資料674 夏目君の片鱗(藤代素人) 



        夏目君の片鱗   藤代素人

  「オイ夏目!」
 これが僕の夏目君に懸けた最後の言葉となつた。それは昨年一月十八日に両国国技館の春場所で、偶然君を見懸けた刹那、思はず僕の口を迸り出た不用意の一語である。
 時も時、折も折、此思懸けない場所で、此思懸けない無遠慮の呼声に、君も少々驚いた風であつたが、僕を見ると帽を脱いで、「失敬」と云つた限り、二の句を続がずに志す席へと足を運ばれた。君の方では案外であつたに相違ないが、僕は此日に此場所で君を見ることを幾分期待して居つた。それは君が国技館の相撲をよく見物に出掛けると云ふ記事が新聞に出てもゐたし、前日雑司ケ谷の K君を訪問したら、「昨日大塚が夏目君を誘つて一所に来る積りで来懸に寄つたら、相撲見物に行つた留守であつた相だ」と云ふ話を聞いて居るから、今日君を見懸けたのも別段不思議とは思はなかつた。
 何時も東京へ出る度に一度君を訪問したいと思つて居ながら、生来の無性が祟をなして終に其志を果さなかつた。唯一度君の近所に親類があつて其家を宿として居る時、訪問したら生憎君は不在だつた。其頃君は散歩の序か何か僕が車で其家を出懸る時偶然通り合はせたことがある。其時も話をする暇もなく別れた。君は妙な所から僕が出たと思つたらしく、其家の標札を眺めた。それから一度九段の能楽堂で御前能があつた時、食堂で君に出合ひ、君の説を聴きに行かうと思つてると言つたら、君のを聞かせて呉れと云はれたことがある。最近数年間に於て君と顔を合はせたのは此位のもので、其都度頗る本意ない別れをしたと思つてる。特に残念に思ふのは去年の八月、鎌倉でS君に逢つた時、京大文科から兼て夏目君に講演を頼んだのであるが、一度も実行して呉れないと云つたら、今度君が行つて懇望して見給へ、多分承知するだらうと云ふ話しで、此次に上京したら是非其話を切出して見ようと思ひ込んで居たのに、こんな事になつて仕まうたのは、実に終生の恨事である。
 夏目君の話は大分新聞雑誌にも出たから、更に珍らしい種子を追加することも出来ぬが、唯僕が友人として君に交際した方面に就いて、少しく話して見たいと思ふ。
 君が英文学科に入学したのは明治廿三年であつた。帝国大学に英文学科を設けられてから、第一期の学生は我々と同年の立花君であつた。其翌年には志望者がなくて、一年置いて君が来られた。今度英文科の新入者は大分英語に堪能で、〇〇先生とは英語でばかり話してる相だと云ふ評判であつた。其評判を裏書すると思ふ事実がある。それは其頃歴史の先生でリースと云ふ独逸人があつた。此先生の英語には大抵の学生が参つて仕舞つたので、一同分り悪(にく)い下手な英語と極めたのであるが、夏目君はリースの英語は独逸人としては余程宜い方だと云つた。君から此話を聞く前に僕は或る独逸人にリースの英語は分り悪くて困ると訴へたら、そんな筈は無い。あの人は日本へ来る前二度も英国へ研学に行つてるから、英語は確かだと言はれた事がある。それでも半信半疑で居たが、夏目君の話を聞いてから、すると矢張り我々の耳が至らないのだと悟つた。
 学生時代には君が寄宿舎の食堂へ来る都度我々の部屋へも立寄られたが、其頃君は制服の上へ兄さんから譲られたとか云ふ、スコツチの脊広を着て居たことを覚えて居る。一度遊びに来ないかと誘はれて、牛込喜久井町まで同行したことがある。君の部屋でどんな話をしたか思出せないが、君が浄瑠璃にも中々名文句がある。「啼く蟬よりは中々に啼かぬ蛍が身を焦がす」などは面白いぢやないかと語つたのを記憶して居る。其頃でも君は学生としては蔵書家の方で、英文学の書物が可成り書架に並んで居た様だ。
 君が三年生の時、『哲学会雑誌』が『哲学雑誌』と改題して少し世間向の材料を加へようと云ふ方針になつた。君も編輯員の一人として雑録の原稿を担当して居たが、或時英国の催眠術師の記事を寄せた時、中に「豊頰細腰の人も亦行く」と云ふ文句があつて同人間の注目を惹いた。それから君は英文雑誌の受売を屑(いさぎよし)とせずして『英国詩人の天地山川に対する観念』とか云ふ題で自家の研究を発表した。君が文藻に豊かなることは、此頃既に同学間の推賞する所と成つた。
