国民学校時代に教えていただいた豆田光夫先生のことを、少しまとめて書いておきたいと思います。
国民学校は、昭和16年(1941)4月から昭和20年(1945)8月の終戦の翌々年(1947)3月まで、それまでの小学校がそういう名前になっていたのです。豆田先生は昭和17年4月から昭和20年8月の終戦まで、台湾の北部にあった生徒数100人足らずの小さな国民学校の校長先生をしておられました。その学校の運動場には、夏に黄色い花を咲かせる2本の大きな合歓の樹が立っていました。
合歓の樹
からからに乾いた
小さな赤土の運動場に
初夏の香りと
少年の夢とを
淡黄色の花に乗せて
一面にふりまいた 二本の
古い合歓の樹──
今は異国となった
あの 南国の片田舎に
小さな赤土の運動場に
二本の古い合歓の樹は
もう 美しい花を
ふりまいているだろう
平和の輝かしい
初夏を讃えながら
懐かしい追憶に耽っているだろう
(昭和27年作)
その豆田先生が日本に帰って来てから、歌の歌詞を書いておられたことや、その曲がレコードになっていたことなどを全く知らないでいました。しかし、私が国民学校時代に、先生が作詞作曲なさった歌を教えていただいたことがあるので、先生が歌詞を書いておられたと聞くと、ああ、先生はそういう趣味というか特技をもっておられたのだなと、納得がいくのです。それにしても、先生がお元気な時にいろいろお話を伺いたかったなあと思うのです。
記述に正確でない部分がありますので、その点ご注意ください。また、こうして先生のことを調べて書くことが、個人情報の点でどうなのかなという危惧もあるのですが、私の今の気持としては、懐かしい先生のことを多くの人に知ってもらいたいという思いもあるのです。(2025年7月17日)
豆田光夫先生略年譜
明治39年(1906)佐賀県 に生まれる。
明治 年( )佐賀県師範学校を卒業。
明治 年( )佐賀市立日新小学校に勤務。
ここで、「相撲体操」を作詞・作曲する。
昭和10年(1935)台湾新竹州新竹尋常小学校に勤務。
昭和16年(1941)新竹州竹南宮前国民学校に勤務。
昭和17年(1942)新竹州新竹郡新埔国民学校に校長として勤務。
昭和20年(1945) 月、終戦によって新埔国民学校が廃校となる。
昭和21年(1946)台湾より引き揚げる。
同年、佐賀県立有田工業高等学校に体育教師として勤務(1年間のみ)。
通勤の列車の中で民謡「ひし売り娘」(後に「菱やんよう」と改題)を作詞する。
佐賀県師範時代に知り合った原岡研一がこの詞に曲をつけた。
昭和23年(1948)「ひし売り娘」の発表会を開く。この時、NHKラジオで放送される。
昭和24年(1949)11月21日 昭和24年12月10日の官報第6874号に、11月21日「法務府教官 二級に陞叙」とある。このころ法務府教官をしておられたようです。
昭和29年(1954)8月、ビクターから「ひしやんよう」としてレコードが発売される。
昭和34年(1959) 3月、『栄城人国記』(佐賀県佐賀中学校、佐賀高等学校出身者の銘々伝)を佐賀新聞社から発行。ここに(経歴としてか?)「佐賀少年刑務所補導部長、佐賀刑務所補導部長」と出ている由です。
昭和38年(1963)新たに「ひしやんよう」をビクター合唱団がレコードに吹き込む。
同年、逝去。享年57。
昭和29年(1954)8月にビクターから発売されたレコード「ひしやんよう」について
豆田光夫作詞
原岡研市作曲
小沢直与志編曲
ビクター女声コーラス
ビクターオーケストラ伴奏
〇 このレコードは、YouTube に出ています。ここでこのレコードを聞くことができます。(2024年7月2日付記)
→ YouTube「ビクター女声コーラスの
ひしやんよう」
(ビクターレコード 1963年発売。
ビクター女声コーラス、ビクターオーケストラ)
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このレコードは、国立国会図書館に歴史的音源として保存されています。しかし、国立国会図書館または歴史的音源配信提供参加館でしか聴取することができないのが残念です。
お近くの図書館が歴史的音源配信提供参加館になっていれば、そこで聞くことができます。
→ 国立国会図書館歴史的音源「ひしやんよう」
→ 歴史的音源について
『九州のうた100ーその風土とこころー』(朝日新聞西部本社編、朝日ソノラマ・昭和57年6月30日発行)に収め
られている「菱やんよ―」の歌詞の注に、「最初、「ひし売り娘」で発表されたが、間もなくレコード化され、「菱やんよー」に改題された。昭和三十八年、新たにビクター合唱団がレコードに吹き込んだ。盆踊りに振り付けられたこともあるが、調子が踊りに合わず定着しなかった。豆田光夫は、ほかにも「ひし取り娘」「佐賀の子守唄」など地元の新民謡を精力的につくった」とあります。
