資料65 弘道館記(原文)



           
弘 道 館 記
 

 

 弘道館記
 弘道者何人能弘道也道者何天地之大經而生民不可須臾離者也弘道之館何爲而
 設也恭惟上古
神聖立極垂統天地位焉萬物育焉其所以照臨六合統御㝢内者未嘗不由斯道也
寶祚以之無窮國體以之尊嚴蒼生以之安寧蠻夷戎狄以之率服而
聖子神孫尚不肯自足樂取於人以爲善乃若西土唐虞三代之治敎資以賛
皇猷於是斯道兪大兪明而無復尚焉中世以降異端邪説誣民惑世俗儒曲學舎此從彼
皇化陵夷禍亂相踵大道之不明於世也蓋亦久矣我
 東照宮撥亂反正尊
王攘夷允武允文以開太平之基吾祖 威公實受封於東土夙慕
 日本武尊之爲人尊神道繕武備 義公繼述嘗發感於夷齊更崇儒敎明倫正名以藩
 屏於  國家爾來百數十年世承遺緒沐浴恩澤以至今日則苟爲臣子者豈可弗思
 所以推弘斯道發揚  先德乎此則館之所以爲設也抑夫祀
 建御雷神者何以其亮天功於草昧留威靈於茲土欲原其始報其本使民知斯道之所
 繇來也其營孔子廟者何以唐虞三代之道折衷於此欲欽其德資其敎使人知斯道之
 所以益大且明不偶然也嗚嘑我國中士民夙夜匪解出入斯館奉  神州之道資西
 土之敎忠孝无二文武不岐學問事業不殊其效敬神崇儒無有偏黨集衆思宣群力以
 報  國家無窮之恩則豈徒   祖宗之志弗墜
神皇在天之靈亦將降鑒焉設斯館以統其治敎者誰權中納言從三位源朝臣齊昭也
 天保九年歳次戊戌春三月齊昭撰文并書及篆額
 

 

 

 

 

  (注) 1.  本文は、碑文の拓本の画像をもとに、いくつかの書物を参考にして表示しました。          
    2.  闕字・改行は、碑文の通りにしてあります。(スマホでご覧の方は、改行が正しく表示されない恐れがありますので、ご注意ください。)
 
(拓本の画像が注7にありますので参照してください。)
   
    3.  碑の上部には、斉昭公揮毫の「弘道館記」の4文字の篆額が、2行・縦右書きで書かれています。文字の左右には、1頭ずつの竜が彫られています。    
    4.  本文3行目の「宇内」の「宇」は、原文ではウ冠に「禹」の字が使ってあります。    
    5.  碑文の文字の上端が不揃いになっていることについて、但野正弘著『水戸烈公と藤田東湖『弘道館記』の碑文』に次のように出ていますので、引用させていただきます。
 〇擡頭
(たいとう)……最高の敬意を表す語句(神聖・寶祚・聖子神孫・神皇など)は、文の途中であっても改行し、1字分を上に突出させて表記する。
 〇平出
(へいしゅつ)……右に次いで敬意を表す語句(東照宮・日本武尊・建御雷神など)は、文の途中であっても改行するが、突出はさせない。
 〇闕字
(けつじ)……表敬第3位にあたる語句(威公・義公・國家・先德・神州など)は、1字ないし3字、字間をあける。

 『広辞苑』(第6版)も引いておきます。
 〇擡頭(たいとう)=上奏文などで高貴の人に関した語を、普通の行よりも高く上に出して書くこと。
 〇平出(へいしゅつ)=文中に高貴の人の名や称号などを書く時、敬意を表すため、行を改めて前の行と同じ高さにその文字を書くこと。
 〇闕字(けつじ)=文章中に、天皇・貴人の名などを書く時、敬意を表すため、そのすぐ上を一字か二字分あけて書くこと。闕如。
   
    6.  碑文の文字数について
 碑文は1行最大35字、全20行で、1行目の題と、最終行の年次・撰文者名等を除く本文が18行、闕字等を除いて491字。1行目の題が4字、最終行の年次撰文者名等が20字なので、碑面の文字数は、全部で515字となります。(上部の篆額の文字は除く。)
   
    7.  『京都大学貴重資料データアーカイブ』「維新特別資料文庫」があり、そこで「弘道館記」の三つの拓本の画像を見ることができます。一つは朱拓本です。
   
「弘道館記」の拓本(1) 
   
弘道館記」の拓本(2)……朱拓本
   
「弘道館記」の拓本(3) 
   
