『硝子戸の中』に私(わたし)のことを東北生れだとあるが、盛岡が故郷です。明治十六年に上京して、駿河台の成立学舎に通ひ出した。そこで初めて夏目君を知つたのですね。予備門に入つたのは、明治十七年でした。他の学校から来た連中とは自然気の合はぬ所もあり、『満韓ところどころ』の中へ出て来る佐藤友熊だの、橋本左五郎だの、それから西園寺公に附いてゐる中川小十郎だのと云つたやうな、成立学舎から来た連中ばかりが集まつて「十人会」といふのを組織しました。勿論、その中には夏目君も、私も加はつてゐました。中村是公は成立学舎出身ではないが、あゝいふ気性だから、やはり気が合つたものと見え、「十人会」の一人になつてゐました。正岡子規はその時分は未だ別の仲間でした。『満韓ところどころ』を見ると、誰も彼もよく怠けて、落第したやうに書いてありますね。あれは現存の人だから一寸名前を云ふことを憚るが、数学の教師に
えらい厳格な先生があつて、主にその人のお蔭で名士が大分(だいぶ)落第しました。答案を英語で書かせるのは勿論、教室内の説明も英語でさせるんだから敵ひません。正岡子規なぞ黒板(ボード)の前に立たされて、何やらぐづぐづ云つてゐるが、数学の問題そのものは分つてゐても、英語で説明するんだから、なかなか思ふやうにしやべれない。すると忽ち、What'
what? Repeat again! とやられるもんだから、随分弱つてゐました。
私は「十人会」の中でも、夏目君とは特に親しくしてゐました。馬場下の家へもよく遊びに行つたものです。夏目君もよく来てくれました。『硝子戸の中』に私のことを「貧生」と書いてありますが、金がなかつたものだから倹約のために、千駄木林町の大観音の側(わき)で、友達と二人で自炊生活をしたことがありました。間中雲帆といふ漢詩人の住んでゐた家の離座敷(はなれ)で、四畳半一間きり、それを無代(たゞ)で貸してくれましたが、金をとらない代りには、朝早く起きて水を汲んでくれといふのです。何しろ四畳半の部屋に二人の机も本箱も置いてあるんだから、二人の寝床を敷くだけでも随分狹い。そこへ持つて来て、夏目君が時々遊びに来て泊って行くんだから、全く無理な話でした。餅菓子の代りに煮豆を買つて来て喰はせたのは事実ですが、自分の家がありながら、そんな狹い所に泊つて行く奴も泊つて行く奴です。
「十人会」の他(ほか)の連中は、多くは神田猿楽町の末富屋といふ下宿屋にゐました。佐藤友熊なぞもその一人ですね。或時この「十人会」で江の島の一泊旅行を企てたことがありました。会費は一人前十銭です。その時分は汽車はまだ横浜までしかない。汽車があつてもなくつても、十銭の会費だから汽車になんか乗れない。片道十六里の道程(みちのり)を歩いて行つて、歩いて帰る予定で、勿論日帰りには出来ないから、着いた晩は弁天様のお宮の拝殿ででも泊らうといふ趣向でした。丁度その前晩は根津の遊廓に火事があつて、大観音のあたりも、騒いでゐると一時になつた。それから寝ずに飯を焚いて、三度分の握飯を拵へて腰に附けたまゝ、私はすぐに出掛けました。末富屋に同勢が打揃つて、いざと云ふので出発しましたが、夜明け方品川の宿(しゆく)に着く時分になると、穿き馴れぬ草鞋に、私はもう足が痛くなりました。その頃東京では、あれが粋(いき)なつもりでせうが、実に細い瓢簞形(なり)の草鞋を売つてゐたものです。あれを穿いてゐたからたまらない。それでも辛抱をしいしい神奈川まで着いて、一同土手に腰掛けたまゝ、先づ午飯(ひるめし)のつもりで持つて来た握飯の包みを開いたが、私はこれから未だ七八里もあらうといふ藤沢まで行つて、それから江の島へ渡つて、更に明くる日十六里の道を歩いて帰ることは到底出来さうもない。いつそ自分はこゝから一人別れて帰ると云ひ出した。すると衆皆(みんな)が、実は吾々も黙つてはゐるが足は痛いのだ。ここ迄来て、一人先へ帰るといふ法はない。是非我慢して一緒に行けといふものだから、私もその気になつて又歩き出した。日もとつぷり暮れて、何でも夜の八時頃藤沢へ着いたが、更に又労れた足を引摺るやうにして、片瀬の海岸まで辿り着いた。