資料63 菁莪遺徳碑(伍軒原先生碑)

                          
 

                 
菁莪遺德碑     
                    
    
伍軒原先生碑

 

     正三位德川明武篆額    舊仙臺藩儒員岡千仞撰文
幕府末造余以多口爲藩人之所排鬱鬱幽居一日聞原君仲寧斃于非命仰天而歎曰一橋公方承宗統不可一日無仲寧仲寧今亡時事竟不可爲也尋幕府奉還大政明年正月伏見之變起夫奉還大政公之素志也仲寧而在則將順輔佐投機乘變協力於勤王諸藩以贊襄維新之大業決不悖亂誤名分使天下騷擾至如彼之甚也仲寧諱忠敬後改忠成號尚不愧齋仲寧其字世籍水戸藩父諱雅言母外岡氏仲寧其第二子幼有偉才東湖藤田先生之幽閉仲寧年十五六以姻家子弟書信往復曲盡事情先生曰斯子必爲天下偉器弱冠游昌平黌鹽谷藤森諸耆宿極口推稱尤爲簡堂羽倉翁之所遇嘉永癸丑俄使齎國書論疆界烈公命仲寧從川路聖謨赴長崎與俄使辨論聖謨知其爲有用器將薦幕府仲寧以義不可辭之擢藩籍入史館與豐田靑山諸老編纂十志以其家伍軒坊門人稱曰伍軒先生此時井伊大老用事幽烈公別邸逼順公奉還勅書仲寧憤曰斯可忍孰不可忍者陳還勅書之十不可已而有櫻田之變文久壬戌大原卿奉勅東下仲寧與藩宰武田正生大場景淑見一橋越前二公與薩長二藩商議卿傳旨改革幕政水戸藩與有力焉明年將軍入朝仲寧與正生從一橋公西上參官武機務尋公督攝海防禦此歳薩長二藩開外釁尋長藩犯闕内訌外懼日甚一日而仲寧參公帷幄夙夜鞅掌具効忠藎慶應丙寅八月將軍薨公入承宗統襲將軍職仲寧一日五遷以監察參大政會先帝登遐仲寧掌喪儀建議廢浮屠陋式先是英法軍艦入兵庫要請開港幕府具状奏請先帝熟察時勢始允其請而浮浪主攘夷者謂仲寧首唱開港戻朝旨誤幕政有三士通刺求見仲寧方理髮直入戕之走出家士追及斃其一人一人自殺一人自訴此爲慶應丁卯八月十四日也享年三十有八葬東山長樂寺將軍嗟悼遣吏視葬配松本氏一女適人蓋外國事起以來朝廷以攘夷責幕府幕府不遵奉議者不直之仲寧負有爲之略欲奉烈公遺志佐一橋公合天下之力耀國威於海外迨公嗣宗統蒙不次之拔擢方將有所改轍作爲不幸未及施爲而斃于非命矣抑大勢至此固非仲寧一人所能挽回然使仲寧在則其退大坂佐將軍入朝不激成伏見之變也必矣仲寧有學識氣宇深沈綜理周匝不苟言笑善文章精國典所著有尚不愧齋存稿督府紀略雜著若干種今茲丁酉門生義故將建碑水戸常磐公園以表後世以余與仲寧同學昌平黌且悉其平生請撰文辭之不得乃銘銘曰
  幕府閲歳 三百于茲 海警一起 大勢已非 幸有烈公 
  身繋安危 君長公側 夙期有爲 會一橋公 入統百司 
  一日五遷 受不次知 挽回大勢 方在此時 而罹斯禍 
  命也夫噫 謀國人亡 覆社隨之 爰勒銘字 誰知余悲

   明治三十年丁酉八月建    鎭西  吉田晩稼書 
 


 

    (注) 1. 菁莪遺徳碑(伍軒原先生碑)は、水戸市の偕楽園の中にあります。
         2. 原市之進は、文政13(1830)年生まれの水戸藩士で藤田東湖門下、昌平坂
          学問所(昌平黌)に学んだ後、彰考館に入って大日本史の編纂に尽力し、次い
         で一橋慶喜の側近として内外の難局に奔走しましたが、慶応3(1867)年、急進
         的な攘夷派の幕臣に暗殺されてその生涯を閉じました。
           なお、原市之進の生まれた文政13(1830)年は、その年の12月10日に改元さ
         れ、天保元年となっています。
        3. 篆額の「菁莪遺徳碑」の文字は、碑の上部に右から左へ右書きで書かれて
          います。碑文にある通り徳川昭武の揮毫によるものです。
        4. 碑文は、本文が1行49字で18行、最後の1行が33字なので、銘を除く本文が
           866字、銘は1句4字、全20句で80字、これが2字下げで、句間を1字空けて、9
          句1行で3行に書かれています。
           従って、銘を含む本文の字数は全部で946字となります。
            上の本文では、「幕府末造……無仲寧仲」が碑の1行目、「寧今亡時事竟…
          …投機乘變」が碑の2行目です。
           銘の部分は、「幕府閲歳 …… 會一橋公」が銘の1行目、「入統百司 ……
          覆社隨之」が2行目、3行目は「爰勒銘字 誰知余悲」の2句です。
           (実際の改行の状態を、注の10に示してあります。)