    8.  「弘道館記」の比較的新しい解説書としては、但野正弘著『水戸烈公と藤田東湖『弘道館記』の碑文』(水戸の碑文シリーズ2 水戸史學会 平成14年8月15日発行、錦正社発売)があります。この本の巻頭でも、碑の拓本の写真を見ることができます。    
    9.  文化庁文化財部記念物課の『特別史跡旧弘道館 東日本大震災に伴う弘道館碑等の復旧事業報告書』(2015年3月)があり、参考になります。
 その第1章が「弘道館碑の沿革」です。
  → 文化庁
  →特別史跡旧弘道館 東日本大震災に伴う弘道館碑等の復旧事業報告書』
  →「第1章 弘道館碑の沿革」
   
    10.  「弘道館記」の拓本は、弘道館入口の売店(塀の入口を入ってすぐ右手にある祥雲堂北澤売店)で入手できます。(印刷ではなく、また碑からの手拓ではなく、木版手摺りの拓本です。)
 北澤売店には、そのほか「梅里先生碑陰并銘」の拓本や水戸斉昭公の書「巧詐不如拙誠」の拓本、藤田東湖の「正気の歌」の拓本などがあり、農人形や笠間焼の湯飲み茶碗、「弘道館記」や「梅里先生碑陰并銘」「偕楽園記」などの本文を収めた『水府精華』という小冊子、絵葉書などがあります。

 
『くろばね商店会』のホームページに、写真による北澤売店の紹介のページがあります。
 ○ また、
『義一のページ 旅行情報館─国内編─』というホームページの中に、「水戸の歴史を今に映す拓本づくり北澤彦一さん」という紹介のページがあります。
   
    11.  『水戸観光コンベンション協会』のホームページに、 「弘道館」の案内のページがあります。
   
    12.  参考までに、「弘道館」「弘道館記」を辞書でひいておきます。

 〇弘道館 …… 水戸にあった藩校。1841年(天保12)藩主徳川斉昭
(なりあき)の創設。水戸学の淵叢(えんそう)。尊王攘夷を鼓吹。斉昭が設立の趣旨を述べた「弘道館記」がある。佐賀藩・彦根藩などにも同名の藩校があった。(『広辞苑』第6版による)
 〇弘道館記(こうどうかん・き) …… 弘道館の教育方針を宣言した書。一巻。藤田東湖が起草、1838年徳川斉昭の名で公表。その注釈書「弘道館記述義」(東湖著、1847年成立)とともに水戸学の精神を伝える。
(『大辞林』第二版による)
   
    13.  次に、『水戸市史 中巻(三)』(水戸市役所、昭和51年2月25日発行)に掲載されている「弘道館記」の書き下し文(同書、940~942頁)を参考にさせていただいて、書き下し文を書いておきます。読み方や文の切り方、漢字を旧字体に改めるなど、元の書き下し文に手をくわえてあります。また、漢字の読みは現代かなづかいにしてあります。
 末尾近くの「……以て國家無窮の恩に報いなば、則ち豈に徒
(ただ)に祖宗の志、墜(お)ちざるのみならんや、」の部分は、ここでは文が切れずに下へ続いていると考えられるので、「墜(お)ちざるのみならんや、」と、句点でなく読点で切りました。

