物、或貸八両綿強倍十両而徴、或貸小斤稲而強大斤取、或人物強奪取、或他妻姧犯、不孝養父母、不恭敬師長、不奴婢者奴婢罵慢、如是罪故、我身雖少、而卅七鉄釘立、毎日九百段、鉄鞭打迫之、痛哉苦哉、何日免吾罪、何時得安身也、汝忽為我造仏写経、贖我罪苦、慎々莫忘矣、我飢七月七日成大蛇、到汝家将入屋房之時、以杖懸棄、又五月五日成赤狗、到汝家之時、喚犬而相之、令咋追打者、飢熱還之、我正月一日成狸、入於汝家之時、飽供養飯宍種味物、是以継三年之糧、我無兄弟上下次第、而失理故、成犬噉汚、我自出汚、我必可成赤狗凡布施米一升之報、得卅日之糧、布施衣服一具之報、得一年分衣服、令読経者、住東方金宮、後随願生天、造仏菩薩者、生西方無量寿浄土、放生之者、生北方無量浄土、一日斎食者、得十年之糧、乃至見造善悪所受之報等事、而怖還来、迄其大椅、有守門人、遮前之言、入内之者、更不還出、広国暫徘徊、少子出来、時守門人、見其少子、而長跪礼、少子喚広国、将至片方脇門、押其門而開之、将出告曰速往、広国問少子云、汝誰之子、答、欲知我者、汝初稚時、奉写観世音経是也、還之入焉、即見甦還、食広国至黄泉、見善悪之報、顕録流布也、作罪得報之因縁者、大乗経如広説、誰不信耶、所以経云、現在甘露、未来鉄丸也者、其斯謂之矣、広国奉為其父、造仏写経、供養三宝、報父之恩、贖所受罪、自此以後、廻邪趣正、


  (注) 1.  上記の『日本霊異記』の本文は、新日本古典文学大系30の『日本霊異記』(出雲路修・校注、岩波書店・1996年12月20日第1刷発行)によりました。ただし、原文についている返り点は、ここではこれを省略しました。    
2.  「上巻・非理奪他物為悪行受悪報示奇事縁第卅」の初めの方に出ている「自其椅行至彼方、有甚国」のの漢字は、「言+慈」の漢字です。
 新日本古典文学大系30の脚注に「底本訓釈「言+茲(言+慈か)<於毛之呂支>」、新撰字鏡「言+慈 市貴反、心楽也、於毛志呂之」とあります。
    3.  『日本霊異記』にほんりょういき(ニホンレイイキとも)=平安初期の仏教説話集。三巻。僧景戒撰。奈良時代から弘仁(810~824)年間に至る朝野の異聞、殊に因果応報などに関する説話116話を漢文で記した書。正しくは「日本国現報善悪霊異記」。霊異記。(『広辞苑』第7版による。)    
    4.  ウィキペディアに「日本霊異記」の項があります。
  → ウィキペディア
   →「日本国現報善悪霊異記」
   
    5.  新日本古典文学大系30の『日本霊異記』には原文のほかに訓読文が出ています。その訓読文について凡例には、「景戒の同時代人の視点での訓読文を作成した」とあります。ぜひその訓読文を同書に当たってご覧ください。    
    6.  『日本霊異記』の本文は、上記の新日本古典文学大系30の『日本霊異記』のほかに、次のような本が出ています。(これらの研究書は、日本古典文学大系70『日本霊異記』や新日本古典文学大系30の『日本霊異記』に記載されているものやその他を参考にさせていただきました。)
 〇『校訳日本霊異記』(板橋倫行 校訳、春陽堂・1929年)
 〇日本古典全集『校本日本霊異記』(日本古典全集刊行会、1929年)
   これは国立国会図書館デジタルコレクションに入っているものです。
 〇『校本日本霊異記』(佐藤謙三 校本、明世堂・1943年)
 〇日本古典全書『日本霊異記』(武田祐吉 校注、朝日新聞社・1950年)
 〇アテネ文庫『日本霊異記』(松浦貞俊 校注、弘文堂・1956年)
 〇角川文庫『日本霊異記』(板橋倫行 校注、角川書店・1957年)
 〇古典日本文学全集Ⅰ『日本霊異記』現代語訳(倉野憲司 訳、筑摩書房・1960年)
 〇『校注真福寺本日本霊異記』(小泉道 校注、1962年)
 〇日本古典文学大系70『日本霊異記』(遠藤嘉基・春日和男 校注、岩波書店・1967年)
 〇『日本国現報善悪霊異記註釈』(大東文化大学東洋研究所・1973年)
 〇日本古典文学全集『日本霊異記』(中田祝夫 校注・訳、小学館・1975年)
 〇講談社学術文庫『日本霊異記(上)』全訳注・『(中)』・『(下)』(中田祝夫 訳注、1978~1980年)
 〇新潮日本古典集成『日本霊異記』(小泉道 校注、新潮社・1984年)
   