そして、作詞者豆田光夫について次のように紹介してあります。少し長くなって恐縮ですが引用させていただきます。
十年余り台湾で過ごし、終戦直後、引き揚げてきた作詞者・豆田光夫(三十八年に五十七歳で死去)にとって、この秋の風物詩は「ふるさと」のにおいだった。
昭和二十一年から一年間、佐賀県西松浦郡有田町の有田工高で体育教師。詩は佐賀市の自宅から通勤する列車の中でつくった。これに佐賀師範学校時代に知り合った原岡研市が曲をつけた。当時は混乱期。世相は暗い。「なんとか気持ちのやすまる歌を」が二人の願いだった。二十三年、発表会でNHKラジオの電波に乗り、県民に親しまれるようになった。
豆田はなくなる前、ヒシ売りの模様を回想、記している。
「ひし売りの女たちは、つくつく法師の鳴き声とともに夏が終わろうとするころ、町々を呼び売りするのです。多くは嫁入り前の衣裳かせぎという若い娘たちで、ひと秋の稼ぎが着物二、三枚になったといいますから、農家の娘たちにとっては、ばかにならないアルバイトだったわけです。近ごろのジャズ的文化に押し流されて、すっかりひし売り娘の呼び声が聞こえなくなったのは何となくさびしいことです」
佐賀県音楽教育研究会が編集した小学生用の音楽学習ノートに「郷土の歌に愛着を」と掲載されている。(以上、同書108~109頁)
『九州のうた100ーその風土とこころー』(朝日新聞西部本社編、朝日ソノラマ・昭和57年6月30日発行)は、国立国会図書館デジタルコレクションに入っています。
ただし、この本は送信サービスで閲覧可能の資料なので、見る場合は、利用者登録をするか、利用可能の図書館で見るか、そのいずれかの方法で見る必要があります。
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国立国会図書館デジタルコレクション
→『九州のうた100ーその風土とこころー』
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「菱やんよー」(
57/210)
『さがの歴史・文化お宝帳』というホームページに、「民謡菱やんよう」について「佐賀の新民謡。作詞者・豆田光夫、作曲者・原岡研一」と出ています。(作曲者の名前は「研市」でなく「研一」となっています。)
作曲者の原岡研一は、作詞者・豆田光夫とのコンビで「菱やんよう」をはじめ10曲の作曲を生み出したとありますので、豆田光夫先生はほかにも多くの作詞をなさっているようです。
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『さがの歴史・文化お宝帳』
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「民謡菱やんよう」
『佐賀新聞七十五年史』(佐賀新聞社、昭和35年12月15日発行)に、新民謡「ひし売り娘」の発表会が行われたことが出ています。佐賀新聞社が昭和23年7月中旬から8月中旬にかけて他社と共催で多彩な夏の行事を繰りひろげた中に、7月13日夜は佐賀市公会堂で「郷土出身豆田光夫氏の新作詞民謡発表会」がおこなわれた、とあります。(同書、420~422頁)
豆田光夫先生の作曲された歌
ここに取り上げた歌(メロディー)は、国民学校時代に豆田先生に教えていただいた歌です。何となく豆田先生が作詞・作曲された歌だとして覚えています。
残念ながら歌詞は覚えていないのですが、歌詞の中に「南寮浜(なんりょうはま)」という言葉がありました。「いざや鍛えんわが腕(かいな)」という言葉もあったように思いますが、はっきりしません。
取り敢えずメロディーを聞いてみてください。
→ 豆田光夫先生の作曲された歌
音楽指導家・古川としこ先生のホームページに、「菱餅を見ると歌います。佐賀新民謡」というページがあって、参考になります。
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音楽指導家・古川としこ
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「菱餅を見ると歌います。佐賀新民謡」
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(注) |
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懐かしい豆田光夫先生のことをまとめて書いておきたいと思い、こんなページを作りました。 |
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