先春亭と先春梅のこと 網代茂著『水府巷談』より
明治三十四年(一九〇一)刊行「茨城県案内」水戸市の項に当時の主な事業所が紹介されているが、黒羽根町ではただ一軒、料理店「先春亭」が記るされている。
この料亭について、小川芋銭、小杉放庵と親交のあった杉田雨人(恭助・一八九六~一九五一)が、つぎのようにかいている。明治三十五年の春、三十二歳で亡くなった高山樗牛(ちょぎゅう)の追悼会をこの料亭で催した追憶談の一部である。雨人はそのころ今の茨城相互銀行本店のところに住んでいた。
『その時の樗牛の肖像は芋銭君が描いて、東京から柿崎正治博士(嘲風、宗教学者、東大教授、学士院会員、一八七三~一九四九)と登張竹風(評論家、旧制二高教授、一八七三~一九五五)とふたり来会した。南町一丁目の裏手、今の関根靴店から三、四十間引込んだ処に、先春という料理屋があって、そこで会を開いて文芸談にふけったものだ。庭には臥竜梅があって先春梅といっていた。地を這った古木の白梅であった』。
この老梅、寛政三年(一七九一)に六代の水戸藩主・治保(文公)がこの梅を見て詩をつくり、その後、烈公が文章をかいて「先春梅記」の碑をたてたという。
大正七年三月二十五日の汽車のエントツから飛火した大火で、奈良屋町、黒羽根町から田見小路まで四九六戸が焼失、由緒あるこの碑も先春亭も姿を消してしまった。いまのサントピアうしろあたりになる。
大正九年生まれの関根銀之助さん(元関根靴店主・見川町五の二)は
『父の銀十郎(昭和二十九年没・七十五歳)から、先春亭があった話は聞いてました。私の家(関根靴店)と木村屋(菓子舖)との間に二間ぐらいの道がありまして、それが先春亭あとの空地につながっていました。高台ですから千波沼から吉田神社方面までみえる眺望絶佳のところでした』。
『私の家の裏の木戸をあけると、地続きで先春亭空地、千二、三百坪くらいありましたか、料亭あとの趣きを残していました。私の家の縁側からも千波沼がのぞめて、そのころの黒羽根町は麦畑と梅の木々、そこに家が点在していた。今日とは隔世の感ありですね』(町田稔さん)。
小学生のとき大正七年の大火を体験した飛田芳蔵さん((74)=宮町三の二)は、黒羽根町古老のひとり。じつは三十年前の昭和二十九年、最初の新いばらきタイムス社の二階建て木造社屋を建築した大工さんの棟梁である。
『先春亭あとの空地でよく青年相撲や夏には盆踊り大会などをやったものです』。
(以下、省略)
(注) | 1. |
本文は、『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の『水府巷談』(網代茂著、新いばらきタイムス社・1986年4月1日第1刷、1986年6月10日第2刷発行)によりました。(1986年は昭和61年です。) →『国立国会図書館デジタルコレクション』 →『水府巷談』(222~223/231)(本書439~440頁) ただし、この『水府巷談』を閲覧するには、国立国会図書館の登録利用者の人を対象とした個人送信サービスを利用するか、図書館送信サービスに対応している図書館のPCを利用するか、国立国会図書館に出かけて利用するか、そのいずれかの方法でしか閲覧できません。(2023年4月12日現在) 閲覧するには、国立国会図書館に登録して個人送信サービスを利用するのが便利です。 |
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2. | この文章は、「樣変り激しい黒羽根町通り界隈/耕雲斎祠や先春亭は昔語り」という小見出しのところに出ています。 | ||||
3. | お断り:「先春亭と先春梅のこと」という題は引用者が適当につけたもので、原文にはありません。 なお、文中に出ている町田稔さんは、この文章の前に、「町内で浴場「松の湯」、まつや食堂を経営していた人(70歳)」と紹介されています。 |
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