 君は其後寄宿舎に入舎した相であるが、其頃僕は神経衰弱に罹つた一人の従弟が、親戚の別荘で美術学校の入学試験準備中であるのを、監督がてら退舎して、其方に行つて居たから、寄宿舎時代の夏目君を全く知らない。所が君が東京を去つて松山中学へ赴任する際、早稲田の英文科に後任として出て呉れと頼まれた。僕の英語素養は余程覚束ないもので一応は断はつたが、「何に君なら屹度(きつと)遣れる」と云ふ君の一言に浮かと乗つて引受けた。君も僕の英語を買被つて居たのだが、僕が君の跡釜に据わらうと云ふむら気を出したのは一期の不覚で、僕の英書講演は散々の不成績で一学期の終りにソコソコに逃出して仕舞つた。後に此事を君に話したら「左様だつた相だなあ」と云つて君は苦笑して居た。
それから君が熊本の高等学校時代に僕を熊本へ呼ばうとして、S君を以て交渉して来たが、其頃の僕は東京を離れる気にどうしても成れぬので、応じなかつた。
 明治卅三年に今の東大文科学長が専門学務局長をして居られる時、始めて高等学校教授を外国に留学せしむる一新例を開かれた。其時君と僕とが外国語研究の為め派遣せられる事になつた。君は熊本から東京へ出て、当時貴族院書記官長の職に在られた岳父の官舎に足を留めた。僕は其官舎に君を訪問したが、今度留学生となるに就いて腑に落ちない廉(かど)を、専門学務局長に話して来たと云つた。其話の内容は何であつたか聞洩したが、僕は唯西洋に行かれると云ふことが一図に嬉しくて、腑に落ちない事も何も無かつた。君が斯う云ふ際にも内に省みて深く慮る所があるのは、流石だと感じた。此時の一行は文科の芳賀君と農科の稲垣君と陸軍軍医の戸塚君と都合五名であつた。高山樗牛君も同行の筈であつたが、出発間際に喀血して見合はせることになつた。
 支度万端に就いて僕は或独逸人を顧問としたが、服などは向ふへ渡つてから新調した方が宜いと云ふので、寄せ集め物で間に合はせたが、君は森村組の仕立てなら、何処へ出しても恥かしくない相だと云つて、其通り実行した。実際君の服装が一番整うて居た。汽船だけは僕の主張が容れられて、独逸船で行くことに極まつたが、普魯士(プロシア)軍隊式の給仕頭の横暴には、一番多く折衝の局に当つた僕が少からず悩まされた。
 神戸碇泊中諏訪山の中常盤で午餐を認めた。其時大阪から告別に出向いた僕の妹夫婦が三歳の甥を連れて来た。一同風呂に這入つた時、君がよく甥の面倒を見て呉れたことを今でも妹は感謝して居る。其晩当時湊川神社の宮司であつた芳賀君の厳父に晩餐に招かれ、灘酒の風味に上戸連は羽目を外したが、酒を嗜まぬ君には多少迷惑であつたらう。
 一行中馬鹿に飯の好きな人があつて、愈(いよいよ)長崎が日本料理の食納めだと云ふので、向陽亭に上つて、風呂上りの浴衣姿と云ふ日本独特の快味を飽くまで貪ぼつた。長崎湾口を出る時、丁度上海から入港して来たハムブルク号から、夕暗の空を破つて「君が代」の曲が聞える。我プロイセン号の音楽隊は独逸国歌を以て之に酬ゐた。独逸国歌と英吉利国歌とは全然同一の曲であるから、英文学専攻の夏目君も会心の笑を湛へたに相違ない。横浜埠頭を離れる際には、恰も入込み来つた仏国汽船に敬意を表する為め、我プロイセン号は馬耳塞(マルセイエーズ)の曲を奏した。かう云ふ風に日英仏独の四国は音楽の微妙なる力により、握手交歓してる体で、我々は世界が一家に成つた様な気分になれた。
 上海の見物を済ませて本船に帰つた頃、颱風の襲来に遭ひ、船を呉淞河口に留めて風伯の本隊を遣り過したが、発船後も余波は中々強かつた。一行中芳賀君一人は剛の者で毫も船に酔はない。其他は皆似たり寄たりの弱虫達であつたが、中で夏目君が一番弱かつた。其頃から胃弱病に罹つて居たのではあるまいか。颱風後の航海では芳賀君が面の憎い程船に強くて、今日は食堂に出る人が少ないから、ウント食つて遣ったと云ふ様に、自慢話をする。我々は枕も上らぬ病人の様に床上に呻吟して、部屋ボーイに一品二品を枕頭に運ばせ命を繋いでるのである。ドンナに威張られても一言も無い。海の上では迚(とて)も敵はないから陸で讐を取つて遣れと心窃かに思ひ定めた。香港でピークに登つた時此機逸すべからずと、トウトウ頂上まで引張り上げた。夏目君は学生時代に文科には珍らしい機械体操の名人であつたから、此位の山を登るのは朝飯前だ。他の二人揃ひも揃つた青瓢簞ではあるが、目方が軽いだけに何の事はなかつた。独(ひとり)芳賀君は一橋時代に豚と異名を授けられた程だから、途中で弱音を出して幾度か下山を主張したが、僕は委細構はずピークの絶巓まで漕ぎ付けた。併し頂上からの眺めは亦一段の絶景で、芳賀君も淋漓たる流汗を十分償うて余りあつたことと僕は確信して居る。