   弘道館記
弘道とは何ぞ。人能
(よ)く道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大經(たいけい)にして、生民(せいみん)の須臾(しゅゆ)も離るべからざるものなり。弘道の館は、何の爲に設くるや。恭(うやうや)しく惟(おもん)みるに、上古、神聖、極を立て統を垂れたまひ、天地位(くらい)し、萬物育(いく)す。其の六合(りくごう)に照臨し、㝢内(うだい)を統御したまふ所以(ゆえん)のもの、未(いま)だ嘗て斯(こ)の道に由らずんばあらざるなり。寶祚(ほうそ)、之(これ)を以て窮(きわまり)無く、國體、之を以て尊嚴、蒼生(そうせい)、之を以て安寧、蠻夷戎狄(ばんいじゅうてき)、之を以て率服(そっぷく)す。而(しこ)うして聖子神孫、尚ほ肯(あ)へて自(みずか)ら足れりとせず、人に取りて以て善を爲すを樂しみたまふ。乃(すなわ)ち、西土(せいど)唐虞(とうぐ)三代(さんだい)の治敎(ちきょう)の若(ごと)き、資(と)りて以て皇猷(こうゆう)を賛(たす)けたまふ。是(ここ)に於て、斯の道兪(いよいよ)大いに、兪明らかにして、復た尚(くわ)ふるなし。中世以降、異端邪説、民を誣(し)ひ世を惑(まど)はし、俗儒曲學、此(これ)を舎(す)てて彼(かれ)に從ひ、皇化陵夷(りょうい)し、禍亂相踵(あいつ)ぎ、大道(だいどう)の世に明らかならざるや、蓋(けだ)し亦久し。我が東照宮、撥亂反正(はつらんはんせい)、尊王攘夷、允(まこと)に武、允に文、以て太平の基(もとい)を開く。吾が祖威公(いこう)、實に封(ほう)を東土に受け、夙(つと)に日本武尊の爲人(ひととなり)を慕ひ、神道を尊び、武備を繕(おさ)む。義公、繼述(けいじゅつ)し、嘗て感を夷齊(いせい)に發し、更に儒敎を崇(とうと)び、明倫正名(めいりんせいめい)、以て國家に藩屏(はんぺい)たり。爾來(じらい)百數十年、世(よよ)遺緒(いしょ)を承(う)け、恩澤に沐浴(もくよく)し、以て今日に至る。則ち苟(いやし)くも臣子たる者、豈(あ)に斯の道を推弘し、先德を發揚する所以を思はざるべけんや。此れ則ち館の、爲(ため)に設けらるる所以なり。抑(そもそ)も夫(か)の建御雷神(たけみかずちのかみ)を祀(まつ)るものは何ぞ。其の天功を草昧(そうまい)に亮(たす)け、威靈を茲(こ)の土(ど)に留むるを以て、其の始を原(たず)ね、其の本に報い、民をして斯の道の繇(よ)つて來(きた)る所を知らしめんと欲するなり。其の孔子廟を營むものは何ぞ。唐虞三代の道、此(ここ)に折衷するを以て、其の德を欽(うやま)ひ、其の敎を資(と)り、人をして斯の道の益(ますま)す大いに且つ明らかなる所以の偶然ならざるを知らしめんと欲するなり。嗚嘑(ああ)、我が國中(こくちゅう)の士民、夙夜(しゅくや)(おこた)らず、斯の館に出入(しゅつにゅう)し、神州の道を奉じ、西土(せいど)の敎を資(と)り、忠孝二无(な)く、文武岐(わか)れず、學問事業其の效を殊(こと)にせず、神を敬ひ儒を崇(とうと)び、偏黨あるなく、衆思を集め群力を宣(の)べ、以て國家無窮の恩に報いなば、則ち豈に徒(ただ)に祖宗の志、墜(お)ちざるのみならんや、神皇(しんこう)在天の靈も亦た將(まさ)に降鑒(こうかん)したまはんとす。斯の館を設けて以て其の治敎(ちきょう)を統(す)ぶる者は誰(たれ)ぞ。權中納言從三位(じゅさんみ)源朝臣(みなもとのあそん)齊昭なり。
 天保九年歳次戊戌春三月、齊昭撰文并びに書及び篆額。
   
    14.  上に引いた『水戸市史 中巻(三)』に、「弘道館記」についての解説が出ていて大変参考になりますので、次に引用させていただきます。なお、詳しい解説や藤田東湖の『弘道館術義』についての解説等は、同書を参照してください。
 全文の大意は、最初に、館名である「弘道」の語が、「人、よく道を弘む。道、人を弘むるに非ず」という「論語」(衛霊公篇)の一節に基づくことを示して、道を実践すべき主体としての人の社会的責務を明らかにし、その「道」とは、天地の大道であり、人である限り離れることのできない、普遍的な性格のものであることを述べる。次に、弘道館の設立された目的は何か、という設問のもとに、その「道」によって古来の日本が正しく治められてきたこと、中世には一時その「道」が見失われようとしたが、徳川家康の功績により、再び正道に反り、特に水戸藩では、藩祖の頼房と光圀によって道を尊ぶ伝統が形づくられて来たことを述べ、その恩沢に浴してきた藩士とその子弟らは、この「道」を推し弘めることを使命とすべきである、と説く。この「道」の由来する所は、一面では日本の建国の神話にあるから、弘道館の中に建御雷神を祭るのは、その事実を想起させるためである。他面から見ればこの道は、中国から伝えられた儒教の道とも一致し、儒教によってこの道の内容は一層大きく且つ明確にされたのであるから、その儒教思想を代表する孔子の廟を、併せて弘道館の中に置くのである。そしてこの弘道館で学ぼうとする者は、神儒一致、忠孝無二、文武不岐、学問と事業との一致、などの諸点に留意し、互いに協力して国恩に報いるべきである、と結んでいる。(同書、942頁)

 
なお、この部分の執筆担当者は、巻末の「執筆一覧」によれば尾藤正英氏の由です。
   
    15.