見ると、海水が漫々として、江の島の影は見えるが、思つたよりも海は広く、何処から渡つていゝかさつぱり分らない。今の様に桟橋なんてえものはないのだ。実を云ふと、それ迄に江の島へ来た覚えのあるものは柴野(中村是公)一人で、是公が案内役の格だから、何うして渡るんだと聞くと是公も、さあ困つたな、この前来た時はこんな筈ぢやなかつたがと云ふばかりで、一向埒が明かない。それに夜も更けて、労れてはゐるし、仕方がないから、一同砂地の窪みで、めいめい持つて来た毛布に包まつたまゝ、野宿をすることにした。処が、夜半(よなか)にぽつりぽつり小雨が降り出して、海岸だから風は吹く。夜が白んで、物の文色(あいろ)が見えるやうになつた頃、お互ひの顔を見ると、どれもこれも吹き附けられた砂がへばり着いて、真黒になつてゐた。おまけに一行中の真水英夫(ひでを)(工学士)の脚絆が見えないと云つて騒ぎ出す。夜半に犬が吠えてゐたやうだから、犬でも啣へて行つたんぢやないかと云ふ者があつて、捜して見ると、やつぱり砂浜の藻屑の中へ啣へて行つてあつた。こゝらは『満韓ところどころ』の中に書いてある通りです。私なぞも江の島旅行を想ひ出すたびに、屹度真水英夫の脚絆が目に泛んで来るから不思議なものですよ。
そこで砂の上に蹲(うづくま)つたまゝ、朝飯に竹の皮包みの握飯を喰つた覚えがあるから、弁当は確に三度分持つて行つたんです。その間(うち)に夜が明け放れて、江の島の家並みがはつきり見える頃になると、向ふ岸でも五六人の男が出て来て、頻りにこつちを見てゐたが、江の島見物の客人だと見当をつけて、ぞろぞろこつち側へ渡つて来た。それが見物の旅人(たびびと)を負(おぶ)つて渡す人足だつたんですね。しかし無代(ただ)ぢや渡してくれない。こつちは昨日(きのふ)からの強行軍で十銭の会費は残り少なになつてゐるし、これは全く予算外の支出だから、すつかり弱つてしまつた。で、会費以外に持つてゐる者は出せ出せと云つて集めましたが、未だ何に要るか分らないし、こゝでめいめい負(おぶ)さつて渡るわけには行かない。仕方がないから、誰か一人だけ負(おぶ)つて渡して貰って、自余(あと)の連中はその後(あと)に
くつ附(つ)いて海の中を渡渉(かちわた)ることに相談を極(き)めました。そこで誰が負さるかといふ段になると、夏目が真先(まつさき)に「おれが 負さる」と云ひ出した。そこらは素早(すばや)い男でしたよ。
かうして兎に角江の島へ渡りましたが、さて道をどつちへ取つていゝか、柴野もうろ覚えでよく分らない。まゝよと、坂の下から東の方へ這入つたら、宿屋の庭へ出てしまつた。丁度女中が雨戸を繰つてゐる処で、吾々の顔を見ると吃驚(びつくり)して、「こんなに早く、あなた方は一体どこでお泊りになつたのです? 前の何屋さんですか」と聞くから、まさか砂の上とも云はれず、「あゝ、そこで泊つたよ」と好い加減に答へて置きました。それからその女中に道を聞いて、石段を登つて弁財天の祠(ほこら)にも参詣した上、兎に角江の島を一巡して、岩屋にも詣でました。
で、江の島を後にして、七里ケ浜の砂浜伝ひに──えゝ、その時分は衆皆(みんな)足が痛くてたまらぬものだから、本当に波打際の砂の濡れた所ばかり選(よ)つて歩くやうにして、やうやう鎌倉へ辿り着きました。午飯は何処で喰つたか覚えてゐませんが、鶴ケ岡八幡宮の石段の下まで来た時には、私なぞもう腹は減るし、足は痛いし、どうにもその石段を登るだけの勇気がなかつた。しかし元気のいゝ連中はそれを駈け上つて、石段の上から、「おい、実朝とか頼朝とかの宝物が見せて貰へるんだ、早く上つて来い!」と喚ぶんですがね。下の連中はもうそんな宝物なぞ何うでもえゝ。そんな物見るだけの金が剰つてゐたら、石段の下の甘酒屋で甘酒でも飲むから銭を放(はふ)つてくれと云ひましてね、上から放つて貰つた銭で甘酒を飲んだ覚えがありますよ。その時分あそこに甘酒屋が屋台店を張つてゐたものです。で、他の連中は宝物を見て降りて来ましたが、今日中(けふぢう)に東京まで帰るには余程急がなければならない。