 古倫母(コロンボ)でうるさく附纏ふ乞丐(こじき)の子供に、君が態々(わざわざ)両換した小銭を振撒いても、猶執念く附いて来るので、辛抱強い君がステツキを揚げた姿は、今に目に残つてる様だ。
 船中では書生時代の気分に立戻つて、お互いに揶揄したり、悪口を言合つたりしたこともあるが、総体君は求めずして自から上品な紳士の態度を得て居た。上海からは英米の宣教師が妻子眷属を引連れ二十名余り乗船した。何れも風采から見ると、迚も人を感化する力は無さ相に思はれたが、中には可なり職務に忠実な向もあつて、熱心に伝道を試みる。夏目君は其一人に見込まれて、神の存在と云ふ様な問題で、哲学的見地から対手を手古擦らしたこともある。或時僕は君と文学の話をした中に、君は今迄和漢洋の文学を研究して居るが、何一つ是れが分つたと思ふものは無い。唯俳句のみは其趣味を解し得た様に思ふと云つたことがある。君が漱石と云ふ号で日本新聞やら、雑誌『ホトヽギス』に俳句を寄せると云ふ噂は其前から聞いて居たが、其方面の注意を全然怠つて居た僕は、君がそれ程造詣の深いことは知らなかつた。船中からも君は東京の根岸で病を養つて居る子規氏へ折々句を贈つた様である。
 古倫母から亜丁(アデン)までの航海が一番長いので、一行は渡欧後の準備として独逸語やら仏蘭西語やらの俄勉強に取懸つたが、君は英文小説の耽読一点張りであつた。
 以太利(イタリー)に着く前に一行間の問題となつたのは、当時巴里に万国博覧会があつて、ヂエノアから巴里へ行けば間に合ふ。それとも博覧会を断念してナポリで上陸しポンペイを見て羅馬に行かうかと云ふのであつた。出発前東京で坪井先生に旅行中の心得を承はつた時、巴里の博覧会などは、赤毛布(あかゲツト)の奥山見物と同然だ。それよりはナポリで上陸して、ポンペイ、ペスツムを見物し、羅馬で一週間位滞在した方が、遙かに気が利いてると云はれた。所が一行中の多数は以太利は留学中でも行かれるが、博覧会は今度でなければ見られないと云ふので、巴里行に決した。留学期中以太利へ行き損つた僕は、あの時坪井先生の忠告に従へば宜かつたと後悔してる。併し夏目君は以太利観光に熱心と云ふ訳でもなし、博覧会も強いて見たいと云ふ風でも無かつたらしい。唯目的地の倫敦へ行くには巴里を経由するが一番便利である。そこで初めから其積りで巴里でも二三の人に面会する予定だつたらしい。けれども若し一行の多数意見が以太利見物に傾いたら、夫れにも反対を唱へなかつたらうと思はれる。兎に角君は航海中始終超然主義とでも云ふ樣な態度を執つて居た。
 ナポリ碇泊中にも敏捷な船客はポンペイの見物を済ました人もあるが、我々は不慣れのことではあり、以太利案内者の乞食根性に就いては随分警戒を加へられて居るから、市内の見物だけで船に還つた。ヂエノアで船を乗捨てゝモン・セニーの隧道を夜間に通過して巴里に着いた。大博覧会は二日程見物したら厭気がさして、ルウブルも見ず、グランドペラも覗かず倫敦へ渡る夏目君と袂を分つて他の四人は伯林(ベルリン)へと志したのである。
 程経て伯林の或る料理店から数名の日本人連署の絵葉書を夏目君に贈つたら、「君達は賑かで羨ましいね。僕は一人ポツチで淋しい」と云ふ意味の返事が来た。其後「巴里で懐郷病の講釈を谷本君から聴かされたが、此頃になつて成程と思当ることがある」と云ふ様な手紙もあつた。「一度賑かな我々の方へ遣て来ないか」と言送つたら、「大陸へ渡る気分にはなれない」と云ふ挨拶だつた。