 次に、名越漠然著『水戸弘道館大観』(茨城出版社 昭和19年7月10日発行のものを昭和56年4月5日に再発行したもの)から、「弘道館記」の書き下し文を引いておきます。(振り仮名は括弧に入れて示しました。また、平仮名の「こ」を潰した形の繰り返し符号は、「々」を以て代用しました。

   
弘道館記
 弘道とは何ぞ。人能く道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大經
(たいけい)にして、生民の須臾(しゆゆ)も離るべからざる者なり。
 弘道の館は、何の爲に設くるや。恭
(うやうや)しく惟(おもん)みるに、上古神聖、極(きよく)を立て統を垂れたまひ、天地位(くらゐ)し、萬物育す。其の六合(りくがふ)を照臨し、㝢内(うだい)を統御したまひし所以の者、未だ嘗て斯の道に由りたまはずんばあらざるなり。寶祚(ほうそ)之を以て無窮、國體之を以て尊嚴、蒼生之を以て安寧、蠻夷戎狄(ばんいじゆうてき)之を以て率服(そつぷく)す。而るに聖子神孫、尚ほ肯(あへ)て自ら足れりとせず、人に取りて以て善をなすことを樂しみたまへり。乃ち西土(せいど)唐虞(たうぐ)三代の治敎の若(ごと)きは、資(と)りて以て皇猷(くわういう)を賛(たす)けたまへり。是に於て、斯の道兪々(いよいよ)大に兪々明かにして、復た尚(くは)ふるものなかりき。中世以降、異端邪説民を誣(し)ひ世を惑はし、俗儒曲學此(これ)を舎(す)てゝ彼に從ひ、皇化陵夷(りようい)し、禍亂相踵(つ)ぎ、大道の世に明かならざるや蓋し亦久しかりき。我が東照宮、撥亂反正(はつらんはんせい)、尊王攘夷、允(まこと)に武允(まこと)に文、以て太平の基を開きぬ。吾が祖威公、實に封を東土に受け、夙(つと)に日本武尊の人と爲りを慕ひ、神道を尊び、武備を繕(をさ)む。義公繼述し、嘗て感を夷齊(いせい)に發し、更に儒敎を崇び、倫を明かにし名を正し、以て國家に藩屏(はんぺい)たりき。爾來百數十年、世々遺緒(ゐしよ)を承け、恩澤に沐浴(もくよく)し、以て今日に至る。則ち苟も臣子たるもの豈斯の道を推弘し、先德を發揚する所以を思はざるべけんや。此れ則ち館の爲に設けられし所以なり。
 抑々も夫
(か)の建御雷神(たけみかづちのかみ)を祀るものは何ぞや。其の天功を草昧(さうまい)に亮け、威靈を茲の土に留めたまへるを以て、其の始を原(たづ)ね其の本に報い、民をして斯の道の繇(よ)りて來る所を知らしめんと欲するなり。其の孔子廟を營むものは何ぞや。唐虞三代の道此(こゝ)に折衷(せつちゆう)するを以て、其の德を欽(きん)し、其の敎を資り、人をして斯の道の益々大に且明かなる所以の偶然ならざるを知らしめんと欲するなり。
 嗚呼、我が國中の士民、夙夜
(しゆくや)(おこた)らず斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の敎を資り、忠孝二无(な)く、文武岐(わか)れず、學問事業其の效を殊(こと)にせず、神を敬ひ儒を崇び、偏黨あるなく、衆思を集め羣力(ぐんりよく)を宣べ、以て國家無窮の恩に報いなば、則ち豈徒(ただ)に祖宗の志墜(お)ちざるのみならんや、神皇在天の靈も亦た將(まさ)に降鑒(かうかん)したまはんとす。
 斯の館を設けて以て其の治敎を統
(す)ぶる者は誰ぞ。權中納言從三位源朝臣(みなもとのあそん)齊昭(なりあき)なり。
  天保九年歳戊戌に次
(やど)る春三月 齊昭撰文并に書及び篆額

14  
    16.  次に、『日本思想大系 53 水戸学』(岩波書店、1973年4月28日第1刷発行)所収の書き下し文を載せておきます(同書、230~231頁)。

