曹洞宗のお寺安国寺に、久しぶりにサクラを見に出かけた。サクラが満開になったという放送もあり、天気もよく4月8日のお花まつりの当日でもあったので、多くの人がお参りに来ていた。
大きなしだれ桜は満開で、色鮮やかな躑躅や水仙なども咲いていて、境内は華やかであった。用意されていた小さなお釈迦様のお像に甘茶をかけてお参りした。
境内には、「天童山老典座和尚と若き日の道元禅師」という彫像もあった。老典座が干した椎茸の手入れしているのを見て、若き日の道元禅師が話しかけている場面である。道元禅師が食事を用意する仕事の大切さを教えられたという話を描いた彫像である。
像の下部に「天童山老典座和尚と若き日の道元禅師」という「典座教訓」からの引用文が彫られている。(文字を適当に改めた個所があります。また、振り仮名は引用者が適当に現代仮名遣いでつけました。)
二十四歳の時、
正法(しょうぼう)を求めて宋に渡り、
天童山(てんどうさん)に在(あ)りし時、
本府(ほんぷ)の用典座(てんぞ)、職に充(あ)てらる。
予、斎(さい)罷(おわ)るに因(よ)り、
東廊(とうろう)を過ぎて超然斎(ちょうねんさい)に赴(おもむ)けるの路次、
典座、仏殿前に在つて苔(たい)を晒(さら)す。
手に竹杖(ちくじょう)を携(たずさ)へ、頭(こうべ)には片笠(へんりゅう)も無し。
天日(てんじつ)熱(あつ)く、地甎(ちせん)熱きも、
汗流(かんりゅう)して徘徊(はいかい)し、力を励まして苔を晒す。
稍(やや)苦辛(くしん)するを見る。
背骨(はいこつ)は弓の如く、龐眉(ほうび)は鶴に似たり。
山僧(さんぞう)、近前(ちか)づきて、典座の法壽(ほうじゅ)を問ふ。
座(ぞ)云(いわ)く、六十八歳なり。
山僧云く、如何(いかん)ぞ行者(あんじゃ)人工(にんく)を使はざる。
座 云く、他(た)は是(こ)れ吾にあらず。
山僧云く、老人家(ろうにんけ)、如法(にょほう)なり、天日(てんじつ)且(か)つ恁(かく)の
ごとく熱し、如何(いかん)ぞ恁地(かくのごとく)にする。
座 云く、更に何(いず)れの時をか待たん。
山僧、便(すなわ)ち休(きゅう)す。
廊を歩むの脚下(きゃっか)、潜(ひそ)かに此の職の機要(きよう)たること
を覚(さと)る。 道元禅師「典座教訓」
以下に、道元禅師の『典座教訓』のその部分を紹介したい。
(1)『典座教訓・赴粥飯法』道元著、中村璋八・石川力山・中村信幸訳注(講談社学術文庫1991年7月10日第1刷発行)から石川力山氏担当の「典座教訓」より。
山僧在天童時、本府用典座充職。予因齋罷、過東廊赴超然齋之路次、典座在佛殿前晒苔。手携竹杖、頭無片笠。天日熱、地甎熱、汗流徘徊、勵力晒苔、稍見苦辛。背骨如弓、龍眉似鶴。山僧近前、便問典座法壽。座云、六十八歳。山僧云、如何不使行者・人工。座云、他不是吾。山僧云、老人家如法。天日且恁熱、如何恁地。座云、更待何時。山僧便休。歩廊脚下、濳覺此職之爲機要矣。
訓読文:
山僧(さんぞう)、天童(てんどう)に在(あ)りし時、本府(ほんぷ)の用典座(ゆうてんぞ)、職(しょく)に充(あ)てらる。予(よ)、齋(さい)罷(おわ)るに因(よ)り、東廊(とうろう)を過ぎて超然齋(ちょうねんさい)に赴(おもむ)けるの路次(ろし)、典座(てんぞ)は佛殿(ぶつでん)の前に在(あ)りて苔(たい)を晒(さら)す。手に竹杖(ちくじょう)を携(たずさ)え頭(あたま)には片笠(へんりゅう)も無し。天日(てんじつ)は熱(あつ)く、地甎(ちせん)も熱(あつ)きも、汗流(かんりゅう)して徘徊(はいかい)し、力を勵(はげ)まして苔(たい)を晒(さら)し、稍〃(やゝ)苦辛(くしん)するを見る。背骨(はいこつ)は弓の如く、龍眉(りゅうび)は鶴に似たり。