資料678 野内浮石について
野内浮石について
野内浮石について、おおよそ次のようなことが分かっていました。
浮石は、姓を野内といい、正徳3年(1713)、常陸国久慈郡相川村(現、大子町)の生まれ。諱は太春。字は、子陽。湘江、浮石、と号し、また、吾止叟とも称したようです。俗称、兵八。荻生徂徠の高弟・服部南郭に学び、南郭亡きあとは郷里に帰り、農耕の傍ら詩文に耽り、悠々自適の生活を送ったようです。天明5年(1785)8月6日没、享年73。法名は儒達院博彦徧碩居士。著作として、漢詩集『浮石詩草』5冊、『護鷄集』3冊などがありましたが、『浮石詩草』の彰考館蔵本は昭和20年の戦災で焼失、また、『護鷄集』も残っていないようです。
最近、こんな記事を目にしました。少し古いのですが、平成11年(1999)9月1日発行の『ほない歴史通信』第12号(「遊史の会」編集発行)に、吉成という署名で「近世の村と知識人」という題の文章が出ていました。そこに浮石についてこう紹介がしてあります。
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野内浮石(東郊斎) 相川村の人で若くして江戸に遊学して、荻生徂徠の高弟服部南郭に徂徠学を学び、水戸に戻り塾を開き、朱子学一色だった水戸に徂徠学を導入した。水戸彰考館の総裁だった立原翠軒をして野内大先生といわしめたほどの人物。後、郷里へ帰り近郷近村の子弟を教育して一生を終えたという。また絵もよくしたという伝承が残っている。(吉成)
ここに出ていることで、新しく分かったことは、次の事柄です。
1.東郊斎と号していたということ。
2.水戸に戻って塾を開いたということ。
3.立原翠軒に野内大先生と言われたということ。
4.晩年郷里で近郷近村の子弟を教育したということ。
5.絵もよくしたという伝承があるということ。
これらのことを確かめたいのですが、何を見て調べればいいのか、今のところ見当がつきません。取り敢えずここに記録しておきます。それにしても、著書がすべて失われてしまったということが残念でなりません。
なお、
野内浮石に関する資料には、次のものがあります。
資料533 野内太春著「浮石詩稿」目次
資料531 野内太春著「浮石詩稿」
資料537 野内太春著「浮石詩稿」注(暫定)
資料269 野内浮石の寿蔵碑について
資料564 野内浮石の「悼亡詩」
(2024年10月21日)
(注)
1.
野内浮石の事蹟の詳しいことは分かっていません。
2.
『ほない歴史通信』第12号(平成11年(1999)9月1日「遊史の会」発行)は、次で見られます。
→
『ほない歴史通信』第12号
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