資料647 『アイヌ神謠集』序 



          アイヌ神謠集 序

 其の昔此の廣い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天眞爛漫な稚兒の樣に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと樂しく生活してゐた彼等は、眞に自然の寵兒、何と云ふ幸福な人だちであつたでせう。
 冬の陸には林野をおほふ深雪を蹴つて、天地を凍らす寒氣を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には凉風泳ぐみどりの波、白い鷗の歌を友に木の葉の樣な小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀づる小鳥と共に歌ひ暮して蕗とり蓬摘み、紅葉の秋は野分に穂揃ふすゝきをわけて、宵まで鮭とる篝も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、圓かな月に夢を結ぶ。嗚呼何といふ樂しい生活でせう。平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、此の地は急速な變轉をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。
 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて野邊に山邊に嬉々として暮してゐた多くの民の行方も又何處。僅かに殘る私たち同族は、進みゆく世のさまにたゞ驚きの眼をみはるばかり。而も其の眼からは一擧一動宗敎的感念に支配されてゐた昔の人の美しい魂の輝きは失はれて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おゝ亡びゆくもの………それは今の私たちの名、何といふ悲しい名前を私たちは持つてゐるのでせう。
 其の昔、幸福な私たちの先祖は、自分の此の郷土が末にかうした慘めなありさまに變らうなどとは、露ほども想像し得なかつたのでありませう。
 時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競爭場裡に敗殘の醜をさらしてゐる今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て來たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては來ませう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈つてゐる事で御座います。
 けれど………愛する私たちの先祖が起伏す日頃互に意を通ずる爲に用ひた多くの言語、言ひ古し、殘し傳へた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまふのでせうか。おゝそれはあまりにいたましい名殘惜しい事で御座います。
 アイヌに生れアイヌ語の中に生ひたつた私は、雨の宵雪の夜、暇ある毎に打集ふて私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。
 私たちを知つて下さる多くの方に讀んでいたゞく事が出來ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。
  大正十一年三月一日
                     知  里 幸 惠



  (注) 1.  上記の『アイヌ神謠集』序は、国立国会図書館デジタルコレクション所収の爐邊叢書『アイヌ神謠集』(知里幸恵編。郷土研究社、大正12年8月10日発行、大正15年6月25日再版発行)によりました。
 国立国会図書館デジタルコレクション
 → 爐邊叢書『アイヌ神謠集』(知里幸恵編)
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    2.  文中の漢字はなるべく旧字体に合わせるようにしましたが、「祖」「福」「雪」「穂」「祈」など新字体になっているところもあるのをお許しください。    
    3.  語句の読みを補っておきます。
 〇漁り(あさり) 〇囀づる(さえずる) 〇蕗(ふき) 〇蓬摘み(よもぎつみ) 〇篝(かがり) 〇圓かな(まどかな) 〇嗚呼(ああ) 〇何時の間にか(いつのまにか) 〇何處(いずこ) 〇感念(かんねん、観念に同じ) 〇鈍り(にぶり) 〇慘めな(みじめな) 〇明暮(あけくれ) 〇起伏す(おきふす) 〇消失せて(きえうせて)
   
    4.  〇知里幸恵(ちり・ゆきえ)=知里真志保の実姉。「アイヌ神謡集」を編む。(1903~1922)
 〇知里真志保(ちり。ましほ)=言語学者。北海道生れ。東大卒。北大教授。アイヌ出身の学者としてアイヌ語学研究に尽力。大著「分類アイヌ語辞典」は未完。(1909~1961) (以上、『広辞苑』第7版による。)
   
    5.  フリー百科事典『ウィキペディア』に、「知里幸恵」の項があります。(ただし、「この記事には複数の問題があります」という注意書きがありますので、読む時は注意してください。)
 
フリー百科事典『ウィキペディア』
 →知里幸恵
   






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