山僧(さんぞう)、近前(ちか)づきて、便(すなわ)ち典座(てんぞ)の法壽(ほうじゅ)を問う。座(ぞ)云(い)う、「六十八歳なり」と。山僧(さんぞう)云う、「如何(いか)んぞ行者(あんじゃ)・人工(にんく)を使わざる」と。座(ぞ)云う、「他(かれ)は是(こ)れ吾(わ)れにあらず」と。山僧(さんぞう)云う、老人家(ろうにんけ)、如法(にょほう)なり。天日(てんじつ)且(か)つ恁(かく)のごとく熱(あつ)し、如何(いか)んぞ恁地(かくのごとく)にする」と。座(ぞ)云う、「更に何(いず)れの時をか待たん」と。山僧(さんぞう)、便ち休(きゅう)す。廊を歩(あゆ)むの脚下(きゃっか)、濳(ひそ)かに此の職(しょく)の機要(きよう)爲(た)るを覺(さと)る。
(2)『永平広録 下巻』道元著(2005年7月30日・河出書房新社初版発行。訓読・注釈・現代文訳=石井恭二
)所収の、該当部分の原典白文と訓読文。
若山僧在天童時、本府用典座充職。予因齋罷、過東廊赴超然齋之路次、典座在佛殿前晒苔。手携竹杖、頭無片笠。天日熱地甎熱、汗流俳佪勵力晒苔。稍見苦辛。背骨如弓、尨眉似鶴。山僧近前便問典座法壽。座云、六十八歳。山僧云、如何不使行者・人工。座云、他不是吾。山僧云、老人家如法、天日且恁熱、如何恁地。座云、更待何時。山僧便休。歩廊脚下、濳覺此職之爲機要矣。
訓読文:
『永平広録 下巻』所収の訓読文。
山僧、天童に在りし時の若(ごと)きは、本府の用典座、充職す。予、因みに斎罷(さいは)に、東廊を過ぎて、超然斎(さい)に赴くの路次に、典座、仏殿の前に在りて苔を晒す。手に竹杖を携へ、頭に片笠(へんりふ)も無し。天日、熱し、地の甎、熱し、汗は流れて滴り徘徊すれども力を励(はげまし)て苔を晒す。稍(やや)、苦辛を見るに、背骨は弓の如く、尨眉(ばうび)は鶴に似たり。山僧、近く前(すす)みて便ち典座の法寿を問ふ。座云く。六十八歳なり。山僧云ふ。如何(いかん)がして行者(あんじや)、人工(にんく)を使はざる。座云く。他は是れ吾にあらず。山僧云ふ。老人家、如法なり、天日、且(そ)れ恁(かくのごとく)熱し、如何ぞ恁地なる。座云く。更に何(いづ)れの時をか待たん。山僧、便ち休す。廊を歩む脚下、潜かに此の職の機要為(た)るを覚る矣。
(3)の1 岸澤惟安著『典座教訓講話』(鴻盟社、昭和10年3月27日発行)所収の原文。
山僧在天童時。本府用典座充職。予因齋罷過東廊。赴超然齋之路次。典座在佛殿前晒苔。手携竹杖。頭無片笠。天日熱。地甎熱。汗流徘徊。勵力晒苔。稍見苦辛。背骨如弓。龍眉似鶴。山僧近前。便問典座法壽。座云。六十八歳。山僧云。如何不使行者人工。座云。佗不是吾。山僧云。老人家如法也。天日且恁熱。如何恁地。座云。更待何時。山僧便休。歩廊脚下。濳覺此職之爲機要矣。
(3)の2 岸澤惟安による訓読文。道元著『永平道元禅師清規:大清規』(故岸澤惟安老師校訳、官養庵
1967年(昭和42年)8月28日発行)にある訓読文です。
山僧(さんぞう)天童(てんどう)に在(あ)りし時、本府(ほんぷ)の用(ゆう)典座(てんぞ)職(しょく)に充(み)てりき。予(よ)因(ちな)みに齋罷(さいは)、東廊(とうろう)を過ぎ、超然齋(ちょうねんさい)に赴(おもむ)く路次(ろじ)、典座(てんぞ)佛殿(ぶつぜん)の前に在(あ)りて苔(たい)を晒(さら)す。手に竹杖(ちくじょう)を携(たずさ)え頭(かしら)に片笠(へんりゅう)無し。