         5. 「仲寧方理髮直入戕之走出」の「戕」は、碑文では「片」に「戈」となっている
          のを、「戕」としてあります。
         6. 「挽回」の「回」は、「囘」ではなく、碑文通り「回」にしてあります。
          7. 菁莪遺徳碑の解説書には、
< 水戸の碑文シリーズ4 > 久野勝弥著『原伍軒と『菁
          莪遺徳碑』』
(水戸史學会・平成17年4月1日発行、錦正社発売) があり、詳しい解説が見
          られます。巻頭に、「伍軒原先生碑」拓本(弘道館蔵)の写真が掲載されていて、
          碑文の文字を読むことができます。
         8. 原市之進について書いたものには、ふるさと文庫に、松本桂子著『原市之進

             ─徳川慶喜のブレーン─
(筑波書林、1990年1月26日第1刷発行)があります。
         9. 『菁莪遺徳碑』の手前に立っている解説板には、次のようにあります。
            「この碑は十五代将軍徳川慶喜公のブレーン原市之進の顕彰碑である。
            市之進は文政十三年(1830)水戸藩士原雅言の子として生まれる。
            藤田東湖とは従兄弟の関係にあった。元治元年(1864)一橋家の用人
            となり、慶喜に仕える。慶応三年(1867)兵庫開港を図ったという理由で
            幕臣に斬殺される。歳三十八であった。
            篆額は水戸第十一代藩主徳川昭武公で、「碑」の菁莪は市之進の号及
            び経営した塾の名、伍軒も同じく号である。碑文は昌平黌の同学仙台藩
            の岡千刃、書は九州の吉田晩稼で、明治三十年の建碑である。」(句読
            点は、引用者が補ったものです。)
        10. 実際の碑文の改行状況を、次に示しておきます。
              
菁莪遺徳碑(上部に右から横書き)
    
伍軒原先生碑
 
                    正三位德川明武篆額          舊仙臺藩儒員岡千仞撰文
     幕府末造余以多口爲藩人之所排鬱鬱幽居一日聞原君仲寧斃于非命仰天而歎曰一橋公方承宗統不可一日無仲寧仲
     寧今亡時事竟不可爲也尋幕府奉還大政明年正月伏見之變起夫奉還大政公之素志也仲寧而在則將順輔佐投機乘變
     協力於勤王諸藩以贊襄維新之大業決不悖亂誤名分使天下騷擾至如彼之甚也仲寧諱忠敬後改忠成號尚不愧齋仲寧
     其字世籍水戸藩父諱雅言母外岡氏仲寧其第二子幼有偉才東湖藤田先生之幽閉仲寧年十五六以姻家子弟書信往復
     曲盡事情先生曰斯子必爲天下偉器弱冠游昌平黌鹽谷藤森諸耆宿極口推稱尤爲簡堂羽倉翁之所遇嘉永癸丑俄使齎
     國書論疆界烈公命仲寧從川路聖謨赴長崎與俄使辨論聖謨知其爲有用器將薦幕府仲寧以義不可辭之擢藩籍入史館
     與豐田靑山諸老編纂十志以其家伍軒坊門人稱曰伍軒先生此時井伊大老用事幽烈公別邸逼順公奉還勅書仲寧憤曰
     斯可忍孰不可忍者陳還勅書之十不可已而有櫻田之變文久壬戌大原卿奉勅東下仲寧與藩宰武田正生大場景淑見一
     橋越前二公與薩長二藩商議卿傳旨改革幕政水戸藩與有力焉明年將軍入朝仲寧與正生從一橋公西上參官武機務尋
     公督攝海防禦此歳薩長二藩開外釁尋長藩犯闕内訌外懼日甚一日而仲寧參公帷幄夙夜鞅掌具効忠藎慶應丙寅八月
     將軍薨公入承宗統襲將軍職仲寧一日五遷以監察參大政會先帝登遐仲寧掌喪儀建議廢浮屠陋式先是英法軍艦入兵
     庫要請開港幕府具状奏請先帝熟察時勢始允其請而浮浪主攘夷者謂仲寧首唱開港戻朝旨誤幕政有三士通刺求見仲
     寧方理髮直入戕之走出家士追及斃其一人一人自殺一人自訴此爲慶應丁卯八月十四日也享年三十有八葬東山長樂
     寺將軍嗟悼遣吏視葬配松本氏一女適人蓋外國事起以來朝廷以攘夷責幕府幕府不遵奉議者不直之仲寧負有爲之略
     欲奉烈公遺志佐一橋公合天下之力耀國威於海外迨公嗣宗統蒙不次之拔擢方將有所改轍作爲不幸未及施爲而斃于
     非命矣抑大勢至此固非仲寧一人所能挽回然使仲寧在則其退大坂佐將軍入朝不激成伏見之變也必矣仲寧有學識氣
     宇深沈綜理周匝不苟言笑善文章精國典所著有尚不愧齋存稿督府紀略雜著若干種今茲丁酉門生義故將建碑水戸常
     磐公園以表後世以余與仲寧同學昌平黌且悉其平生請撰文辭之不得乃銘銘曰
         幕府閲歳  三百于茲  海警一起  大勢已非  幸有烈公  身繋安危  君長公側  夙期有爲  會一橋公 
         入統百司  一日五遷  受不次知  挽回大勢  方在此時  而罹斯禍  命也夫噫  謀國人亡  覆社隨之 
         爰勒銘字  誰知余悲
            明治三十年丁酉八月建              鎭西       吉田晩稼書 
  

 

 

 

 


           
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