(注) | 1. |
上記の詩「歸郷」は、国書データベースにある「『山羊の歌』校正刷」の画像によりました。この校正刷は、もとは中原中也記念館にあるものです。 → 国書データベース → 『山羊の歌』校正刷(12,13の画像) この詩の初出は、昭和9(1934)年12月10日、文圃堂書店発行の詩集『山羊の歌』。この詩集は昭和12(1937)年に30歳でこの世を去った中也の生前に刊行された唯一の詩集でした。 |
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2. |
詩の「椽の下」を「縁の下」とした本が多いのは、中也の使った「椽」が常用漢字にないので、「椽」の代わりに「縁」を使っているのでしょう。「えんのした」は「椽の下」「縁の下」のどちらも書くようですが、中也は「椽」を使ったということです。 なお、『山羊の歌』校正刷のこの詩についているルビは、「路傍の傍(ばた)」「故里(ふるさと)」「年増婦(としま)」の3か所だけです。 他の本には、「愁み」に「愁(かなし)み」のルビがついています。「吐く」に「吐(つ)く」というルビがついている本もあります。 |
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3. |
山口市に中原中也記念館があります。ここのホームページに「中原中也について」「中也の生涯」(年譜)のページがあって参考になります。 → 中原中也記念館 |
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4. | 中原中也(なかはら・ちゅうや)=詩人。山口県生れ。東京外語専修科修了。小林秀雄・富永太郎らとの交友を通して、ランボー・ヴェルレーヌの影響を受け、生の倦怠を鮮烈に詩作化。詩集「山羊の歌」「在りし日の歌」。(1907~1937) (『広辞苑』第7版による。) | ||||||||||||
5. |
「帰郷」の詩碑について この詩の詩碑が、山口市湯田温泉2丁目の井上公園にあります。志水晴児(しみずせいじ)氏の設計による黑御影の詩碑の右に、長方形・縦長の説明板がたっています。 → 山口市の歴史文化資源 → 中原中也詩碑「帰郷」[井上公園] 詩碑の右面には大岡昇平の碑文が彫られています。改行は碑文の通りにしてあります。
この詩を書いたのは、大岡昇平の文にもあるように小林秀雄です。(小林秀雄の原稿の段階では、省略はしてなかったのでしょう。また、文字も「故里」「なにを」「云ふ」となっていたのではないでしょうか。) これが私の古里だ さやかに風も吹いてゐて あゝおまへは何をして来たのだと 吹き来る風が私にいふ |
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6. | 講談社文庫『私の上に降る雪は わが子中原中也を語る』中原フク述・村上護編(講談社、昭和56年2月15日第1刷発行)に、中也の母フクさんが、井上公園の詩碑について次のように話しておられます。 中也の詩碑は徳山にあった黒御影で、十トンもあるそうです。それを石彫家の方(志水晴児(しみずせいじ)氏)が、ああいう形に作られました。碑文は大岡昇平さんの文章で、中也の「帰郷」という詩からとった文句は、小林秀雄さんの筆になる文字なのです。 「ぼくは字が下手だから、ずいぶん手習いして書いたんですけど、どうもよく書けておりません。永久にあの字を人に見られるかと思うと、恥ずかしゅうなってしまいます」 小林さんは除幕式前夜の歓迎会のとき、私にこういわれました。私は小林さんが中也のために、じきじきに筆をとってくださったのがうれしゅうて、その時こういいました。 「あなたが心をこめて書いてくださったものじゃから、私にあれを記念にくださいませ」 私はそんなお願いをして、「帰郷」の詩句を書いた小林さんの直筆をいただきました。早速、それを表装しましたが、もともとは二枚の紙に書かれてあったものなんです。それを真ん中で、うまく継ぎ合わしておりました。 これが私の故里(ふるさと)だ さやかに風も吹いてゐる 心置なく泣かれよと 年増婦(としま)の低い声もする あゝ、おまへはなにをして来たのだと…… 吹き来る風が私に云ふ (中也「帰郷」より) 詩碑に刻まれた詩句のなかで、途中の「心置なく泣かれよと/年増婦(としま)の低い声もする」という一節は、どうもよくないと省いてあるんです。大岡さんたちが相談して、「年増婦(としま)」なんていうのが出てくるのは、詩碑にふさわしくないと除かれたんでしょう。(中略) 小林さんからいただいた「これが私の故里だ……」というあの書は、今度の火事で焼けてしまいました。私は表装して大事にしておったんですが、人がしょっちゅう見せてくれといいますから、たいがい床に掛けておりました。ひとつの記念を失ったという意味であの書を焼いたのは残念でなりません。(同書、226 ~228頁) |
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7. |
詩碑の右に、長方形・縦長の説明板がたっています。 説明板の上部に横書きで「中原中也詩碑」とあり、その下に「帰郷」の詩、その下に「解説」、その下に「中原中也」の紹介文が書いてあります。(詩の中に「椽の下」とあるのは、中也の書いた漢字をそのまま示しているわけです。) 中 原 中 也 詩 碑 帰 郷 柱も庭も乾いてゐる 今日は好い天気だ 椽の下では蜘蛛の巣が 心細さうに揺れてゐる 山では枯木も息を吐く あゝ今日は好い天気だ 路傍(ばた)の草影が あどけない愁みをする これが私の故里だ さやかに風も吹いてゐる 心置なく泣かれよと 年増婦(としま)の低い声もする あゝ おまへはなにをして来たのだと…… 吹き来る風が私に云ふ 解 説 詩碑の詩句は『山羊の歌』にあ る「帰郷」から、中也と親交のあ った評論家の小林秀雄と小説家 の大岡昇平が選んだ。碑石は周 南市四熊産の黒御影。碑のデザ インは新鋭の石彫家、志水晴児 が設計し自らノミを振るった。 除幕式は昭和四〇年(一九六五) 六月四日に行われ、小林、大岡 ほか同じく中也と親交のあった 評論家の河上徹太郎、小説家・評 論家の今日出海も出席した。 中原中也 (一九〇七・四・二九~一九三七・一〇・二二) 山口市湯田温泉に生まれる。 小学生の頃から短歌を詠み文学 への情熱は山口の地で育まれた。 十六歳で家族を離れ京都、東京 へと移り詩人としての道を歩む。 フランス詩から多くを学びラン ボーの訳詩集も刊行。一九三四 年に第一詩集『山羊の歌』を出版 し詩壇の評価を得る。晩年鎌倉 へ移り、山口への帰郷を望みつ つ三十年の生涯を閉じた。第二 詩集『在りし日の歌』は死後出版 される。中也の詩は多くの人々 に愛誦され、生誕の地には中原 中也記念館が建てられた。 |
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