天日(てんじつ)熱(ねつ)し、地甎(ちせん)熱(ねつ)し、汗流れて徘徊すれども、力を勵(はげま)して苔(たい)を晒(さら)し、稍(やゝ)苦辛(くしん)見(あらわ)る。背骨(はいこつ)弓の如く、龍眉(ほうび)鶴に似たり。山僧(さんぞう)近前(きんぜん)して、便(すなわ)ち典座(てんぞ)の法壽(ほうじゅ)を問う。座(ぞ)云(いわ)く、六十八歳。山僧(さんぞう)云く、如何(いか)んぞ行者(あんじゃ)人工(にんく)を使わざる。座(ぞ)云く、佗(た)は是(こ)れ吾(わ)れにあらず。山僧(さんぞう)云く、老人家(ろうじんけ)如法(にょほう)なり。天日(てんじつ)且(か)つ恁(かくの)ごとく熱(ねっ)す。如何(いか)んぞ恁地(かくのごとく)なる。座(ぞ)云く、更に何(いず)れの時をか待たん。山僧(さんぞう)便ち休(きゅう)す。廊を歩(ほ)する脚下(きゃくか)、濳(ひそか)に此の職(しょく)の機要(きよう)爲(た)ることを覺(おぼ)う。
(4)松原泰道著『自己を生き抜く 道元の『典座教訓』を読む』(PHP研究所・昭和58年12月30日第1刷)所収の訓読文。
山僧天童(てんどう)に在りし時、本府(ほんぷ)の用(よう)典座職に充(みて)れり。予因(ちな)みに斎(さい)罷(おわ)って東廊を過ぎり、超然斎(ちょうねんさい)の路に赴く次(つい)で、典座仏殿の前に在りて苔(たい)を晒(さら)す。手に竹杖(ちくじょう)を携え頭(こうべ)に片笠(へんりゅう)無し。天日(てんじつ)熱し地甎(ちせん)熱す。汗流れ徘徨すれども力を励まして苔を晒(さら)す。稍(やや)苦心を見る。背骨(はいこつ)は弓の如く、龐眉(ほうび)は鶴に似たり。山僧近(ちかづ)き前(すす)みて便ち典座の法寿(ほうじゅ)を問う。座云(いわ)く、六十八歳。山僧云く、如何(いか)んぞ行者(あんじや)人工(にんく)を使(つか)わざる。座云く、佗(た)は是れ吾に非ず。山僧云く、老人家(ろうにんけ)如法(にょほう)なり、天日且(か)つ恁(かく)のごとく熱す、如何ぞ恁地(かくのごとく)なる。座云く、更に何(いず)れの時をか待たんと。山僧便ち休す。廊(ろう)を歩する脚下、潜(ひそ)かに此の職の機要たることを覚(おぼ)ゆ。
* * * * *
〔語注〕
〇山僧(さんぞう)サンソウとも。ー(1)山寺の僧。(2)特に比叡山延暦寺の僧。(3)僧の謙称。ここは、道元の謙称。『松原泰道全集
4』仏教の心に、「山僧(さんぞう)は、山寺の僧ですが、僧侶が自分を謙遜していう言葉で「野僧(やそう)」ともいいます。ここでは道元自身のことです」とあります。
〇天童(てんどう)ー天童寺のこと。中国浙江省寧波(ニンポー)市にある太白山の一峰、天童山にある禅寺。歴代皇帝の保護を受け、また宋代に寺号を景徳禅寺と改める。中国五山の一つ。日本からの栄西・道元・雪舟らも参禅した。
〇本府(ほんぷ)ー地元の寧波府(ニンポーふ)出身の意。
〇用典座(ようてんぞ・ゆうてんぞ)ー石井恭二氏の『永平広録下』に「伝不明」とある。石川力山氏の語釈には「用」について、「「用」は正式には「□用」という名であるが、諱(いみな)の上字は不明。諱の下字だけで呼ぶのは禅院の礼儀で、相手に対する尊敬の意を表す」とあります。
〇典座(てんぞ)ー禅院の役職「六知事」の一つ。六知事とは、都寺(つうす)〔監寺(かんす)の上位。一切の寺務を総監する〕、監寺(かんす)〔住持に代わって寺務を監督する〕、副寺(ふうす)〔都寺と監寺を助ける職〕、維那(いのう)〔僧衆の雑事を掌り統括する〕、典座(てんぞ)〔食事・寝具などを掌る〕、直歳(しっすい)〔工作、修繕などを掌る〕の六職。(石井恭二氏の『永平広録下』による。)
〇因ー(ちなみに)それに関連して。ついでに。(~により)~によって。
〇齋(さい)ーここは僧の食事「とき」のこと。禅院では、朝の粥に対する昼の飯の意に用いられる。
〇罷(ひ)ー終わる。
〇超然齋(ちょうねんさい)ー「齋」は部屋の意。天童山内にあった諸堂の中の一堂宇の名称。
〇路次(ろじ)ー(古くはロシ)みちすじ。みちのついで。みちすがら。途次。