 立花の銑さんが病気で帰朝するとき、君は常陸丸へ尋ねて行つて、「銑さんは可哀相だ、実に気の毒だ」と云ふ文通があつた。其の頃既に「縁起の悪い船」と云ふ評判を立てられた常陸丸が香港を離れると間もなく銑さんは船中で瞑目したのである。銑さんは帰朝の航海中芳賀君へ宛てた書信の都度、俳句めいたものを書送つたが、倫敦碇泊中の端書に「戦争で日本負けよと夏目云ひ」と云ふ一句があつた。憂国の士を以つて自ら任じ、人からも許された同君と常陸丸の船室で夏目君が会見した折り、倫敦辺に迂路付いて居る、片々たる日本の軽薄才子の言動に嘔吐を催ほして居た君が、此奇矯の言を吐いた光景が目に見える様である。
 我々の留学は満二年の期限であつた。其期の満つる一ケ月程前に「夏目ヲ保護シテ帰朝セラルベシ」と云ふ電命が僕に伝へられた。これは君の精神に異状があると云ふことが大袈裟に当局者の耳に響いた為めである。それでなくても僕は無論同船して帰朝する積りで、其前に君と打合せを仕て置いた。所が倫敦へ着くなり郵船会社の支店へ行くと、事務員が「夏目さんは一度乗船を申込んで置きながらお断りになりました」とさも不平らしく訴へる。「若し同船して帰ると云たら船室の都合は附きますか」と聞いたら、「それはどうにかなりませう」と云ふ返答だ。そこで夏目君に端書を出したら翌朝僕の下宿へ来て呉れた。君より前に来て居たO君は、例の電報を取次いだ関係で、是非一所に連れて帰れ、荷物の始末は跡でどうにでも付ける。あゝいふ電報のあつた以上若しもの事があつたら君は申訳はあるまいと熱心に同行を主張する。兎に角同行を勧めて見ようと答へて置いて、其日は夏目君とナシヨナル、ギアレリーを一所に見て、午餐を共にし、それから君の下宿に一泊した。君が帰朝を後らせることになつたのは、蘇格蘭(スコツトランド)へ旅行して、予定よりも長逗留をし、荷物が出来ない為めだ。そこで荷造りは人に頼んで体だけ僕と一所に帰つたらどうかと再三勧めて見たが、どうしても応じない。成る程君の部屋には留学生としてはよくもこんなに買集めたと思ふ程書籍が多い。これを見捨てゝ他人に後始末を任せると云ふことは僕にしても出来相もない。それに今日一日見た様子では別段心配する程の事もないらしい。此上無益な勧告を試みるでもないと僕は断念した。其翌日君にケンシントン博物館と図書館を案内して貰ひ、図書館のグリル・ルームで一片の焼肉でエールを飲んだ。「モウ船までは送つて行かないよ」と云ふ言葉を最後に別れた。
 君は僕より二船後れて明治丗六年の正月帰朝した。それから後の消息は新聞やら雑誌やらに、委敷(くわしく)出て居るから一切省略する。思へば我々一行五人の内戸塚君は数年前物故した。芳賀君と稲垣君とは目下再度外遊中である。すると今日本に残つて居る者は僕一人である。君が人物を評し君が作物を論ずる適任者は世上其人に乏しくあるまい。唯あの長途の旅行を共にした一人として、僕は適不適を顧みる遑なく此一篇を綴つて見たのである。
                          ──  一九一七(大正六)年二月


  (注) 1.  上記の「夏目君の片鱗」(藤代素人)は、『定本漱石全集』別巻 漱石言行録(猪野謙二編、岩波書店 2018年2月27日第1刷発行)によりました。    
    2.  本文中の平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、同じ文字を当てて表記してあります。(ソコソコ、トウトウ)    
    3.  この本文に太字にしてある文字は、原文に傍点が施してある文字です。(むら気、うるさく    
    4.  藤代素人の「夏目君の片鱗」について、同全集の後記「別巻について」に次のようにあります。
        * * *
   藤代素人:夏目君の片鱗
 
雑誌『芸文』(鶏声堂書店)第八年第二号(大正六(一九一七)年二月一日発行)に掲載。署名は「素人」。『芸文』は、京都帝大文科大学の「京都文学会」の編集に係る雑誌である。
 藤代素人(ふじしろそじん)(一八六八  ─  一九二七)は、千葉県生まれのドイツ文学者。本名は禎輔(ていすけ)。
   
    5.  夏目漱石は大正5年12月9日、胃潰瘍により亡くなりました。藤代素人の「夏目君の片鱗」は、その翌年の大正6年2月に書かれたものです。    







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