足が痛んで歩けない者だけ横浜から汽車に乗せることにして、それだけ後に残して置いて、他の連中はこれから駈足で戻らうといふことになりました。前にも云ふ通り、私は昨日神奈川から帰らうと云ひ出した位だから、私ともう一人小城と申しまして、工科を出て、日露戦争の時には船に乗り込んでゐて、露西亜へ捕虜になつて行つた経験のある男ですが、この二人だけが汽車に乗つて帰る権利を許されました。夏目君も最初は駈足で帰る組に入りましたが、遣り切れなくなつて、途中から汽車に乗り込んだものと見え、私達が猿楽町の末富屋へ戻つて休んでゐると、夜晩くなつて一人で先に帰つて参りました。他の連中はずつと後れて帰つたやうなわけです。この江の島旅行の話は、夏目君の筆で委しく書いて置いてくれると、余程面白いものが出来たやうに思ひますがね。
夏目君の英語がよく出来るのには、正岡子規も服してゐたやうですが、私は成立学舎時代から感服してゐました。つまりその解釈の力ですね。ひとり英語ばかりでなく、漢籍の読破力も恐ろしいものがあつた。その当時『虞初新誌』といふ雑誌が出てゐたが、全篇漢文で書いてある。それを成立学舎時代から楽に読んでゐて、私にも面白いから読めと云つて勧めたものです。夏目君は又米山(保三郎)狩野(亨吉)なぞとも交遊があつて、大学時代にはそれ等の人々と共に『哲学雑誌』を編輯してゐました。当時君は塩原姓を名告つてゐましたが、「米の山と塩の原とは面白いぢやないか」なぞと云つてゐたのを覚えてゐます。私は理科だが、さう云つたやうな文科の連中とも交際してゐましたので、雑誌の出来るたびに、一冊づゝくれましたよ。尤も、狩野君は理科を卒業してから、更に文科を遣り直したものですがね。
予備門が第一高等中学校と改称されたのは、たしか明治十九年のことだと記憶してゐます。私どもが予科三年の時でした。つまり大学から一年だけ高等中学校へ降(おろ)して、本科二年、予科三年としたのですね。その代り大学はそれ迄四年であつたのが、三年になりました。そして、本科は現在のやうに文科、理科と分れてゐました。で、予科から本科へ移る時、夏目君は文科に行き、私は理科に入つたのです。所謂角帽が制定されたのは、明治十八年頃、私どもの予備門時代であつたと思ひます。大学の予備門だから、私どもも角帽を被つてゐました。その時分の予備門なり第一高等中学校なりは未だ一ツ橋にあつて、私なぞ大観音の傍(そば)から白山の坂を下つて、水道橋を渡つて、毎日てくてく歩いて通つたものですよ。
私は大観音の傍(そば)へ移る前に、本郷の真砂町に下宿してゐました。私の下宿は四辻の一角にあつて、その筋向ふの角屋敷(かどやしき)が菊池大麓さんのお邸でした。下宿屋の横には五六人の人力車夫が屯(たむろ)してゐて、お客があると、例の繩で作つた籤を引いては、当つた者ががらがらツと人力車(くるま)を曳き出すと云つた工合、時々私の部屋の窓を見上げては、「旦那、今何時ですかい」なぞと聞いたものです。今から思へば、全く呑気な風景でしたね。その下宿まで、夏になると、夏目君は毎日のやうに早稲田からてくてく歩いて来て、私を誘い出した上、又二人で一緒にてくつて、両国の水泳場まで通つたものでした。帰りには又わざわざ真砂町の下宿へ立ち寄つて、さんざ話してから戻つて行く。大学の水泳場はその頃初めて設けられたもので、私達ばかりでない、上級生では林権助さんも、狩野さんもよく通つて来られました。中にも、穂積陳重さんの倫敦仕込みの水泳術なんてえものを見せ付けられたものです。私は郷里盛岡の北上川の縁(へり)で育つて、兎に角素人ながら泳ぐことだけは出来ましたが、夏目君は
から初心者でした。或時初めて遠流し──つまり現今の遠泳ですね──あれが行はれて、両国橋の下(しも)から満潮(さししほ)に乗つて言問まで泳ぐことになりました。処が、ゴールに入つたのは私と土屋員安(かずやす)君の二人だけで、夏目君なぞは出場するにはしたが、途中でへばつてしまひました。兎に角、初めての遠流しにゴールに入つたといふので、その当時二人は
やんやと云はれましたよ。