〇苔(たい)ーこけ。ここは「きのこ」の意で椎茸をさしていると見るのが普通だが、石川力山氏は、「海藻の一種で、水ごけ、青海苔(あおのり)の類。干して保存し、乾苔ともいう。寧波(ニンポー)附近は海辺にあって海産物が多く、ここの人々は古くから海藻を好んで食していた」としておられる。
〇片笠(へんりゅう)ー「片は薄く扁平(へんぺい)なものを形容する語で、小さなもの、僅かなものも意味する。一片の笠も、の意」。「頭には笠さえかぶっていなかった。」(石川力山氏)
〇地甎(ちせん)ー「甎」は敷き瓦。土を板のように固め焼いて、土間に敷いて床としたり、庭に敷きつめたりする。
〇龐眉・龍眉(ほうび)ー太い眉。「龐」(ほう)は厚みがあって大きい、の意。「龍眉」の「龍」は、「龐」に当てて用いたもの。「龍眉」をそのまま「りゅうび」と読む人もいる。
〇法壽(ほうじゅ)ーここは相手の僧侶の年齢を尊敬していったもの。
〇行者(あんじゃ)ー禅の修行道場において、まだ僧とならず身の回りの世話その他の用務をつとめる役で、ここは典座行者(てんぞあんじゃ)のこと。
〇人工(にんく)ー寺内の諸雑事のために雇用された在俗の人。
〇佗(た)ーほかの。よそもの。かれ。六朝時代からのち、よその人、他人、かれ、の意となる。ここは「他」となっている本もあり、「佗・他」ともに「た」または「かれ」と読まれている。
〇老人家(ろうにんけ)ー「老」は姓名や呼称などにつく軽い接頭辞で、尊敬や親密さを表す。「家」も姓名や呼称などにつく意味のない接尾辞。ここは、ご老人は、ご老僧は、ぐらいの意。(石川力山氏の注)
〇恁熱ーかくのごとく熱(あつ)し。
〇恁地(かくのごとく)ー「地」は副詞接尾辞。
〇休(きゅうす)ーあとが続かなくなる。おしまいになる。
〇覺ー版本には、「覺フ」と送り仮名が「フ」となっている。「おぼふ」とでも読んだものであろうか。今は、「さとる(覺る)」又は「おぼゆ(覺ゆ)」と読むのが普通であろう。
〇機要(きよう)ーかなめ。重要な事柄。「要」は扇のかなめ。
以上の語句の意味は、主として次の諸書ほかを参考にして記述しました。
☆『典座教訓・赴粥飯法』道元著、中村璋八・石川力山・中村信幸訳注。(講談社学術文庫1991年7月10日第1刷発行)
☆『永平広録 下巻』道元著、訓読・注釈・現代文訳=石井恭二 (2005年7月30日・河出書房新社初版発行)
☆『広辞苑』第七版 新村出編(岩波書店、2018年1月12日第七版第1刷発行)
☆『改訂新版 漢字源』藤堂明保ほか編(学研、2002年4月1日改訂新版発行)
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(注) |
1. |
上記の「「典座教訓」用典座のこと(原文と訓読文)」は、次の書によりました。
(1)『典座教訓・赴粥飯法』道元著、中村璋八・石川力山・中村信幸訳注。(講談社学術文庫1991年7月10日第1刷発行)
(2)『永平広録 下巻』道元著(2005年7月30日・河出書房新社初版発行。訓読・注釈・現代文訳=石井恭二 )所収の附録の原典白文と訓読文。
(3)の1 岸澤惟安著『典座教訓講話』(鴻盟社、昭和10年3月27日発行)の原文。
(3)の2 道元著『永平道元禅師清規:大清規』(故岸澤惟安老師校訳、官養庵
1967年(昭和42年)8月28日発行)所収の訓読文。
(4)松原泰道著『自己を生き抜く 道元の『典座教訓』を読む』(PHP研究所・昭和58年12月30日第1刷)の訓読文。
なお、この『自己を生き抜く 道元の『典座教訓』を読む』は、『松原泰道全集
4』仏教のこころ(祥伝社・平成3年4月30日初版第1刷発行、平成16年3月1日第2刷発行)に、「道元『典座教訓』を読む」と改題して収録されています。 |