    7.  霊異記の伝本について
 日本古典文学大系70『日本霊異記』(遠藤嘉基・春日和男 校注、岩波書店・1967年)の解説に、小泉 道 氏の執筆による「諸本」があり、そこに次のように出ています。
 「霊異記の伝本には、興福寺本(上巻だけ)・真福寺本(中下二巻)・前田家本(下巻だけ)・三昧院本(高野本、3巻あるが各巻に欠脱や省略のある流布本)の4本があり、3巻揃った完本は無い。これらはそれぞれ別系統である上、その殆んどが別本を合わせ成ったとみられる。」(同書、8頁)

 ここには、それぞれの伝本について小泉氏の詳しい解説が見られますが、以下にほんの少しだけ抜き書きさせていただきます。

 興福寺本:上巻だけの巻子本で、序文と35条の説話が記されている。霊異記の伝本の最古のものという点で、貴重な資料。不用意によるとみられる誤写や脱字は少なからずあるが、他の伝本に多少とも存するような、後人の私意による省略や改訂などは見られない。
 真福寺本:中巻と下巻の巻子本。両巻とも巻頭が破損し、序文の中途から始まり、目録のあと、中巻は42条、下巻は39条の説話が目録通りに記され、各巻末に尾題を付す。
 前田家本:胡蝶装1冊の下巻だけの零本である。類聚本にない巻首201字がこれにある。前田家本の特徴の第一は、下巻の巻首が完備し、真福寺本に欠く首題・署名・序文の前半177字があること。特徴の第二は、諸本との間に説話条の異同があること。特徴の第三は、前半(下23縁まで)と後半(下24以後)とに体裁の相違があること。
 三昧院本:もと高野山金剛三昧院の所蔵の3巻の巻子本だが、現在行方を失している。摹本として、江戸時代の書写とみられる国立国会図書館本と京都府立図書館本がある。前者は原本を忠実に摹したと認められるが、後者は私意による改変が目立ち、資料価値は低い。三昧院本は、その本文は興福寺本や真福寺本よりも劣るが、これらにも誤写が少なからずあるから、この二本を底本として霊異記を校訂する場合、対校本として欠かせてははならない。特に、中巻の訓釈288は当本だけにある点、貴重なものである。
 刊本の群書類従本(狩谷棭齋「校本日本霊異記」)は、上巻は三昧院本(棭齋は高野本と称す)の摹本、中下巻は真福寺本(棭齋は尾張本と称す)の摹本の影鈔本をそれぞれ底本として校訂したものである。
 なお、書陵部に上下二巻の日本霊異記があるが、各巻の首尾に「日本霊異記」と題しながら、その内容はいわゆる霊異記とは全く異なり、神明鏡の一異本である。霊異記が延宝本によって流布される以前においては、日本霊異記という名称が、景戒撰述の書のみに限られていなかったようだ。(同書、8~21頁より抜き書き)

 以上、長々と抜き書きさせていただいたが、同書にはかなり詳しく書かれているので、詳細は同書に当たっていただきたい。
   
    8.  『日本霊異記』の写本を幾つか挙げておきます。
 〇国書データベース『日本国現報善悪霊異記』正徳4年
 〇筑波大学デジタルコレクション『日本霊異記』正徳4年
 〇国立公文書館デジタルアーカイブ『日本霊異記』正徳4年刊
 〇興福寺本『日本霊異記』奈良地域関連資料データベース(奈良女子大学)
 〇伴信友校蔵書『霊異記』京都大学貴重資料デジタルアーカイブ(中巻・下巻の中から一部が抜き書きされています。)
 〇不忍文庫本『日本霊異記』上(國學院大学図書館デジタルライブラリー)
   
 

 










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