それから短艇(ボート)も漕ぎました。その時分いろんな色の帽子を造つて被ることが流行つたもんだから、吾々の仲間でも黒い帽子を被ることにして、Black
Club と名づけました。よく向島へ出掛けたものですよ。又その頃大学に乗馬会といふものが出来て、夏目君も、是公も、私も、狩野君も入(はひ)つてゐました。講道館へは、夏目君は通(かよ)つたかしら? 何でも遣りよつたから、多分少しは通つたらうと思ひます。私は勿論通ひましたが、例のルーズベルトの前で試合をして、最近歿(な)くなつて十段を追贈せられたといふ、何とか云ひましたね、さうさう山下八段はその時分は未だ二段でした。その他(ほか)外来のスポーツとしては庭球も遣りました。その時分はロオンテニスと云つたものです。初めは一ツ橋にあつた予備門の芝生の上で、よく先生方が球(まり)の打ち合ひをしてゐられたが、未だ規則も何もない、決して本物のテニスではなかつたでせう。成立学舎の向側に三菱──現今の郵船会社でせうね──その三菱の船長をしてゐたクレーブスといふ外人が住んでゐて、その庭で時々テニスをしてゐました。これは本物のテニスだつたんでせうね。しかし高い黑板塀が廻(めぐ)らしてあつたから、私どもはたゞ塀の下から覗いて見るだけでした。最後に野球ですが、前にも申す通り、その頃大学は一ツ橋にあつて、今の赤門内は一面に草ぼうぼうの野原で、たゞ天文台だけがあそこに置いてありました。で、天文台関係の人達だけがその草原で時々ベースボールをやる。ベースボールと云つても、ベースも何も置いてあるわけではない、たゞ球(たま)を打つて、それを何人かで受け留めるだけですがね。私も夏目も予備門の生徒だから、あの辺へ遊びに行くと、人数の都合上仲間に入れと云はれて、時
たま球を受け留める役に廻つた。或時夏目が球を受け取り損ねて、睾丸(きんたま)に当つたものと見え、頻りに「痛い、痛い!」と云つてゐたが、明くる日から学校を休んで出て来ない。さては球が睾丸に当つたせゐだなと心配してゐたが、よく聞いて見ると、その前からお汁粉を飲み過ぎて盲腸炎になつたのでした。
お汁粉と云へば、私と夏目君とは上野あたりへ散歩した序に、よく根岸の岡野でお汁粉を飲んだものです。その帰りに又山下の瓢月へ寄つて、お汁粉を飲む。金が乏しいから、岡野ぢや腹存分喰へなかつたからでせう。これ程甘い物が好きでゐながら、或時夏目君が「龍口のやうな
だらしのない奴はない、あんな奴とは今後絶交だ」とぷんぷん云つてゐるから、何うしたんだ? と聞き返すと、「彼奴(あいつ)は豚汁の中へ餡(あん)こを入れて煮て喰はせる、あんな汚ならしい真似をされては敵はない」と云ふのです。夏目君がどこか斉然(きちん)とした所のあるのに対して、龍口了信は実際
だらしのない男でした。元来広島県の生れで、中村是公と竹馬の友であつた処から、吾々の仲間へも入つて来たのですが、酒が好きで、大学の寄宿舎では一番隅の部屋にゐましたのでスチームの鉄管からちびちび湯気が凝つて垂れる、それを金盥(かなだらひ)に受けて置いて、その中で薬瓶(くすりびん)に詰めた酒の燗をしては飲んでゐました。或晩龍岡町の豊国で、米山と龍口と私の三人で十二時過ぎまで飲んでゐたことがありましたがね、やうやう龍口を引摺るやうにして鉄門の前まで戻つて来ると、もう門扉はぴたりと閉つてゐる。それを大きな声で怒鳴つて、やうやう門を開けて貰つたが、門衛が睡(ねむ)さうに出て来て、「一体何うなすつたんです?」と訊ねる。「こんな始末だ」と、そこの石橋の上に寝転(ねころ)がつてゐる龍口を指し示して、「後は頼むよ」と云ひ置いたまゝ、吾々は寄宿舎の自分の部屋へ帰つて寝てしまひました。処が、明くる朝食堂へ行つて見ても、龍口の顔が見えない。何うかすると、昨夜(ゆうべ)あのまゝ戻らなかつたんぢやないかと心配して、龍口の部屋へ行つて見ましたが、当人は平気で蒲団の中に寝てゐるんですね。何うしたんだと聞くと、なに、お前達が置いて行つてしまつたから、寄宿舎の入口が分らない。屋根へ攀ぢ登つて、二階の窓から這入り込んだが、その時少々顔に負傷(けが)をしたと云ふのです。成程、頰のあたりに