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2. |
『永平広録 下巻』道元著の「典座教訓」の冒頭に「若山僧在天童時」とありますが、普通は「若」の字がありません。どういう写本によるのでしょうか。これを「若き山僧」とは読めないでしょうか。
「濳覺此職之爲機要矣」の「覚」の読み方について
また、最後の「濳覺此職之爲機要矣」の「覚」を石川力山氏と石井恭二氏は「覚(さと)る」と読んでおいでですが、古い版本には「覺フ」と、送り仮名が「フ」となっています。「覚ふ」とはなんと読んだのでしょうか。古くは岸澤惟安氏が読んでおられるように「覺(おぼ)う」(覚ふ)とでも読んだのでしょうか。妙な読み方です。
今は石井恭二氏が読んでおられるように「覚る」(さとる)と読むのがよいように思いますが、松原泰道氏が読んでおられるように「覚(おぼ)ゆ」とも読めそうです。 |
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3. |
『永平広録 下巻』にある「典座教訓」についての注に、
典座教訓ー道元、三十八歳の述作。もっとも古い写本は、文亀二年1502三月二十六日、永平寺十五世光周が書写したものである。寛文七年1667、同じく三十世光紹によって開版された。さらに寛政六年1794、五十世玄透が頭注を付したものを刊行。明治十七年、長野県盛泉寺の古田梵仙は「校訂冠註永平清規」の増補を行って刊行した。これに含まれているものが、今の流布本である。この項は、大久保道舟氏の全集解題による。ただし、ここに掲載する本文〔白文〕は、大久保道舟氏が、光周の書写本を底本とし、光紹本および玄透本などによって校訂したものである。
とあります。
なお、この本の訓読文に「汗は流れて滴り」とありますが、白文には「滴」の字がないのですが、これは石井氏が意を汲んで補ったのでしょうか。 |
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4. |
『松原泰道全集
4』仏教の心に、
山僧(さんぞう)は、山寺の僧ですが、僧侶が自分を謙遜していう言葉で「野僧(やそう)」ともいいます。ここでは道元自身のことです。
とあります。 |
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5. |
『自己を生き抜く 道元の『典座教訓』を読む』は、国立国会図書館デジタルコレクションにも収められています。(ただし、送信サービスで閲覧可能となっている資料なので、読むためには利用者登録をする必要があります。)
→ 国立国会図書館デジタルコレクション
→『自己を生き抜く 道元の『典座教訓』を読む』(108~109/117)
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6. |
「用典座」の「用」を「ゆう」と読ませる本と「よう」と読ませる本がありますが、「ゆう」は用の呉音、「よう」は漢音です。どちらがよいのでしょうか。 |
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7. |
「天童山老典座和尚と若き日の道元禅師」の像
『日本の銅像探偵団』というサイトに、「典座と道元(新宿区)」というページがあり、ここに「天童山老典座和尚と若き日の道元禅師」の像の写真が出ていますので、リンクを貼らせていただきます。この像は新宿区の大龍寺にある像だそうです。
→『日本の銅像探偵団』
→「典座と道元(新宿区)」 |
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