   弘道館記
 弘道(こうどう)とは何ぞ。人、よく道を弘(ひろ)むるなり。道とは何ぞ。天地の大経(たいけい)にして、生民(せいみん)の須臾(しゅゆ)も離るべからざるものなり。弘道の館は、何のために設けたるや。恭(うやうや)しく惟(おもん)みるに、上古、神聖、極(きょく)を立て統(とう)を垂(た)れたまひて、天地位(くらい)し、万物育(いく)す。その六合(りくごう)に照臨し、㝢内(うだい)を統御したまひし所以(ゆえん)のもの、未だ嘗(かつ)て斯道(このみち)に由(よ)らずんばあらざるなり。宝祚(ほうそ)、これを以て無窮、国体、これを以て尊厳、蒼生(そうせい)、これを以て安寧、蛮夷戎狄(ばんいじゅうてき)、これを以て率服(そっぷく)す。しかも聖子神孫、なほ肯(あ)へて自(みず)から足れりとせず、人に取りて以て善をなすことを楽しみたまふ。すなはち西土(せいど)唐虞(とうぐ)三代の治教(ちきょう)のごときは、資(と)りて以て皇猷(こうゆう)を賛(たす)けたまへり。ここに於て、斯道(このみち)いよいよ大に、いよいよ明らかにして、また尚(くわ)ふるなし。中世以降、異端邪説、民を誣(し)ひ世を惑(まどわ)し、俗儒曲学、此(これ)を舎(す)てて彼(かれ)に從ひ、皇化陵夷し、禍乱相踵(あいつ)ぎ、大道(だいどう)の世に明らかならざるや、蓋(けだ)しまた久し。
 我
(わ)が東照宮、撥乱反正(はつらんはんせい)、尊王攘夷、允(まこと)に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。吾が祖威公(いこう)、実に封(ほう)を東土に受け、夙(つと)に日本武尊(やまとたけるのみこと)の為人(ひととなり)を慕ひ、神道を尊び、武備を繕(をさ)む。義公(ぎこう)、継述(けいじゅつ)し、嘗(かつ)て感を夷斉(いせい)に発し、さらに儒教を崇(とうと)び、倫(りん)を明らかにし、名を正し、以て国家に藩屏(はんぺい)たり。爾来(じらい)百数十年、世(よよ)、遺緒(いしょ)を承(う)け、恩沢に沐浴(もくよく)し、以て今日(こんにち)に至れり。すなはち苟(いや)しくも臣子(しんし)たる者は、豈(あ)に斯道を推(お)し弘(ひろ)め、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや。これすなはち館の、為(ため)に設けられし所以なり。そもそも、夫(か)の建御雷神(たけみかずちのかみ)を祀(まつ)るものは何ぞ。その、天功(てんこう)を草昧(そうまい)に亮(たす)け、威霊をこの土(ど)に留めたまへるを以て、その始を原(たず)ね、その本(もと)に報(むく)い、民をして斯道の繇(よ)りて来るところを知らしめんと欲するなり。その孔子廟を營むものは何ぞ。唐虞三代の道、ここに折衷するを以て、その徳を欽(きん)し、その教を資(と)り、人をして斯道のますます大にして且つ明らかなる所以の、偶然ならざるを知らしめんと欲するなり。
 嗚嘑
(ああ)、我が国中(こくちゅう)の士民、夙夜(しゅくや)(おこた)らず、斯(こ)の館に出入し、神州(しんしゅう)の道を奉じ、西土の教を資(と)り、忠孝二无(な)く、文武岐(わか)れず、学問・事業、その効(こう)を殊(こと)にせず、神を敬(うやま)ひ儒を崇び、偏党(へんとう)あるなく、衆思(しゅうし)を集め群力を宣(の)べ、以て国家無窮の恩に報いなば、すなはち豈(あ)にただに祖宗の志、墜(お)ちざるのみならんや、神皇(しんこう)在天の霊も、またまさに降鑒(こうかん)したまはんとす。
 斯の館を設けて、以てその治教
(ちきょう)を統(す)ぶる者は誰(たれ)ぞ。權中納言(ごんちゅうなごん)從三位(じゅさんみ)源朝臣(みなもとのあそん)齊昭(なりあき)なり。
  天保九年歳次戊戌春三月、斉昭、撰文、并びに書、及び篆額

   
    17.  岩波文庫に『弘道館記述義』(藤田東湖著・塚本勝義訳注、1940年2月16日第1刷発行・2009年2月19日第5刷発行)があります。
 同文庫のカバーに、「弘道館記述義  明倫正名・尊王攘夷・敬神崇儒等のいわゆる水戸学の政教的基本思想を解明して、幕末維新の思想界に大きな影響を与えた書」とあります。(2009年3月28日追記)
   
       
 
   


       
     
      


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