かすり疵(きづ)を負うてゐました。その時まで夏目のことを顔に痘痕(あばた)があるから「疵面漢、疵面漢!」と呼んでゐましたが、これからは「疵面漢」の称号を龍口に譲らうぢやないかといふことになりました。
「疵面漢」といふのは、当時朝日(比)奈和泉が東京日々新聞を編輯してゐましたが、朝日奈と同期の金田楢太郎といふ地質学専攻の理学士が大学院に入つて来て、私と同室にゐました。そんな関係で朝日奈から金田の許へ毎日新聞を送つて来まして、私もそれを読まして貰ひましたが、其の紙上に誰の作だか『疵面漢』といふ小説が載つてゐた処から、何時(いつ)となく夏目君のことを「疵面漢、疵面漢」と云ひ習はせたものですね。この金田君といふ人は、これは又極めて無頓着な面白い男で、卒業後農商務省の嘱托になつて熊本県へ出張した時、県の紫溟会の連中と喧嘩をしたり、九州の旅行先から本省へは無断で朝鮮へ遊びに行つたりしたので、間もなく農商務省の嘱托も解かれて、再び大学院へ入つて来たのです。一つは年も若かつたからでせうね。さういふ無頓着な性質だから、同室の友人の許(ところ)へ来た手紙でも無断で開封する。後に高等師範の教授になつた大幸勇吉君は、それと反対に極めて真面目な男でしたが、その人の許へ来た縁談に関する書状を机の抽斗から出して読んだといふので、大幸君が非常に憤慨したこともありました。そこで私が「君は金田楢太郎でなくて、油断楢太郎だ」と云ふと、「それぢや君は太田達人ではなくて、腹野達人だ」と云ひ返したことを覚えてゐます。そんな質(たち)でしたが、学問は非常によく出来て、私なぞが
Hansknecht の "German Course" で落第までさせられてゐる時、金田君は独乙語どころか、仏蘭西語の "
Les
Mis
érables"
を原書ですらすら読んでゐました。それが地質学専攻の理学士だから驚きましたよ。
話しは余談に亘りましたが、私なぞは理科出身で文学のことはよく解らない。時々中学校長会議で東京へ出て来た時、龍口が「中村是公は学校時代はあまり出来なかつたが、偉い物になつた。夏目はあの頃から文章が巧かつたが、いよいよ冴えて来た」と云ふので、はゝあ、そんなものかなと思つた位のものです。私が学校を出てから夏目君の宅を訪問したのは、牛込の矢来にゐられた時だと覚えてゐます。駒込千駄木町へ移る前に、一寸矢来に住んでゐたことがあるでせう。あの頃です。何でも小さなお嬢さんが二人許りゐられて、こんなに女の子ばかり生れては困るとこぼすから、なに、僕の同郷の先輩に花輪虎太郎といふ英文学者がある。(後に
"Museum"
といふ英文雑誌を出してゐた、あの人ですよ。)その人が金沢の四髙に教授をしてゐられた時、やはり女の子が多かつたが、僕は巡査以上の男なら誰でもくれてやる積りだから構はないと云つてゐられた。その積りにさへなれば心配はないよと云つてやつたことがありました。その次ぎに訪問したのは、『硝子戸の中』にも出てゐるやうに、早稲田の宅でした。あれは私が樺太にゐた時分のことで、帰つて見ると、「あなたの事が新聞に出てゐる」と、会ふ人毎に云ふものだから、私も読んで見ました。何でもあの時私は九段の招魂社側(わき)の旧藩主の邸を訪ねてから、早稲田へ廻つたのでした。その時旧藩主の邸でお茶菓子に栗饅頭が出たのですが、私はそれをハンケチに包んだまゝ持つて夏目の家(うち)へ寄ると、そこでも栗饅頭が出たのですね。それから夏目と二人で家(いへ)を出て電車に乗ると、『硝子戸の中』にも書いてあるやうに、夏目が私の持つてゐるハンケチの包みに目を附けて、「何だ」と聞くから「栗饅頭」だと答へると、「何時の間にあの栗饅頭を持つて来たのか」と驚いてゐました。私も別に旧藩主の邸から貰つて来たとは云はなかつたから、夏目君はとうとうそれとは知らずに死んだわけです。
修善寺の大病の時は、私も樺太にゐて危篤の電報を受取りました。あそこから出て来るわけにも行かないので、已むを得ず返電だけ打つて置きましたが、後で狩野君に会つた時、その話しをすると、僕もあんなにせずともとは思ふんだがと云つてゐました。それから七回忌の法要の行はれた時には、私も誰か昔の友人に会へるつもりでお寺まで出掛けましたが、誰も知つた顔がない。後で又狩野君に会つてその話しをすると、たしか菅はゐた筈だが、菅に会はなかつたかねと云つてゐました。お互ひに年を取つたから、菅虎雄君がゐたにしても、混雑の際でもあり、双方で顔が分らなかつたのでせうね。(談)
── 一九三六(昭和十一)年・二月
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(注) |
1. |
上記の「予備門時代の漱石」(太田達人)は、『定本漱石全集』別巻 漱石言行録(猪野謙二編、岩波書店
2018年2月27日第1刷発行)によりました。 |
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2. |
本文中の平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、同じ文字を当てて表記してあります。(ところどころ、ぐづぐづ、なかなか、しいしい、めいめい、ぽつりぽつり、やうやう、ぞろぞろ、出せ出せ、てくてく、がらがら、さうさう、ぼうぼう、ぷんぷん、ちびちび、すらすら、いよいよ) |
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3. |
この本文に太字にしてある文字は、原文に傍点が施してある文字です。 |
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4. |
太田達人「予備門時代の漱石」について、同全集の後記「別巻について」に次のようにあります。
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太田達人:予備門時代の漱石
『漱石全集』(昭和十年版)月報第三号、第四号(岩波書店、昭和十一(一九三六)年一月七日、同二月十日発行)に掲載。
同月報に連載された森田草平編の「漱石先生言行録(未定稿)」の「三」「四」として発表された談話筆記であるが、その冒頭に次のような編者のことばがある。
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「硝子戸の中」に「私が高等学校にゐた頃、比較的親しく交際(つきあ)つた友達の中に
O といふ人がゐた」とある。その
O が太田達人氏である。最初は匿名で書き出してあるが、終りになつて、「私は彼を想ひ出すたびに、達人といふ彼の名を考へる。すると其名がとくに彼のために天から与へられたやうな心持になる」と明らさまに書いてゐられるから、私がこゝに O
は太田氏のことだと明記しても別段差支へはあるまい。先生は実に太田氏のことをしんみりとした、幾分尊敬の念の籠つた親愛の情を以て叙してゐられる。それを読めば分るやうに、氏は先生と同期の大学予備門の生徒で、理科大学卒業後は、地方の中学校長に歴任し、支那にも行つて、最後は樺太にも赴任せられた。現今は東京の郊外に余生を娯しんでゐられる。 |
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太田達人(たつと)(一八六六 ─ 一九四五)は岩手県生まれ。
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5. |
ここにいう予備門とは、東京大学予備門のことで、『広辞苑』第7版に、次のように出ています。
東京大学予備門=1877年(明治10)設立。第一高等中学校(後の旧制第一高等学校)の前身。
これをまとめると、
1877年(明治10年) 東京大学予備門設立。(単に「予備門」「大学予備門」とも言われる。)
1886年(明治19年) 第一高等中学校となる。
1894年(明治27年) 第一高等学校(旧制第一高等学校)と改称。 |
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